ロマン・ロランと魯迅『阿Q正伝』 戈 宝 権か ほう けん


訳者 まえがき

 この論文は戈宝権『談≪阿Q正伝≫的法文訳本―魯迅作品外文訳本書話之三』を翻訳したものである。見出しを原題のままで出さなかったのは、読者に対して、ロマン・ロランとの関係をはっきりさせた方がよいと考えたからである。この論文は実際、原題から考えられる以上に魯迅『阿Q正伝』とロマン・ロランとの関係を追求しており、ロマン・ロラン研究にとっても役立ちそうな資料を含んでいると思われる。
 戈宝権氏のこの論文はもともと『南開大学学報』(1977年第6期)に掲載されたものである。南開大学というのは中華人民共和国の天津市に古くからある大学である。この論文の存在を知ったのは、現香港大学中文系講師の黎活仁氏が在日留学中に私がロマン・ロランと中国に関する資料を集めているのを知って、わざわざコピーをとって送りとどけてくれたからである。私は一読して、これは翻訳・紹介するにあたいする論文だと知った。筆者の戈宝権氏は、戈公振〔1890−1935、中国の有名なジャーナリストで、『中国新開学史』(中国報学史)の著がある〕氏の甥にあたる人らしい。1912年生まれで江蘇省東台県の人。上海で文芸生活をした後、1935年から37年にかけて『大公報』という新聞の特派員としてソ連に行き、1938年から45年まで重慶で『新華日報』の編集をしているが、中国におけるロシア文学研究者として知られ、オストロフスキイ、ベリンスキイ、ファジェーエフ、シーモノフなどのものの翻訳がある。中華人民共和国になってからは駐ソ大使館の参事官に任命されていたこともある。『ゴーゴリと中国』(『文学研究』1958・2)といった論文もあり、ここに訳載する論文を読むと、ロシア文学者というだけではなくて、フランスやロマン・ロランについて詳しく調べていて、ロシア語以外の外国語にも通暁しており、広いテーマに関心をもっていることがわかる。        文革中はしばしばイデオロギー過剰を感じさせる論文が多かったが、戈宝権氏のこの論文は手がたく実証的にかかれていて、その点に私としては好感をもった。日本のロマン・ロラン研究者にとって興味ぶかい点や、新しい事実の発掘も含まれているので、ここに翻訳・紹介することとした。                      (1978.10.20 相浦記)


『阿Q正伝』のフランス語訳本について
―「魯迅作品の外国語訳本」書話の三 ―
                                      戈  宝  権

 1926年、梁杜乾が英語に翻訳した『阿Q正伝』は上海の商務印書館から出版された〔訳注
: "The True Story of Ah Q", translated by George King Leung, Commercial Press, Shanghai, 1926]。これが『阿Q正伝』がヨーロッパの文字に翻訳された最初の訳本であった。その同じ年に、敬隠漁がフランス語に翻訳した『阿Q正伝』がさらにパリのリーデ〔訳注:Rieder〕書店出版の雑誌『ヨーロッパ』("Europe")に発表された。魯迅は1926年12月3日に厦門アモイでかいた『阿Q正伝の成因』という文に次のように述べている。「『阿Q正伝』の訳本については、私は二種類見ただけだ。フランス語のものは8月号の『ヨーロッパ』に載ったが、三分の一にすぎず、省略のあるものだった。英語のものはていねいに訳されているようだが、私は英語がわからないので、なにも言うことはできない」。魯迅は1933年11月5日、Y.K.にあてた手紙の中で、「『阿Q正伝』の“フランス語訳本は敬隠漁訳です」と述べている。同年の12月10日にかいた別の手紙ではさらにフランスの有名作家、ロマン・ロランの『阿Q正伝』に対する批評の言葉にふれ、「ロランの評語は、私は永遠にさがしだすことはできないと思います。訳者の敬隠漁の話では、それは一通の手紙で、彼は創造社に送って‥…・…彼らに発表するようたのんだのですが、その時からさっぱり行方がわからなくなりました。このことはもうずいぶん時間がたってしまっているので、調べようもありません、私はいっそもうさがすことはあるまいと考えています」と述べている。今、これに関するいくつかの問題について述べることにしよう。


一.敬隠漁訳の『阿Q正伝』は8月号の『ヨーロッパ』誌に発表されたのであろうか?

 ずっと長い間、われわれは、魯迅自身の言葉にしたがって、敬隠漁がフランス語に翻訳した『阿Q正伝』は1926年8月号の雑誌『ヨーロッパ』に発表されたのであり、「三分の一にすぎず、おまけに“省略のあるものだった”と考えてきた。この間題を明らかにするために、北京図書館からフランス国立図書館に依頼して、『阿Q正伝』を発表した『ヨーロッパ』誌のコピーを入手した。そこではじめてわれわれは、『阿Q正伝』の訳文が8月号の『ヨーロツパ』に発表されたものではなくて、2期に分けて5月号と6月号の誌上に発表されたものであること、訳文はそれぞれちようど半分づっで、内容はたしかに省略のあるものであること、を知った。
 敬隠漁は翻訳にあたって『阿Q正伝』という題名を
"La Vie de Ah Qui" と訳し、さらに中国語に再訳したときは『阿Qの一生』(≪阿Q的一生≫)、あるいは『阿Qの伝』(≪阿Q的伝≫)としている。たぶ第一章の『序』は翻訳がやゝ難しく、しかも外国の読者に理解させるのは容易でないからであろう、敬隠漁は第一章を省略してしまい、第二章から翻訳をはじめている。彼は第二章『優勝記略』を第一章に改め、その他の各章をそれにつれて改め、最後の第九章『大団円』を第八草に改め、章名を『再見』("Au revoire")に改めている。5月号の第41期『ヨーロッパ』誌は、5月15日出版のものであるが、どういうわけだか、魯迅の名は誤って Lou-Tun (魯ママ)とされている。この号に発表された訳文は、『阿Q正伝』の前半分の第一章から第五章まで(つまり原作の第二章から第六章まで)である。6月号の第42期『ヨーロッパ』誌は、6月15日出版のものであり、魯迅の名前はここで Lou-Siun に改められた。この号に発表されたのは訳文の後半分の第六章から第八章(つまり原作の第七章から第九章まで)である。平均してこの両号の頁数はそれぞれ18頁である。
 訳者の敬隠漁は訳文の前に短い文をひとつかき、魯迅という人物についての簡単な紹介をおこない、同時に『阿Q正伝』という作品についてこんなふうに述べている。
 「彼(魯迅先生)は、まさにこの小説が証明するように、ひとりの傑出した諷刺作家である。‥‥…‥この小説は、すべての有閑の人、有産者、士大夫、ひとことで言えば、全中国旧社会の一切の欠点―卑劣、虚偽、無知………―に対する辛辣な攻撃である。彼の観察は細緻であり、巧妙である。彼の描写は的確にわが国の地方的色彩を表現しえている。すこしも感傷に流れはしない。それは恋愛小説ではないのである。彼は婦女子の趣味には合わないのだ。」
 「これがわれわれのもっとも有名な作家の一人である。」


二.魯迅の敬隠漁との友情および書簡のやりとり

 『魯迅日記』によってわれわれが知っているように、敬隠漁は1926年初めから魯迅と通信をはじめ、この通信の関係はずっと1927年10月までつづいた。現在、敬隠漁が1926年1月24日にフランスのリヨンから魯迅に宛ててかいた最初の手紙を除いては、その他の双方の書信はすべて残されてはいない。しかし今日まで残されている、このただ一通の手紙がわれわれに非常に貴重な資料を提供してくれ、非常に重要な問題を解決してくれる。北京魯迅博物館の承諾をえて、ここにその書信を初公開することとする。

“魯迅先生:
 私は身のほどもわきまえず、尊著『阿Q正伝』をフランス語に翻訳してロマン・ロラン先生宛てに送りました。先生はたいへんほめてくれました。先生はこう言いました。「…・・・・‥阿Qの伝は卓越した芸術作品である。その証拠には2回目を読むほうが1回目よりもずっとすばらしいと感ずる点にある。あの阿Qのみじめな姿はそのまま記憶の中に留まっている………」と(この原文は創造社に送りました)。
 ロマン・ロラン先生は、彼と彼の友人たちがやっている雑誌『ヨーロッパ』にもっていって載せよう”と言われました。私が翻訳したとき、(あなたの)ご承認をえませんでしたが、どうかお許しください。幸いにもまだ世に出ぬうちから、逆にわが同胞のために光彩を添えることになりましたが、このことはあなたにお知らせして(あなたに)お礼を申しあげねばならないことです。私はあなたもまたこのような海外の知己が得られたことをお喜びになることだろうと思います。
 “この海外の知己、不朽の詩人、今年はその彼の生誕60年にあたります。彼の友人たちはこの機会に各国の、彼についてのさまざまな論文、伝記、画像・…‥を集めて一冊の専著をつくろうとしていますが、もしかしたらあなたもご存知かもしれません。ところで、どうか私が真心こめてあなたに、中国のすべてのロマン・ロランについての(新聞、雑誌、写真……彼に賛成するものでも彼に反対するものでも)さまざまな原稿を私に送りとどけてくださるよう、またあなたとあなたの友人たちがロマン・ロランに関する専著を一冊印行して、スイスに送るか、また私から転送することができるようお願いすることをお許しください。人類は、芸術への愛のために、友情のために、ロマン・ロランの中国に対する熱情のために、わが祖国の光栄のために、このような態度を表明すべきだ、と私は考えます。‥‥‥お騒がせして申訳ございませんでした。どうかご返書を賜りますよう。
                          敬隠漁 フランス、リヨンより
                                   1926.1.24”

 敬隠漁のかいたこの手紙は、郵便スタンプによれば、1月26日にリヨンから出されたものである。封筒の表には、「中国北京大学より魯迅先生に転送されたし」とあり、手紙はシベリア経由で2月13日に北京に着いている。魯迅は2月20日の日記に、「李小峰の手紙を入手、敬隠漁のリヨンよりの来函を附す」と記しているが、おそらくこの手紙を指して言ったものと思われる。敬隠漁は手紙の中でまず第一に彼が『阿Q正伝』をフランス語に翻訳したこと、ならびにロマン・ロランのこの小説に対する批評の言葉について述べ、ついでロマン・ロラン60歳の誕生日のこと(ロマン・ロランは1866年に生まれ、1926年1月29日は彼の60歳の誕生日であった)について説明した。魯迅は2月27日の日記に、「敬隠漁に手紙ならびに『莽原』4冊を送る」と記している。これによれば魯迅は手紙で敬隠漁が『阿Q正伝』を翻訳したことに礼をのべたのかもしれない。敬隠漁の言うところでは「魯迅もこの消息を聞くと、心から喜び、また私の紹介の労に対しいたく感謝しました」。
 それからしばらくして、魯迅は敬隠漁の求めに応じ、ロマン・ロランに対して敬意を表するために、三月の頃には日本人の中沢臨川と生田長江の共著になる『ロマン・ロランの英雄主義』(『羅蔓羅蘭的真勇主義』)を翻訳して、4月25日出版の『莽原』半月刊、第7・8期の『ロマン・ロラン特集号』に発表した。魯迅は3月16日にかいた後記の中で、「これは『近代思想十六講』の最後の一編で、1915年に出版されている。それゆえ第一次大戦以後の作品には言及していない。しかし叙述が簡明なので、これを訳出した」と述べている。魯迅は4月23日の日記に、「敬隠漁の手紙を受取る」とかき、同じ月の25日には「敬隠漁の手紙に返事をかく」とある。魯迅はおそらく返信の中で彼が「ロマン・ロランの英雄主義」を翻訳したこと、および『莽原』が『ロマン・ロラン特集号』を出版して記念したことを述べたことだろうと思われる。
 7月1日になると『魯迅日記』には、「午後敬隠漁の手紙ならびに『ヨーロッパ』一冊を入手す」の記載がある。この『ヨーロッパ』誌は当時の書目ノート(訳註:たぶん魯迅が所蔵本について自分で作成していたノート)には見あたらないし、魯迅の外国語蔵書目録にも見あたらない、たぶん早く遺失してしまったのであろう。時期から考えると、この『ヨーロッパ』誌はたぶん5月号のそれであったのだろう、というのは6月15日出版の6月号の雑誌は郵便を出す時にはたぶんまだ出版されていなかっただろうと思われるからである。魯迅は『阿Q正伝の成因』という文章の中で、「フランス語のものは8月号の『ヨーロッパ』に載った」と述べているが、思うに号数をかきちがえたのであろう。
 7月16日の魯迅日記には、「(李)小峰を訪問し、彼の家で昼食をとる、また小説等33種類を買い、総計15元であった」とある。つづいて7月27日には、「敬隠漁に手紙を出す」とあるが、どうやらこの手紙は本を送ったことと関係がありそうだ。われわれが知っているように、敬隠漁はこの後で、フランス語で『中国当代短編小説家作品選』(
"Analogie des conteurs chinois modernes")を編訳し、1929年にパリのリーデ書店(Rieder)から出版している。その中には、魯迅、茅盾、郁達夫、冰心、落華生、陳?謨などの人たちの作品、計9編が編訳されている。この“33種”の書物の題名は調べようもないが、訳出された小説から推測すると、魯迅自身の『吶喊』郁達夫の『沈倫』謝冰心の『超人』落華生の『綴網労蛛』などが含まれていたのであろう。なぜなら訳出された作品はこういった手の数種類の小説集に見られるからである。魯迅の作品は『阿Q正伝』のほかに、さらに『孔乙己』と『故郷』が新たに訳されている。郵送された書物の中には、ほかにロマン・ロランに関する書物・雑誌が含まれていたかもしれない、というのは、当時『小説月報』の6月号がすでにロマン・ロランを記念する特集号を出していたのだから。
 1926年の後半期には、たぶん敬隠漁はすでにリヨンからパリに着いていたであろう。魯迅もこの年の9月には北京から厦門に着き、1927年1月にはさらに厦門から広州に行ったが、彼がこの時期に受取った敬隠漁の手紙はすべて許欽文〔訳註:作家(1897−)、北京大学での魯迅の学生〕の四妹スーメイ(4番目の妹)の許羨蘇(淑卿)が北京から転送してきたものであった。『魯迅日記』1926年12月8日を調べると、「(許)淑卿よりの手紙を受取る、先月29日発、パリ よりの敬隠漁の来函および絵葉書4枚を同封す」とある。1927年2月11日には、「午前、敬隠漁の手紙を受取る。去年12月29日パリ発」とある。3月22日には、「午前、(許)淑卿の手紙を受取る、7日発、敬隠漁の手紙を同封す」とある。1927年10月初、魯迅は広州から上海に着いたが、10月15日にはさらに、「敬隠漁の手紙を受取る」とある。これらの手紙の内容はすべて不詳であるし、魯迅が返信を書いたということも見られない。こうして二、三年がたち、1930年2月24日になると、『魯迅日記』の中に、「敬隠漁来たるも、会わず」という言葉があるのを発見する。たぶんこの時、魯迅は敬隠漁の国外での行為がふしだらであることについて耳にしていたのであろう。1929年ごろに敬隠漁はフランスから上海へ帰っている。魯迅のかいた「会わず」とは、おそらく「会えなかった」というのではなくて、「会うのをことわった」または「会いたくない」という意味であっただろう。
 さて、ここでもういちど簡単に今わかっている敬隠漁についての情況をいくらか紹介しておいてもよいだろう。
 魯迅は1933年11月5日、Y.K.へ出した返信の中で、「フランス語訳本は敬隠漁(四川省の人、スペルはどうつづるのか知りませんが)が訳したのです」と述べている。私は敬隠漁が1926年1月24日に魯迅に宛ててかいた手紙の中に、「魯迅先生、お元気ですか」(「間候魯迅先生」)とかいた名刺が一枚ついているのを発見した。それではじめて私は彼が四川省遂寧の人であることを知った。彼のフランス語での名前はJ.−B.Kin Yn Yuとつづられており、Kinは時にはKynともつづられている。彼は小さいときから成都(一説には成都の近くの彭県)のカトリック教会堂の孤児院で大きくなり、カトリック教のきびしい教育を受け、フランス語とラテン語をしっかりと身につけた。彼の名前の前のJ.−B.というのは、彼のカトリックのクリスチャン・ネームであるJean−Baptisteの省略で、その意味はつまり“洗礼者ヨハネ”ということなのである。20年代の初、彼は上海にきて、徐家准シュチアホイのカトリックの学校に身を寄せ、いつも北四川路の創造社へ行っていた。彼は郭沫若の小説『函谷関』をフランス語に訳し、『創造季刊』に載せたことがある。この頃から、彼は創作と翻訳の仕事を始め、詩や小説をかいた。彼の作品と翻訳は、大部分が『創造季刊』『創造周報』『創造日〔訳註:これらはいずれも文学団体「創造杜」の機関誌や『小説月報』〔訳註:文学団体「文学研究会」の機関誌〕などの刊行物に発表されたし、1925年には小説集『瑪麗マアリイ』〔訳註:この小説の題名は人名Maryをとっている〕が出版された。郭抹若に励まされて、彼はロマン・ロランの長編小税『ジャン・クリストフ』の翻訳に着手し、またロマン・ロランと手紙のやりとりをした。ロマン・ロランは1924年7月17日に彼の手紙に返事をかいている(その訳文は『小説月報』1925年第一期)。彼が翻訳した『ジャン・クリストフ』の最初の数章については、1926年の『小説月報』に登載された。彼はたぶん1925年前後にフランスへ留学し、前後してリヨンとパリに行ったのだが、一説にはロマン・ロランの学資援助によるものとし、一説にはカトリック教会の援助だとする。彼はスイスのジュネーヴ湖(レマン湖)のほとりの新しき村へ行ってロマン・ロランを訪問し、この家の客となった。その後、ずいぶんとでたらめな行為が多かったので、ロマン・ロランに歓迎されなくなった、と言われている。彼はフランスにいたとき、神経が不正常で、色情狂症にかかっていた。1929年ごろフランスから上海に帰ったが、後に狂疾のため海にはまって死んだ、という。
 敬隠漁の訳文は、敬隠漁自身の言うところによれば、ロマン・ロランがかつて、「君の訳文は正確で、流暢で、自然なものだ」(
"Votre traduction est correcte, aisée, naturelle.")という批評の言葉を述べた、という。魯迅も1934年3月24日にかいた手紙の中で、「敬隠漁君のフランス語は人の話では、りっぱなものだそうですが、彼は翻訳に対しては必ずしも真摯ではありません。それは彼の目的がお金もうけで、重訳をすると、まちがいがいっそう多くなるのも当然だからです」と述べている。また私が前に訳文をひととおり調べたところ、訳文は翻訳の難しい第一章『序』をカットしただけでなく、その他の各章にもたいてい省略のあることを発見した。そのほか、『大団円』の章の結末のところに、阿Qが四年前に山中で一匹の餓えた狼に出会う話がある。彼(阿Q)は、「その狼の目を永久に忘れない。残忍で、しかも腺病な、きらきらと光るまるで二つの鬼火のような目だった。それが遠くの方から彼の皮と肉とをさしつらぬきそうな気がした。いま、又もや、これまでに見たこともない、もっと恐しい目を見たのだ。鈍く、しかも鋭利で、彼の言葉を噛みくだいてしまったばかりでなく、彼の皮と肉以外のものまで噛みくだこうとして、いつまでも、近づきもせず遠ざかりもしないで、彼の後についてくるのだ」。この鈍く、しかも鋭利で」という文の後に、敬隠漁は突然、ラテン語の文:"quarentes quem devorent" をつけ加えている。この文はもともとは "quaerens quem devoret"〔訳注:これは上の文の単数形〕であり、その意味は、「人間を食うことを求めている野心家」〔訳注:中国語訳文は「尋求吃人的野心者」であるが、このラテン語そのものは「むさIもり食うべき者を求めつつ(ある人間)」というほどの意味〕ということである。敬隠漁はラテン語の成語の引用がたいへんお気に入りであったが、ここでも彼は自分のラテン語の才能をひけらかしたのである。
 敬隠漁が翻訳した『阿Q正伝』は、その後さらに1929年に彼が編訳した『中国当代短編小説選』〔訳注:
“Anthologie des conteures chinois modernes, Rieder, Paris, 1929]に収められた。1930年、イギリス人のミルズ〔訳注:E・H・F・Mills のこと〕がこの本を英語に翻訳して、『阿Qの悲劇およびその他の現代中国短編小説』〔訳注:“The Tragedy ofAh Qui and other modern Chinese Stories”, London, 1930] と名づけ、イギリスとアメリカで出版した。思うに、魯迅が手紙の中で述べている、「重訳をするとまちがいがいっそう多くなるのも当然です」という言葉の中の「重訳」とは、おそらくミルズの英訳本をさして言ったものだろうと考えられる。



三、ロマン・ロランは魯迅に手紙をかいたか? 彼は『阿Q正伝』に対してどのような評価をしていたか?

 ロマン・ロランは魯迅に手紙をかいたのか。ロマン・ロランは『阿Q正伝』に対してどのような評価をしていたか。これは長年にわたっておおぜいの人たちが非常な関心をもち、同時にまた長いあいだ論争のつづいた問題でもあった。
 早く1926年3月2日の『京報副刊』に、栢生のかいた『ロマン・ロラン魯迅を語る』(『羅蔓羅蘭談魯迅』後の文章からすると『ロマン・ロラン 魯迅を評す』という題名でなければならないが、ここは一応原文のままにしておく。)という一文が発表された。その中には次のように述べられている。
 「昨日、全飛先生のフランスからの手紙を受取った。この手紙の中に、ロマン・ロランが魯迅先生の『阿Q正伝』を論じたことについての次のような一節があった。“魯迅先生の『阿Q正伝』は、同学の敬君がフランス語に翻訳し、ロマン・ロラン(Romain Rolland)に送って見てもらいました。ロマン・ロランは非常に称讃しました。そのとき、いろいろと批評の言葉を述べたのですが、残念ながら私はぜんぶは覚えていません。私は二つの言葉を覚えていますが、それは
"c'est un art realiste avere d'ironie ..... La figure miserable d'AhQ reste toujour le souvenir."(これはひとつの諷刺にみちた、リアリズムの芸術作品である、・…‥…阿Qのみじめな顔はいつまでも記憶の中に残っている)というのです。”
 この訳文は近く雑誌に発表されることになっていますので、買ってお手もとにお送りしますからご覧ください。しかし訳者の敬君の中国語はあまりよくありませんので、おそらく原文と合わないところがたくさんでるでしよう。おまけに彼の話では、2.3頁分を省略したとのことです。これでは実際、忠実だとはいえません」
 いまわかっているところでは、この文章をかいた栢生というのは、副刊(『京報副刊』)の編集者である孫伏熙〔訳注:1894〜1966、魯迅と同郷(淅江省紹興県)の人、魯迅が紹興師範学校長をしていた時の学生で、後、北京大学を卒業した。『農報副刊』の編集者をしていたとき、その『開心欄』に魯迅の『阿Q正伝』を掲載した。〕のことである。「全飛先生」とは彼の弟の孫福熙のこと、当時フランスのリヨンに留学中で、全飛という名前をつかっていつも『京報副刊』にフランス文学についての文章をかいていた。思うに彼は敬隠漁とは近い知りあいであったにちがいないし、それにいちばん先に敬隠漁のところでロマン・ロランの『阿Q正伝』に対する批評の言葉を聞くことができたであろう。この二つの言葉は敬隠漁が魯迅あてにかいた手紙の中で言っていることと大体において一致している。また彼は敬隠漁が『阿Q正伝』を翻訳したとき、2、3頁分をカットしたと言うのを聞いているが、これは第一章『序』をさして言ったものにちがいない。
 栢生のこの短い文章が発表されてからまもなく、敬隠漁はひどく立腹して、「『ロマン・ロラン 魯迅を評す』〔訳注:原文は『羅蔓羅蘭評魯迅』、既出のこの文は『羅隻羅蘭談魯迅』で「評」と「談」の一字ちがいであるが、たぶん「評」の方が正しいだろう〕を読んで」という反駁の文章をかいて、1926年5月、上海出版の雑誌『洪水』第五期に載せた。この文章の中で敬隠漁はまず次のように述べた。「全飛君は私の同学だなどと自称しているが、私は生まれてからこのかたこんな同学と知りあいになるような光栄はもたなかった。私のフランスでの同学は四、五人にすぎず、その中には全飛などという名の人はいない。・‥……私が知っている友人たちにはひとりづったずねてまわったが、だれひとりとして全飛などという人物を知っている者はなかった。なんと君は人にあらず〔訳注:幽霊、死んだ人のこと〕にあらず、君は烏有うゆう〔訳注:どこにも存在しない、という意味.湊の司馬相如が『子虚賦』をかいて、子虚先生、烏有先生、亡是公という架空の3人の人物に仮托して問答させたのにもとづく〕であり、君は全非(すべてまちがい。全飛の「飛」と「非」とが同じ発音なので、このように罵った)なのだ」。つづいて彼はこうかいている。「第一に、人間たるもの責任を負うべきだ。あれこれ争いをまきおこすような文章をかくときには、本当の姓名を名乗るだけの度胸がなければならぬ」。「第二に、他人の訳文や他人の“作品”を批評するのはまことにごりっぱなことではあるが、その訳文を読むなり、”作品”を見るなりしてから批評を加えたり、攻撃したりするべきだ。それこそが正しい道理というものであろう」。「第三に、みだりにデマをとばしてはならない」。こうして最後に、「『京報』にのったものはデマでしかなく、批評ではない」と述べている。言うまでもなく、敬隠漁も自分のかいたこの文章は「いささか行きすぎたところがある」とみずから認めていた。『洪水』の編集者はこのために按語(作者・編集者などがある文章やことばについて説明したり、考証したりする文章のこと)をかいている。「『ロマン・ロラン 魯迅を評す』という文章は、1926年3月2日の『京報』にのったものである。・…‥原文はごく短い消息の一文であり、栢生君が紹介してくれた全飛という人の一通の手紙である。私がざっと目を通したところでは、べつにとりたててよくないところもないと思う。友だちどうしの手紙のやりとりでは、よく仲間うちの消息を知らせあうものだ。…―隠漁の文章も多くはただの言い争いだけではない、前半部分には怒りにまかせた軽薄な言葉もあるけれども。実はたくさんある、たいして重要でもない言い争いの部分は削りとってしまいたかったのだが、ここ数日あまりにいそがしくて、しかたなくいつものとおりに出してしまった。この文章の読者が言い争いの部分だけを読まないようにしていただければ幸いである」
 この二つの文章が発表されてから、われわれははじめてロマン・ロランの『阿Q正伝』に対する批評のことばを知ったのである。20年代および30年代には、さらになん人かの外国の作家がロマン・ロランの批評のことばについてふれている。たとえば、北京大学で西洋哲学と文学とを教えていたバートレット(R・M・Bartlett)は、1927年にアメリカの雑誌『カレント・ヒストリイ』(Current History)の10月号にかいた『中国革命の思想界の指導者たち』という文章の中で魯迅のことを述べている:「私が魯迅に会ったのは1926年の夏で、まだ彼が北京から厦門へ行く前のことであった。…・‥彼のもっとも著名な『阿Q正伝』はすでにフランス、ロシア、イギリス、ドイツの四つの国の言葉に翻訳されている。フランスの大文学者、ロマン・ロランはこの小説を読んだ後で、“この写実作品は、その中にたくさんの諷刺の言葉をもっている。私はまた永遠に阿Qのあのうれいにみちた顔を忘れることできない”と言っている。これは魯迅の小説の中で西洋の言葉に翻訳された唯一の作品である」(ここに引用したものは、雑誌『当代』第一巻第一編に発表された石采の訳文による)。魯迅の生前の日本の友人であった増田渉は、1932年に雑誌『改造』4月号にかいた『魯迅伝』〔訳注:魯迅に親灸した増田氏の『魯迅伝』は、同氏の『魯迅の印象』(角川選書)p23〜24、p34によれば、魯迅も目を通したものであった。おそらくこの『魯迅伝』は魯迅についての、日本への最初のまとまった紹介であったと考えられる。〕の中でこう述べている。「魯迅の名が国内ばかりでなく、国外に知られるようになったのは彼の『阿Q正伝』が七、八年ばかり前に、仏蘭西に訳されて、それがロマン・ロランの主宰していた雑誌『欧羅巴』に載ってからである。ロマン・ロランはそれに対する感激的批評を支部へ送ったが、…‥・」〔訳注:増田渉『魯迅伝』は訳者未見であるが、小野忍『外国における魯迅』(岩波書店『魯迅案内』に、ここと同じ部分の原文が紹介されているのでそれによった〕
 アメリカの進歩的作家・記者のエドガー・スノウは1935年、アメリカの雑誌『アジア』〔訳注:ここには英文名が挙げられていない。中国語名は亜州としている〕にかいた『魯迅―口語文の大家』〔訳注:中国語原題は『魯迅―白話文的大師』。以下の文は中国語より訳出〕という文章で、魯迅が「1921年に発表した風刺小説『阿Q正伝』は彼の名を全国に有名にさせた。………これは当代の中国人がかき、広く外国語に翻訳された、数すくない作品中の一つである。ロマン・ロランは魯迅の作品についての偉大な讃美者のひとりであり、彼はかつてこの作品に深い感動をおぼえて涙を流したほどだった」。
 1936年、魯迅逝世の時になって、(王)鈞初が10月24日、パリの『救国時報』〔訳注:中国共産党がパリで発刊し、国外で抗日宣伝をおこなった機関誌で、1935年12月9日創刊、38年2月10日停刊、152期まで出た〕にかいた『魯迅先生逝世の哀しみ』〔訳注:中国語原題は『魯迅先生逝世哀感』という一文には
 「なん年か前、『阿Q正伝』がフランス語に翻訳されて出版されたとき、フランス当代の大文豪ロマン・ロランはこれを読んで、そのために涙を流し、さらにすぐれた批評を雑誌『世界』に発表した」と述べている。
 抗戦〔訳注:抗日戦争、つまり1937年から1945年までの日中戦争をさす〕が勝利した後、魯迅生前の親友であった許寿裳〔訳注:1882〜1948、魯迅と同郷の人で、ともに日本に留学、後北京大学教授、北京女子高等師範学校長などを歴任した。魯迅についての回想録などの著述がある。〕は1947年、『人間世』第六期にかいた『亡友魯迅印象記』の中の『著作について語る』〔訳注:原題は『雑談著作』〕で、「魯迅の著作は、国際的に早くから有名であった。……彼はまた私にこう話した。ロマン・ロランは敬隠漁のフランス語訳『阿Q正伝』を読んだとき、この諷刺の写実作品は世界的なものだ、フランス大革命の時にも阿Qはいた、私はいつまでも阿Qのあの苦しげな顔つきを忘れることができない、と語った。それで口氏は私あての手紙を一通かいて創造社〔訳注:1921年に郭沫若、郁達夫、成?吾らが組織した、ロマン主義を標榜する文学団体で、後に革命文学に転じた。魯迅らとは一時期対立した〕気付で私に渡してもらおうとしたのだが、私は受取っていない。・…‥〕
 これにつづいて郭沫若は1947年8月30日に『一通の手紙の問題』をかいて、許寿裳に対して釈明と訂正とをおこなった。
 しかし、この問題は結着をみなかった。つい先日、たまたま1961年に香港で出版された『新雨集』に葉霊鳳〔訳注:1004−1975、創造社後期の中心的メンバーであった。1937年以後香港に住みここでなくなった〕のかいた『敬隠漁とロマン・ロランの一通の手紙』というのが載っていたが、その中で、
 「敬隠漁という名前を、今では知っている人もたぶんそれほど多くはないはずだ。が彼は新文壇とはなおひとつの重要な関係をもっている。というのは、彼はその後フランスに留学し、中国へ帰ってくるときに、ロマン・ロランが彼に魯迅先生あての一通の手紙を持って行くよう依頼したといわれている。当時、敬隠漁はフランスにいて貧乏でどうにも生活のたてようがなく、帰国することになったのだが、彼の性格は変屈で頑固なものだったし、おまけに神経衰弱にかかっていたために、この手紙は彼によってどこかわからないところへ棄てられてしまい、魯迅先生の手には渡らなかったのである。……はからずも彼が誤って「洪喬」〔訳注:昔の殷羨の字は洪喬と言った。彼が豫章の太守になったとき、人たちが百余通の手紙を彼に托した。洪喬はこの手紙をすっかり河の中に投げすてて、沈むものは自ら沈め、浮かぶものは自ら浮かべ、私は手紙のはこび屋ではない、と言った、という故事にもとずいて、ここでは敬隠漁を洪喬になぞらえた〕になったために、初期の中国新文壇にあらずもがなのもめごとをひとつつけ加えることになったのである」
 上に述べた簡単な紹介をとおして、われわれはロマン・ロランの一通の手紙をめぐる問題がさまざまな論争と紛糾をよびおこしたことを知ることは困難ではない。これらの問題を明らかにするために、わたしたちはフランスの国立図書館に協力と調査方を依頼し、現在、初歩的に次のいくつかの問題を明確にすることができた。
 1.ロマン・ロランは魯迅にあてて手紙をかいただろうか。
 上に引用した少なからぬ文章が、ロマン・ロランの魯迅にあてた一通の手紙の問題をとりあげている。たとえば、許寿裳は魯迅の言葉を回想して、「ロ氏は私あての手紙を一通かいて創造社気付けで私に渡してもらおうとした」と述べ、葉霊鳳は、敬隠漁がフランスから帰るとき誤って「洪喬」になり、ロマン・ロランが彼に托して魯迅に渡そうとした一通の手紙は、「どこかわからないところへ棄てられてしま」ったとさえ述べている。しかし今、少なからぬすじみちから明らかになったところでは、ロマン・ロランは直接魯迅にあてて手紙をかいたことはなく、ただ彼の敬隠漁への返信の中で自分の『阿Q正伝』に対する批評の言葉を語ったのであるらしい。このことについては前に初公開した敬隠漁の1926年1月24日付け、魯迅あての手紙の中の言葉、がいちばんよい証明になるだろう。敬隠漁はロマン・ロランの批評の言葉をかいた手紙を創造杜あてに送ったのであり、それは1926年初めのことで、それ以後のことではありえないし、なおさら彼が帰国するときにロマン・ロランが彼に托して持ってかえらせたということはありえないだろう。
 2.ロマン・ロランの『阿Q正伝』に対する批評の言葉はかってフランスで公けに発表されたことがあるのだろうか。
 (王)鈞初の回想によれば、ロマン・ロランの『阿Q正伝』に対する批評の言葉は、フランスの雑誌『世界』("Monde")に発表されたことがある、と言うのだが、フランス国立図書館に問い合わせたところでは、『ヨーロッパ』にも『世界』にも、ロマン・ロランの『阿Q正伝』に対する批評の言葉は発表されたことがない、という。雑誌『世界』は1928年創刊だから、なおさらその可能性はない。私は以前このことについて王鈞初氏におたずねして、彼がロマン・ロランの批評の言葉をのせた雑誌『世界』を見たかどうかをきいたところ、王氏の返書では、「私はほかの人がこのことを話しているのを聞いたときに、はっきりとたしかめませんでした。これは私の大変な不注意でした」ということであった。どうやら彼もまた聞いたのであって、文字の上の根拠があったのではないらしい。
 3.ロマン・ロランは『阿Q正伝』をどう評価していたか。
 この間題は伝聞が多いし、またロマン・ロランの敬隠漁にあててかいた返信の原文はないので証拠にできないから、私の考えでは、やはり敬隠漁の1926年1月24日付け、魯迅あての手紙の中の言葉がよりどころとなるだろう。これは栢生の文中に引用された全飛という人の言葉とおおむね一致している。どうやら、全飛の言葉は「全非」〔訳注:すべてまちがい、ということ、飛と非とが同じ発音なのでこう言って敬隠漁がののしった。前出〕、ではなさそうだ。この問題を明らかにするために、私は特に当時、敬隠漁といっしよにリヨンに留学していた林如?リンジョンヨク氏におたずねしてみた。去年同氏はすでに74歳の高齢で、半身不随、両眼を病んでおられたが、1976年4月20〜21日に私の問題にお答えをいただき、また同氏が亡くなられ(1976年12月10日)るすこし前に、私が同氏の返信中の言葉を引用することのご承認をいただいているので、ここにそれを引用して、この論争問題の結着をつけておくことにする。
 「ロマン・ロランの『阿Q正伝』に対する批評の言葉の問題については、私の記憶では、敬隠漁はロマン・ロランの返書を私に見せてくれました。ロマン・ロランは手紙の中で、『阿Q正伝』を『ヨーロッパ』に紹介して登載することを決めたと言っているほか、数行の短い批評の言葉を述べていました。“これは諷刺に富んだ一編の現実主義リアリズムの傑作です。阿Qの形象はいつまでも人たちの記憶の中にのこるでしよう。‥・……フランス大革命の時にも、阿Qに似た農民がいました、…・…‥…”
 敬隠漁のその時の話では、彼がすでにこのことについて短い文章をかいて上海の創造杜に送ったこと、その中で主に述べたことは、彼が『阿Q正伝』を翻訳したこと、およびロマン・ロランの手紙の中の彼の訳稿に対する批評の言葉、についてであった、ということでした。その後、敬隠漁はこの文章が掲載されないので、パリへ出てきてから私に会ったときにも不平をもらしていました。‥・…………」
 まさに魯迅が言っていたように、「このことはもうずいぶん時間がたってしまって、調べようもない」のだが、ここ一、二年来けんめいに調査した結果、すくなくともここ五十年来はっきりできなかったいくつかの問題を、特にロマン・ロランが魯迅あてに手紙をかいたかどうか、およびロマン・ロランがどのように『阿Q正伝』を論評していたか、という問題を、かなりはっきりさせることができた。


 
四、『阿Q正伝』のその他のいくつかのフランス語訳本について
 
 敬隠漁が翻訳した『阿Q正伝』は、フランス語の中ではいちばんはじめの訳本である。1926年の5月、6月に分けて『ヨーロッパ』誌に発表されたほか、さらに1929年に彼が編訳した『中国現代小説家作品選』〔訳注:
Anthologie des conteures chinois modernes, Rieder, 1929〕に収められている。ミルズはつまりこれにもとづいて、1930年に英文に転訳し、1931年にイギリスとアメリカで出版したのである。
 1953年にフランス連合出版社はポール・ジャマテイ(Paul Jamati)の翻訳した『阿Q正伝』(
“La véritable histoire de Ah Q”)を出版し、この書のはじめにクロード・ロワ(ClaudeRoy)のかいた序文(沈鵬年編の『魯迅研究資料編目』ではClaude Royを誤って訳者だとしている)をつけている。この書物の最後には馮雪峰のかいた『阿Q正伝』を論じる文章を訳載している。
 1973年、わが国の外文出版社は『阿Q正伝』のフランス語訳本を出版した。1974年に同社が出版した『魯迅短編小説集』(
“Nouvelles choisies”)があるが、その中にも『阿Q正伝』を収めている。
 1975年、フランスのパリ大学東亜出版物センターはマルチン・ヴァレットーエメリ(Martine Vallette-Hemery)の翻訳した『阿Q正伝』(
"La Veridique histoire d'AQ")を出版した。
 このほか、1975年フランスの劇団がパリでベルナール・シァルトロー(Bernard chartreux)とジァン・ジュルドイル(Jean Jourdeuil)が魯迅の小説にもとずいて改編した新劇『阿Q』を上演した。
 『阿Q正伝』のフランス語訳本が1926年に発表されてからすでに51年になるが、まさにロマン・ロランが語ったように、「これはひとつの、明らかに諷刺をもつところのリアリズムの芸術の傑作なのである」し、「阿Qの哀れな形象はいつまでも人たちの記憶の中にのこるだろう」。

                                
相 浦  杲 訳