あ  と  が  き


 早くから原稿をいただいておりました方々にはまことに申訳のないことですが、諸種の事情で発行がおくれ、漸く 8、9号と続けてお届けできることになりました。
 クラムシー ―1月30日1977年― をいただきました井土熊野(いづちゆうや)先生は、三重大学医学部第二内科助教授であられますが、令弟の真杉氏がロラン研究者であるというご縁で、宮本先生のところへ三重医学部新聞(1979年2月20日号)に掲載されたこの原稿を、特に「ユニテ」のために、とお送りくださいました。クラムシーのロマン・ロラン文化館落成式に参列された唯一人の日本人としての貴重なルポルタージュです。
 医の荒廃が叫ばれる今日、実の医師とは、と考えさせられることしきりですが、ロマン・ロランに傾倒するこのような医師の存在を知ることは、私たちに大きな希望を与えてくれます。病み苦しむ患者たちが精神的にも肉体的にも安んじて医学の恩恵にあずかることができるように、井土先生のようなお医者様が増えることを心から期待せずにはいられません。
 南大路振一先生からは引きつづきロラン=マルヴィーダ往復書簡(5)をいただきました。学年末のご多忙の中を労をいとわず訳出してくださいました貴重な書簡です。ロランが若い日々を培われたマルヴィーダとのこまやかな友愛の姿を鮮明に見ることができます。「ユニテ」の読者には待ち遠しい読みもので、これからもよろしくおねがいいたします。
 椿充代さんのR・Rのための覚え書No.2は自己にきびしく絶えず成長されるこの方のロラン像を知ることのできる好レポートです。重ねてのご寄稿をお待ちしております。
 ユニテの広場に今回ご投稿くださいました大橋哲夫氏は随分古くからの会員で、以前は「ユニテ」の編集にも当られ、献身的に友の会のためにつくしてこられた方です。敬虎なクリスチャンとしてのお立場からロランとの結びつきを語ってくださいました。
 研究所からのご報告は特にありませんでしたが、各方面からご寄贈いただきました図書目録を記載して御礼にかえさせていただきます。ありがとうございました。
 セミナーは現在、“ロマン・ロランと戦争”という大きなテーマにとり組んでおりますが、ロランが「偶像」の中で述べたように、“思想の理解は心情のそれなくしては無意義であり、それは良識(ボンサンス)と智慧(エスプリ)なくして何の価値もない”のです。私たちはロランを学ぶことで絶えずユニテの輪をひろげていきたいと願っています。今後もよろしくご協力をいただけますよう。尚、「ユニテ」に対するご批判やご意見などもどしどしお寄せくださればありがたいと存じます。
                           (編集部 相浦綾子)




 「大洋感情」とフロイト                    霜 山 徳 爾

 フロイトとロマン・ロランの往復書簡のなかで、ロマン・ロランの使った「大洋感情(sentiment océanique)という言葉がある。宗教に対する否定的なフロイトの論文「幻想の未来」に対して使われた。ロマン・ロランは、人間があの大海原に面するときの自然の感情、すなわち、限りないもの、絶対的なものを予感する独特な感情こそ、信仰の本質なのだと静かに述べている。しかしフロイトは反対して、「大洋感情」なるものの正体は、実は自我が外界から分離する以前の、「自我と世界の一体感」への退行的願望の表現であり、無制限的な自己愛、自己の全能感の希求に他ならない、と手きびしく批判した。―しかし、フロイトは楯のもう一面を忘れていなかっただろうか。すなわち、大洋感情こそ全能的な自我の否定であり、小さな自我と外界との一体感の否定の希求であるということである。それは死と親和性の高い、きわめて「人間的な」感情であり、幼稚な気分ではなくて悟達の心眼なのである。

                     『人間の詩と真実』(中央公論社)から




 すぐれた文学は一つの人生である                 木下 順二

 すぐれた文学作品は、いわば一つの人生である。若い頃、いくつかのすぐれた文学作品にわれを忘れて読みふけったという思い出を持つ人は幸福だ。なぜかなら、その人は若くしていくつかの人生を、文学というもののみが保障する豊かな複雑さにおいて知ったことになるのだから。だからもっと強く、その思い出を持たない人は不幸だと言い切ってもよかろうかと思う。柔い感受性に恵まれた若い心は、およそ文学なるものが本来持っている本質を享受することにおいて、最も鋭敏であり最も純粋である。理解の届かぬところや多少の読み違いは、後年になって埋められればいいのである。―といぅことは、ある年齢になって、それは四十代でも七十代でも、もう一度読みなおす楽しみが予約されることを意味するわけにもなる。若い頃の読書という点では私自身は幸福なほうの部類に属する人間だと思うが、だがもっと読みふけっていたらば、という気持が残るのは当然だろう。ところで、その読みふけりかたにもいろいろあると思う。例えば私の場合の、例えばロマン・ロランの場合。旧制高等学校にはいりたての頃(今なら高校三年生だ)、私は突然「ジャン・クリストフ」にとりつかれた。そしてそれを終ると長い長い「魅せられたる魂」、それが終ると次には、というふうに読んで行って、邦訳のないものは英訳で読み(Frederic Lees訳の「ミケランジェロの生涯」などまだ書棚に残っているが)、次には何でももとの形で読まなければと、習い始めて間もないフランス語で「愛と死との戯れ」に食いついて、これはもちろん数ページで挫折した。だがそのとき没入できたもの、分りにくかったもの、つまらなかったもの、挫折したものの総てを含めて、青春のある時期、私が熱い〈ロマン・ロランの季節〉を持ったというそのことは、私という人間の内部に、なにものにも換えがたい何かを残してくれたと、確かに言っていいだろうと思う。

                    『朝日ジャーナル』(1978年7月21日号)から