「ほら、なに泣いてるの?」
ぽんと後頭部を叩かれた拍子に、一粒涙がこぼれてしまった。わたしは右手で頭を押さえ左手で涙を拭きながら、声の主に振り返った。
「マリーナぁ」
「ああ、もー。泣くな泣くな」
目に涙をためたままのわたしに、マリーナは困ったように笑いながら髪を撫でてくれた。泣きたくなんかないのに、涙がぽろぽろこぼれてしまって止まらない。「もう、どうしたんだろ。笑って見送るつもりだったのにな」
なんだか壊れてしまったみたいだ。自分で自分がおかしくって、それなのに笑えなくって、もっと困ってしまった。
そんなわたしをマリーナが見つめる。
「見送る、って……パステル、まだ言う決心ついてなかったの?」
「…………」
わたしは言葉に詰まってうつむいた。
やさしい春がすぐそこに来ている。でも今年の春はできるなら来てほしくなかった。春になれば、クレイはいなくなってしまう。
卒業。
笑っておめでとうと言わなくちゃならないのに、体が言うことを聞いてくれない。笑っておめでとうと言えたら、ひょっとしたら気持ちを伝えられるかもしれないと思っていたのだけれど。
「今言わなかったら後悔する、って言ってたのパステルだったじゃない」
「うん……」
「式の間中、ずっと誰を見てたの? これだけで終わりにしたくないでしょ」
「うん……」
ひとつひとつの言葉に頷きながら、わたしは自分の気持ちをかみしめていた。
ずっと、クレイだけを見ていた。クレイの目に映りたかった。クレイの隣に、自分の居場所が欲しかった。
だから……だから、クレイだけを見ていたい。クレイの隣に誰か知らない女の子がいて、クレイの目にその子が映っていて、クレイの隣に、その子の居場所があって……そんな風景は見たくない。
わたしは顔を上げた。
「決心、ついた?」
「うん。ありがと、マリーナ」
マリーナはにっこり笑って、それからわたしの背中をばしんと叩いた。
「よし! 行ってこーい!」
校庭にはたくさんの人があふれていた。あちらこちらに人の固まりがある中を、きょろきょろしながらたった一人の人を探した。
わたしは自分の目を信じていた。どんな人ごみの中だって、わたしは絶対にクレイだけを見つけられる。今までずっと、そうだったんだから。
思った通り、あまり時間もかけずに、ひとつの固まりの中にクレイの笑顔を見つけた。わたしがそっちに駆け寄ると、クレイも気づいたみたいで軽く手を振ってくれた。わたしも笑顔で手を振り返す。
不思議だな。ずっと不安で仕方なかったのに、クレイの顔を見たらそんなの消えてしまった。クレイの笑顔ひとつで、ちゃんと笑顔になれるんだ。
クレイがその固まりから抜け出てきた。わたしはその笑顔のままで側に行こうとして……突然、足が動かなくなってしまった。
クレイの学生服が風にはためいていて、その下のシャツが見えていた。
……そう、前をとめるべきボタンが、その学生服にひとつもついていなかった。
心臓が、いやな跳ね方をした。
クレイがやってくる前に、わたしはくるりと背中を向けて走り出していた。
瞳からは涙がこぼれていた。
別に、クレイの第二ボタンが欲しいとか、そういうことは思ってなかった。ただ、気持ちを伝えられればいいと、そう思っていただけだったけれど。
でも、どうしてだか涙が止まらなくて、クレイの笑顔が涙でくもってしまって、どうしようもなくて、気がついたら走り出していた。もう、心からの笑顔になれる自信がなかったから、その顔をクレイに見られたくなかった。
校庭の隅にある桜の木。
そこまで走ってくると、わたしはため息をついた。木にもたれて、空を見上げる。
……あげちゃったんだ、第二ボタン。あとのボタンも、全部。
それをもらえたラッキーな人って、誰なんだろ。その人がクレイの隣にいる権利ももらっちゃったのかな……。
涙が一粒こぼれた。次から次へとあふれてきそうになったとき、
「……パステル」
不意に、声をかけられた。聞きなれた声。……そして、聞きたかった声。
「……クレイ?」
はさんだ木の反対側に、クレイがもたれたのが分かった。わたしが黙っていると、
「……俺の、この格好のせいで泣いてるって……思っていいのかな」
クレイがそんな風に訊いてきた。わたしは答えられなくって、何も言わずにうつむいた。不意に、こんな言葉が出てきてしまう。
「……やっぱり、もてるんだね」
言いたいのはこんな言葉じゃないのに、言ってしまった言葉は戻らない。わたしは自分で自分をみじめにしてしまったのに気づいて、ますます落ち込んでしまった。
「うーん、もてる、っていうのかな」
なぜだか、クレイは苦笑したようだった。……? どうして?
「そういうの、もてる、っていうんだよ」
クレイは鈍いところがあるから、気づいてないだけかもしれない。だから、わたしはちょっと怒ったようにそんなことを言った。でも、クレイはもう一度苦笑した。
「パステル、誤解してない?」
「え?」
誤解ってどういうこと? わけの分からないまま目をぱちくりとさせると、クレイが動いてわたしの隣に来た。ちょっとだけ、困ったように笑う。
「これさ、部活の後輩たちにやられたんだよ」
「やられた、って……あげたんでしょ?」
クレイの言おうとしていることがいまいち分からなくて、わたしは訊き返した。でもクレイは笑って首を振った。
「あげないって。だって、そいつら男だぜ?」
「へ?」
わたしは驚いて間抜けな声を出してしまった。お、男って……
「クレイ、そんな趣味あったの?」
「違うって! 俺にもないしそいつらにもない! ただおもしろがって取ってっちゃったんだよ。ったく……さんざんみんなにからかわれたんだぜ?
特にトラップのやつなんか『クレイちゃん、男にもてもてじゃない』なーんてうるさいったら……」
クレイはうんざりしたように前髪をかきあげて否定した。クレイには悪いけど、その様子がおかしくって、わたしは笑ってしまった。だって……それってあまりにも不幸じゃない?
クレイは笑い続けるわたしを見て、それからふっと笑顔になった。クレイの笑顔があまりにうれしそうだったから、わたしは笑うのをやめてちょっと首を傾げてみせた。
「なーに? どうしたの?」
わたしが訊くと、クレイは瞬きした。ちょっと照れたようになって桜の木を見上げる。
「パステル……あのさ、この桜が咲くのを、パステルの笑顔と一緒に見たいんだけど」
クレイが耳まで赤くなってるのを見て、わたしはその次の言葉を待った。
「だから、今みたいに俺の隣で、ずっと笑っててくれないかな」
「それって、どういう意味?」
わたしはちょっと意地悪な気持ちでクレイに訊いた。クレイはちょっと黙って……それからいきなりわたしの腕を引き寄せた。
クレイの腕がやさしくわたしを包む。耳元でクレイがささやく。
「こういう意味」
クレイも照れてたけど、わたしの顔もきっと耳まで真っ赤だったと思う。心臓の鼓動に邪魔されて、ちょっとの間何も言えなかった。
でも、それが静まるにつれて笑顔が広がっていった。うれしくってうれしくって、どうしようもなくって。わたしはクレイにそっと呟いた。
「わたしも、クレイの隣にいたいな」
あんなにいやだった春の訪れが、その瞬間いきなり楽しみになってしまった。
だって、春になればクレイと一緒に桜を見られるんだから。
〜END〜
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