やわらかな風が通り過ぎた気がした。
マリーナはそっと瞳を開け、体を起こした。窓からは早朝の風が吹き込み、マリーナの髪をもてあそびながら消えていく。
「窓、開けっぱなしだったから……そのせいか」
ぽつりと呟き、ベッドから降りた。ひんやりした床の感触が足伝わる。窓を閉めようとした瞬間、ひときわ強く、それでいてやさしい風がマリーナにぶつかった。風はそのまま二つに分かれ、マリーナを抱くように通り抜けた。「…………!」
瞬間、奇妙な胸騒ぎがした。耳元に残る不思議と暖かい感触がよみがえってくる。やさしい瞳が思い出される。まさか、ひょっとして……!
上着を羽織るとマリーナは部屋から飛び出した。もどかしげに階段を降りきったところで母にぶつかりそうになりあわてて避ける。
「どうしたんだい、マリーナ?」
目を丸くした母に、マリーナは問い返した。
「母さん、トラップは?」
母は、はっと顔をこわばらせた。マリーナに再び、問う。
「聞いてなかったのかい? 自分達で言うから誰もマリーナには言うな、って言ってたんだけど……」
母の言葉で、マリーナは大体のことを察した。間違いない。クレイとトラップは修行に出てしまったのだ……。
「ねえ、二人はいつごろ出発したの?」
「そんなに前じゃないけど……ほんの、数十分前くらいかしらね」
数十分……それくらいあれば街からどれだけ遠ざかることができるだろう?ましてや乗合馬車を使っていたとしたら。
気持ちに押されるようにマリーナは外へと駆け出した。
無駄だとは思いながらも諦めきれなかった。どうしてはっきりと今日出発すると言ってくれなかったのだろう? 笑って送り出せる自信はあったのに!
泣きたい気持ちをこらえながら、マリーナは必死で走った。いくつかある街の門から街道に目をこらす。けれど、当たり前ながら二人の姿など影も形もなかった。
「……ずるいよ」
マリーナの口から、小さく言葉がこぼれた。せめて涙だけはこぼすまいと首を振って空を見上げる。
ずるい。どうして笑って見送りさせてくれなかったのか。「行ってらっしゃい」と言わせてくれなかったのか。こんな行き方なんてずるすぎる。
笑って手を振ることが出来たなら、言葉にして送り出せたなら、気持ちを整理することだって出来たのに。心の中の想いを切り捨てることだって出来たのに。
その暇すら、きっかけすら与えてくれなかった。今マリーナにあるのは、何かをもぎ取られたような痛みだけ。この痛みだけを残して、二人は行ってしまった。
(ううん、そうじゃない、か)
胸を押さえ、マリーナは心の中で呟いた。
嘘をついて騙しとおすことなんてできないくらい一緒にいた相手だ。マリーナが心からの笑顔で見送ることなんてできないと、とっくに気づいていたのだろう。だから、出発を告げられないうちに今日が来てしまった。
それでも……気づかないでいて欲しかった。
『行ってきます』
不意に、声が聞こえた気がした。はっとして思い出す。
マリーナを見下ろす二人の姿。そっと笑って一言を風に乗せる。
……行ってきます……
……夢とも現実ともつかないあいまいな記憶。けれどマリーナは確信した。
夢なんかではない。あれは現実だ。寝ぼけた瞳はそれでもたしかに二人を映していた。
マリーナはその場に座り込んでしまった。
言えば良かった。たった一言でも、「行ってらっしゃい」と。夢でも、幻でも、伝えられたらそれだけで良かったのに……!
テラソン山から吹き降ろす風が、マリーナを通り抜けた。
この風はどこまで行くのだろう。ぼんやりとマリーナは思った。
もしも二人の間を駆け抜けることがあったなら、どうか伝えて欲しい。
風に思いを乗せるようにしてマリーナは唇を動かした。
「行ってらっしゃい。気をつけてね」
……そして、もしも二人に出会ったなら、わたしに彼らの無事を知らせて欲しい。この大陸を、風が巡っているのならば。
けれど、贅沢をいうのなら。
わたしが、二人を包む風になりたかった……。
再び出会ったとき、二人の間に自分の居場所はあるのだろうか?
マリーナの頬をやさしく風が撫でたとき、一粒の輝きが散っていった。
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