エッセイ「トルコの車窓」 平成2年3月

 

  大学卒業直前、トルコを旅していた私は、アンタルヤからイズミールへ向かう長距離バスの中で、その少年に出会った。 トルコでは、オトガルと呼ばれるバスターミナルにて目的地を告げると客引きがやってくる。何となく、町で見かけたバスを選んでカウンターに向かうと、運よく、窓際の座席のチケットが取れた。旅人にとって、途中の景色は情報の宝庫である。気に入った町があれば、立ち寄りたい、後戻りしたっていい、そんなことを考えながらバスの中で出発を待っていると、7 歳くらいの少年が隣に座った。私をもの珍しそうに見ていたので、覚えたてのトルコ語であいさつをすると、小さな声で返事をくれた。恥ずかしいのかと感じた。 流れる景色を見ながら、30分くらいたっただろうか、ふと、あることに気づいた。この少年の母親である。少年が一人で長距離バスに乗っているのかと思っていたが、どうやら、前の座席に母親が座っているようである。先ほどから前に身を乗り出して駄々をこねているようだが、受け入れられなかった。何を言っているのかわからなかったが、何となく気になった。座席のことだろうか。母親の左隣は他人のようだから、この親子は、縦並びの座席となってしまったのだ。隣同士で座りたいのであろう。そうに違いない。そう考えると、母親に指と英語で、「私の席と替わろう。」と言った。すると母親は喜んでくれたようだった。しかし、席を替わってはくれなかった。なぜ?と思い、考えた。窓?、窓に違いない、わかったぞ。私は少年と座席を替わった。母親は、目に涙を溜めていた。少年は、持っていたお菓子を私の両手にのるだけわけてくれた。そして、私は、二人の反応から何か懐かしいものをいただいた気がした。窓の内側に、こんなドラマがあったのだ。