ロマン・ロランとドイツ音楽 岡 田 暁 生



 初めに言い訳じみたことを申しておきますと、私はロマン・ロランの「小説の」読者としてはまったくの落第生であります。そもそも私が高校の一年だった時の夏休みの読書課題に〈ジャン・クリストフ〉が出たのですが、ろくに読みもしないで、参考書にのっている粗筋だけを見て感想文を書いてしまいました。そして正直申し上げますと、私は現在に至るまで、ロランの作品の熱狂的な読者であったことは一度もありません。ただ有難いことに、皆さんもご存じでしょうが、ロランはもともと小説や芝居を書き始める前は、バロック時代のオペラ研究で博士号までとった音楽学者でありました。そして音楽学者としてスタートしたということは、後のロランの創作活動すべての出発点になっていると言ってよろしいでしょう。従って、小説家としてのロランではなく、音楽学者としてのロランについてであれば、恐らく私にも何か新しいことが指摘できるのではないかと考えて、本日の講演をお引受けした次第であります。

 T.ロマン・ロランと「ドイツ」音楽
 さて、「音楽学者としてのロラン」を考えるとき、絶対に見落としてはいけない前提と言いますか、予備知識があります。それは十九世紀において、ドイツ音楽と、フランス音楽とが、どれだけ異質なものであったかという問題であります。そもそもドイツとフランスは、政治的にも仲がよかったためしがないわけですが、音楽的にもドイツ音楽とフランス音楽とは水と油であって、絶えずいがみあいを繰り返してまいりました。
 まずドイツの側を見てみますと、ドイツ人が音楽の中に求めたのは、哲学や文学にも肩を並べるような思想性であり、深い内面性であり、巨大な構築力でした。そしてドイツ人のこうした音楽観を象徴するのが、交響曲や弦楽四重奏やピアノ・ソナタといった、ベートーヴェンに代表されるような純粋器楽曲のジャンルであったわけです。「交響曲」というとクラシック音楽の代表的なジャンルですが、決してヨーロッパの全ての国で交響曲が作られていたわけではありません。例えばイタリアではまったく交響曲は作られませんでしたし、フランスでも事情は大同小異でした。要するに交響曲とか弦楽四重奏とかピアノ・ソナタと言うのは、専ら「ドイツの」音楽ジャンルだったのです。そしてドイツ人達がこの交響曲やピアノ・ソナタといったジャンルに対して抱いている誇りというのは大変なものでして、例えば彼らはベートーヴェンの〈第九交響曲〉やマーラーの〈一千人の交響曲〉のことをしばしば、誇らしげに「世界観音楽」とか「哲学音楽」とか「形而上音楽」といった風に形容しますが、こんなところにも彼らの音楽の考え方がはっきり表れております。要するにドイツ人にとって音楽は「ただの娯楽ではなく、哲学であり思想なんだ」というわけです。
 では次にフランスの側を見ますと、彼らの音楽観はドイツ人とはまったく対照的でして、「音楽は楽しければそれでいい」というのがフランス人の基本的なスタンスなんですね。そしてジャンル的に言いますと、十九世紀のフランスで最も人気があったジャンルは何と言ってもオペラでした。そして「オペラ」と言いましても、十九世紀フランスのオペラは、例えばモーツァルトやヴェルディやワーグナーのオペラのような深い芸術性を備えたものではなくて、音楽を使った大がかりなショーのようなものだったと考えて下さい。十九世紀のフランスで大ヒットしたオペラには、マイヤベーアの〈鬼のロベール〉あるいは〈予言者〉、アレヴイの〈ユダヤの女〉、グノーの〈ファウスト〉などがありますが、これらの作品は現在ではまったく上演されません。要するにこれらは十九世紀のハリウッド映画のようなもので、豪華な衣装や舞台装置、バレエ、機械仕掛を使ったスペクタクルによってお客を一晩楽しませればそれでいいという、純然たる娯楽作品だったのです。
 このように十九世紀フランスの聴衆の音楽趣味というものは、非常に軽薄なもので、従って交響曲や弦楽四重奏やソナタのような、ドイツ起源の「難しい」音楽は、フランスではまったく一般受けしませんでした。もちろんフランスにも、交響曲や弦楽四重奏やソナタにトライしようとした作曲家が全然いなかったわけではありません。特に一八七〇年あたりを境に、フランスにも、ただの娯楽ではなく、ドイツのような深い思想性を備えた音楽の伝統を築こう、という運動が起こってきました。深い思想を持つ音楽とはつまり、交響曲や弦楽四重奏やソナタのような純粋器楽曲のことです。こうした運動の代表はセザール・フランク、サン・サーンス、ショーソン、ヴアンサン・ダンディといった作曲家でありまして、彼らはフランス人でありながら、交響曲や弦楽四重奏やソナタといった重厚な器楽曲を多く作りました。ところがフランスでは彼らのこうした運動は、すさまじい反発にあったんですね。要するに「フランス人なのに交響曲だの弦楽四重奏だのソナタだの、ドイツ人みたいなむさい音楽を書きやがって」というわけです。 例えばサン・サーンス、〈動物の謝肉祭〉で有名なカミーユ・サン・サーンスを例にとりますと、彼は現在、軽薄なフランス音楽趣味の典型のように思われています。ところが実際は彼は、交響曲とかピアノ協奏曲とかソナタとかいった、本来はドイツ起源のジャンルを多く創ったせいで、フランスでは売国奴よばわりされて、ほとんどフランスに腰を落ち着けて住めないほど激しく非難されたんですね。実際、彼の多くの作品は、フランスでは演奏してもらえないので、ドイツで初演されています。我々の目からみると「十九世紀の軽薄なフランス音楽」の代表のようなサン・サーンスですら、「ドイツかぶれした難しい音楽を書きすぎる」と攻撃される、そんな時代にロマン・ロランは育ったわけです。
 こうして考えてみると、ロランがフランス人としていかに異色の人物というか、アウトサイダーだったかということが理解して頂けるとおもいます。ご存じのようにロランは、熱狂的なべートーヴエン崇拝者でありました。しかし当時のフランスの音楽界は、下手にドイツ音楽を賛美したり、ベートーヴェン風の交響曲を書いたりすると、裏切り者よばわりされかねない状況でありました。そしてこの様な時代にあって、まるでドイツ人のようにドイツ音楽を擁護したフランス人、それがロランであったわけです。

 U.ロランのアナクロニズム
 この様に音楽学者としてのロランの功績は何より、フランスにおいて初めてベートーヴェンの音楽の価値を広く認めさせた点にあります。しかしながら音楽学者の使命は、埋もれてしまっている過去の作曲家(ロランの場合で言えばベートーヴェン)を発掘することだけにあるのではありません。同じかそれ以上に重要なのは、埋もれている同時代の作曲家を見つけ出し、世に送り出すことであります。そして残念ながらロランは、この点では少々時代錯誤的な(アナクロニズム的な)人物でありました。つまり彼は音楽の歴史が向かっていく方向を読み違えていたふしがあるんですね。
 十九世紀においてフランスは、音楽の分野では一方的にドイツに押されっぱなしでありました。もちろんフランスで活躍した大作曲家がいなかったわけではありませんが、彼らはすべて外国人でした。例えばロッシーニやベルリーニはイタリア人でしたし、ショパンはポーランド人、リストはハンガリー人、マイヤベーアはベルリン出身というわけです。十九世紀のフランスには、フランス人の偉大な作曲家はまったくいなかった。しかしながらロランの世代、つまり一八六〇年代から一八七〇年代にかけて生まれた世代になってきますと、フランスでは日も眩むような輝かしい才能を待った若い作曲家が輩出してきます。その筆頭は何と言ってもドビュッシーとラヴェルという印象派の作曲家でありますが、彼らより若干年上のガブリエル・フォーレも忘れてはいけません。また異端の作曲家エリック・サティが活躍していたのもこの頃です。しかしながらロランの小説や音楽エッセイの中には、フォーレについてもラヴェルについてもサティについても、ほとんど言及がありません。またドビュッシーについて言えば、ロランは確かにドビュッシーのオペラ〈ペレアスとメリザンド〉は絶賛しましたが、ドビュッシーのそれ以外の傑作の数々、〈牧神の午後への前奏曲〉や交響曲〈海〉やピアノのための〈映像〉〈子供の領分〉〈前奏曲〉といった作品については、ロランはほとんど触れておりません。
 既に述べたように、十九世紀のフランスは軽薄なグランド・オペラに熱をあげるばかりでありました。ロランが当時のフランスのこの様な軽薄な音楽趣味に失望したのは正しかったでしょう。しかしながら彼は、他ならぬ自分の御膝元のフランスで、自分が暮らしているのと同じ街パリで、実は二十世紀の未来を担うことになる素晴しい才能が生まれつつあることに、まったく気づいていなかったふしであるのであります。
 さらにロランにとって皮肉だったこととして、次の事実があります。私は先ほど、フランス人にとっては 「音楽は思想や哲学などなくて結構、音楽は楽しければそれでいい」というのが基本的なスタンスだったと言いました。そしてこうした快楽的な態度が、十九世紀フランスの軽薄な音楽趣味を助長したことは、疑いありません。しかし一九〇〇年前後になると、「音楽は楽しければそれでいい」というまさにこの軽薄な姿勢の中から、新しいフランス音楽の美学が生まれてきます。ドビュッシーの言葉を引用しましょう。「交響曲を作ろうとして息切れしたりするのは、もう沢山です。」「明快、エレガンス(中略)フランス音楽は、まず第一に人を楽しませることを心がけるのですね。」「音楽は謙虚に人を楽しませることにつとめるべきです。」
 この様に一九〇〇年頃になると、高い理想や哲学を振り回したりするベートーヴェン風の巨大な音楽は、時代遅れになり始めていました。時の流れはむしろ、エレガントで軽快なもの、明晰で感覚的は美へと向かっていたわけです。しかしそんな時代にあってロランは、ひたすらベートーヴェンとドイツ音楽を賛美していました。〈ジャン・クリストフ〉には次のような言葉が出てきます。「おお、力!力!力の祝福された雷鳴!(中略)その力は、しばしば凡庸であり、粗野でさえあったが、それがどうしたというのだ!大事なことは、力があることであり、それが満々と流れていることである。」この文章を、小説家ではなく音楽学者の発言として読む限りにおいては、残念ながらロランは、音楽史の進む方向を見誤ったと断定せざるをえないのであります。

 V.「光の交響曲」─ロランのユートピア
 さて、私が常々思っていることですが、学者というか歴史家には三つの使命があるのではないでしょうか。まず第一の使命は、過去を発掘する考古学者としての使命。この分野ではロランは、フランスにべートーヴェンの音楽を広めるという素晴しい仕事をいたしました。次に歴史家の第二の使命は、未来を占う予言者としての使命であります。そして残念ながらロランは、今申し上げましたように、音楽史の予言者としては失格だったと言わざるをえません。しかしながら歴史家にはさらに、第三の使命があります。それは同時代、現在という時代を診断する医者としての使命があります。要するに学者というか歴史家は、過去に対しては考古学者、未来に対しては予言者、現在との関わりにおいては医者でなければならないというわけです。そして私が音楽学者としてのロランに最も感嘆するのは、まさにこの第三の領域、つまり同時代の音楽の診察家としてのロランであります。
 先ほども少し触れましたように、同時代の音楽についてもロランの目は、専らドイツ音楽に向けられておりました。つまり同時代の作曲家で彼が最も崇拝していたのは、ドビュッシーでもラヴェルでもなく、ドイツのリヒャルト・シュトラウスでありました。いかにもドイツ的な力に満ちた、シュトラウスの巨大なオーケストラ曲こそ、ロランにとっていわば、二十世紀のベートーヴェンだったわけです。しかしロマン・ロランは、決してただのドイツ音楽かぶれではありませんでした。つまり彼は熱烈に賛美すると同時に、リヒャルト・シュトラウスを中心とする当時のドイツ音楽が陥っていた危機的な状況を実に鋭く見抜いていたのであります。
 ロランの言葉を引用しましょう。「ベートーヴェンの作品はうち負かされた英雄の勝利である。しかしシュトラウスのそれはうち負かす英雄の敗北である。」これは非常に含蓄の深い言葉です。例えばベートーヴェンの交響曲の第三番〈英雄〉を思い出してみましょう。この作品の二楽章は、ご存じの通り、葬送行進曲です。つまり作品の主人公である英雄は、一度「うち負かされる。」しかし第三楽章で再び英雄は蘇って、そして作品は第四楽章で輝かしい勝利に転じて終わります。第五楽章〈運命〉も同様です。この作品はいわば「うち負かされた英雄」の絶望と苦悩とともに始まりますが、フィナーレで音楽は光と勝利に転じて終わります。〈第九〉交響曲、混沌とした闇の中から始まり歓びの歌で終わる〈第九〉交響曲も同様です。
 それに対してシュトラウスの作品はどうかと申しますと、これはまさにベートーヴェンの交響曲の正反対です。まずシュトラウスのオーケストラ曲はほとんど例外なしに、聴き手を力ずくでねじ伏せるような大音量でもつて始まります。シュトラウスは、ロラン流に言えば、最初の一撃で聴き手を「うち負かす」天才であります。しかしながらベートーヴェンとは対照的に、シュトラウスの曲は決して歓びと勝利でもって終わることはありません。具体的に言いますと、シュトラウスの作品が力強いフォルティッシモで終わることは滅多にない。何やらほそぼそ低い声で呟くように「尻すぼみ」に終わってしまうという、これがシュトラウス作品の大きな特徴です。要するにシュトラウスの曲は、作品の冒頭で聴き手を「うち負かした英雄」の、「敗北」で終わるのがパターンなわけです。
 ロランが憧れたのは力の音楽であったけれども、それには暴力的な力の音楽ではなく、光に満たされた肯定的な力の音楽でありました。しかし結局ロランは、こうした力を、同時代のどの音楽の中にも見いだすことが出来ませんでした。同時代のフランス音楽は確かに、光に満たされてはいましたが、力に欠けていた。そしてシュトラウスを初めとする同時代のドイツ音楽は、確かに力に満ちてはいたが、それは暗い暴力的なものに傾こうとしていました。恐らくロランが夢みていたような音楽は、一九〇〇年という時代にあってはユートピアでしかなかったのであります。そして自分の夢みる音楽が、現実にはどこにも見当たらなかったからこそ、ロランは〈ジャン・クリストフ〉という小説の形で、自分で理想の交響曲を描こうとしたのではないか、私はそう考えております。
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 さて最後になりますが、本日のプログラミングについて、ごく簡単にご説明しておきたいと思います。本日のレクチャー・コンサートを企画するに当たりまして、私と小坂さんは次のようなことを考えました。つまり「ロランと音楽」というテーマでベートーヴェンの作品ばかりを演奏するのでは芸がなさすぎる、何かロマン・ロラン的な音楽の理想、いわば「光に満ちた力の交響曲」とも言うべき理念をロランと共有するような、ロランの同時代のフランスの音楽はないだろうか、そう考えて選びましたのが、本日のプログラムの後半に演奏されますポール・デュカのピアノ・ソナタであります。
 デュカはドビュッシーとも同級生だったフランスの作曲家で、一八六五年生まれですからロランとほとんど同い年の人物ですけれども、二人の間には多くの精神的な共通点があります。まず第一にデュカは、ロランと同じく、フランス人でありながら熱狂的なべートーヴュン崇拝者でした。また第二に、デュカのこのピアノ・ソナタは、ロランが最初のベートーヴェン伝記を書いたのとほぼ同じ時代、一九〇一年に初演されました。そして第三にこの作品は、ベートーヴェンのピアノ・ソナタ(とりわけ第二九番の〈ハンマー・クラヴィーア〉)をモデルにして創られた作品であります。これはロランが小説〈ジャン・クリストフ〉を、まさにベートーヴェン的な精神と理念に啓発されて書いたのと、まったく同じ事情だと申せましょう。
 私と小坂さんが本日のメイン・プログラムにこのデュカのピアノ・ソナタを選びましたのは、例えばロマン・ロランが小説の中でこの作品に触れているといった表面的な理由によるものではありません。重要なのはむしろ、ロランとデュカの作品の間の、精神的な共通点であります。このデュカのピアノ・ソナタは演奏に五十分近くかかる、ピアニストにとってはまさに拷問のような、極度に難しい曲ですが、こうしたモニュメンタルな巨大さの点でこの作品は、何かジャン・クリストフ的精神を共有していると言えるでしょう。お手元のプログラムにも書きましたが、実際この曲には、どことなく〈ジャン・クリストフ〉の筋を連想させるような性格があります。要するにこのデュカのピアノ・ソナタは、ロランの〈ジャン・クリストフ〉と同じく、一九〇〇年のフランスからドイツに捧げられた、ベートーヴェン的精神へのオマージュという性格を持っているのであります。                                         


(神戸大学助教授)