|
五年目のロマン・ロラン公開講座で、童話作家の今江祥智と弁護士の尾埜善司が「対談」していると、忽ち一時間半が過ぎました。
今江さんの年譜(『今江祥智の本』月報22)には戦後始めて一九五〇年に友人の名が現れ、それは松居直さんと私です。不思議な感じです。二年前十七才の夏『ジャン・クリストフ』にめぐり合い、ロマン・ロランに傾倒していた私は、京大に入ると同志社大でロラン展が開かれると聞いて馳けつけました。様々な国の訳本、写真、誰か手書きのポスターの配置に熱愛がこもり、同年配の色白の角帽が寄って釆て今江祥智と名乗りました。しばらくして大阪阿倍野筋の古本屋「藤井天海空」でまたバッタリ出会いました。「本を盗むと目がつぶれる」と書いて本棚の横桟に貼りつけてあります。前の電車道を行きつ戻りつ三時間もロマン・ロランを夢中で語り合いました。今江さんはこの「対談」のために、絵具絵筆を買い揃え、二人の肖像も描きこんで、あの手書きのポスターを見事に再生して持参されています。ロマン・ロランが結んでくれた四十四年の友情が心に滲みます。
最初のロラン全集が毎月みすず書房から出始めており、日本・ロマン・ロランの友の会も結成され、てんで勝手な要望をみすずへ書き送ると、いつも青木やよひさんから懇篤など返事が来ました。「人生はロマン・ロランの踵で大きくぐるりと廻り」全体の方向が定まり、ロランの結ぶ友愛の輪が、心の世界が拡がってゆきます。― 京大へ入るとすぐ宮本正清さんをお宅に訪ねましたが、二十四年を経て喜寿のお祝いの時、先生は私に近寄って「あなたが始めて私の宅へ訪ねて見えた時のこと、よく憶えてますよ」と言われ、本を下さいました。先生の二十才台の詩集『生命の歌』の新装版でした。初めてお宅を訪ねた日の日記は、前の年出版され感動したこの詩集の詩句で結ばれていたのです。 ― 《一日の生活(いのち)を まこと生くる者の上に 光あれ》
蛯原徳夫さんに東京から来てもらおう。今江さんと共謀して出したお願いの手紙が成功し、初めてお目にかかれ、それが機縁になり宮本さんのお招きで大阪市大へ赴任されました。私のおふくろは止宿先へ心づくしのお弁当を持参し、今江さんと私と三人でロランを語りつつ愉快に歩きまわり、私の家で夜を明かしました。三年後i司法修習生になって上京すると片山敏彦、山口三夫、清水茂さんたちが集り迎えて頂き、山口さんは私を巷に連れ出し高梁酒の飲みっぷりを伝授しました。学生最後の夏休みを迎えた今江さんは、生まれて初めて給料をもらった私に誘われ、生まれて初めて上京して来ました。日本児童文学史に特筆されるべき事件であります。片山宅を訪ね、カレーと信州ブドウ酒をご馳走になり、火事の時すぐ持出せるようトランクにつめたロランの手紙や写真やを拝見しました。先生は小さな庭に立ち、鮮やかな金仙花を指さし「デュアメルの大好きな花です」と言われました。私は『クリストフ』の次に片山さんの著書『ロマン・ロラン』に感動しましたが、とりわけ作家シャトーブリアンの次のような思い出話は忘れられません。―
「生きることの激しい苦悩と不安に耐え切れず、ある冬の晩ロマン・ロランの所へ行った。小さな一つの灯に照らされた部屋で長い間、心の重荷、苦しみのありたけを師である人に打明けた。私は語り終って眼を挙げた。ロマン・ロランは、まっすぐ不動で私という難破船に目を注いでいた。まなざしは限りない慈愛に満ちていた。彼は黙していた。異常な無言だった。唇が小きざみに震えていた。かすかな彼の動き。言語に表現できない「言葉」の息がただよっていた。この沈黙を通じて私は自分の求めていたものを見た。自分を越えた上方を垣間見た。これこそ魂の贈物であった。強い呼びかけであった。私はその呼びかけに促されて、泣きながら師の肩へ取りすがった。私は心が慰められ、いやされた。・・・」
そのころ心の悩みを抱いていた私は、ここの所を声に出して読み、読みながら泣き、いやされました。ロマン・ロランの存在の波動が直かに感じられるのでした。
京大へ入ると、ロマン・ロランの友の会の会合が、既に毎月開かれていて、早速参加しました。この関西日仏学館の教室で開会を待っていると、品のよい母娘らしい二人が並んで腰掛け、一冊の本を眺めている姿が目立ちました。本は高田博厚の新刊『フランスから』、お二人は湯川秀樹さんの師、玉城嘉十郎教授の未亡人とピアニストのお嬢さんで、その日『理性の勝利』を話される波多野茂弥さんの婚約者でした。三年後、卒業の夜、私は玉城邸でお祝いして頂き、酔っぱらって波多野さんとダンスし、二階に泊ってお昼すぎても降りてこず、ご心配をかけました。懐しい玉城のおばさんは、私の結婚式に「尾上の大松のごと生い茂り 世のたいらぎの力たれ君」と、壮大な歌を詠んで下さいました。
あの『フランスから』のなかの「師」というエッセイは、高校二年の冬にもう読んでいました。阿倍野筋近くで通りがかりの新本屋へ入ると『高原 ロマン・ロラン特輯』というぶ厚い雑誌が目にとまり財布の底をはたきました。みすずの小尾俊人社長の論文を読んで骨太な人だなと思い、高田さんの「視」特に、引用されたロランの『内面の旅路』のなかの「周航(ベリブル)」の次の文章に、深い感銘を覚えたのです。
「若い時から人生にはっきりした目的を定め、道を外さずにその計画を実現しようとする者は、生涯の日々の不確かな変動を克服するべく自分の頑固な枠組みを自分の時間に強いることに恐らくなるだろう。それで自らの深い運命を裏切ってしまうのではないか。運命自らのありのままで自然な流れの代りに、意志の仕業である偽の運命をもたらすことになるだろう。」
「《死ね、そして復活せよ!》の大原則は、人生の深い動きが持つ智恵に秘かに己れを託し、その連続性に対して不抜の信仰を持ち、予測できない人生の流れを受諾しっつ、繰返し改まるものへ勇敢に参加し、未来へ切実に己れを委ねる行為にある。それは内心の光が輝き出す大きな時に、我々が日常生活の必要から持っている意志よりも賢くて高い「意志」を感得することにある。我々の過去、現在、未来の時間全体を包みこんだ「意志」 「我を超えたもの」 それは我々の日々の「自我」をまちがわせも否定もしない。それは様々な「自我」を集め、首飾りの珠を赤い糸が通すようにまとめる。そして最後の珠は最初の珠と出合う・・・」 (以上の引用文は、尾埜の試訳です。)
ロランはゲーテの思想についても、《死ね、そして復活せよ》と併せ、《両極性と上昇》つまり螺旋形に昇る全体方向を「自然の二大動輪」とする考えに同調しています。
個我を包んだ大我、非人格的な永遠の「存在」が直観され、これは魂の奥から湧き出て、やみがたい傾斜に沿うて流れて大洋に注ぎ、雲となって河の源を養い、創造の円環運動は休まず続く。<わが山に流れてやまぬ山水の やみがたくして道はゆくなり>(高村光太郎)その息吹きである宇宙の最も深い「法則」に絶対に帰一して進むことが、最高の自由である。個々の自我は大我との間を断えず往還した我のエネルギーで生きつつ、マーヤ(幻影)のヴェールを一枚一枚剥ぎ取り、遂には裸の実体=「死」 (生死をこえた死)によって完結、解放される。(『魅せられたる魂』という題の意味)
八十六才の親鸞は、阿弥陀仏は右のような至高の「法則」を知らせる手だてであると説き、それは「死」であると森三樹三郎さんは断じました。
このような宇苗的な思想は、実に二十才の日記や論文(全集26,19)に早くも全的に新鮮に思考、表現され、後年『生けるインドの神秘と行動』(全集15)に熟成し、円環・螺旋思惟や深層心理が深く検証され、ユニテの本質も究められています。大戦中に書かれた井筒俊彦『神秘哲学・第一部』の巻頭には、ロランの言葉「およそ思惟に属する一切を包括し、全てを調和させる広大な仮説を思惟は渇望している。」(『エンペドクレース』)が掲げられていました。ロランの思想の本質を知るには『ヴィヴュカーナンダの生涯』の詳細な「補遺」の熟読検討が不可欠と思います。(一九二六年当時、注で推された本のうち、オットー『西と東の神秘主義』の訳が漸く昨年人文書院から出ました。)
ロマン.ロランがインド神秘思想を究めつつ反戦反ファシズムの戦いに参加したのは矛盾分裂ではなく、後者は前者の必然の結果でしょう。しかし他方、ロラン家は父まで八代続いて公証人でした。フランスの公証人は法律家としての役割が重要で、ロランは父方の合理精神とコラの笑いを承継しています。平和主義者の彼は『クリストフ』創作中、道で自動車にはねられ賠償裁判を起こし法廷に出むいて弁護士を声援しています(未だ大正の頃)。この「両極性」がロランの思想と行動の本質です。彼によれば、アンネットは到達不能な「真理」に代る「調和」を生涯求めましたが「調和」とは、日本的な和とか世間的な談合とは本質が全くちがいます。
先週の毎日新聞で、さる女性がアンネットは非婚の母として偏見と悪意に抗し「女性の時代」を生き抜いたと述べ、日本で婚外子の法的差別を無くす措置がおくれている現状を批判していますが、けさラジオの学生合奏コンクールの発表で、大都市圏を離れた地の小学生八十名の交響曲演奏を聞き「調和」の見事さに驚きました。
いま若人の、あらゆる世代の求めているものがロマン・ロランのなかにあります。今江さんもロランを作品にして下さる由、私は時を待てばよい。あ、ロランのふるさとからブルゴーニュのワインが宅急便で届きました。コラ・ブルニョンを讃えて、乾盃!
|