ロマン・ロラン(1866−1944)は「ベートーヴェンの生涯」「ジャン・クリストフ」や「魅せられたる魂」などで知られる20世紀を代表するフランスのノーベル賞作家で思想家である。 |
ロマン・ロランの紹介(設立者宮本正清) |
愛、自由、平和を! 希望と勇気の書 |
ロマン・ロラン年譜 |
年 代 |
年齢 |
年 譜 |
参 考 事 項 |
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1866 年 |
1 月 29 日ブルゴーニュ地方ニエーヴル県クラムシーにロマン・エドム・ポール・エミール・ロラン誕生。 |
福沢諭吉『西洋事情』 普襖戦争 マルクス『資本論』第一巻刊 |
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1868(明治元年) |
2 歳 |
最初の妹マドレーヌ生まれる。 |
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1869 |
トルストイ『戦争と平和』 (1869) |
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1871 |
5 |
妹マドレーヌ三歳で病死。 |
普仏戦争フランスの敗北 |
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1872 |
6 |
二番目の妹生まれる。マドレーヌ(〜 1960)と名づけられ、兄の生涯の協力者となる。 |
ブルム生まれる | |
1873〜1880 |
7 |
クラムシー学院〈現ロマン・ロラン学院) に入学。 |
ペギー、バルビエス生まれる |
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1875 |
9 |
シェークスピアを愛読。 |
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1880 |
14 |
10 月、ロラン一家パリに転居。サン・ルイ高等中学に転入学。 |
フランス、労働党成立 |
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1882 |
16 |
スイス旅行。(自然の啓示)を受ける。 |
三国同盟 | |
1883 |
17 |
スイスでヴイクトル・ユゴーを見る。 |
ニーチエ『ツァラトゥストラはこう語った』 |
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1884 |
18 |
スピノザ 『エチカ』 を読み啓示を受ける。 |
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1885 |
19 |
三月、ユゴーに面会。五月、ユゴー死す。 |
ベルリン会談、アフリカ分割を協議 |
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1886〜1889 |
20 |
7 月、エコール・ノルマルの入試に合格。11 月、入学。同級生にアンドレ・シェアレスがいた。12 月、ルナン訪問。 |
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1887 |
21 |
トルストイに手紙を書き返事をもらう。 |
仏領インドシナ連邦成立 |
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1888 |
22 |
4 〜5 月哲学論文冒『真なる故にわれ信ず』を書く。これによつてロランの思想の哲学的原型が成立する。 |
ロダン『カレーの市民』 | |
1889 |
23 |
8 月、エコール・ノルマル卒業。歴史学教授の資格を得る。 |
ブーランジエ事件 |
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1890 |
24 |
マルヴイーダとの親交。ソフィーアと出会う。イタリア各地の美術館をたずねる。イタリアの自然を享受。 |
フランス第一回メーデー |
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1891 |
25 |
7 月、フランスへの帰途、マルヴィーダとバイロイトを訪れ『パルジファル』を聞く。『エンペドクレス』と『オルシーノ』を執筆。 |
大津事件 |
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1892 |
26 |
コレジユ・ド・フランス言語学教授ミシェル・プレアルの娘クロチルド・フレアルと 1 月 31 日に結婚。 博士論文の資料を集めるため妻とともにローマに旅行、翌年春まで滞在する。 |
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1893 |
27 |
パリのリセ(中学・高等学校)の教師になる。 |
日清戦争(1894) |
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1895 |
29 |
文学博士となる。主論文『近代音楽劇の起源―リュリとスカルラソティ以前のオペラの歴史』。 副論文『十六世紀イタリア絵画の凋落』。 |
日清講和、三国干渉 |
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1896 |
30 |
『演劇芸術評論』の編集に参加。 |
ベルグソン『物質と記憶』 |
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1897 |
31 |
戯曲はじめて発表される。『聖王ルイ』(『パリ評論』 3 〜 4 月)4 〜 11 月『敗れし人々』執筆。 |
ドレフュス事件起こる |
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1898 |
32 |
『アエルト』の上演と発表。 |
ゾラのドレフュス事件への抗議文『私は弾劾する』 |
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1899 |
33 |
戯曲『理性の勝利』出版、6 月上演。 |
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1900 |
34 |
妻とともにローマに旅行。母方の祖父エドム・クローの死。ペギーの創刊した『カイエ・ド・ラ・キヤンゼーヌ』に協力。 |
フランス、ストライキ続発 |
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1901 |
35 |
3月、クロチルドと離婚。マインツのベートーヴェン記念音楽祭に出席。 |
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1902 |
36 |
3月、『七月一四日』出版および上演。この上演料でローマにおもむき、マルヴィーダとの最後の会見。5 月〜 11 月、高等市民講座の音楽史の講義を担当 (〜 11))。伝記『ミレー』発表。 |
フランス下院選挙で社会党大勝 |
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1903 |
37 |
4 月マルヴイーダ死去。『ベートーヴエンの生涯』発表。これによつてロランは民衆の心をつかんだ。『民衆劇論』刊。『時は来たらん』発表、上演。 |
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1904 |
38 |
『ジャン・クリストフ第一巻『曙』を発表。つづいて『朝』も発表。パリ大学で音楽史を担当。 |
日露戦争 |
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1905 |
39 |
第三巻『青年』発表。アルザス・ロレーヌに旅行。 |
第一次モロッコ事件 |
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1906 |
40 |
第四巻『反抗』発表。『ミケランジェロの生涯』刊。 |
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1907 |
41 |
第五巻『広場の市』第六巻『アントワネット』発表。 |
英仏露三国協商 |
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1908 |
42 |
第七巻『家の中』発表。『今日の音楽家たち』『ありし日の音楽家たち』刊。 |
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1909 |
43 |
第八巻『女友だち』発表。『七月一四日』『ダントン』『狼』を刊。 |
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1910 |
44 |
第九巻『燃え立つ茂み』発表。『ヘンデル』刊。自動車事故で重傷。 |
トルストイ死す |
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1911 |
45 |
『トルストイの生涯』、第十巻『新しい日』発表。 |
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1912 |
46 |
『ジャン・クリストフ』完結 |
モロッコ、仏領となる |
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1913 |
47 |
4 月から 9 月にスイスに滞在して『コラ・ブルニョン』を書く。 |
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1914 |
48 |
6 月、スイスヘ旅立つ。フランスへの帰国を自ら断念する。 |
第一次世界大戦 |
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1915 |
49 |
論文『戦いを超えて』を含む論文集を刊行。 |
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1916 |
50 |
1 月アンリ・ギルポーの雑誌『明日』が創刊され最後の号(1918 年 10 月)まで協力。ゴーリキー(1868〜1936)との交友がはじまる。 |
タゴール来日 |
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1917 |
51 |
ロシアに同行するようにとのレーニンの要請を断る。 |
レー二ン、ロシアへ帰る |
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1918 |
52 |
『アグリゲンツムのエンペドクレス』刊。平和に関して『ウイルソン大統領宛の公開状』 |
第一次世界大戦終結 | |
1919 |
53 |
『コラ・ブルニョン』、『リリユリ』刊。母死す。 |
リープクネヒト、ローザ・ルクセンブルグ虐殺される |
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1920 |
54 |
『ビエールとリユース』、『クレランポー』刊。 |
国際連盟成立 |
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1921 |
55 |
タゴール、ロランを訪問。アンリ・バルビユスと論争。スイスに出発。 |
魯迅『阿Q正伝』、中国共産党創立 |
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1922 |
56 |
『敗れし人々』刊。『魅せられたる魂』『アンネットとシルヴィ』刊。 |
ソビエト連邦成立 | |
1923 |
57 |
『魅せられたる魂』『夏』刊。『ガンディー』刊。 |
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1924 |
58 |
ウィーンで R・シュトラウスと会う。レーニンの死を悼む。『内面の旅路』、『周航』を執筆。 |
レーニン死す |
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1925 |
59 |
『愛と死の戯れ』刊、上演。 |
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1926 |
60 |
1月29日、60 歳誕生日。『ヨーロッパ』誌第 2 月号はロラン記念号として特集する。 ネルソン、タゴール来訪。 |
国際的ファシズムの台頭 |
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1927 |
61 |
反ファシズム国際委員会の名誉議長となる。ベートーヴェン研究を再開する。『魅せられたる魂』『母と子』を発表。 ウィーンのベートーヴェン百年祭で『ベートーヴェンへの感謝』と題する講演をする。 |
アメリカ、サッコとヴアンゼッティを処刑 |
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1928 |
62 |
インド研究に没頭する。『エロイカからアパッショナータ』を発表。 |
パリ不戦条約 |
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1929 |
63 |
マリー・クーダチエフと会う。『ラーマクリシユナの生涯』刊。 日本人の来訪あいつぐ。 |
世界大恐慌 |
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1930 |
64 |
『ゲーテとベートーヴェン』刊。『ヴィヴェカーナンダの生涯』を刊。 |
ロンドン軍縮会議 |
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1931 |
65 |
父親94歳で死す。ガンディー、ロランを訪問。『スピノザの閃光』発表。 |
満州事変 |
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1932 |
66 |
『マルヴイーダとの書簡集』刊。『魅せられたる魂』『予告する者』 『一つの世界の死』刊。アムステルダムにおける反戦・反フアシズム大会名誉議長。 |
ドイツ総選挙でナチス第一党となる |
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1933 |
67 |
『魅せられたる魂』全巻を脱稿。反ファシスト国際委員会の名誉総裁となる。ヒトラー政府からのゲーテ賞を拒否。 |
ナチス唯一政党宣言 |
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1934 |
68 |
マリー・クーダチェフと結婚。反ファシスト行動委員会の第一回宣言に署名。 |
ヒトラー総統兼首相となる |
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1935 |
69 |
『闘争の一五年』、『革命によって平和を』刊。 |
フランス・イタリア協定 |
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1936 |
70 |
70歳誕生記念祝賀会がブロック、アラゴン主唱で開かれる。 |
フランス人民戦線成立 |
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1937 |
71 |
フランスへの帰国を決意。ヴェズレーの家を買う。 |
日中戦争 |
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1938 |
72 |
ヴェズレーに移る。 |
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1939 |
73 |
フランス革命150 年祭に『愛と死の戯れ』がコメディー・フランセーズのレパートリーとなる。『ロベスピエール』刊。 |
第二次世界大戦 |
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1940 |
74 |
病床で著述をつづける。ヴェズレーにドイツ軍戦車隊侵入。クローデルとの交友復活。 |
パリ陥落 |
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1941 |
75 |
ルイ・ジレーとの交友復活。 |
太平洋戦争 |
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1942 |
76 |
『内面の旅路』刊。 |
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1943 |
77 |
『第九交響曲』、『後期の四重奏曲』刊。重病、視力おとろえる。 |
イタリア降伏 |
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1944 |
78 |
ソビエト大使館の革命記念祝賀会に出席。『ペギー』刊。12月30日、ヴェズレーにて永眠する。クラムシーのサン・マルタン寺院で葬儀。遺言によりプレーヴの小さな墓地に眠る。 |
パリ解放 |
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ロラン没後の出版物 |
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作成者 清 原 章 夫 |