まとめた荷物が妙に小さくて、何故だか不意に笑いがこみ上げた。
キスキンで迎える、最後の朝。何も変わらないかのように、全ては動きはじめている。彼女の笑顔も、在るべき場所に戻った。
けれどだからこそ、ギアも。在るべき道に戻らなくてはならない。
遠くで聞こえる楽の音が、ギアにとって静かすぎる朝を辛うじて今に繋いでいた。 いつから、気づいていたのか自分でも正確にはわからない。
ただ、彼の気持ちに気づいたころから。彼らの結びつきを、強く感じたころから。ギアは、パステルが選ぶ道を薄々感づいていたように思う。
ここは、ギアの居るべき場所ではない。そして彼女も、ギアと共に居るべき人ではない。
わかっていた。けれど、わずかな期待もあった。それは淡いと呼ぶこともできないくらい、無意識に抑えこんだかすかな想いではあったけれど。
あのとき。
――そんな格好をしていると、ずいぶん年上に見えるな――
これが最後だ、と感じながらも、それを表に出すことなくギアがパステルに話しかけた、あのとき。
――いや。きれいだよ――
彼女は、自分の意思でギアの手から離れた。そして、ギアは全てを悟った。期待は一気に弾け、風に霧散した。
同時に、まだそんな期待を抱いていたのかと自嘲する自分もいた、ような気がする。
「おい。用意はすんだか?」
ノックをすることすらなく、ドアが開かれた。
「ああ」
投げかけられた声に振り向くことなく、ギアは答える。かつての良き好敵手であり、つい昨夜、相棒となった彼に。
ダンシング・シミターは壁にもたれて腕を組んだ。唇に浮かんだ笑みは、振り向かないギアに気づかれることはない。
「まだだろう?」
滑り落ちた言葉。ギアは黙って首を巡らせた。視線が、ぶつかる。
「まだだろう。『彼女』に伝えたいことがあるんだろう?」
一瞬の間。それを破ったのは、ギアの小さな笑みだった。
「わかってるさ。……あれは、用意じゃない」
むしろ、逆だ。用意というよりも片付け。そんな言葉で、位置付けてしまいたくないことではあるけれど。
「いや、お前が旅立つ用意だろう」
「勝手に言ってろ」
からかう声に構わず立ち上がり、ギアは小さな荷物を手に部屋を出た。
残されたダンシング・シミターは、ゆっくりと窓越しの太陽を見上げる。
まだ昇りはじめたばかりの太陽は、それでも確かに、その光を部屋の片隅に投げ込んでいた。
*
昨夜。これが最後だと思ったけれど。やっぱり、もう一度だけでも会いたいという気持ちがあったのも事実だった。
声が、聞きたい。言葉がまだ、伝えきれなかったものを抱え込んだままなのだとしたら。
もう一度、その声が聞きたい――
部屋の前。一瞬だけ、ためらって。けれど自分でも驚くほどしっかりと、ギアはそのドアをノックしていた。
「パステル……」
彼女は、出てきてくれるだろうか? 不安が無いわけではない。ギアは軽く瞳を閉じて、開いた。同時に浮かんだのは、笑顔。
それが何もかもを悟り、吹っ切った者の澄みきった優しい笑顔だということは、ギア本人にはわからない。
ドアが開く。中から、パステルの顔が覗いた。
「ギア……?」
パステルの目が、驚きに見開かれている。それはきっと、旅支度を整えたギアを見たせいなのだろう。
ギアは笑みを崩すことなく、口を開いた。
「これから出発するつもりなんだが……。手紙を置いていこうかどうしようか迷ったんだけど。やっぱり一目会ってから立ちたくってね」
素直に、本音が零れ落ちる。
「出発するって……どこに行くの?」
パステルの問いはまだ驚きに染まったままで、けれど。彼女も、薄々と察しているのだろう。
「さぁ……まだ決めてないけど」
朝の風に、その答えは運ばれていった。
もともと風のようなものなのだ、冒険者というヤツは。いつかどこかでぶつかって、けれど。それは交わることはない。
出会いは、偶然だった。それを必然に変える必要はない。無駄にすることさえしなければ、きっと。またいつか会える――。
「わたし、昨夜あなたを捜していたのに」
パステルの唇から言葉が洩れた瞬間、その瞳からも涙があふれだした。
「ごめんなさい……ごめんなさい……」
繰り返される言葉に、ギアは彼女の肩を抱いた。
わかっている。彼女の想いも、痛いほど真っ直ぐなその決心も。気づかないはずはないのだ、彼女を想っている気持ちに嘘はないのだから。
だから。
「パステルが謝る必要はないよ」
彼女が自分の夢を、未来を共に在りたい人たちの想いを、知ってしまったのなら。追いかけて欲しい、それが、彼の願い。
「でも」
「いや、男と女ってのは、そういうもんだよ。どっちが悪いわけじゃない」
何かをあきらめるということ。実際はそうではないのかもしれない。ただ、わかった瞬間に手放そうと思うだけ。そこに何かが残る限り、何も無駄にはならない。
だから、何かが悪いわけじゃない。何かが傷になるわけじゃない。
「おい、行くぞ」
声が、かけられた。ダンシング・シミターだ。
焦れたわけではないのだろう。きっかけを、離れるきっかけを投げてくれただけのこと。ギアは小さく笑い、一瞥して歩き出した彼の背中に声をかけた。
「ああ、わかった。今、行く」
「ダンシング・シミターと一緒に行くの?」
訊ねたパステルに、ギアは頷いた。
「昨夜、急遽そう決まってね。しかし、悪くないだろ」
――また、独りになる気か?――
昨夜、ダンシング・シミターはそう問うた。そして、答えないギアに続けた。
――俺も、独りだ。どうだ、二人になってみないか――
相変わらず、決め過ぎなセリフではあったけれど。ギアは頷いた。ダンシング・シミターは小さく笑い、宴を避けるようにして立ち去った。
「うん。すっごくいい。最強のコンビだわ」
パステルの声に元気が戻ったのが、ギアは嬉しかった。
「ああ、俺もそう思う」
ダンシング・シミターを見送りながら。そして、パステルにもう一度向き直った。
「じゃあ、元気で」
ギアは、手を差し出した。
また、会おう。絶対に。口には出さない、けれどギアの素直な想いだった。
いつか、どこかで――そしてそのときには、どうか、また笑顔を見せて欲しい。
忘れはしない、絶対に。君がくれたもの全て、君の笑顔全て。
君の、全てを……。
「ギアも、元気で」
精一杯の笑顔。差し出された、手のひら。
もう二度と、二人の夢が重なることは無いけれど。違う場所でなければ叶うはずのない未来しか、持っていないのだけれど。
重なる、手と手。握り締めた瞬間、ギアはその手を引き寄せた。
ギアにとって二度目の――最後の、キス。
触れ合った唇は、けれど一瞬のこと。体を離すと、ギアはパステルに微笑んで立ち去った。
*
「泣いても構わないぞ?」
待っていたらしいダンシング・シミターに、ギアは笑って答えた。
「そう言われたら、泣くものも泣けないだろう」
泣く必要など、ない。届かなかった想いに嘆くのは、自分にすがり付いて涙するのと同じだ。
哀しくないと言えば嘘になる。けれど。
パステルに出会えた。それが、何よりの救いでもあったから。一緒に過ごした日々が、彼女と自分を少しずつ変えてくれた。
それはマイナスじゃない。嘆くことじゃない。泣くための準備などではない。
胸を張って、笑うべきことだ。今、在るために、そのための準備だったのだから。
「そうか」
短く言って、ダンシング・シミターは一歩を踏み出した。
眠っていた道が、太陽の光に目を覚ましていく。この道を、歩く二人を待っている。
今日が、始まる。過去に囚われ続けた、今までが太陽に溶けていく。
ギアは目を閉じた。おかしなことに、その両目には別々の、二人の少女の面影が浮かんでいた。
思い出しては笑おう。いつか、思いきり涙するために。
これで、良かったのだから――。
彼女は、たった「一人」だ。けれど、「独り」じゃない。簡単なことなのに、何を勘違いしていたのだろう?
そして、自分は。
「何を考えているのかは知らないが」
不意に、ダンシング・シミターが振り向いた。荷物を背負い直し、口にする。
「『それ』は、お前も同じことだろう?」
――「一人」だけれど、「独り」じゃない。
ギアは、笑った。
そうだ、そんなに簡単なことだったのだ。皆、同じなのだ。きっと、絶対。
「ああ、そうだな」
笑って、笑って。何故だか不意に、涙が零れた。
ダンシング・シミターは気づかないふりで、太陽を見上げる。軽く、目を細めて訊ねた。
「さて。これからどこへ行こうか?」
小さく、首を振ってから。ギアは、顔を上げた。真っ直ぐに。
彼女に、恥じないように。
「そうだな、とりあえずは――」
風が、二人を吹きぬけて空へと還ってゆく。それを目で追って、ギアは空を仰いだ。
陽はまた昇る。彼女の上にも、彼の上にも――
〜END〜
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