ロマン・ロラン(1866−1944)は「ベートーヴェンの生涯」「ジャン・クリストフ」や「魅せられたる魂」などで知られる20世紀を代表するフランスのノーベル賞作家で思想家である。





 ロマン・ロランの紹介(設立者宮本正清)


愛、自由、平和を!    希望と勇気の書
    ロマン・ロラン(Romain Rolland)は1866年フランスの中部クラムシーに生まれた(父は公証人)。パリの高等師範学校に学び、歴史を専攻、優秀な成績で卒業し、選ばれて二年間ローマに留学。文学博士の学位を得、母校で、ついでパリ大学で音楽史を講じた。また演劇に志し、多くの戯曲を書いたが、十分な成功をおさめるにいたらなかった。しかし伝記『ベートーベンの生涯』は深い感動と生きる希望と勇気を読者にあたえた。彼の文名をいちやく世界的に高めたのは大河小説『ジャン−クリストフ』である。フランス・アカデミーは文学大賞を彼に授け、ついで1915年度のノーベル賞がおくられた。第二の大作『魅せられたる魂』の物語は、クリストフのそれにおとらず波乱にみちている。不正と矛盾が横行する現代の社会で、正しく自由な精神をもって生きんとするものは、そこに希望と勇気の源泉をみいだすであろう。

平和主義ロラン
   第一次世界大戦以後のロランはスイスのレマン湖畔に定住し、美しい自然のなかで多くの芸術作品(小説、戯曲、政治的・社会的論文、研究書)を書いた。彼の人格を敬仰し、思想と芸術にひかれる人々―ガンディー、タゴールをはじめ世界の友が巡礼のように彼を訪れた。文学・哲学・歴史・音楽いすれの面にも深い造詣と偉大な天分を有した彼は、世界の政治、社会の動静にもたえず注意し、国境と人種の差異をこえて、圧迫されるすべての国民・民族の擁護のためにたたかった。全人類の自由と平和・調和が彼の理想であった。
   カトリックの家に生まれながら、青年期に神からはなれた彼は「私は本質的に宗教的である」といっている。まことに、愛こそ彼の神であろう。ロランの思想と芸術、その人格は60年このかた、深い精神的影響感化を日本にあたえつづけている。



ロマン・ロラン年譜

年 代    

年齢

年       譜

参 考 事 項

1866 年
(慶応二年)

1 月 29 日ブルゴーニュ地方ニエーヴル県クラムシーにロマン・エドム・ポール・エミール・ロラン誕生。
父は公証人エミール・ロラン、母はアントワネット・マリー・クロー。

福沢諭吉『西洋事情』
普襖戦争
マルクス『資本論』第一巻刊

1868(明治元年)

2 歳

最初の妹マドレーヌ生まれる。

1869

トルストイ『戦争と平和』 (1869)

1871

5

妹マドレーヌ三歳で病死。

普仏戦争フランスの敗北
パリ・コンミユーン成立と挫折

1872

6

二番目の妹生まれる。マドレーヌ(〜 1960)と名づけられ、兄の生涯の協力者となる。

ブルム生まれる

1873〜1880

7

クラムシー学院〈現ロマン・ロラン学院) に入学。

ペギー、バルビエス生まれる

1875

9

シェークスピアを愛読。

1880

14

10 月、ロラン一家パリに転居。サン・ルイ高等中学に転入学。

フランス、労働党成立

1882

16

スイス旅行。(自然の啓示)を受ける。
エコール・ノルマルの入学準備のためルイ・ル・グラン高等中学校に転校。この学校でポール・クローデルを知る。

三国同盟

1883

17

スイスでヴイクトル・ユゴーを見る。

ニーチエ『ツァラトゥストラはこう語った』

1884

18

スピノザ 『エチカ』 を読み啓示を受ける。
ベートーヴエン、ワグナー、シェークスピアに熱中。
エコール・ノルマルの入試に失敗。

1885

19

三月、ユゴーに面会。五月、ユゴー死す。
エコール・ノルマルの入試に再度失敗。
トルストイ、ドストエフスキーを読む。

ベルリン会談、アフリカ分割を協議

1886〜1889

20

7 月、エコール・ノルマルの入試に合格。11 月、入学。同級生にアンドレ・シェアレスがいた。12 月、ルナン訪問。

1887

21

トルストイに手紙を書き返事をもらう。
歴史学科を選択する。

仏領インドシナ連邦成立

1888

22

4 〜5 月哲学論文冒『真なる故にわれ信ず』を書く。これによつてロランの思想の哲学的原型が成立する。
スイス旅行。セザール・フランクを訪問。

ロダン『カレーの市民』

1889

23

8 月、エコール・ノルマル卒業。歴史学教授の資格を得る。
ローマのフランス学院に留学生として選ばれ、バチカンの古文書館で研究する。

ブーランジエ事件
大日本帝国憲法発布

1890

24

マルヴイーダとの親交。ソフィーアと出会う。イタリア各地の美術館をたずねる。イタリアの自然を享受。
ジャニコロの啓示。

フランス第一回メーデー
日本第一回衆議院選挙
教育勅語

1891

25

7 月、フランスへの帰途、マルヴィーダとバイロイトを訪れ『パルジファル』を聞く。『エンペドクレス』と『オルシーノ』を執筆。

大津事件

1892

26

コレジユ・ド・フランス言語学教授ミシェル・プレアルの娘クロチルド・フレアルと 1 月 31 日に結婚。 博士論文の資料を集めるため妻とともにローマに旅行、翌年春まで滞在する。

1893

27

パリのリセ(中学・高等学校)の教師になる。

日清戦争(1894)

1895

29

文学博士となる。主論文『近代音楽劇の起源―リュリとスカルラソティ以前のオペラの歴史』。 副論文『十六世紀イタリア絵画の凋落』。
11 月母校エコール・ノルマルで芸術史講座を担当。
学生にシャルル・ペギー、ルイ・ジレー。

日清講和、三国干渉
フランス、労働総同盟結成

1896

30

『演劇芸術評論』の編集に参加。

ベルグソン『物質と記憶』

1897

31

戯曲はじめて発表される。『聖王ルイ』(『パリ評論』 3 〜 4 月)4 〜 11 月『敗れし人々』執筆。

ドレフュス事件起こる

1898

32

『アエルト』の上演と発表。
ジャン・ジョーレスの演説を開く。戯曲『狼』がドレフュス事件の精神的高揚の中で執筆され、5 月 18 日上演、ペギーの書店より出版される。

ゾラのドレフュス事件への抗議文『私は弾劾する』

1899

33

戯曲『理性の勝利』出版、6 月上演。

1900

34

妻とともにローマに旅行。母方の祖父エドム・クローの死。ペギーの創刊した『カイエ・ド・ラ・キヤンゼーヌ』に協力。
『ダントン』発表と上演。

フランス、ストライキ続発
日本、治安警察法公布

1901

35

3月、クロチルドと離婚。マインツのベートーヴェン記念音楽祭に出席。

1902

36

3月、『七月一四日』出版および上演。この上演料でローマにおもむき、マルヴィーダとの最後の会見。5 月〜 11 月、高等市民講座の音楽史の講義を担当 (〜 11))。伝記『ミレー』発表。

フランス下院選挙で社会党大勝
日英同盟成立

1903

37

4 月マルヴイーダ死去。『ベートーヴエンの生涯』発表。これによつてロランは民衆の心をつかんだ。『民衆劇論』刊。『時は来たらん』発表、上演。

1904

38

『ジャン・クリストフ第一巻『曙』を発表。つづいて『朝』も発表。パリ大学で音楽史を担当。

日露戦争

1905

39

第三巻『青年』発表。アルザス・ロレーヌに旅行。

第一次モロッコ事件

1906

40

第四巻『反抗』発表。『ミケランジェロの生涯』刊。

1907

41

第五巻『広場の市』第六巻『アントワネット』発表。

英仏露三国協商

1908

42

第七巻『家の中』発表。『今日の音楽家たち』『ありし日の音楽家たち』刊。

1909

43

第八巻『女友だち』発表。『七月一四日』『ダントン』『狼』を刊。

1910

44

第九巻『燃え立つ茂み』発表。『ヘンデル』刊。自動車事故で重傷。

トルストイ死す
日本、朝鮮併合・大逆事件
『白樺』創刊

1911

45

『トルストイの生涯』、第十巻『新しい日』発表。

1912
(大正元年)

46

『ジャン・クリストフ』完結
パリ大学を辞任。すべての教職を辞して全面的に作家活動を行う。

モロッコ、仏領となる

1913

47

4 月から 9 月にスイスに滞在して『コラ・ブルニョン』を書く。
『ジャン・クリストフ』にフランスアカデミー文学賞。ツヴアイク、リルケを知る。『スタンダールと音楽』『信仰の悲劇』を書く。

1914

48

6 月、スイスヘ旅立つ。フランスへの帰国を自ら断念する。
『戦いを超えて』を発表。ゲルハルト・ハウプトマンへの公開状。 国際赤十字による戦時俘虜事務所に協力し、奉仕的労働を行う。

第一次世界大戦
ペギー戦死

1915

49

論文『戦いを超えて』を含む論文集を刊行。

1916

50

1 月アンリ・ギルポーの雑誌『明日』が創刊され最後の号(1918 年 10 月)まで協力。ゴーリキー(1868〜1936)との交友がはじまる。
11 月、1915 年度のノーベル文学賞を授与され、その賞金全部を赤十字や、フランスの種々の社会事業に寄付する。

タゴール来日

1917

51

ロシアに同行するようにとのレーニンの要請を断る。

レー二ン、ロシアへ帰る
ロシア二月革命および十月革命

1918

52

『アグリゲンツムのエンペドクレス』刊。平和に関して『ウイルソン大統領宛の公開状』

第一次世界大戦終結

1919

53

『コラ・ブルニョン』、『リリユリ』刊。母死す。
『先駆者たち』刊。『精神の独立宣言』発表。
『過去の国への音楽の旅』刊。タゴールに手紙を送る。

リープクネヒト、ローザ・ルクセンブルグ虐殺される
ガンディーの不服従運動
ヴエルサイユ講和条約

1920

54

『ビエールとリユース』、『クレランポー』刊。

国際連盟成立

1921

55

タゴール、ロランを訪問。アンリ・バルビユスと論争。スイスに出発。

魯迅『阿Q正伝』、中国共産党創立

1922

56

『敗れし人々』刊。『魅せられたる魂』『アンネットとシルヴィ』刊。

ソビエト連邦成立

1923

57

『魅せられたる魂』『夏』刊。『ガンディー』刊。
マリー・クーダチェヴァと文通を始める。『ヨーロッパ』誌創刊。

1924

58

ウィーンで R・シュトラウスと会う。レーニンの死を悼む。『内面の旅路』、『周航』を執筆。

レーニン死す

1925

59

『愛と死の戯れ』刊、上演。

1926
(昭和元年)

60

1月29日、60 歳誕生日。『ヨーロッパ』誌第 2 月号はロラン記念号として特集する。 ネルソン、タゴール来訪。

国際的ファシズムの台頭

1927

61

反ファシズム国際委員会の名誉議長となる。ベートーヴェン研究を再開する。『魅せられたる魂』『母と子』を発表。 ウィーンのベートーヴェン百年祭で『ベートーヴェンへの感謝』と題する講演をする。

アメリカ、サッコとヴアンゼッティを処刑

1928

62

インド研究に没頭する。『エロイカからアパッショナータ』を発表。

パリ不戦条約

1929

63

マリー・クーダチエフと会う。『ラーマクリシユナの生涯』刊。 日本人の来訪あいつぐ。

世界大恐慌

1930

64

『ゲーテとベートーヴェン』刊。『ヴィヴェカーナンダの生涯』を刊。

ロンドン軍縮会議

1931

65

父親94歳で死す。ガンディー、ロランを訪問。『スピノザの閃光』発表。

満州事変

1932

66

『マルヴイーダとの書簡集』刊。『魅せられたる魂』『予告する者』 『一つの世界の死』刊。アムステルダムにおける反戦・反フアシズム大会名誉議長。

ドイツ総選挙でナチス第一党となる

1933

67

『魅せられたる魂』全巻を脱稿。反ファシスト国際委員会の名誉総裁となる。ヒトラー政府からのゲーテ賞を拒否。

ナチス唯一政党宣言

1934

68

マリー・クーダチェフと結婚。反ファシスト行動委員会の第一回宣言に署名。

ヒトラー総統兼首相となる
バルカン条約

1935

69

『闘争の一五年』、『革命によって平和を』刊。
ソビエト訪問、ゴーリキーの家に滞在。バルビュス、モスクワで客死。葬儀に関してロランの弔辞をマルローが代読する。

フランス・イタリア協定

1936

70

70歳誕生記念祝賀会がブロック、アラゴン主唱で開かれる。
人民戦線政府の後援で『七月一四日』と『ダントン』が上演される。ゴーリキーの死を知る。
パリを訪れる。『道づれたち』刊。

フランス人民戦線成立
スペイン人民戦線勝利
スペイン市民戦争
二・二六事件

1937

71

フランスへの帰国を決意。ヴェズレーの家を買う。
『循活の歌』刊。

日中戦争

1938

72

ヴェズレーに移る。

1939

73

フランス革命150 年祭に『愛と死の戯れ』がコメディー・フランセーズのレパートリーとなる。『ロベスピエール』刊。

第二次世界大戦

1940

74

病床で著述をつづける。ヴェズレーにドイツ軍戦車隊侵入。クローデルとの交友復活。

パリ陥落
日独伊三国同盟

1941

75

ルイ・ジレーとの交友復活。

太平洋戦争

1942

76

『内面の旅路』刊。

1943

77

『第九交響曲』、『後期の四重奏曲』刊。重病、視力おとろえる。

イタリア降伏

1944

78

ソビエト大使館の革命記念祝賀会に出席。『ペギー』刊。12月30日、ヴェズレーにて永眠する。クラムシーのサン・マルタン寺院で葬儀。遺言によりプレーヴの小さな墓地に眠る。

パリ解放

ロラン没後の出版物
ベートーヴエン研究『フィニタ・コメディア』(1945 年)
『ベートーヴエンの恋人たち』(1949 年〉
自伝『敷居』(1945 年)
『周航』(1945 年)
『回想録』(1956 年)
その他日記、書簡集。

作成者 清 原 章 夫
     有 馬 通志子