ロマン・ロランとゲーテ 南大路 振 一


                     

 「ロマン・ロランとゲーテ」という大きなテーマをかかげましたが、私はロランの一読者にすぎません。またゲーテの専門家でもありません。本日、私がいたしますのは、ロランの評論集『道づれたち』(みすず書房版の全集第19巻に所収)の中の一章「ゲーテ」を―若干の解説を加えながら―紹介することにとどまります。
 しかしそれに先立ちまして、まず一般論として、「ロランとゲーテ」というテーマに、どういう扱い方があるかを少しばかり考えてみたいと思います。(それは本日の私の話にも関係があることであります。) それには少なくとも三つの扱い方があると言えましょう。
 1)「ロランにとってゲーテが何であったか―ロランがゲーテをどう読んだか―ロランがゲーテから何を学んだか」といった扱い方、つまり一言でいえば「ロランにおけるゲーテ」というテーマになり、これには種々の資料があるでありましょう。その二、三を挙げますと、まず、若いロランがローマに留学しました1890年頃(ロランは24才位で、ゲーテの死後、半世紀以上たっていますが、)そこで親しくつき合ったドイツの老婦人マルヴィーダ・フォン・マイゼンブークからゲーテ理解の手引きを受けています。マルヴィーダは―ご承知の方も多いと思いますが―ロランの精神的母親の役割を演じた人物でありまして、彼女は「ゲーテーとくに古典期の円熟したゲーテを尊敬するが、愛情はもてない」とする若いロランにたいしまして、ゲーテの正しい理解の道を示そうと努力します。当時のロランとマルヴィーダの往復書簡のなかに興味ぶかい問答がいくつも見られます。― 次に、ロランには『ゲーテとべ―トーヴュン』と題する著作があります。これは1927年、つまりべ―トーヴュンの死後百年を機会に書かれたものでありますが、これについては、後ほど触れたいと思います。―そして、本日私が取りあげます『ゲーテ』があります。これは1932年、ゲーテの死後百年を記念したものでありますから、ロランも66才になっており、ここには円熟したロランによるゲーテ論が期待されます。考えてみますと、あれほどドイツ文化に関心の深かったロランのことですから、そのドイツ文化をいわば代表するゲーテと、ロランとの間に緊密な精神的つながりがあったとしても、少しも不思議ではありません。要するに、「ロランとゲーテ」という一見、漠然としたテーマを、まず「ロランにおけるゲーテ」という視点から扱うことは十分に可能といえましょう。
 2)「ロランとゲーテ」というテーマの第二の扱い方として、「ロランとゲーテを結びつけるものは何か?」というのがあると思われます。つまり、今日われわれから見て、この両者が何か共通の「精神の糧」といったものをもっているか、という問題であります。どちらも全ヨーロッパ的なスケールの人物でありますから、たとえ一方はフランス人、他方はドイツ人であり、また、時代が約一世紀へだたっておりましても、これら二人のうちにヨーロッパの伝統的な文化の多くの要素がいわば共有財産として生きていることは容易に想像されます。そういう要素は多くの場合、空気や水のように無意識のうちに吸収されると思われますが、とくにロランとゲーテの場合、それぞれ自分たちが精神的に成長するうえで、きわめて重要な働きを受けた、とはっきり意識しており、しかもロランとゲーテに共通するものが少なくとも三つあります。それは第一に詩人シェイクスピアであり、第二に哲学者のスピノザであり、第三にイタリアの風土と芸術(別の見方をすれば、ルネサンスを越えてローマにまでさかのぼるイタリアの歴史)―これら三つであります。まずロランにおけるシェイクスピアの意義については、評論集『道づれたち』に収められたシェイクスピアにかんする「四つの試論」を参照することができます。そこには、少年時代から―フランス人として―あれほど親しんだコルネイユの古典劇を離れて、次第にシェイクスピアに近づいて行った過程が回想されています。そこではシェイクスピアの世界は一つの「自然」として捉えられています―「ありとあらゆる存在、悦びも悲しみも抱擁している世界、それらの一方が他方を補うような世界」であります。そしてこのような世界を創造するシェイクスピアは、みずから「幾千の人生を生きる」人間として理解されています。ロランの言葉でありますが、「彼[シェイクスピア]は、気が向けば、過去を現在にすることもできる。また現在あるものを、すでに遠い過ぎ去ったものとして見ることもできる」とあります。そして興味ぶかいことに、この個所にロラン自身の注がありまして、「ゲーテも同様」と録されております。つまりロランの眼には、ゲーテはシェイクスピアと同質の人物として映じていたわけであります。それはともかく、ここに―ごく簡単に―触れましたシェイクスピア像は、ほとんどそのままゲーテにも見出されます。その長い生涯にわたる幾つもの資料のうち、ただ一つだけ挙げますと、1771年、シュトラースプルク遊学時代の22才のゲーテによる熱烈なシェイクスピア頌があります。短い断片でありますが、ここには初めてシェイクスピアを知った時の強烈な印象が次のように述べられています、「私がシェイクスビアを読んだ最初の一ページが、すでに私を生涯彼のものにしてしまった。そして私が最初の一篇を読み終えた時、私はまるで、魔法の手によって一瞬のうちに視力を与えられた生れながらの盲人のように立っていた。」つまり若いゲーテには、一つの新しい世界が開けたわけであります。それは一つの啓示でありました。彼はシェイクスピアによって自分の存在が無限に拡がるのを感じます。これはあの「規則正しく出来ている」―つまり三一致の規則がきびしく守られたフランス古典劇からは得られなかった体験でありました。シェイクスピアはこの点でギリシアのホメロス、ソフォクレス等と並ぶ詩人となります。シェイクスピアがわれわれを案内してゆく世界は一つの全き・・世界であり、そこでは、われわれが善とよび、悪とよぶものが有機的に、一つの楯の両面をなしています。また、多種多様な人物を自由自在に創造するシェイクスピアは、あのギリシア神話のプロメテウスにたとえられます。そしてこれらの人物は、まったくの「自然」であるとされます。「自然!自然!シェイクスピアのつくる人間ほど自然なものはない。」―歴史的には、この青年ゲーテによるシェイクスピア頌は、18世紀のドイツが、それまで支配的であったフランス古典劇から次第に離れて、イギリスのシェイクスピアへ近づく過程での一里塚でありますが、そういった歴史的背景は別にしまして、ここに示されたシェイクスピア像は、さきのロランによるシェイクスピア像と多くの本質的な点で―致しています。(なお、劇作家としてのゲーテとロランがそれぞれシェイクスピアからどのような技法を学んだか、彼らの劇作品のなかにどのようなシェイクスピア的要素がみられるか、といった問題もそれとして興味ぶかいものがあります。)
 さて、ロランとゲーテを結ぶ第二のものとしての、17世紀の哲学者スピノザでありますが、これはロランにあっては『内面の旅路』の中の一章「三つの閃光」に、16才から18才の若いロランとスピノザのめぐり合いが回想されています。一方、ゲーテについてみますと、彼は―ちょうどシェイクスピア体験と同じように―その長い生涯にわたってスピノザと取り組んでいます。私にはスピノザの哲学をくわしく解説することは不可能でありますが、「神」の考え方、「自然」の考え方、「神と自然の関係」についての考え方(たとえば、「神を自然のなかに観、また自然のなかに神を観る」―いわゆる汎神論、パンセイズム―で、ロランとゲーテがそれぞれスピノザから多くのものを得たことだけは一つの事実として指摘できます。ことにゲーテの場合、彼は自然科学者でもありましたために、彼の「自然」の考え方にスピノザがどのように影響したか、という重要な間額があります。これに関連して晩年のゲーテは、自分にとって最も重要な役割を演じた人物として再三スピノザの名前を挙げております。しかも興味ぶかいことに、その場合、いつもシェイクスピアの名前が同時に出て来ます。つまりスピノザとシェイクスビアはゲーテの長い生涯にわたっての「道づれ」であった訳です。一方、ロランの場合、シェイクスピアはともかくとして、スピノザが生涯の「道づれ」であったと言えるかどうか、私にはわかりませんが、ともかく「ロランとゲーテを結ぶもの」としてシェイクスピアとスピノザを考え、この視点からロランとゲーテを比較することは可能だと言えるでしょう。
 3)さて、ロランとゲーテを結ぶ第三のものとして、両者のイタリア体験があるわけですが、まずロランの場合、青年時代のローマ留学が、人間として、作家としての将来にどれほどの意味をもったかは、今さら言うまでもないと思います。『ジャン・クリストフ』の着想が永遠の都ローマでえられたことは、よく知られています。当時のロランの生涯を伝える資料として回想録『ローマの春』のほかに、母親宛てのおびただしい手紙があります。一方、ゲーテのイタリア体験は、1786年から88年のことで、ロランより百年ちかく前になり、ゲーテはすでに37才から39才、その身分もウイマル公国の大臣でありました。しかしこのイタリア体験が芸術家として、また人間としてのゲーテに決定的な意味をもった点では、ロランの場合と同じであります。但しゲーテの場合には、そのイタリア体験は彼一個人の問題にとどまることなく、やがてドイツ古典主義、或はワイマル古典主義の成立という歴史的な出来事として実を結びます。またゲーテの場合には、イタリア旅行が自然科学者(とくに生物学者)としての彼に重要な意味をもったことも忘れてはなりません。こういった相違をも念頭においた上で、「ロランとゲーテのイタリア体験」というテーマを追究しますと、いろいろ興味ぶかい事実が明らかになるのではないか、という予感がいたします。
 最後に、「ロランとゲーテ」という大きなテーマを扱う第三の仕方として、これら二人が現在のわれわれにどのような意義をもつか、というのがあると思います。これも大変漠然とした問題提起のようで、おそらくその答えも人によって様々でしょうが、われわれ人間存在の基本的なすがたを、(或る根源的なものの)絶えざる「発展」として把える態度―ゲーテの場合、これが動物や植物についての「変態」(メタモルフォーゼ)の根本思想になり、一方、ロランの場合、「生」はしばしば「大河」によって象徴されますが―このような動的、ダイナミックなものの見方はゲーテとロランに共通しており、われわれのものの考え方に貴重な示唆を与えてくれます。そしてこういった問題につきましても、本日これから取り上げますロランによるゲーテ論から多くのことを学べるのではないかと思います。
 さてこのゲーテ論は―先程も申しましたように、1932年、ゲーテの死後百年を記念して雑誌「ヨーロッパ」に寄稿されました。ロランは66才であります。全体で25べ―ジほどのもので、序と四つの章からなっています。ロラン一流の詩的な、暗示的な文体で書かれ、必ずしもわかりやすいとは申せません。しかし、少し注意ぶかく読みますと、各章が一つの主要テーマをもち、しかも全体として有機的な構成をなしていることに気づきます。

                   
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 まず序でロランは、「ゲーテのような人物を一定の枠にはめ込んで、ゲーテはこれこれ・・・・しかじか・・・・の人間であった、というように規定することはおよそ不可能である」、したがってわれわれはゲーテについて、まるで正反対の論を立てることができる、と強調します。つまりゲーテのような人物は本質的に「無際限」「無限定」である、というのであります。ロランはこのことを「大河」(fleuve)の比喩を用いて説明します。いかにもロランにふさわしいことであります。ロランは、ゲーテと親交のあった或る人物のことばを引用して、「どの党派もゲーテを自分の味方だと思っていたが、ゲーテはどの党派にもついていなかった。彼はあらゆる方向をとった。そして非常に多様な、がく然とするような姿に変形するのだった…」と述べています。そしてゲーテ自身、自分の本性がこのように無際限であり、無限定であることをよく意識していました。これについてロランは、1813年(ゲーテが64才の時)、友人で哲学者のフリードリヒ・ハインリヒ・ヤコービに宛てた手紙を引用します、「私の本性の多様な傾向をもってしては、私は一つの考え方で満足することはできない。[中略] 天地の事物はひじょうに広大な世界をなしているので、それを把握・抱擁することは、すべての存在のすべての器官が集まって始めて可能であろう。」実はこの手紙は晩年のゲーテのスピノザ研究に関係したものであります。ヤコービはみずから哲学者としてスピノザをふかく研究し、若いゲーテを手引きした人物でありましたが、ゲーテは1813年頃のスピノザ研究では、ヤコービと意見を異にします。それは、ヤコービがスピノザを結局は無神論者とみた―実はこれが18世紀の後半にいたるまで世間一般のスピノザ像であったのですが、ゲーテはこれに賛成できなかった訳です。いま問題の手紙はこの両者の論争に関係するものですが、上述のとおり、ロランによる引用には[中略]があります。本来そこには次のような注目すべきゲーテのことばがみられます、「詩人・芸術家としては私は多神教徒(Polytheist)であり、これに反し、自然研究家としては汎神論者(Pantheist[つまりスピノザ主義者])である。そしてそのいずれについても決定的である。ところが、私が倫理的人間として、私の人格のために、ただ一つの・・・神を必要とする場合には、それはそれでうまく行くようになっている」―つまり、伝統的なキリスト教の世界に困難なく入れる、というわけです。こういう文言がロランによる引用の[中略]の部分にあって、そして上述の、「天地の事物はひじょうに広大な世界をなしているので云々」と続きます。全体としていかにもゲーテらしい言葉だと思います。
 ところでこの一節を注意ぶかく読むと面白いことに気づきます。と言いますのは、ゲーテは「私の本性の多様な傾向をもってしては云々」というふうに自分の・・・本性について語っているうちに、いっのまにか、天地の・・・事物が構成する広大な世界」のことに移っています。つまり、これら二つは同一視されているわけです。言いかえれば、ゲーテ自身、自分をそのまま一つの「自然」として意識していたことになります。われわれは「自然」にたいして、何か一つの特定の目的・目標を外部から押しつけることはできません。このように考えますと、ロランが同じ個所で引用する、1830年(ゲーテが死ぬ二年前、彼はすでに81才ですが)の手紙の意味がよくわかります。―「自然や芸術は目的をもつのにはあまりに大きい。またその必要もない。なぜなら一切が結ばれており、そしてこの連鎖、それが生(命)なのだから。」(ゲーテの原文はやや異なって、「いたるところに関連があり、そして関連が生(命)なのだから」とあります。
 ロランはゲーテをこのような一つの大きな自然として捉えようとします。つまり、ゲーテ即ち大自然を測ることはできない、それを試みることは無益である、しかし「彼ゲーテ即ち大自然に自分が何を負うているか、また自分が彼ら―ゲーテと大自然―から何を飲んだか[ここでも「大河」の比喩が生きています]を語ることはできる」―これがロランによるゲーテ論の序のむすびの言葉であります。

                    
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 第1章へ入りますと、まずもう一度、ゲーテと自然との類似性、同一性(identité)のことが述べられ、ゲーテのことば―「私が自然について語ったのではない、真実も誤りも、すべては自然が(私のなかで)語ったのだ云々」が引用されます。ところでこれの出典は、『自然』と題する一つの断片ですが、このロランのゲーテ論に何回か出て来ますので、ひと言これについてお話しておきます。
 これは1782年か83年、ゲーテが33か34才の時に書いたと言われる熱烈な自然賛歌で、一種の散文詩であります。ここにいう「自然」は―われわれ人間もそれに包まれ、そしてその一部をなしているのですが―とくに、時々刻々、新しい事物を産む自然です。このゲーテ論のさいごの第4章に、「自祭は永久に新しい形態を創る。現在あるものは未だかつてなかった。かつてあったものは再びもどらない云々」という一句が引用されていますが、これもこの断片から採られたものです。
 ところで「産む自然」という観念、概念ですが、これはヨーロッパの伝統的な、自然の分類法によっています。簡単にいいますと、自然は「産み出す自然」と「産み出された自然」の二つに大別されます。つまり自然をその創造行為の面からみる場合と、その創造行為の結果・所産の面からみる場合の区別で、前者は「能動的自然」(ラテン語でnatura naturans)、後者は「所産的自然」(ラテン語で natura naturata)と呼ばれます。前者、「能動的自然」という語はこのゲーテ論の第1章の結びに出てきます。それは戯曲『ファウスト』第l部、第1幕の終りで主人公ファウストがギリシアの美女ヘレナを探し求めて、いわゆる「母たち」のところへ赴く個所にふれたもので、ロランはこの神秘的な「母たち」を能動的自然、natura naturans とみなしています。つまり「母たち」の胎内には、あらゆる存在の形態すがた(原型)が漂っています。「母たち」はその胎内から不断に事物を産み出します。いま問題の『自然』と題する断片は、このような産む、能動的な自然を熱烈に賛美したものであります。
 ところで、このような自然の分類は、しばしば偉大な芸術家とその作品にも適用されます。いまわれわれがシェイクスビアを一つの「自然」にたとえた場合(このことをロランもゲーテもやったわけですが)、「その作品全体、或はその中の人物がまったく一つの自然のようだ」という意味なら、その場合の自然は「産み出された、所産的な自然」に相当するでしょう。しかし一方で、シェイクスピアのすばらしい創造の営みそのものが、まさに自然の生産行為を思わせる、とわれわれが言った場合の自然は、「能動的自然」に相当します。先程いいましたように、偉大な芸術家とその作品はしばしば「自然」にたとえられますが、それは以上のような二重の意味においてであります。ヨーロッパ文学では、その例はまずホメロスにみられますが、シェイクスピアもその一例であり、さらにロランにとっては問題のゲーテも亦そうであります。
 ここでもう一度、問題の断片『自然』に帰ります。先程私は、これは「1782年か83年、ゲーテが33才か34才の時に書いたと言われる・・・・」と申しましたが、実は、この断片はゲーテ自身の手になるものではなく、当時の或る友人が書いたものだ、という説があります。ロランは触れていないことでありますが、事情は次のようであります。つまり、ずっと後年(半世紀ちかくたって)、1828年―ゲーテはもう80才になろうとしていますが―彼はこの断片を人から見せられたところ、「自分が書いたかどうか記憶がさだかでない」、「しかし、内容はあの当時、つまり1780年代の自分の自然観[それは一種の汎神論、スピノザ主義への傾向をもっものですが]とよく一致している」という意味の告白をしました。それは1828年の或る手紙で述べていることですが、ゲーテはさらにこの手紙の中で、この・・『自然』と層する断片について重要な注釈を加えています。そしてその部分をロランは―ゲーテ論の第3章においてですが―引用しています。すなわちゲーテは、「1780年代の『自然』と題する断片で述べられた自然観には、まだ欠けているものがある」とします。つまりそれ以後ゲーテの自然観はさらに充実したわけです。そして「欠けているもの」というのが―彼自身のことばで言えば―「自然の二つの偉大な動輪(Triebrad)」、ロランの引用するフランス訳では、「動輪」ではなく「発条」(ressort)となっていますが、意味するところは共に原動力・・・であります。別のことばで言えば、「自然の営みの根本原理」にもなりましょう。これに二つあり、これらをゲーテは青年時代の1780年以後に認識したというわけで、それは第一に「分極性」(双極性、ロランもドイツ語の原語をあげていますが Polarität)、そして第二に「上昇」(高昇、やはり原語でSteigerung、ロランにあってはprogression、つまり「進行」「前進」となっています。ややニュアンスがちがうように思います。)この二つの基本概念はゲーテを理解する上に、きわめて重要であり、ロランもこれに注目するわけです。「分極性」、Polarität―これはゲーテにあっては、「絶えざる引力と斥力」として把握されていますが、卑近な例でいえば、磁石の北極(N)南極(S)、電気のプラスとマイナス、潮の満干、動物の呼吸作用、心肺の収縮と拡張などが考えられます。(またやや次元はちがいますが、男性と女性、光と闇なども加えることが出来るでしょう。)これらはすべて、一つの・・・実質の二つの・・・面、二つの・・・現われ方であって、相互に不可分の関係にあります。もう一つの「上昇」または「進行」、Steigerungは、低い存在から高い存在に向かっての絶えざる運動を意味します。しかも単純な、一直線をなす上昇ではなく、一見同じような現象をくり返しながら、しかも上昇してゆく―つまり比喩的にいえばラセン形をなしての上昇であります。ロランもとくにこのことに注意を促しています。)ともかく晩年のゲーテにあっては、この二つ―「分極性」と「上昇」―が自然活動の二大原理として考えられているわけです。
 ところで人間もまた自然の一部でありますから、人間の精神的・肉体的いとなみにもこの原理はあてはまると考えられます。その限りにおいて人間は「大宇宙」(マクロコスモス)の中の「小宇宙」(ミクロコスモス)であります。これを説明するためロランは晩年のゲーテの箴言、「自然の核心は人間の心のなかにあるのではないか?」を引用しています。
 ところでロランは、さらに進んで、ゲーテの作品(詩、小説、劇)をも、このような動的な原理に支配された一つの自然、つまり「小宇宙」とみなしています。たとえば「彼の詩のなかで…大地の息吹きと、もろもろの元素の力(エネルギー)とを私たちは呼吸する」、また、「ただ一日の愛や過失の、苦悩と悔恨のために世界全体が、宇宙(コスモス)が打ちふるえる」といった印象ぶかい言葉がそれであります。
 要するに、ゲーテの作品はこういった意味でも「自然」なのであります。したがって、そのような作品には、日常的な意味での、また狭い、たんに審美的な意味での調和・均斉とか、或は完成とかを欠く場合があります。ロランはこれについて、ゲーテの戯曲『タッソー』、『ファウスト』、また小説の『ヴィルヘルム.マイスター』などを列挙しまして、「ほとんどどの作品も、悲壮な、調和への意志によって支えられているが、ほとんど常に、解決をみないで、砕けて、過渡的な美しい、残忍な不協和音にとどまっている」と言っていますが、これは一つのすぐれた批評だと思います。たしかにゲーテの作品を、通常の意味での「技巧」、「技法」の完成度という尺度で測ると、必ずしも高い評点を与えられない場合が少なくありません。劇作についていえば、この点、親友のシラーのほうがだいぶ上ではないかと思います。しかしゲーテの作品の魅力は、たんなる技巧を超越して、「生」そのもの、「自然」そのものを現わしているところにあります。「彼の芸術の内部には、始源的・根源的な力(1a force élémentaire)がひそんでいる」とロランは述べていますが、この「力」がわれわれを魅惑するのだと思います。そして私は、以上のことはロラン自身の多くの作品にもあてはまるのではないか、と思います。
 ところで、このような「自然」或は「生」の始源的・根源的な働きを捉えるのには、まず自然のありのままの姿を正確に―自分の主観を捨てて―観察し、考察することから始めなければなりません。それが徹底したリアリストとしてのゲーテの仕事であります。最晩年(1827年)のゲーテが秘書のエツカーマンに述懐した言葉をロランは引用します。(ロランのフランス文は原文とはややズレていますが)「私は詩的な目的―つまり作詩の目的―のために自然を観照したことは決してない。しかし私が初めにやっていた自然(風景)のスケッチと、それにつづく私の自然研究とは、自然のもろもろの事物を絶えず、正確に観察するように私を促した。こうして私は徐々に自然を暗記した―その細部の細部にいたるまで。そこで私が詩人として一筆必要な場合には、自然が私の命ずるがままに来るようになった。それで私が直理(真実)にたいして罪を犯すことは容易にない。」
 ところがロランによりますと、ゲーテにあっては、「この忍耐づよい、熱心な客親主義」―つまり客観重視の態度(objectivisme)に、「それと両極端をなす創造的精神(l'ésprit createur)」がつけ加わります。われわれはここにも―前述の―一分極性Polaritätの一例を認めてよいかも知れません。またこの「創造的精神」は―やはり前述の―「能働的自然」(natura naturans)がゲーテに宿ったものと考えて差支えないと思いますが、ロランはこれらの両極―客観主義と創造的精神―が一体となって働く状態を、インドの芸術家について伝えられる精神状態に他ならない、としています。そこでは、「対象(objet)のなかに主観(主体subjet)が神秘的に吸収されて、相互的に、objetがsubjetになる」ような同化(Identité)の状態が実現するわけです。さきにも引用されたゲーテの言葉ですが、「自分が自然について語るのではなく、自分のなかで自然が語る」という状態がこれに相当するのだと考えられます。

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 以上、ロランのゲーテ論の第1章のほかに第3章にも触れているうちに、だいぶ時間がたちましたが、これでゲーテ論の全体のなかに、かなり深く入ったのではないかと思います。
 第2章は、みずから「一つの産み出す自然」、「能働的自然」であるゲーテ自身、このような状態が同時にまたいかに危険なものであるかをよく自覚していたこと―それを主として述べています。それは比喩を用いるなら、「一つの火薬箱」を内部に秘めている状牌であり、しかも「火の鍵」をゲーテはいつも自分の手に握っていたことになります。(これらの比喩はおそらく―前述の―『ファウスト』T部、第1幕の終りから採られたのだと思います。)80才を越えたゲーテが食卓で秘書のエッカーマンにふと・・洩らした言葉―「もし私がなんの束縛もなしに振舞ったとしたら、私次第で、自分も、自分の周囲のものも、徹底的に破滅におとし入れることだろう。」そして、ここから、ゲーテにとって自制・克己がいかに大切であったかが分かります。ゲーテみずから、「第一に大切なことは、自制・克己を学ぶことだ」と述べています。これに関連してロランは、古典期のゲーテ、さらに晩年のゲーテが東方(オリエント)にたいし、また彼からいえば次の世代にあたるロマン派の詩人たちにたいし、警戒心、嫌悪の情、或は敵意をもったことに言及します。ロランはいくつかゲーテのことばを引用していますが、これについて若干の注釈が必要かと思います。たしかにロランのいうとおり、東方(オリエント)ないしインド、それにロマン派は、「ゲーテ自身が知り抜いている深淵―彼が苦しい努力の未、やっと抜け出たその・・深淵へふたたび彼をひきずり込むものであった」と言えます。それは要するに、「無形式」(formlos)の世界、或は混沌とした世界(Chaos)、つかみどころのない無気味な世界―多少比喩的な表現をすれば、音楽的な・・・世界といってよいかも知れません。これに対し、ゲーテがきびしい自己克服によって到達しようとした世界は、古代ギリシアを理想とする、明快な形式の支配する世界、節度と調和の世界―やはり比喩的な表現をすれば、彫塑的な世界ということになるでしょう。青年時代(いわゆるSturm und Drangの時期)から壮年時代(古典期)へとゲーテの歩んだ道―その途上に、あのイタリア体験があるのですが、この道はまさに「形式のない世界から」「形式の支配する世界」への道だったと言えます。これに対して、東方(オリエント)、インド、ロマン主義、それにゲーテが晩年に接したあのべ―トーヴェンのデモーニッシュな音楽は、彼にとっては、一つの逆もどりを意味した、と言えます。そこに晩年のゲーテの恐怖があった―これがロランの解釈です。ロランの著書『ゲーテとべ―トーヴェン』については最初に触れましたが、これは以上のような解釈にもとづいて、ドイツ最大の詩人が、20才年下の、ドイツ最大の音楽家の強烈な魔力にたいし、必死に抵抗するさまを興味ぶかく叙述したものであります。
 しかしインドはともかく、東方(オリエント)につきましては、ロランの引用するゲーテの激しいことば、「私は本来、すべてオリエント的なものを憎む」が1804年に由来することに注意を要します。といいますのは、それから十年ばかりたちますと、昔のペルシアの詩人たちの素晴らしい詩がドイツ語に訳され、ゲーテはすっかりそのとりこになり、自分でもこれらの詩を思わせる詩を次々に書きます。それが『西東詩集』と呼ばれるもので、そのうちの傑作の一つから、実は、このゲーテ論の中心テーマである「死して、成れ」の一句が採られています。これについては後程さらに触れることにして、いまはゲーテ論の第2章に帰りますが、ゲーテの自制・克己は、自分との激しい闘いを意味しました。一方で、あるがままの自己を主張しようとする欲求が強いだけに、この闘いは非常な苦しみを伴いました。それを告白するゲーテのことばをロランはいくつも引用していますが、とくに印象ぶかいのは次のようなものです―「鎚(ハンマー)になることは、誰にとっても、鍛床(かなしき)になることよりも名誉なこと、願わしいことに思えるが、しかしはてしなくくり返される打撃をじっと堪え忍ぶのには、いかに多くの力が必要であることか。」ロランはこれについて、「本来、鎚になるようにできた人間が、鍛床になることを学ぶ。そして打撃を加えることよりも、打撃を受けることが百倍も力を要することを認めて、みずからを慰めている」と理解しています。
 ところでロランはこの個所に注を付して、この「鍛床」はゲーテ自身のいう「性格の絶対的なもの」と同一視しています。さりげない注ですが、これは重要だと思います。といいますのは、「性格」(caractère、Charakter)は元来「刻印」を意味するギリシア語で、ここから「特性」という意味も出てきます。いまもし「刻印」するものが、運命とか神とかであると考えますと、「性格」という語はいっそう深い意味をおびて来ます。とにかくそれは、われわれ個人、個人が生れながらもつ「基本的なもの」、「根源的なもの」であり、外的な力によっては、容易に変化させられたり、破壊されたりはしないものであり、とくにゲーテにあっては重要な概念であります。(たとえば、性格は才能タレントや知識とは別にあって、むしろそれらを生かすもの、とされます。)そしてわれわれはここで、ロラン自身が、まさにこのような深い意味での「性格の人」であったことを思い出してよいでしょう。あの老マルヴィーダが20才代のロランについて、すでにその将来をはっきり予言しえたのは、彼ロランがまさに、ここにいう意味での「性格の人」であったからだと思います。
 ところでロランは、このゲーテの苦しみを多くの人びとは知らない、と言っています。そして75才の老ゲーテの次のような告白をあつい共感をもって引用します―「人びとはいつも私を幸福の特権者とみなした。そして私自身も苦情をいったり、自分の生涯についてとかく言うつもりはない。しかし私の生涯は結局のところ労苦と仕事以外の何ものでもなかった。私ははっきり言えるが、75年のうちで本当に安楽な四週間ももたなかった…」
 さらにゲーテのことばとして、「絶望することのない者は、生きる資格がないのだ。」また、「すべての慰めはいゃしい。ただ絶望だけが義務である。」この「雄々しいペシミズム」(ロラン)―ここにわれわれはロラン自身の、あの独得のへロイズムを感じとってよいかと思われます。
 しかし一方、ゲーテはあくまで勇気を失いはしませんでした。彼にとって勇気は第一の美徳でした。ロランは述べています。「勇気にかけてゲーテは決して不足しなかった。彼の死の二年前に、ある大きな悲しみの日[ロランの原文では「翌日」(au lendemain)とありますが、これは何かの間違いです。くわしくは、大公妃ルイーゼの亡くなった1830年2月14日の当日]に、81才になるこの老人は立ち上って言った、《私たちが光りをもっている限り、私たちはこうべをあげているだろう。そして私たちはまだ制作、創造しうる限り、屈することは不可能だ》」と。―われわれはここにも晩年のロラン自身の心境を感じとってよいかも知れません。
 さて、こうして自己を抑制し、克服しようとするゲーテは多くの誤解(たとえば、無情・冷淡・エゴイストといった人びとの批評一実は、20才のロランも老ゲーテをこのように見たわけですが)受けつつも、みずから鎧で身を固めて自分を守りました。それは結局、何のためであったのか?―それは「より高い自己形成」、「自己完成」のためでありました。ここでロランのゲーテ論は次の第3章に入ります。


                    
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 第3章に入りますと、いま述べた「自己形成」、「自己完成」がゲーテ自身によって「自己の存在のピラミッド建設」というふうに形容されていることが分かります。これは83年にわたるゲーテの全活動を集約する見事な比喩でありますが、彼ゲーテがこれを口にしたのは、1780年、31才の時で、これはワイマルで政治家、行政官としても多面的な活動れ始めて間もない時期にあたります。すなわち或る友人にあてて、「私の存在のピラミッド―その基礎はすでに私には定められ、据えられているのだが―この存在のピラミッドをできる限り高く空中にそびえさせようという欲求が、他の一切のものを圧倒し、ほとんど片時も忘れることを許さない‥.」と書きました。(このピラミッドの代りに、私たちは、天空に無限に伸びゆく尖塔をもつ壮大なゴシック様式の教会を考えてもよいでしよう。ゴシックは若いゲーテとその世代がとくに好んだ建築様式です。)ロランはゲーテが文字どおり一切の体験をこのピラミッド建設のための石材に利用したことを美しく叙述しています。こうして詩人・著述家・政治家・劇作家・宮廷人・自然科学者・行政官・教育者である一人の人間―「人間のなかの人間」が形成されるわけです。このゲーテをロランは「人生の建築師」とも形容しています。しかしここで注目すべきことには、ロランはこの建築のいとなみは、ゲーテという一個人の自由意志から発しているのではなく、ゲーテ自身がその一部分であるところの、「自然」のいとなみである、と指摘しています。ゲーテという存在と「自然」との間には深い近親関係があるわけで、これは先にもくり返し述べたとおりです。「自然」という大宇宙と、ゲーテという小宇宙の照応関係に他なりません。
 ところで、この「存在のピラミッド」に完成というものがあるか、というと、答えは「否」です。「存在のピラミッド」を一段、一段高めてゆく―つまり前に述べた「上昇」(自然のいとなみの第二の基本原理!)の仕事は果てしなく続きます。(ちなみにロランは、その永遠に高めてゆく力―上方への引力は、『ファウスト』の、例の「永遠に女性的なもの」つまり「愛」であるという、ひじょうに興味ぶかい解釈を暗示しています。)完成を目指す努力は無限につづきます。しかし一方、われわれの人生は有限であります。したがって、この現世では「存在のピラミッド建設の仕事は終わりません。そしてこのことからゲーテの不死の信仰が生れます。つまり人間は、現世での死とともに、姿を変えて、さらに仕事をつづけるというゲーテの確信がそれです。われわれはここで、すでにゲーテ論の最後の第4章に入りますが、そこには80才のゲーテが秘書のエッカーマンに語った有名なことばが引用されています―「もし私が私の最後まで休むことなく活動して、現在の生存形態が私の精神にとって十分でなくなれば、自然は別の生存形態を私に与えてくれる義務がある。」不死、死後の存続の信仰の根拠は宗教と哲学がいろいろ与えてくれますが、ゲーテは「活動」(Tätigkeit, activité)という、いかにも彼らしい概念から不死を確信するわけです。


                  
Y

 さて、この第4章はロランのゲーテ論のしめくくりとして特に重要であります。ここでは、「死して、成れ!」という、ロランにとってはゲーテのいわばエッセンスが、さまざまの角度から論じられます。そしてそれは、同時に、ロラン自身のことを語っている、とも言えます。すなわち、ロランのいうとおり、「ゲーテの作品と生涯が示す思想の広大な野のなかから、各自が自己の本質に似かよったものをとる」のであり、そしてロランの告白するところでは、この「死して、成れ!」という根本思想は、「たとえそれが[ゲーテの]唯一の炉ではないにしても、ロランの生命はいくたびとなく、そこでおのが焔を養った」からであります。
 この「死して、成れ!」という一句を含む詩は、さきに―ゲーテと東方(オリエント)との関係について触れた際に―名前をあげました『西東詩集』に含まれています。1814年頃、古いペルシアの詩が独訳され、これが老ゲーテの詩心をあらたにかき立てることになった、と申しましたが、その場合とくに重要な詩人は11世紀のハーフイスであります。ゲーテはこのペルシアの大詩人の生涯と自分の生涯との間にいくつもの類似点を見出して驚いたようです。たとえば宮廷詩人ハーフイスは蒙古のチムールの侵入による動乱を体験しますが、これはゲーテにおけるナポレオン戦争に相当するというわけです。ゲーテは古いペルシアの詩に似合うものをドイツの宮廷詩人として創造してみようという気になりました。そこへ老ゲーテの新しい恋愛体験が加わったことも重要です。ところでペルシア語で詩集のことをDivanと呼びます。ゲーテはこれに「西と東の」という形容詞を付して、自分の新しい詩集を「西と東のDivan」と呼びました。つまり『西東詩集』です。全体で12巻からなりますが、詩想の新しさと深さ、表現の美しさにおいてゲーテの詩業の最高傑作とみられます。その第1巻(「歌人の巻」)の結びの詩は「浄福なあこがれ」(Selige Sehnsucht)と題され、これが間額の詩であります。『西東詩集』のなかでも最上のものとされています。神秘的な詩でいろいろの解釈が可能ですが、その内容をごく簡単に申しますと―
  一匹の蝶(或は蛾)がローソクの光(焔)に恋い憧れて、否応なしにひきつ
  けられ、その光(焔)のなかに飛び込んで身を焼きこがす
ことを歌っています。ローソクの光(焔)は、より高い存在を象徴し、身を焼きこがすというのは、現在ある自分を放棄、否定してより高い存在と合一する行為をあらわす、と考えられます。これが「死して、成れ!」の深い英知ですが、このような真理は一般の群集には無縁であり、その嘲笑を受けるだけであるから、ただ少数の賢者にだけ打ち明けるがよい―このように老ゲーテは説きます。実はこの詩の素材になるものが、前述のペルシアの詩人たちの作品や、他のたとえ話にもありまして、すべてがゲーテの創案ではないとされています。ゲーテは自分自身の体験にもとづいて、これらの素材を鋳なおしたと言うべきでしょう。もともと、事物が絶えず姿を変えて新しい事物になる、というのがゲーテにとって「自然」の―また「生」の本来のあり方でありました。この考え方は、ゲーテにあっては、植物や動物の形態学(モルフォロギー)的研究によっていよいよ確かなものになりました。さきにも少し触れましたが、いわゆる「変態」、「変形」(メタモルフォーゼ)の思想です。いまわれわれにとって興味ぶかいのは、ロランがこの詩の根本テーマ「死して、成れ!」を社会現象にもあてはめ、ここから、フランス革命に始まり、ナポレオンを戦争を経て、ドイツ統一運動が激しくなるまでの期間―それは大休1790年から1820年までの約30年間ということになりますが、この期間にゲーテがみせた政治的姿勢を解釈していることです。ここにはゲーテ自身のことばが数多く引用されています。元来、18世紀のドイツの政治的・社会的状況は、イギリスやフランスといった先進国にくらべ著しく封建的で、大小無数の専制君主が支配をほしいままにしていました。それでドイツの知識人たちの多くが、ライン河の彼方の革命運動にたいし、最初はひじょうな感激をみせます。それはあの「自由・平等・友愛」のスローガンを思い起こせば十分に理解できることです。しかしゲーテははじめから冷静でした。「革命は悪しきものと同じ位、よきものを破壊する」という意味のことばがロランによっても引用されています。そしてフランス革命がさまざまの残酷な様相を呈してきた時の、ゲーテの嫌悪はいうまでもありません。やがてナポレオン戦争が終わると、ウィーンのメッテルニヒが指導する反動体制がヨーロッパ全体を支配します。この中にあってドイツの知識人たち―とくに、ナポレオン戦争で祖国のために勇敢に戦った学生たちが活発なドイツ統一運動を起こします。これはそれまでの大小の封建君主たちを支える古い体制を打破することを意味しますから、この統一運動にはきびしい弾圧が加えられます。―こういう事態の中で人びとの眼はワイマルのゲーテに注がれるわけです。しかしゲーテは保守的な態度をくずしません。ゲーテにたいする失望とともに、当然、彼にたいする攻撃が起こります。反動主義者、祖国への裏切り者、エゴイストなどのレッテルが彼にはられます。これにたいしゲーテが周囲の人びとに向かって自分の立場を弁明した多くの例があるのですが、それをロランがいくつも引用しています。
 ゲーテは―さきに何度も述べましたような自然観をもっていますから―社会もまた、一つの「自然」として、時と共に変ってゆくべきものと考えていました。しかしゲーテはあくまでリアリストであり、とくに、ドイツの発展過程はフランスのそれと必ずしも一致しないことを冷静に見抜いていました。フランスで必然的であるものは、そのままドイツでも必然的であるとは限らない、それを無視してフランスでの革命をそのままドイツで真似ることをゲーテは承認できなかった、というわけです。ロランはこのことを20世紀の現実に結びつけて強調します。これに関連した1824年1月4日の・エッカーマンとの長い対話をもロランは―いくつもに分解して―引用しております。(なおロランはそこで、ゲーテ自身の認識はすでに狭苦しいnationalなものをはるかに越えて、internationalなものに到達していたことを指摘しています。味わうべき言葉だと思います。)さらに1813年の、ハインリヒ・ルーデンによる長い報告も引用されています。これも有名なものであります。ルーデンは当時イエナ大学の若い、哲学と歴史学の教授でしたが、ドイツ統一運動には関心の深かった人物で、彼は或る政治的な雑誌の発行を計画し、そのために、ワイマル政府の実力者であるゲーテの庇護と協力を求めました。ゲーテはこれを拒絶するのですが、その機会に、ドイツ民族の現状と将来についてゲーテは自分の考えを切々と説きます。要するに、「ドイツ民族の前途はきわめて有望である。しかし現状ではドイツの民衆の国民としての・・・・・・自覚はまだまだ十分とは言えない。そこで将来にそなえて、まず地道に準備をすることが大切だ。それは何よりも教育の普及・・・・・にある」といった趣旨です。ゲーテはこういった認識に立っが故に、現実の政治問題・外交問題には、あえて沈黙を守った、また守らざるをえなかった、それは―ルーデンの言葉ですが―「人間と事物を彼ゲーテが正確に知っていたために、彼がとらざるをえなかった悲痛な諦めに他ならなかった」というわけです。ゲーテのこのような本当の姿を知った青年ルーデンはひじょうに感激し、別れる時には目に涙をいっぱい浮かべていた、といいます。
 一般にゲーテの政治思想といったものは簡単に要約できません。ましてや、現実に生きる政治家としての彼の言動をすべて矛盾なく説明することは不可能に近いでしょう。フランス革命にあれほど関心の深かったロランのことですから、おそらく「ゲーテとフランス革命」という問題には、人一倍、興味をもっていたのではないかと思われますが、このロランは、「革命のように重大な種々の政治問題に関して、一見したところ彼[ゲーテ]の意見が変わる」ことがあるのをよく知っています。ゲーテのいくつかの発言は、革命を恐れず、これをも肯定するかに見えます。ロランはそれらの発言も引用しています。
 結論としてロランは、ゲーテの真理愛が彼の言動のより深い根底にひそんでいると理解します。真理、真実。これだけはゲーテにとって絶対であった、とみるわけです。「私[ゲーテ]は有益な誤謬よりも、むしろ有害な真理をえらぶ。」また、「有害な真理もまた有益である。なんとなれば、それは一瞬間しか害を及ぼすことがなく、むしろ常に有益―しかも非常に有益になるにちがいないような他の真理に通ずるからである。逆に、有益な誤謬は有害である。なんとなればこれは一瞬間しか益することがなくて、ますます有害になるような他の誤謬に誘い込むからである」といった引用があります。ゲーテは―ロランが指摘するとおり―同じ趣旨のことばを生涯、何回もくり返しますが、これらの言葉は、他ならぬロラン自身にいかにも相応しいものだと思います。ロランは省略していますが、いま最後に引用した言葉のすぐ前のところで、ゲーテは次のように断言しています―「真なるもの以外に偉大なものはない。そして最も小さい真なるものでも、それは偉大である。これもロラン自身のことばとして少しも不自然ではありません。さらにロランはゲーテについて、「けっして嘘を言わなかった文学者」という性格づけをしていますが、これこそまさにロラン自身についてあてはまる言葉でありましょう。ロランがゲーテにひきつけられた理由の一つは、このあたりにあったのかも知れません。
 しかしロランは、「真理はつねに前方に、来たるべきものの中にあり、けっして死んだものの中にも、すぎ去ったものの中にもない」と考えます。これは、「真理は各人がたえず自分で努力して獲得してゆくべきものだ」という意味に解されます。死を直前にした老いたるファウストの不滅のことば、「自由も生活も、日々それらを克ちとる者だけが、それらに値する」という言葉をロランがここで引用して、これこそ「私たちの旗印しである」と述べていますが、この「自由」と「生活」を「真理」という語でおき代えれば、真理についてのロランの考え方はよく理解できるように思います。ところでこの「真理」獲得の闘いは無限につづくものです。それをロランは一つの革命―「恒久の革命」とみなそうとするようです。そしてそれが、ワイマルの現実の政治家としてのゲーテからではなく、『ファウスト』の作者ゲーテからわれわれが学びうる教訓である、とロランが言っているように思われます。その「恒久の革命」の道では、われわれは、ロランのいうとおり、「進み、倒れ、起き上がり―行動し、働き、格闘し、仕え―それから後に破壊され―そしてまた開始する」わけです。これはまさに『ジャン・クリストフ』を流れる根本思想であります。これをロランは、彼のゲーテ論のなかでは、
      「死して、成れ!」
という老ゲーテのことばを借りて、われわれに語りかけているのだと思います。

(後記。これは1976年7月11日、ロマン・ロラン研究所の主催で関西日仏学館において行なわれた講演の再録である。)



           索引:ロマン・ロラン著作中の「ゲーテ」(編集部)

1.この索引は、ロマン・ロラン著作中の人名索引「ゲーテ」で、ロマン・ロラン 全集(みすず書房刊)を典拠として、このたび新しく作成したものです。
2.《例》 人名「ゲーテ」が『ジャン・クリストフ』の、全集版で第巻の、73、75、…ページに引用されていることを示します。

ジャン・クリストフ A73、75、240、416 B172、332、340、390、407 C178、194、魅せられたる魂 F227 ベートーヴェンの生涯 L30、31、32、33 ミケランジェロの生涯 L192 トルストイの生涯 L275、307、313、320 ミレー M18 マハトマ・ガンヂー M257、258 ヴィヴェカーナンダの生涯と普遍的福音 N377 ぺギー O414、570、579、595 回想記 P35、43、112、113、118、119、121、171、217、227 内面の旅路 P274、281、385、401、409、418、419、421、435、440、505、506、560、575、584、593、610 戦いを超えて Q11、12、33、83 先駆者たち Q205、239、240、253、273、276、281 闘争の十五年 Q379、490、522 革命によって平和を Q661、664 民衆劇論 R4、42、45、47、71、83 道づれたち R139、140、145、178[ゲーテを標題とした論文《死して、成れ!》192〜210]230、232、237、240、252 ジャン・ジャック・ルソー R305、307 近代抒情劇の起源 S186、289 今日の音楽家たち (21)387、404、411、419 過去の国への音楽の旅 (22)143、168 ヘンデル (22)255 エロイカからアバッショナ一タまで (23)9、25、35、136、180、215 ゲーテとベートーヴェン (23)〔ページ省略〕ベートーヴェンの恋人たち (23)368、371、389、409 ベートーヴェンへの感謝 (23)417 復活の歌 (24)13、22、25、47、67、75、103、106、107、108、109、130、152、233、290、318、345 第九交讐曲 (25)79、105、121、134 フィニタ・コメディア (25)377、380、394、395、431、433、435、436、439、447、463、475、479、494 戦時の日記 (26)11、44、45、46、84、92、100、120、188、206、211、254、332、343、351、362、363、369 29、40、99、116、160、171、196、225、246、274、371S106、138、164、185、191、236、245、295、298 S18、83、126、171、178、18255、142 インド (31)112、201、211、308 ユルム街の僧院 (32)43、81、193、244、245、362 マルヴィーダ・フォン・マイゼンプークへの手紙 (32)390、391、393、415、424、437、448、455、468、469、477、483、484、486、506、517、547 アグリゲンツムのエンぺドクレス (32)631、632、643、647 ローマの春 (33)18も215、220、247、251、252、275、291、299、349、374、377、382、522、528、548、575 したしいソフィーア (34)14、40、41、58、67、115、127、131、145、171、172、200、220、237、238、291、331、337、359、369、371、380、401、402、409、449、457、475、598、604、605、606、613、622、632、633、638、639、644、646 日本人への手紙 (35)38、40、64、108、113、114 タゴールとロマン・ロラン (35)181、194、195、274 ジャン・クリストフからコラブルニヨンへ (35)373、381、411