窓を開けたら夜気がひんやりと頬を撫でた。きっかけはそれで充分だった。
奥のダイニングでは相変わらず、豪快な酒盛りが続いているようだ。そのざわめきは冷たい廊下をくぐり抜け自分の部屋まで届いていた。
陽気な笑い声。乱暴にビンとグラスが触れる音。トラップが誰かと賭け事をしているのか、ときどき喜びとも嘆きともつかない叫び声も聞こえてくる。母さんが追加の肴をテーブルに運びがてら、ほどほどにしなよと諫める姿まで目に浮かぶ。
いつも通りの、何の変わりもない我が家の年越しの風景だ。もともと盗賊団一家、たくさんの「家族」を抱えるこの家では、やれお宝が手に入っただのやれ宝探しの景気付けだの、誰かの誕生日だの何かよくわからないお祝いだのと年がら年中宴会が尽きない。マリーナ自身もそれは楽しみにしていることの一つだったし、さっきまで、誰かが当然のような顔でグラスに注いだ母お手製のポップ酒をこっそりと飲み干していたりもしていた。
酒がまわったのか、それとも人の多い部屋の熱気にあてられたのか。いつもは全く感じないのに今日は早くから妙に顔がほてって仕方がなかった。パタパタと走り回る母を手伝いながら注がれた三杯目を二、三回に分けて飲んだところで、これはどうもいつもと調子が違うぞと思い母にわびて自室に引っ込んだところである。
*
開け放した窓際が心地よく、窓枠に肘をつきぼんやりと外に目をやる。頭は大して働いていない。
ドア一枚隔てただけでも、ダイニングの宴はまるで別の世界の出来事のようだった。この部屋でさえそうなのに、ましてしんと静まり返り、何の混じり気もない闇が広がるこの屋外ではどうなのだろう。
頭は大して働いていない。
部屋の隅にかかる時計が、日付が、そして年が変わる時間へ向かってまた一つ針を動かす。誰かの溜息のように、夜の底に積もっていた風がゆるやかに髪を揺らした。不意によくわからない衝動に駆られて、マリーナは窓枠に足をかけていた。
外に出るのはすごく簡単で、拍子抜けすらしてしまう。ひやりとした地面の感触で自分が裸足なのに気づき、近くの植え込みの陰を探ってトラップの「逃走用」の靴を拝借する。ここに隠してあるのを即座に思い出す程度には、頭も働いてくれたらしい。
思った以上の寒さに一度身震いし、窓から部屋を探って偶然窓際に放り出してあったショールを一つ取り出し、肩にかけた。ただそれだけだったが身体の震えは収まり、夜気がほてった顔に心地いい、と感じられる程度になる。
束ねていた髪を解き、紐を手首に巻きつけた。二、三度頭を振り、髪を手串で柔らかく広げる。長い間ひっつめていたため髪の根元が鈍く痛み、無意識で首もとをほぐすようにめぐらせた。
外に出ただけで一気に、宴の空気が遠のいたように感じられた。代わりに、街路樹の葉擦れの音がやけに大きく聞こえた。
ざわ。ざわ。
部屋の窓を閉めるとき、目の端に入った時計の針はさっきよりも数分、進んだ場所を示していた。
ざわ。ざわ。
一つ息を吸い込むと、冷たい空気と共に街路樹の音まで飲み込んでしまったようだ。
その音に道を示されたように、マリーナの足は舗道へ向かった。
*
とっ、とっ、とっ。
石畳を叩く靴が、軽く硬質な音を立てる。その音も夜の闇にすうと吸い込まれ、すぐに気にならなくなった。
太陽を失い存分に冷えた風に、道を両側から見下ろす街路樹は小さく身を震わせている。
煽られ、顔にかかった髪は頭を振って後ろに流し、ショールの端を握る左手に右手を添えた。マリーナの足は次第に速まり、いつしか、全力で地面を蹴っている自分に気づく。
*
何を伝えたいんだろう。
どうしたいんだろう。
それでも、この年が終わり新しく年が始まる、その瞬間に、会いたい人がいたのだろう。
多分。
*
両脇の街路樹は凍えている。その向こうで明るい家々の窓が、マリーナが前へ進む度に木の陰に遮られながら、ちらついている。
白い息が立ち上るのを、そのとき初めて意識した。
闇の向こうに、煌々と光る松明に照らされた一つの立派な屋敷が浮かび上がる。
*
勢いだけで辿りついてしまったから、ここからどうしたらいいかもわからなかった。
門扉の格子に軽く指をかけ、あの人の部屋を見上げた。
カーテンの向こうから薄く灯りが洩れていた。
何を、考えているんだろう。わたしは。
すうと冷えた頭に、鐘の音が一つ響いた。
年が変わったのだ、とぼんやりと考えたとき、ギイ、と、近くて遠い場所から音がした。
*
「マリーナ?」
*
呼ばれ、驚いて振り返る。
どうして、だろう。
どうして、この人が現われるんだろう。
決して、驚くようなことではないのに、どうしようもなく不思議に感じられた。思わず口元に手がいく。
「どうしたの? そんな薄着で……風邪ひくだろう」
言いながら、クレイが庭を抜け、門までやって来る。そっと門を開き外まで出ると、手にしていた青いマントをマリーナの肩にそっとかけた。柔らかくて、あたたかい。
遠くで鐘の音が、聞こえる。
*
「…………った、から」
「え?」
わからなかった、けれど。自分がどうしてしまったのか、わからなかったけれど。
「言ってなかったから。また来年も――今年もよろしくって、言いそびれてたから。だから――」
会いたかった。
そんな言葉を口にするのは、まだ、どうにも出来そうにないけれど。
会いたかった。一番に。この年で一番最初に、会いたかった――
*
クレイは一つ笑って、そしてそっとマリーナの手を取った。
「そっか」
優しく言う。マリーナの様子が、それだけの言葉で全て説明出来るはずはないのに、いやそんな言葉が出ること自体がいつもと違う、そうであっても、それでもそれで充分だと言うように、優しく。
「ありがとう。おれからも。
今年もよろしく、マリーナ」
泣きたいのか、笑いたいのかマリーナはわからなかった。
それでも今年一番最初の自分が、泣いてクレイの目に映るなんてそれだけは嫌で。
あなたを想えるわたしは、ちゃんと笑える。
一度目を閉じあたたかい気持ちを充分に抱きしめてから、マリーナは笑う。
「うん。今年もよろしくね、クレイ」
*
鐘の音が聞こえていた。
どうか、あなたにとって今年もいい年でありますように。
神様に約束をねだるように、マリーナはそっと、けれどしっかりと、クレイの手を、握った。
*
どうか、今年もいい年でありますように。
|