目的型コミュニティによるまちづくり

Modern−chick 平成9年2月

第1章 研究の背景と目的

研究の背景

高度経済成長以降、長い間地域社会において人々を結び付けていた絆であったコミュニティが崩れてきた。このことは、現代の様々な社会問題と複雑に絡み合っている。例えば、高度成長の過程で若者が大都市へ流出し、核家族化が進行した。周囲に知り合いがいないので、企業への帰属心が高まり、働きバチとなって日本経済はさらに発展していった。また、結び付けていた絆は、束縛でもあり、「婚期」といった世間体や社会通念のようなものがなくなってきて、晩婚化や少子化が進行したともいえそうである。さらに、現代社会からコミュニティに対しての期待も多く、大きい。これらのことは、次節以降で述べることにする。

一方、地域や職場から束縛を受けず「目的」で集まった団体が増えているそうである。例えば、まちづくりグループの一部や阪神・淡路大震災ボランティアである。また、コミュニティの像も、これまで当然のごとく前提とされていた一定の地域を基盤とするものだけでなく、より緩やかなネットワークとしてとらえられるようなものも増えてきた。本研究では、それらも含めて「目的型コミュニティ」と呼ぶことにする。

教育環境とコミュニティ

今日では教育や子育ての苦労は、全世界的な問題となっている。その中で日本の教育は欧米諸国をはじめ、国際的に高い評価を受けている。しかし、受験のための詰め込み教育は思考力や想像力を育てることとは逆方向に作用し、他方でやる気を無くした生徒たちの学校や学級では授業が成り立たないという嘆きが聞かれる。非行やいじめは学校の荒廃のあらわれであり、登校拒否や自殺は教育の前提が破壊されているのではないかという疑いを抱かせるのに十分である。現代における教育の問題は、何から取りあげてよいかと思うくらい山積している感じであるが、その中でも「個性の伸長」は最も重要視されているものであろう。

日本の教育が、個性や創造性を伸ばす点において他の先進国に劣るものであることは指摘されているところである。この問題は「教育」というよりも、日本人の意識の在り方、行動様式等という根本的な問題といった方が良いかもしれない。すなわち、教育における価値の一様性ということである。最近、人々のライフスタイルが多様になっただけ、価値観も多様になったといわれるが、教育についてはそれはあてはまらないようである。教育の実情を考えてみると、日本人すべてが「勉強のできる子はえらい」という一様な価値観に染まってしまっている。親は子供の点数のみ、序列のみを評価の対象にする。親が自分の子供の幸福を考えるとき、どうしても、自分の子供が社会的に優位な地位につくことがそれに直結するという考えに傾くからである。そのため、小学生のころから受験勉強に追いまくられることになり、性格形成上で何かが犠牲にされてしまい、それが現在の社会問題を引き起こしているのではないか。

今日、教育は主要には学校で行われていると考えられている。そのため、学校が人間形成のすべての任務を担っていると考える人も少なくない。しかし、子供は社会全体の影響を受けながら、家族、子供集団、学校等の集団的な活動の中で自治的、文化的な活動に参加し、そこで自治的諸能力を育てていく。そして地域、職場、自分の活動するすべての場において、自発的・自治的な能力が発揮できるような自治能力の基盤を形成していく。したがって学校は、子供が人間的に発達するという権利に対する責務の重要な、しかしあくまでも一部を担っているにすぎない。さらに、子供は異年齢集団の遊びの中で、地域の、あるいは広く民族の文化の伝承を行ってきた。かつての若者組のような人間形成の伝統に肩代わりするものとして発展してきた学校が、かえって人間形成にとって否定的な機能、人間性を抑圧する機能しかもっていないような状況は早急に克服されねばならない。そのためには地域の文化と人間形成の慣行のようなものを学校でも再構築される必要がある。 平成元年に出された学習指導要領では(1)心の教育の充実、(2)基礎・基本の重視と個性教育の推進、(3)自己教育力の育成、(4)文化と伝統の重視と国際理解の推進の4つの柱を挙げている。そのためには、子供たちの必要性と並んで、社会の必要性をとらえて、その実態に即したカリキュラムを作成すべきである。その方法としては、「学校開放」や子供が進んで校外の各種の団体活動に参加する「社会参加」や学校のカリキュラムに「地域研究」を取り入れるなど様々である。それには、地域社会の人々やボランティアの人々などその分野に深く関わっている人の積極的な理解と協力なくしては行うことはできない。このように、学校が家庭、地域、全体社会と有機的に関連づけられ、子供たちの多面的な学習の機会、発達の機会、文化への機会を増やすことがより重要となる。そして、学校は子供の全人格の発達につながる様々な諸力との関係を全体的に調整していかねばならない。

国際化とコミュニティ

今日、「国際化」という言葉に接しない日はないのではないか。数年前までは、日本における国際化は単なる「欧米化」にすぎなかったけれども、最近ではアジア圏も視野に入れられ、本来の意味での「国際化」について考えられつつある。それは金融、情報、モノだけでなく、人の交流が急速に拡大してきているからだろう。事実、最近の情報によれば、日本人の人口の1%を越える外国人が日本の中にいるという。多くの人々が日常生活の中で異なる文化をもつ人と接する機会が増加しているわけである。そうなると、「国際化」はもはや「国」を単位として行われるものではなく、個人レベルのface-to-faceの相互作用として行われる。このように、国際交流、異文化交流の大衆化が進むと、様々な問題が生じてくる。在日外国人が急増し、身近で異文化交流が行われる今、これらの問題を避けて通ることはできない。

国際交流において、最も問題となることは言語能力である。事実、日本人を対象にした調査では、近所付き合い等に積極的な意向を示しつつも、根強い語学コンプレックスに妨げられ、うまくコミュニケーションをすることができないという結果がある。そして、日本人は在日外国人も同様のコンプレックスをもっていると考える。しかし、世田谷区の在日外国人を対象とした調査によれば、彼らの中で最も深刻な問題は、(1)現地社会に溶け込むことができない、(2)差別、偏見、(3)教育、医療という日常生活と密接な関係にあるものを挙げている。日本人と在日外国人との間のこのような微妙な「ずれ」が誤解を生み、双方の壁になっていくのである。

次に問題になるのが、日本人の外国人に対する姿勢である。日本人はアイヌ人のような少数民族はいるものの、ほぼ単一民族国家であり、ほとんどの人が「異国人」の立場になるという経験がない。また、異文化との接触の機会が日常生活の多様な側面で行われるため、お互いのコミュニケーションの背景となっているものを理解しないまま、接触が行われる。そのため、相手にとっては無関心、あるいは過干渉としか思えない行動をとり摩擦が生じる。さらに、「彼らのために」という自己中心的な思い込みが、逆に地域から隔離することになることもあり得る。

このような問題を踏まえて、コミュニティはどんな役割を期待されているのだろうか。 まず第1に、国際交流に興味があっても、それに参加する術を知らない人や外国人と関わることのノウハウを知らない人へのサポーティングシステムとしての役割である。そのために、地域やその集団の特性や実情にあった方法により、交流の場を設定することが必要となる。ワークキャンプもその交流の場の1つであるが、より分かりやすい国際交流のための参加者主体のイベントも数多く設定する必要がある。第2に情報伝達の発信源としての役割である。日本人が支援したいのにその情報が外国人に届かない、あるいは外国人が援助を求めていても日本人に気付いてもらえないということがある。そのため、日本人の支援は期待できず不要なものと考え、外国人独自のコロニーを形成し更に孤立していく外国人も少なくない。ポスター、チラシ、くちコミ等あらゆる手段を使ったきめ細かな情報伝達網を日常生活の中に浸透させ、双方のジレンマを解消していくことが必要である。最後に、“他民族共生社会”という大きな意識改革を促すことである。今の地域づくりに求められていることは、日本と外国の生活実態の「ちがい」を大事にし、楽しむ社会をつくることである。マリ・クリスティーヌ女史によれば、国際交流ボランティアの精神は「私に魚の取り方を教えてください。これで私は一生暮らしていけます。」ということであるという。今、在日外国人が必要としているのは、彼らの「ために」一方的に解決策を提供するのではなく、彼らと「共に」問題解決の道を模索する、彼らの対等のパートナーである。そのための調整機関としての役割をコミュニティは担っている。

高齢化とコミュニティ

65歳以上の高齢者人口が 1,800万人を超え(以下、数字は総務庁統計局「国勢調査」及び厚生省人口問題研究所「日本の将来推計人口(平成4年9月推計)」)、全人口の約14%に及び、さらに増加の一途をたどる高齢化社会を迎え、人々は老後への不安をつのらせている。

人間が老化、高齢化するにつれ、社会生活上のニーズが満たされにくくなり、生活困難になるのはどの時代でも一緒であるが、現代特に論議になるのは、それらの問題が、現代の急激な社会変動によって新たな性格を帯び問題を増幅していることである。中でも1960年代以降の経済の高度成長政策に伴って生じた家族や地域の変化、人口構成やライフサイクルの変化によって新たな高齢者問題が生じてきたことである。それらの問題は、世代、性別、地域、職域の各領域の中に多様な形で拡大してきている。その中でも、「人口の高齢化と扶養問題」、「小家族化と介護問題」は深刻である。

その1…「人口の高齢化と扶養問題」

我が国の人口の高齢化は、平均寿命の伸びと急激な出生率の低下によって急速に進行している。65歳以上の高齢者人口が全人口の7%以上を占める社会を高齢化社会というが、我が国では1970年に 7.1%でその仲間入りをし、1995年には14.5%、2000年には17%、ピークの2020年には25.5%、実数で 3,200万人、4人に1人は高齢者という超高齢化社会を迎えるといわれている。

このことは、15歳から64歳までの生産年齢人口に対する高齢者人口の割合も上昇することになり、現在、 5.8人の生産年齢人口が1人の高齢者の扶養を負担していることになっているが、2000年には 4.8人に1人、2020年には 2.9人に1人を負担しなければならなくなる。医療費や年金の経済的負担、看護や介護の労力負担を通して、高齢者問題は、高齢者世代対若者世代の「世代間問題」となりつつある。特に、有病率や寝たきり率の高くなる75歳以上の層が、高齢化率が世界一の水準となる2010年には65歳以上の高齢者の47%を占めると予想されており、どうしても、これら高齢者世代と若手世代との共存を可能にする理念や具体的方策を早急に打ち立てておかねばならない。

その2…「小家族化と介護問題」

戦後、「家」中心の家族観が変わり、また、経済成長期の大都市への大幅な人口移動によって、単独世帯の増加が著しく、家族の個人化が進行している。その中でも単独世帯、特に高齢者単独世帯の増加が著しい。1970年、1980年及び1990年における単独世帯を形成する者の割合(単独世帯主率)の年齢分布をみると、年を追うにつれ男女ともに高齢期で単独世帯を形成する者が増加しているが、全般的に女性の方がその傾向が顕著である。また、男性の場合には、高齢者でも80歳以上の方が単独世帯を形成する者の割合が高くなっている。

また、高齢者のうち夫婦のみまたは単独の世帯の数は1993年現在 374万世帯で、高齢者の4割は高齢者単独か夫婦同志で暮らしていることになる。

高齢者世帯であれ、独り暮らし世帯であれ、自らが健康で経済基盤が確保されているときのみ安泰であるが、もし万が一の事態が発生したら看護や介護はどうなるのかということである。また、一定の介護機能をもつと考えられる三世代家族の場合でも親族網や近隣の相互扶助ネットワークが弱まっている中で、看護や介護の負担は、家庭生活全般に大きな影響を及ぼしている。高齢者問題は、まさしく、大きな「家族問題」である。

これからの高齢者問題の解決は、以上の問題に対し「総合的」に対応する行政的施策と、「個別的」にダイナミックに対応する住民参加の公私両者の緊張・協力関係によって支えられねばならない。

在宅福祉、地域福祉の必要性が叫ばれる中で、それらを支える親族や近隣、企業や行政などを結ぶ血縁・地縁・職縁のネットワークの編成を欠くことはできない。そのためには、それらの機関や諸集団の間に、日常的な交流が進み、国民全員の共通問題である老後について考え解決しようとするコミュニティ意識が育っていかねばならない。

情報化とコミュニティ

コンピュータや電気通信網の発展は産業構造を変え、オフィスの様子を変えてきている。オフィス・オートメーションの急速な進展は、仕事の合理化を促し、サテライト・オフィスや在宅勤務を現実的なものにしてきている。こうした変化は、高度経済成長によってもたらされた産業化の時代の職場と住居の分離によって、地域社会に不在となり、地域との関わりを稀薄にした「定時制市民」などと呼ばれていた仕事人間を、地域社会に戻す可能性が高いといわれる。産業化の時代の習慣から考えると多少抵抗のあることであっても、技術的に可能な条件が整い、コスト的に安いということになれば一般化していくことが予測される。

オフィスや工場等で進んでいるコンピュータ化やエレクトロニクス化は、一般的にそこでの個々のコミュニケーションを減少させているといわれているが、このような動向が、ある意味で家庭や地域社会といった、産業化の時代にその関係が弱くなっていた場への関心を高め、その場での個々の関係を強めることも十分考えられる。

電気通信網の高度な発達が、例えばテレビ会議の実用化というように、産業の時代に交通が果たしていた機能を果たし、より以上にメリットを持つような段階になれば、出張や転勤も現在より少なくなり、地域社会への定住性を高めるかもしれない。在宅勤務ということでなくても、地域社会への定住性が高まるということは、地域社会での生活の様相を変えることが予測される。人々が地域社会への関心を増し、具体的に地域社会での活動を行えば、それが自治活動であろうと、趣味のサークル活動であろうと、学習活動であろうと、共同体意識を育てるきっかけになりうる。

産業化の進展の段階で、従来の「村」的な地域社会の崩壊が深刻な問題となった。コンピュータ化やエレクトロニクス化のイメージさせる「冷たさ」や「人間性の乏しさ」は、情報化の進展が、これらの問題的状況をさらに悪化させるような危惧を抱かせる傾向もある。

しかしながら、産業化から情報化に向けての過渡期といえる時代において、人間関係の基礎的な場としての地域社会は、決して悪い方向への可能性のみを持っているわけではない。むしろ、職場での情報化が人々を地域社会に帰し、今までどちらかというと、行政主導型ですすめられた地域社会再建の政策でもあった「コミュニティづくり」を、市民が主体的な担い手として行う可能性が少しずつ増してきているようにも思われる。それと同時に、今後計画されている情報通信システムの開発も、地域社会に視点をあてて行われつつある点も注目される。

CATV、キャプテン・システム、文字放送といったニュー・メディアが地域メディアとしての役割を期待されてきている。しかし、電気通信メディアであるだけに、ミニコミ誌やタウン誌などの活字メディアとは条件が異なり、電気通信政策と大きく関連している。現在では、技術的な開発がかなり進歩しているが、それを実際に地域社会で、設置・運用していくためには、社会側の条件の検討と整備が求められ、地域住民のニーズに基づいたコミュニケーション政策の検討が課題となる。ニュー・メディアの持つ技術と、社会の側の文化を始めとする様々な条件とを突き合わせた上で、地域社会のニュー・メディアの将来が決められていかねばならず、この決定の中に、地域社会の主体性が反映されていくように努力する必要がある。地域社会のニュー・メディアを、単なる地域情報、生活情報の交換という機能のみに終わらせるのではなく、地域文化の創造や住民自治のために機能するためにも、地域における一定のコミュニティ意識が育っていかねばならない。

研究の目的

前節までのようにコミュニティへの期待が高まる一方、従来からあった自治会や職場の団体と異なり、まちづくりグル−プの一部や阪神・淡路大震災ボランティアに代表される「目的型コミュニティ」とでもいうべき集団が増えているそうである。これは、地域や職場から束縛を受けず、好きな時に、好きなことを、好きなだけ行うライフスタイルの一面であり、将来のまちづくり構想には欠かせないコミュニティであると思われる。しかし、自由である反面、冷めやすいという面もあり、継続の工夫や、そのパワーの活用方法については問題があるといわれている。

そこで、この「目的型コミュニティ」について調査、分析して、まちづくりへの活用方法を模索することを目的とする。ただし、ユニークで複雑な成果であることよりも、地味でも、まちづくり全体から団体一つ一つにとって役に立つことを優先する。

また、新しいライフスタイルの担い手である若者に着目し、そのエネルギーの活用方法についても検討し、単なる「意識改革を」といった提言でなく、より具体的な提言をすることも併せて目的とする。

第2章 研究の方法

研究の視点と方法

どのような「目的型コミュニティ」がまちづくり全体に有効であるか?が本研究の究極的視点である。しかし、まちづくり全体への効果については評価が困難であるので、団体側の分析とそれに参加する立場である若者側の意識の分析を研究の基本的視点とする。

そこで、私たちが「目的型コミュニティ」として考えている「しずおか未来づくりネットワーク」(静岡県総務部市町村課地域振興室)参加団体の中から4団体と、阪神・淡路大震災時にボランティア活動に参加し、最近になって静岡県内で活動を始めた3団体について、それぞれの活動目的や活動実績の違い、問題になっていること等を比較することによって団体側の分析を行うことにする。また、それに参加する立場である若者側の意識について、アンケート調査による分析を行うことにする。

分析の軸の選定については、それぞれ第3章、第4章、第5章で述べる。