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以上、ロランのゲーテ論の第1章のほかに第3章にも触れているうちに、だいぶ時間がたちましたが、これでゲーテ論の全体のなかに、かなり深く入ったのではないかと思います。
第2章は、みずから「一つの産み出す自然」、「能働的自然」であるゲーテ自身、このような状態が同時にまたいかに危険なものであるかをよく自覚していたこと―それを主として述べています。それは比喩を用いるなら、「一つの火薬箱」を内部に秘めている状牌であり、しかも「火の鍵」をゲーテはいつも自分の手に握っていたことになります。(これらの比喩はおそらく―前述の―『ファウスト』T部、第1幕の終りから採られたのだと思います。)80才を越えたゲーテが食卓で秘書のエッカーマンにふと洩らした言葉―「もし私がなんの束縛もなしに振舞ったとしたら、私次第で、自分も、自分の周囲のものも、徹底的に破滅におとし入れることだろう。」そして、ここから、ゲーテにとって自制・克己がいかに大切であったかが分かります。ゲーテみずから、「第一に大切なことは、自制・克己を学ぶことだ」と述べています。これに関連してロランは、古典期のゲーテ、さらに晩年のゲーテが東方(オリエント)にたいし、また彼からいえば次の世代にあたるロマン派の詩人たちにたいし、警戒心、嫌悪の情、或は敵意をもったことに言及します。ロランはいくつかゲーテのことばを引用していますが、これについて若干の注釈が必要かと思います。たしかにロランのいうとおり、東方(オリエント)ないしインド、それにロマン派は、「ゲーテ自身が知り抜いている深淵―彼が苦しい努力の未、やっと抜け出たその深淵へふたたび彼をひきずり込むものであった」と言えます。それは要するに、「無形式」(formlos)の世界、或は混沌とした世界(Chaos)、つかみどころのない無気味な世界―多少比喩的な表現をすれば、音楽的な世界といってよいかも知れません。これに対し、ゲーテがきびしい自己克服によって到達しようとした世界は、古代ギリシアを理想とする、明快な形式の支配する世界、節度と調和の世界―やはり比喩的な表現をすれば、彫塑的な世界ということになるでしょう。青年時代(いわゆるSturm
und Drangの時期)から壮年時代(古典期)へとゲーテの歩んだ道―その途上に、あのイタリア体験があるのですが、この道はまさに「形式のない世界から」「形式の支配する世界」への道だったと言えます。これに対して、東方(オリエント)、インド、ロマン主義、それにゲーテが晩年に接したあのべ―トーヴェンのデモーニッシュな音楽は、彼にとっては、一つの逆もどりを意味した、と言えます。そこに晩年のゲーテの恐怖があった―これがロランの解釈です。ロランの著書『ゲーテとべ―トーヴェン』については最初に触れましたが、これは以上のような解釈にもとづいて、ドイツ最大の詩人が、20才年下の、ドイツ最大の音楽家の強烈な魔力にたいし、必死に抵抗するさまを興味ぶかく叙述したものであります。
しかしインドはともかく、東方(オリエント)につきましては、ロランの引用するゲーテの激しいことば、「私は本来、すべてオリエント的なものを憎む」が1804年に由来することに注意を要します。といいますのは、それから十年ばかりたちますと、昔のペルシアの詩人たちの素晴らしい詩がドイツ語に訳され、ゲーテはすっかりそのとりこになり、自分でもこれらの詩を思わせる詩を次々に書きます。それが『西東詩集』と呼ばれるもので、そのうちの傑作の一つから、実は、このゲーテ論の中心テーマである「死して、成れ」の一句が採られています。これについては後程さらに触れることにして、いまはゲーテ論の第2章に帰りますが、ゲーテの自制・克己は、自分との激しい闘いを意味しました。一方で、あるがままの自己を主張しようとする欲求が強いだけに、この闘いは非常な苦しみを伴いました。それを告白するゲーテのことばをロランはいくつも引用していますが、とくに印象ぶかいのは次のようなものです―「鎚(ハンマー)になることは、誰にとっても、鍛床(かなしき)になることよりも名誉なこと、願わしいことに思えるが、しかし涯しなくくり返される打撃をじっと堪え忍ぶのには、いかに多くの力が必要であることか。」ロランはこれについて、「本来、鎚になるようにできた人間が、鍛床になることを学ぶ。そして打撃を加えることよりも、打撃を受けることが百倍も力を要することを認めて、みずからを慰めている」と理解しています。
ところでロランはこの個所に注を付して、この「鍛床」はゲーテ自身のいう「性格の絶対的なもの」と同一視しています。さりげない注ですが、これは重要だと思います。といいますのは、「性格」(caractère、Charakter)は元来「刻印」を意味するギリシア語で、ここから「特性」という意味も出てきます。いまもし「刻印」するものが、運命とか神とかであると考えますと、「性格」という語はいっそう深い意味をおびて来ます。とにかくそれは、われわれ個人、個人が生れながらもつ「基本的なもの」、「根源的なもの」であり、外的な力によっては、容易に変化させられたり、破壊されたりはしないものであり、とくにゲーテにあっては重要な概念であります。(たとえば、性格は才能や知識とは別にあって、むしろそれらを生かすもの、とされます。)そしてわれわれはここで、ロラン自身が、まさにこのような深い意味での「性格の人」であったことを思い出してよいでしょう。あの老マルヴィーダが20才代のロランについて、すでにその将来をはっきり予言しえたのは、彼ロランがまさに、ここにいう意味での「性格の人」であったからだと思います。
ところでロランは、このゲーテの苦しみを多くの人びとは知らない、と言っています。そして75才の老ゲーテの次のような告白をあつい共感をもって引用します―「人びとはいつも私を幸福の特権者とみなした。そして私自身も苦情をいったり、自分の生涯についてとかく言うつもりはない。しかし私の生涯は結局のところ労苦と仕事以外の何ものでもなかった。私ははっきり言えるが、75年のうちで本当に安楽な四週間ももたなかった…」
さらにゲーテのことばとして、「絶望することのない者は、生きる資格がないのだ。」また、「すべての慰めは賎しい。ただ絶望だけが義務である。」この「雄々しいペシミズム」(ロラン)―ここにわれわれはロラン自身の、あの独得のへロイズムを感じとってよいかと思われます。
しかし一方、ゲーテはあくまで勇気を失いはしませんでした。彼にとって勇気は第一の美徳でした。ロランは述べています。「勇気にかけてゲーテは決して不足しなかった。彼の死の二年前に、ある大きな悲しみの日[ロランの原文では「翌日」(au
lendemain)とありますが、これは何かの間違いです。くわしくは、大公妃ルイーゼの亡くなった1830年2月14日の当日]に、81才になるこの老人は立ち上って言った、《私たちが光りをもっている限り、私たちは頭をあげているだろう。そして私たちはまだ制作、創造しうる限り、屈することは不可能だ》」と。―われわれはここにも晩年のロラン自身の心境を感じとってよいかも知れません。
さて、こうして自己を抑制し、克服しようとするゲーテは多くの誤解(たとえば、無情・冷淡・エゴイストといった人びとの批評一実は、20才のロランも老ゲーテをこのように見たわけですが)受けつつも、みずから鎧で身を固めて自分を守りました。それは結局、何のためであったのか?―それは「より高い自己形成」、「自己完成」のためでありました。ここでロランのゲーテ論は次の第3章に入ります。
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第3章に入りますと、いま述べた「自己形成」、「自己完成」がゲーテ自身によって「自己の存在のピラミッド建設」というふうに形容されていることが分かります。これは83年にわたるゲーテの全活動を集約する見事な比喩でありますが、彼ゲーテがこれを口にしたのは、1780年、31才の時で、これはワイマルで政治家、行政官としても多面的な活動れ始めて間もない時期にあたります。すなわち或る友人にあてて、「私の存在のピラミッド―その基礎はすでに私には定められ、据えられているのだが―この存在のピラミッドをできる限り高く空中にそびえさせようという欲求が、他の一切のものを圧倒し、ほとんど片時も忘れることを許さない‥.」と書きました。(このピラミッドの代りに、私たちは、天空に無限に伸びゆく尖塔をもつ壮大なゴシック様式の教会を考えてもよいでしよう。ゴシックは若いゲーテとその世代がとくに好んだ建築様式です。)ロランはゲーテが文字どおり一切の体験をこのピラミッド建設のための石材に利用したことを美しく叙述しています。こうして詩人・著述家・政治家・劇作家・宮廷人・自然科学者・行政官・教育者である一人の人間―「人間のなかの人間」が形成されるわけです。このゲーテをロランは「人生の建築師」とも形容しています。しかしここで注目すべきことには、ロランはこの建築のいとなみは、ゲーテという一個人の自由意志から発しているのではなく、ゲーテ自身がその一部分であるところの、「自然」のいとなみである、と指摘しています。ゲーテという存在と「自然」との間には深い近親関係があるわけで、これは先にもくり返し述べたとおりです。「自然」という大宇宙と、ゲーテという小宇宙の照応関係に他なりません。
ところで、この「存在のピラミッド」に完成というものがあるか、というと、答えは「否」です。「存在のピラミッド」を一段、一段高めてゆく―つまり前に述べた「上昇」(自然のいとなみの第二の基本原理!)の仕事は果てしなく続きます。(ちなみにロランは、その永遠に高めてゆく力―上方への引力は、『ファウスト』の、例の「永遠に女性的なもの」つまり「愛」であるという、ひじょうに興味ぶかい解釈を暗示しています。)完成を目指す努力は無限につづきます。しかし一方、われわれの人生は有限であります。したがって、この現世では「存在のピラミッド建設の仕事は終わりません。そしてこのことからゲーテの不死の信仰が生れます。つまり人間は、現世での死とともに、姿を変えて、さらに仕事をつづけるというゲーテの確信がそれです。われわれはここで、すでにゲーテ論の最後の第4章に入りますが、そこには80才のゲーテが秘書のエッカーマンに語った有名なことばが引用されています―「もし私が私の最後まで休むことなく活動して、現在の生存形態が私の精神にとって十分でなくなれば、自然は別の生存形態を私に与えてくれる義務がある。」不死、死後の存続の信仰の根拠は宗教と哲学がいろいろ与えてくれますが、ゲーテは「活動」(Tätigkeit,
activité)という、いかにも彼らしい概念から不死を確信するわけです。
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さて、この第4章はロランのゲーテ論のしめくくりとして特に重要であります。ここでは、「死して、成れ!」という、ロランにとってはゲーテのいわばエッセンスが、さまざまの角度から論じられます。そしてそれは、同時に、ロラン自身のことを語っている、とも言えます。すなわち、ロランのいうとおり、「ゲーテの作品と生涯が示す思想の広大な野のなかから、各自が自己の本質に似かよったものをとる」のであり、そしてロランの告白するところでは、この「死して、成れ!」という根本思想は、「たとえそれが[ゲーテの]唯一の炉ではないにしても、ロランの生命はいくたびとなく、そこで己が焔を養った」からであります。
この「死して、成れ!」という一句を含む詩は、さきに―ゲーテと東方(オリエント)との関係について触れた際に―名前をあげました『西東詩集』に含まれています。1814年頃、古いペルシアの詩が独訳され、これが老ゲーテの詩心をあらたにかき立てることになった、と申しましたが、その場合とくに重要な詩人は11世紀のハーフイスであります。ゲーテはこのペルシアの大詩人の生涯と自分の生涯との間にいくつもの類似点を見出して驚いたようです。たとえば宮廷詩人ハーフイスは蒙古のチムールの侵入による動乱を体験しますが、これはゲーテにおけるナポレオン戦争に相当するというわけです。ゲーテは古いペルシアの詩に似合うものをドイツの宮廷詩人として創造してみようという気になりました。そこへ老ゲーテの新しい恋愛体験が加わったことも重要です。ところでペルシア語で詩集のことをDivanと呼びます。ゲーテはこれに「西と東の」という形容詞を付して、自分の新しい詩集を「西と東のDivan」と呼びました。つまり『西東詩集』です。全体で12巻からなりますが、詩想の新しさと深さ、表現の美しさにおいてゲーテの詩業の最高傑作とみられます。その第1巻(「歌人の巻」)の結びの詩は「浄福なあこがれ」(Selige
Sehnsucht)と題され、これが間額の詩であります。『西東詩集』のなかでも最上のものとされています。神秘的な詩でいろいろの解釈が可能ですが、その内容をごく簡単に申しますと―
一匹の蝶(或は蛾)がローソクの光(焔)に恋い憧れて、否応なしにひきつ
けられ、その光(焔)のなかに飛び込んで身を焼きこがす
ことを歌っています。ローソクの光(焔)は、より高い存在を象徴し、身を焼きこがすというのは、現在ある自分を放棄、否定してより高い存在と合一する行為をあらわす、と考えられます。これが「死して、成れ!」の深い英知ですが、このような真理は一般の群集には無縁であり、その嘲笑を受けるだけであるから、ただ少数の賢者にだけ打ち明けるがよい―このように老ゲーテは説きます。実はこの詩の素材になるものが、前述のペルシアの詩人たちの作品や、他のたとえ話にもありまして、すべてがゲーテの創案ではないとされています。ゲーテは自分自身の体験にもとづいて、これらの素材を鋳なおしたと言うべきでしょう。もともと、事物が絶えず姿を変えて新しい事物になる、というのがゲーテにとって「自然」の―また「生」の本来のあり方でありました。この考え方は、ゲーテにあっては、植物や動物の形態学(モルフォロギー)的研究によっていよいよ確かなものになりました。さきにも少し触れましたが、いわゆる「変態」、「変形」(メタモルフォーゼ)の思想です。いまわれわれにとって興味ぶかいのは、ロランがこの詩の根本テーマ「死して、成れ!」を社会現象にもあてはめ、ここから、フランス革命に始まり、ナポレオンを戦争を経て、ドイツ統一運動が激しくなるまでの期間―それは大休1790年から1820年までの約30年間ということになりますが、この期間にゲーテがみせた政治的姿勢を解釈していることです。ここにはゲーテ自身のことばが数多く引用されています。元来、18世紀のドイツの政治的・社会的状況は、イギリスやフランスといった先進国にくらべ著しく封建的で、大小無数の専制君主が支配をほしいままにしていました。それでドイツの知識人たちの多くが、ライン河の彼方の革命運動にたいし、最初はひじょうな感激をみせます。それはあの「自由・平等・友愛」のスローガンを思い起こせば十分に理解できることです。しかしゲーテははじめから冷静でした。「革命は悪しきものと同じ位、よきものを破壊する」という意味のことばがロランによっても引用されています。そしてフランス革命がさまざまの残酷な様相を呈してきた時の、ゲーテの嫌悪はいうまでもありません。やがてナポレオン戦争が終わると、ウィーンのメッテルニヒが指導する反動体制がヨーロッパ全体を支配します。この中にあってドイツの知識人たち―とくに、ナポレオン戦争で祖国のために勇敢に戦った学生たちが活発なドイツ統一運動を起こします。これはそれまでの大小の封建君主たちを支える古い体制を打破することを意味しますから、この統一運動にはきびしい弾圧が加えられます。―こういう事態の中で人びとの眼はワイマルのゲーテに注がれるわけです。しかしゲーテは保守的な態度をくずしません。ゲーテにたいする失望とともに、当然、彼にたいする攻撃が起こります。反動主義者、祖国への裏切り者、エゴイストなどのレッテルが彼にはられます。これにたいしゲーテが周囲の人びとに向かって自分の立場を弁明した多くの例があるのですが、それをロランがいくつも引用しています。
ゲーテは―さきに何度も述べましたような自然観をもっていますから―社会もまた、一つの「自然」として、時と共に変ってゆくべきものと考えていました。しかしゲーテはあくまでリアリストであり、とくに、ドイツの発展過程はフランスのそれと必ずしも一致しないことを冷静に見抜いていました。フランスで必然的であるものは、そのままドイツでも必然的であるとは限らない、それを無視してフランスでの革命をそのままドイツで真似ることをゲーテは承認できなかった、というわけです。ロランはこのことを20世紀の現実に結びつけて強調します。これに関連した1824年1月4日の・エッカーマンとの長い対話をもロランは―いくつもに分解して―引用しております。(なおロランはそこで、ゲーテ自身の認識はすでに狭苦しいnationalなものをはるかに越えて、internationalなものに到達していたことを指摘しています。味わうべき言葉だと思います。)さらに1813年の、ハインリヒ・ルーデンによる長い報告も引用されています。これも有名なものであります。ルーデンは当時イエナ大学の若い、哲学と歴史学の教授でしたが、ドイツ統一運動には関心の深かった人物で、彼は或る政治的な雑誌の発行を計画し、そのために、ワイマル政府の実力者であるゲーテの庇護と協力を求めました。ゲーテはこれを拒絶するのですが、その機会に、ドイツ民族の現状と将来についてゲーテは自分の考えを切々と説きます。要するに、「ドイツ民族の前途はきわめて有望である。しかし現状ではドイツの民衆の国民としての自覚はまだまだ十分とは言えない。そこで将来にそなえて、まず地道に準備をすることが大切だ。それは何よりも教育の普及にある」といった趣旨です。ゲーテはこういった認識に立っが故に、現実の政治問題・外交問題には、あえて沈黙を守った、また守らざるをえなかった、それは―ルーデンの言葉ですが―「人間と事物を彼ゲーテが正確に知っていたために、彼がとらざるをえなかった悲痛な諦めに他ならなかった」というわけです。ゲーテのこのような本当の姿を知った青年ルーデンはひじょうに感激し、別れる時には目に涙をいっぱい浮かべていた、といいます。
一般にゲーテの政治思想といったものは簡単に要約できません。ましてや、現実に生きる政治家としての彼の言動をすべて矛盾なく説明することは不可能に近いでしょう。フランス革命にあれほど関心の深かったロランのことですから、おそらく「ゲーテとフランス革命」という問題には、人一倍、興味をもっていたのではないかと思われますが、このロランは、「革命のように重大な種々の政治問題に関して、一見したところ彼[ゲーテ]の意見が変わる」ことがあるのをよく知っています。ゲーテのいくつかの発言は、革命を恐れず、これをも肯定するかに見えます。ロランはそれらの発言も引用しています。
結論としてロランは、ゲーテの真理愛が彼の言動のより深い根底にひそんでいると理解します。真理、真実。これだけはゲーテにとって絶対であった、とみるわけです。「私[ゲーテ]は有益な誤謬よりも、むしろ有害な真理をえらぶ。」また、「有害な真理もまた有益である。なんとなれば、それは一瞬間しか害を及ぼすことがなく、むしろ常に有益―しかも非常に有益になるにちがいないような他の真理に通ずるからである。逆に、有益な誤謬は有害である。なんとなればこれは一瞬間しか益することがなくて、ますます有害になるような他の誤謬に誘い込むからである」といった引用があります。ゲーテは―ロランが指摘するとおり―同じ趣旨のことばを生涯、何回もくり返しますが、これらの言葉は、他ならぬロラン自身にいかにも相応しいものだと思います。ロランは省略していますが、いま最後に引用した言葉のすぐ前のところで、ゲーテは次のように断言しています―「真なるもの以外に偉大なものはない。そして最も小さい真なるものでも、それは偉大である。これもロラン自身のことばとして少しも不自然ではありません。さらにロランはゲーテについて、「けっして嘘を言わなかった文学者」という性格づけをしていますが、これこそまさにロラン自身についてあてはまる言葉でありましょう。ロランがゲーテにひきつけられた理由の一つは、このあたりにあったのかも知れません。
しかしロランは、「真理はつねに前方に、来たるべきものの中にあり、けっして死んだものの中にも、すぎ去ったものの中にもない」と考えます。これは、「真理は各人がたえず自分で努力して獲得してゆくべきものだ」という意味に解されます。死を直前にした老いたるファウストの不滅のことば、「自由も生活も、日々それらを克ちとる者だけが、それらに値する」という言葉をロランがここで引用して、これこそ「私たちの旗印しである」と述べていますが、この「自由」と「生活」を「真理」という語でおき代えれば、真理についてのロランの考え方はよく理解できるように思います。ところでこの「真理」獲得の闘いは無限につづくものです。それをロランは一つの革命―「恒久の革命」とみなそうとするようです。そしてそれが、ワイマルの現実の政治家としてのゲーテからではなく、『ファウスト』の作者ゲーテからわれわれが学びうる教訓である、とロランが言っているように思われます。その「恒久の革命」の道では、われわれは、ロランのいうとおり、「進み、倒れ、起き上がり―行動し、働き、格闘し、仕え―それから後に破壊され―そしてまた開始する」わけです。これはまさに『ジャン・クリストフ』を流れる根本思想であります。これをロランは、彼のゲーテ論のなかでは、
「死して、成れ!」
という老ゲーテのことばを借りて、われわれに語りかけているのだと思います。
(後記。これは1976年7月11日、ロマン・ロラン研究所の主催で関西日仏学館において行なわれた講演の再録である。)
索引:ロマン・ロラン著作中の「ゲーテ」(編集部)
1.この索引は、ロマン・ロラン著作中の人名索引「ゲーテ」で、ロマン・ロラン 全集(みすず書房刊)を典拠として、このたび新しく作成したものです。
2.《例》 人名「ゲーテ」が『ジャン・クリストフ』の、全集版で第巻の、73、75、…ページに引用されていることを示します。
ジャン・クリストフ A73、75、240、416 B172、332、340、390、407 C178、194、魅せられたる魂 F227 ベートーヴェンの生涯 L30、31、32、33 ミケランジェロの生涯 L192 トルストイの生涯 L275、307、313、320 ミレー M18 マハトマ・ガンヂー M257、258 ヴィヴェカーナンダの生涯と普遍的福音 N377 ぺギー O414、570、579、595 回想記 P35、43、112、113、118、119、121、171、217、227 内面の旅路 P274、281、385、401、409、418、419、421、435、440、505、506、560、575、584、593、610 戦いを超えて Q11、12、33、83 先駆者たち Q205、239、240、253、273、276、281 闘争の十五年 Q379、490、522 革命によって平和を Q661、664 民衆劇論 R4、42、45、47、71、83 道づれたち R139、140、145、178[ゲーテを標題とした論文《死して、成れ!》192〜210]230、232、237、240、252 ジャン・ジャック・ルソー R305、307 近代抒情劇の起源 S186、289 今日の音楽家たち (21)387、404、411、419 過去の国への音楽の旅 (22)143、168 ヘンデル (22)255 エロイカからアバッショナ一タまで (23)9、25、35、136、180、215 ゲーテとベートーヴェン (23)〔ページ省略〕ベートーヴェンの恋人たち (23)368、371、389、409 ベートーヴェンへの感謝 (23)417 復活の歌 (24)13、22、25、47、67、75、103、106、107、108、109、130、152、233、290、318、345 第九交讐曲 (25)79、105、121、134 フィニタ・コメディア (25)377、380、394、395、431、433、435、436、439、447、463、475、479、494 戦時の日記 (26)11、44、45、46、84、92、100、120、188、206、211、254、332、343、351、362、363、369 29、40、99、116、160、171、196、225、246、274、371S106、138、164、185、191、236、245、295、298 S18、83、126、171、178、18255、142 インド (31)112、201、211、308 ユルム街の僧院 (32)43、81、193、244、245、362 マルヴィーダ・フォン・マイゼンプークへの手紙 (32)390、391、393、415、424、437、448、455、468、469、477、483、484、486、506、517、547 アグリゲンツムのエンぺドクレス (32)631、632、643、647 ローマの春 (33)18も215、220、247、251、252、275、291、299、349、374、377、382、522、528、548、575 したしいソフィーア (34)14、40、41、58、67、115、127、131、145、171、172、200、220、237、238、291、331、337、359、369、371、380、401、402、409、449、457、475、598、604、605、606、613、622、632、633、638、639、644、646 日本人への手紙 (35)38、40、64、108、113、114 タゴールとロマン・ロラン (35)181、194、195、274 ジャン・クリストフからコラブルニヨンへ (35)373、381、411
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