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訳者 まえがき
この論文は戈宝権『談≪阿Q正伝≫的法文訳本―魯迅作品外文訳本書話之三』を翻訳したものである。見出しを原題のままで出さなかったのは、読者に対して、ロマン・ロランとの関係をはっきりさせた方がよいと考えたからである。この論文は実際、原題から考えられる以上に魯迅『阿Q正伝』とロマン・ロランとの関係を追求しており、ロマン・ロラン研究にとっても役立ちそうな資料を含んでいると思われる。
戈宝権氏のこの論文はもともと『南開大学学報』(1977年第6期)に掲載されたものである。南開大学というのは中華人民共和国の天津市に古くからある大学である。この論文の存在を知ったのは、現香港大学中文系講師の黎活仁氏が在日留学中に私がロマン・ロランと中国に関する資料を集めているのを知って、わざわざコピーをとって送りとどけてくれたからである。私は一読して、これは翻訳・紹介するにあたいする論文だと知った。筆者の戈宝権氏は、戈公振〔1890−1935、中国の有名なジャーナリストで、『中国新開学史』(中国報学史)の著がある〕氏の甥にあたる人らしい。1912年生まれで江蘇省東台県の人。上海で文芸生活をした後、1935年から37年にかけて『大公報』という新聞の特派員としてソ連に行き、1938年から45年まで重慶で『新華日報』の編集をしているが、中国におけるロシア文学研究者として知られ、オストロフスキイ、ベリンスキイ、ファジェーエフ、シーモノフなどのものの翻訳がある。中華人民共和国になってからは駐ソ大使館の参事官に任命されていたこともある。『ゴーゴリと中国』(『文学研究』1958・2)といった論文もあり、ここに訳載する論文を読むと、ロシア文学者というだけではなくて、フランスやロマン・ロランについて詳しく調べていて、ロシア語以外の外国語にも通暁しており、広いテーマに関心をもっていることがわかる。 文革中はしばしばイデオロギー過剰を感じさせる論文が多かったが、戈宝権氏のこの論文は手がたく実証的にかかれていて、その点に私としては好感をもった。日本のロマン・ロラン研究者にとって興味ぶかい点や、新しい事実の発掘も含まれているので、ここに翻訳・紹介することとした。 (1978.10.20 相浦記)
『阿Q正伝』のフランス語訳本について
―「魯迅作品の外国語訳本」書話の三 ―
戈 宝 権
1926年、梁杜乾が英語に翻訳した『阿Q正伝』は上海の商務印書館から出版された〔訳注: "The True Story of Ah Q", translated by George King Leung,
Commercial Press, Shanghai, 1926]。これが『阿Q正伝』がヨーロッパの文字に翻訳された最初の訳本であった。その同じ年に、敬隠漁がフランス語に翻訳した『阿Q正伝』がさらにパリのリーデ〔訳注:Rieder〕書店出版の雑誌『ヨーロッパ』("Europe")に発表された。魯迅は1926年12月3日に厦門でかいた『阿Q正伝の成因』という文に次のように述べている。「『阿Q正伝』の訳本については、私は二種類見ただけだ。フランス語のものは8月号の『ヨーロッパ』に載ったが、三分の一にすぎず、省略のあるものだった。英語のものはていねいに訳されているようだが、私は英語がわからないので、なにも言うことはできない」。魯迅は1933年11月5日、Y.K.にあてた手紙の中で、「『阿Q正伝』の“フランス語訳本は敬隠漁訳です」と述べている。同年の12月10日にかいた別の手紙ではさらにフランスの有名作家、ロマン・ロランの『阿Q正伝』に対する批評の言葉にふれ、「ロランの評語は、私は永遠にさがしだすことはできないと思います。訳者の敬隠漁の話では、それは一通の手紙で、彼は創造社に送って‥…・…彼らに発表するようたのんだのですが、その時からさっぱり行方がわからなくなりました。このことはもうずいぶん時間がたってしまっているので、調べようもありません、私はいっそもうさがすことはあるまいと考えています」と述べている。今、これに関するいくつかの問題について述べることにしよう。
一.敬隠漁訳の『阿Q正伝』は8月号の『ヨーロッパ』誌に発表されたのであろうか?
ずっと長い間、われわれは、魯迅自身の言葉にしたがって、敬隠漁がフランス語に翻訳した『阿Q正伝』は1926年8月号の雑誌『ヨーロッパ』に発表されたのであり、「三分の一にすぎず、おまけに“省略のあるものだった”と考えてきた。この間題を明らかにするために、北京図書館からフランス国立図書館に依頼して、『阿Q正伝』を発表した『ヨーロッパ』誌のコピーを入手した。そこではじめてわれわれは、『阿Q正伝』の訳文が8月号の『ヨーロツパ』に発表されたものではなくて、2期に分けて5月号と6月号の誌上に発表されたものであること、訳文はそれぞれちようど半分づっで、内容はたしかに省略のあるものであること、を知った。
敬隠漁は翻訳にあたって『阿Q正伝』という題名を "La Vie de Ah Qui" と訳し、さらに中国語に再訳したときは『阿Qの一生』(≪阿Q的一生≫)、あるいは『阿Qの伝』(≪阿Q的伝≫)としている。たぶ第一章の『序』は翻訳がやゝ難しく、しかも外国の読者に理解させるのは容易でないからであろう、敬隠漁は第一章を省略してしまい、第二章から翻訳をはじめている。彼は第二章『優勝記略』を第一章に改め、その他の各章をそれにつれて改め、最後の第九章『大団円』を第八草に改め、章名を『再見』("Au revoire")に改めている。5月号の第41期『ヨーロッパ』誌は、5月15日出版のものであるが、どういうわけだか、魯迅の名は誤って
Lou-Tun (魯東)とされている。この号に発表された訳文は、『阿Q正伝』の前半分の第一章から第五章まで(つまり原作の第二章から第六章まで)である。6月号の第42期『ヨーロッパ』誌は、6月15日出版のものであり、魯迅の名前はここで Lou-Siun に改められた。この号に発表されたのは訳文の後半分の第六章から第八章(つまり原作の第七章から第九章まで)である。平均してこの両号の頁数はそれぞれ18頁である。
訳者の敬隠漁は訳文の前に短い文をひとつかき、魯迅という人物についての簡単な紹介をおこない、同時に『阿Q正伝』という作品についてこんなふうに述べている。
「彼(魯迅先生)は、まさにこの小説が証明するように、ひとりの傑出した諷刺作家である。‥‥…‥この小説は、すべての有閑の人、有産者、士大夫、ひとことで言えば、全中国旧社会の一切の欠点―卑劣、虚偽、無知………―に対する辛辣な攻撃である。彼の観察は細緻であり、巧妙である。彼の描写は的確にわが国の地方的色彩を表現しえている。すこしも感傷に流れはしない。それは恋愛小説ではないのである。彼は婦女子の趣味には合わないのだ。」
「これがわれわれのもっとも有名な作家の一人である。」
二.魯迅の敬隠漁との友情および書簡のやりとり
『魯迅日記』によってわれわれが知っているように、敬隠漁は1926年初めから魯迅と通信をはじめ、この通信の関係はずっと1927年10月までつづいた。現在、敬隠漁が1926年1月24日にフランスのリヨンから魯迅に宛ててかいた最初の手紙を除いては、その他の双方の書信はすべて残されてはいない。しかし今日まで残されている、このただ一通の手紙がわれわれに非常に貴重な資料を提供してくれ、非常に重要な問題を解決してくれる。北京魯迅博物館の承諾をえて、ここにその書信を初公開することとする。
“魯迅先生:
私は身のほどもわきまえず、尊著『阿Q正伝』をフランス語に翻訳してロマン・ロラン先生宛てに送りました。先生はたいへんほめてくれました。先生はこう言いました。「…・・・・‥阿Qの伝は卓越した芸術作品である。その証拠には2回目を読むほうが1回目よりもずっとすばらしいと感ずる点にある。あの阿Qのみじめな姿はそのまま記憶の中に留まっている………」と(この原文は創造社に送りました)。
ロマン・ロラン先生は、彼と彼の友人たちがやっている雑誌『ヨーロッパ』にもっていって載せよう”と言われました。私が翻訳したとき、(あなたの)ご承認をえませんでしたが、どうかお許しください。幸いにもまだ世に出ぬうちから、逆にわが同胞のために光彩を添えることになりましたが、このことはあなたにお知らせして(あなたに)お礼を申しあげねばならないことです。私はあなたもまたこのような海外の知己が得られたことをお喜びになることだろうと思います。
“この海外の知己、不朽の詩人、今年はその彼の生誕60年にあたります。彼の友人たちはこの機会に各国の、彼についてのさまざまな論文、伝記、画像・…‥を集めて一冊の専著をつくろうとしていますが、もしかしたらあなたもご存知かもしれません。ところで、どうか私が真心こめてあなたに、中国のすべてのロマン・ロランについての(新聞、雑誌、写真……彼に賛成するものでも彼に反対するものでも)さまざまな原稿を私に送りとどけてくださるよう、またあなたとあなたの友人たちがロマン・ロランに関する専著を一冊印行して、スイスに送るか、また私から転送することができるようお願いすることをお許しください。人類は、芸術への愛のために、友情のために、ロマン・ロランの中国に対する熱情のために、わが祖国の光栄のために、このような態度を表明すべきだ、と私は考えます。‥‥‥お騒がせして申訳ございませんでした。どうかご返書を賜りますよう。
敬隠漁 フランス、リヨンより
1926.1.24”
敬隠漁のかいたこの手紙は、郵便スタンプによれば、1月26日にリヨンから出されたものである。封筒の表には、「中国北京大学より魯迅先生に転送されたし」とあり、手紙はシベリア経由で2月13日に北京に着いている。魯迅は2月20日の日記に、「李小峰の手紙を入手、敬隠漁のリヨンよりの来函を附す」と記しているが、おそらくこの手紙を指して言ったものと思われる。敬隠漁は手紙の中でまず第一に彼が『阿Q正伝』をフランス語に翻訳したこと、ならびにロマン・ロランのこの小説に対する批評の言葉について述べ、ついでロマン・ロラン60歳の誕生日のこと(ロマン・ロランは1866年に生まれ、1926年1月29日は彼の60歳の誕生日であった)について説明した。魯迅は2月27日の日記に、「敬隠漁に手紙ならびに『莽原』4冊を送る」と記している。これによれば魯迅は手紙で敬隠漁が『阿Q正伝』を翻訳したことに礼をのべたのかもしれない。敬隠漁の言うところでは「魯迅もこの消息を聞くと、心から喜び、また私の紹介の労に対しいたく感謝しました」。
それからしばらくして、魯迅は敬隠漁の求めに応じ、ロマン・ロランに対して敬意を表するために、三月の頃には日本人の中沢臨川と生田長江の共著になる『ロマン・ロランの英雄主義』(『羅蔓羅蘭的真勇主義』)を翻訳して、4月25日出版の『莽原』半月刊、第7・8期の『ロマン・ロラン特集号』に発表した。魯迅は3月16日にかいた後記の中で、「これは『近代思想十六講』の最後の一編で、1915年に出版されている。それゆえ第一次大戦以後の作品には言及していない。しかし叙述が簡明なので、これを訳出した」と述べている。魯迅は4月23日の日記に、「敬隠漁の手紙を受取る」とかき、同じ月の25日には「敬隠漁の手紙に返事をかく」とある。魯迅はおそらく返信の中で彼が「ロマン・ロランの英雄主義」を翻訳したこと、および『莽原』が『ロマン・ロラン特集号』を出版して記念したことを述べたことだろうと思われる。
7月1日になると『魯迅日記』には、「午後敬隠漁の手紙ならびに『ヨーロッパ』一冊を入手す」の記載がある。この『ヨーロッパ』誌は当時の書目ノート(訳註:たぶん魯迅が所蔵本について自分で作成していたノート)には見あたらないし、魯迅の外国語蔵書目録にも見あたらない、たぶん早く遺失してしまったのであろう。時期から考えると、この『ヨーロッパ』誌はたぶん5月号のそれであったのだろう、というのは6月15日出版の6月号の雑誌は郵便を出す時にはたぶんまだ出版されていなかっただろうと思われるからである。魯迅は『阿Q正伝の成因』という文章の中で、「フランス語のものは8月号の『ヨーロッパ』に載った」と述べているが、思うに号数をかきちがえたのであろう。
7月16日の魯迅日記には、「(李)小峰を訪問し、彼の家で昼食をとる、また小説等33種類を買い、総計15元であった」とある。つづいて7月27日には、「敬隠漁に手紙を出す」とあるが、どうやらこの手紙は本を送ったことと関係がありそうだ。われわれが知っているように、敬隠漁はこの後で、フランス語で『中国当代短編小説家作品選』("Analogie des conteurs chinois modernes")を編訳し、1929年にパリのリーデ書店(Rieder)から出版している。その中には、魯迅、茅盾、郁達夫、冰心、落華生、陳?謨などの人たちの作品、計9編が編訳されている。この“33種”の書物の題名は調べようもないが、訳出された小説から推測すると、魯迅自身の『吶喊』郁達夫の『沈倫』謝冰心の『超人』落華生の『綴網労蛛』などが含まれていたのであろう。なぜなら訳出された作品はこういった手の数種類の小説集に見られるからである。魯迅の作品は『阿Q正伝』のほかに、さらに『孔乙己』と『故郷』が新たに訳されている。郵送された書物の中には、ほかにロマン・ロランに関する書物・雑誌が含まれていたかもしれない、というのは、当時『小説月報』の6月号がすでにロマン・ロランを記念する特集号を出していたのだから。
1926年の後半期には、たぶん敬隠漁はすでにリヨンからパリに着いていたであろう。魯迅もこの年の9月には北京から厦門に着き、1927年1月にはさらに厦門から広州に行ったが、彼がこの時期に受取った敬隠漁の手紙はすべて許欽文〔訳註:作家(1897−)、北京大学での魯迅の学生〕の四妹(4番目の妹)の許羨蘇(淑卿)が北京から転送してきたものであった。『魯迅日記』1926年12月8日を調べると、「(許)淑卿よりの手紙を受取る、先月29日発、パリ よりの敬隠漁の来函および絵葉書4枚を同封す」とある。1927年2月11日には、「午前、敬隠漁の手紙を受取る。去年12月29日パリ発」とある。3月22日には、「午前、(許)淑卿の手紙を受取る、7日発、敬隠漁の手紙を同封す」とある。1927年10月初、魯迅は広州から上海に着いたが、10月15日にはさらに、「敬隠漁の手紙を受取る」とある。これらの手紙の内容はすべて不詳であるし、魯迅が返信を書いたということも見られない。こうして二、三年がたち、1930年2月24日になると、『魯迅日記』の中に、「敬隠漁来たるも、会わず」という言葉があるのを発見する。たぶんこの時、魯迅は敬隠漁の国外での行為がふしだらであることについて耳にしていたのであろう。1929年ごろに敬隠漁はフランスから上海へ帰っている。魯迅のかいた「会わず」とは、おそらく「会えなかった」というのではなくて、「会うのをことわった」または「会いたくない」という意味であっただろう。
さて、ここでもういちど簡単に今わかっている敬隠漁についての情況をいくらか紹介しておいてもよいだろう。
魯迅は1933年11月5日、Y.K.へ出した返信の中で、「フランス語訳本は敬隠漁(四川省の人、スペルはどうつづるのか知りませんが)が訳したのです」と述べている。私は敬隠漁が1926年1月24日に魯迅に宛ててかいた手紙の中に、「魯迅先生、お元気ですか」(「間候魯迅先生」)とかいた名刺が一枚ついているのを発見した。それではじめて私は彼が四川省遂寧の人であることを知った。彼のフランス語での名前はJ.−B.Kin Yn
Yuとつづられており、Kinは時にはKynともつづられている。彼は小さいときから成都(一説には成都の近くの彭県)のカトリック教会堂の孤児院で大きくなり、カトリック教のきびしい教育を受け、フランス語とラテン語をしっかりと身につけた。彼の名前の前のJ.−B.というのは、彼のカトリックのクリスチャン・ネームであるJean−Baptisteの省略で、その意味はつまり“洗礼者ヨハネ”ということなのである。20年代の初、彼は上海にきて、徐家准のカトリックの学校に身を寄せ、いつも北四川路の創造社へ行っていた。彼は郭沫若の小説『函谷関』をフランス語に訳し、『創造季刊』に載せたことがある。この頃から、彼は創作と翻訳の仕事を始め、詩や小説をかいた。彼の作品と翻訳は、大部分が『創造季刊』『創造周報』『創造日〔訳註:これらはいずれも文学団体「創造杜」の機関誌や『小説月報』〔訳註:文学団体「文学研究会」の機関誌〕などの刊行物に発表されたし、1925年には小説集『瑪麗』〔訳註:この小説の題名は人名Maryをとっている〕が出版された。郭抹若に励まされて、彼はロマン・ロランの長編小税『ジャン・クリストフ』の翻訳に着手し、またロマン・ロランと手紙のやりとりをした。ロマン・ロランは1924年7月17日に彼の手紙に返事をかいている(その訳文は『小説月報』1925年第一期)。彼が翻訳した『ジャン・クリストフ』の最初の数章については、1926年の『小説月報』に登載された。彼はたぶん1925年前後にフランスへ留学し、前後してリヨンとパリに行ったのだが、一説にはロマン・ロランの学資援助によるものとし、一説にはカトリック教会の援助だとする。彼はスイスのジュネーヴ湖(レマン湖)のほとりの新しき村へ行ってロマン・ロランを訪問し、この家の客となった。その後、ずいぶんとでたらめな行為が多かったので、ロマン・ロランに歓迎されなくなった、と言われている。彼はフランスにいたとき、神経が不正常で、色情狂症にかかっていた。1929年ごろフランスから上海に帰ったが、後に狂疾のため海にはまって死んだ、という。
敬隠漁の訳文は、敬隠漁自身の言うところによれば、ロマン・ロランがかつて、「君の訳文は正確で、流暢で、自然なものだ」("Votre traduction est correcte, aisée, naturelle.")という批評の言葉を述べた、という。魯迅も1934年3月24日にかいた手紙の中で、「敬隠漁君のフランス語は人の話では、りっぱなものだそうですが、彼は翻訳に対しては必ずしも真摯ではありません。それは彼の目的がお金もうけで、重訳をすると、まちがいがいっそう多くなるのも当然だからです」と述べている。また私が前に訳文をひととおり調べたところ、訳文は翻訳の難しい第一章『序』をカットしただけでなく、その他の各章にもたいてい省略のあることを発見した。そのほか、『大団円』の章の結末のところに、阿Qが四年前に山中で一匹の餓えた狼に出会う話がある。彼(阿Q)は、「その狼の目を永久に忘れない。残忍で、しかも腺病な、きらきらと光るまるで二つの鬼火のような目だった。それが遠くの方から彼の皮と肉とをさしつらぬきそうな気がした。いま、又もや、これまでに見たこともない、もっと恐しい目を見たのだ。鈍く、しかも鋭利で、彼の言葉を噛みくだいてしまったばかりでなく、彼の皮と肉以外のものまで噛みくだこうとして、いつまでも、近づきもせず遠ざかりもしないで、彼の後についてくるのだ」。この鈍く、しかも鋭利で」という文の後に、敬隠漁は突然、ラテン語の文:"quarentes quem devorent" をつけ加えている。この文はもともとは "quaerens quem devoret"〔訳注:これは上の文の単数形〕であり、その意味は、「人間を食うことを求めている野心家」〔訳注:中国語訳文は「尋求吃人的野心者」であるが、このラテン語そのものは「むさIもり食うべき者を求めつつ(ある人間)」というほどの意味〕ということである。敬隠漁はラテン語の成語の引用がたいへんお気に入りであったが、ここでも彼は自分のラテン語の才能をひけらかしたのである。
敬隠漁が翻訳した『阿Q正伝』は、その後さらに1929年に彼が編訳した『中国当代短編小説選』〔訳注:“Anthologie des conteures chinois modernes, Rieder, Paris, 1929]に収められた。1930年、イギリス人のミルズ〔訳注:E・H・F・Mills のこと〕がこの本を英語に翻訳して、『阿Qの悲劇およびその他の現代中国短編小説』〔訳注:“The Tragedy ofAh Qui and other modern Chinese Stories”, London, 1930] と名づけ、イギリスとアメリカで出版した。思うに、魯迅が手紙の中で述べている、「重訳をするとまちがいがいっそう多くなるのも当然です」という言葉の中の「重訳」とは、おそらくミルズの英訳本をさして言ったものだろうと考えられる。
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