月が頭上にある夜だから、月が真上にある夜だから。
独り占めをするように、ゆっくりと歩いてみよう。
たとえ隣にあなたがいなくても。
宵闇にほのかな白が混じるのは、この季節の寒さのせい。夜空を見上げると星たちの間に、白い息が立ち昇った。
今日は、随分と、冷える。
部屋にこもったストーブの熱気にあてられてしまったので、窓を開けるのでも足りずマリーナは家を抜け出していた。ほんの少し、お散歩でもして。ほっぺを冷たくしてからまた火にあたろう。贅沢にも、そして無用心にも、家の中のストーブはつけたままにして家の鍵をかける瞬間はちょっとだけどきどきした。
ほんの一回り、家の近くをぐるっと回ってくるだけ。
そう思って家を出たのに、空を見上げたらちょっとだけ、それを延長させたくなった。
自分の真上に、ぽっかりと浮かぶ月。
まるでマリーナを照らすように。マリーナに差しのべられているように。
それは空を見上げるマリーナの顔の真正面に、真ん丸に薄く輝いて、昇っていた。
ほんのりと立ち昇る自分の息が外気の冷たさに白くなり、それが月の光をきらりと弾いてゆっくりと消えていく。
一瞬、哀しくなるほどに綺麗な光景だった。
息と一緒に、自分も月に吸い込まれてしまうのではないかと錯覚した。
けれど月はそこまで優しくはない。ただ黙って、マリーナを見つめる。
どうするの?
どこへ行くの?
ただ静かに問い掛けて、マリーナが足を向ける先についてくる。
ただ静かにずっと、天からマリーナを見下ろして。
わたしはあなたを照らしましょう。あなたに着いていきましょう。
あなたはどこへ行きたいの?
わからないのよ、とマリーナは月に話し掛ける。
わたしはわたしの行きたい場所が、わからないのよ、と哀しげに微笑む。
そうね、あなたなら、あなたぐらいの高さからなら、わたしの居場所が見つかるかしら?
月は黙って光を降らす。
マリーナも黙って月に微笑む。
教えてくれるはずなどない。そもそも自分が解らぬことを、月が解る筈もない。
マリーナが小さく息を吐くと、それはまた空へ立ち昇り光の粒となって消えた。
それでも。
月がついてる夜だから、マリーナはちょっと贅沢な気分で、月を独り占めするようにゆっくり歩く。
たとえばあの月からならば、彼の居場所が解るのだろうか?
そんなことをちらりと考えると、独りきりではない気がした。
だってきっと、彼もこの月の下にいる。
夜空に混じる白色は、エベリン特有の砂風だと思った。風が吹き上げた砂が街に降り、この暗い空の下では白くぼんやりと見えるのだと。
クレイは吐きあげた息がその白いものをふわりと飛ばしたのを見てやっと、それが砂ではなく雪なのだと気付いた。
どうりで、冷えると思った。
頭の真上を見上げると、ぽっかりと浮かぶ月の周りを、まるで光が降っているかのように白いものが舞うのが見えた。月が出ているのに、雲は決して厚くないのに、雪ははらり、はらりと空から舞い降り続けている。
エベリンに着いたのは夜も遅く、おつかいクエストの依頼者が予めとっていてくれた宿に皆で倒れこむとそのまま起き上がれなくなってしまった。どうせならマリーナに会いに行こうあわよくば宿を借りて依頼者からの宿代をせしめて――というトラップの目論見は、流石に遅くなったのでマリーナに迷惑がかかるという他の全員の良識的な意見によって却下されていた。
それでも、まあ、明日の朝にはちょっと顔を出してみようかな。
久々に風呂に浸かって、ちょっとのぼせ気味になったものだから、ちょっとだけ風にあたろうと宿を出たら、この雪にあたったのだった。
それは、ドーマの雪よりも、幾分か薄くて軽いように思えた。
砂と間違えてしまうくらいだもの。
クレイは言い訳するかのように心の中で呟く。
ひどく儚くて、息に触れただけでも融けてしまいそうだ。
白く立ち昇った息が、雪に触れて揺れた。
触れられた雪は、月の光の粒のように、小さく光って消えた。ように見えた。
月の周りを踊る雪の粒が、地上を吸い上げる儀式をしているかのようだった。
一瞬くらりと身体のバランスが崩れ、小さくよろめいてクレイは頭をふる。
湯あたり、しちゃってたかな。頭をおさえた指先が思うより冷たくて、ああ、やっぱり冷えてるんだとぼんやり思った。
まるで、月が欠片を落としているみたいだ。
少しずつ、少しずつ、砂粒のようにその身を削って。
何かを報せるように。
何かを教えるように。
何? 何が言いたいの?
手のひらをそっと差し出して、降ってくる雪を手にのせる。それはすぐにじんわりと水の玉になって消えてゆく。
月はどこへ足を向けても追いかけて、そっと雪を降らせてくる。
静かに、綺麗に、何も言わず。
何を伝えようとしてくれているの?
何か、おれが気付いていないことがある?
問うても、勿論雪は答えてくれない。
クレイは少し可笑しくなって、小さく笑った。
そうだね、人任せにしていては、いけないね。
砂のような雪だから、想いを託せば弾けて消えてしまうだろう。
だから静かにこの雪を浴びて、月の光の粒を浴びて、そっと自分に聞いてみよう。
まずはどこに行きたいんだろう? おれは何を目指したいんだろう?
頬に触れた雪に、次の角を曲がろうかとそっと囁いた。
雪だ、と思うと次の瞬間には思わず手をひらいていた。
ほのかでふわりとした、手にのればすぐ消えてしまうエベリンの雪。
月の光をあびて、きらりと輝く瞬間がこの上なく綺麗だとマリーナは思った。薄い雲の間にはまだ月の姿がある。
ふ、と、目を上げると。
まるでこれは――月が連れてきたんだろうか? 彼を吸い込んで?
目を丸くしていると、彼もこちらに気付いて目を丸くした。
そして、すぐに微笑む。
「マリーナ、君も散歩?」
その声に、もう少しで泣き出すところだった。頬に雪が触れたから、だから泣かずに済んだ。
「ええ、散歩。
クレイは? いつエベリンに?」
月は示してはくれなかったけれど、答えてはくれなかったけれど。
クレイもきちんとクレイで、どうやら月にさらわれてやってきたわけではないらしいのだけれど。
こうやって、ここで出逢えたことを、素直に嬉しいと感じられる自分がいた。
今日、少し前に、と答えながら、クレイの手が、マリーナの手に触れる。そんな格好で寒くはない?
冷たい。ううん、あたたかい。
月が、マリーナとクレイを照らしている。
雪がふわりと、マリーナとクレイに降り注ぐ。
ねえ。
あなたが居たい場所に、わたしも居るわ。
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