それは、青が見せた青。
その丘のてっぺんに一本だけ空を目指して枝葉を広げている大木は、ちょっとコツさえ掴んでしまえば木登りには最適だった。コツが要る理由の一つが、両腕を回しても届かないほど太くてつるっとした幹。ほんの僅かな凹凸を手で探りながら、そこに体重をかけ過ぎず上へ上へと登っていかなくてはならない。
その日マリーナは、クレイやトラップよりも一足先に学校から帰り着いた。偶然二人が掃除の当番にあたり、またマリーナは母からの頼まれごとがあったためいつものように二人を待って学校に留まることも出来なかった、ただそれだけのちょっとした偶然が重なったせいだった。
だから、家に帰ると母から頼まれごとがなくなったことを告げられ、二人が帰ってくるまですっかりマリーナが暇になってしまったことも偶然でしかなかった。
*
いい天気。
そう思うと家の中で大人しく宿題を片付けている気にもなれず、マリーナの足は自然と、この丘に向かっていた。
いつも三人でやって来る丘に、誰もいないことを確かめるとなんだか愉快な気分になった。ぐるりと一回り歩きながら、小高いその丘の上からドーマの街を見下ろす。
この季節特有の柔らかな光を、家々の白い壁が優しくはね返していた。
背中を一本の大木の幹にもたせかけて、マリーナはクレイとトラップがまだいるはずの学校の方へ目を向けた。
もちろん、上手い具合にクレイとトラップが学校から出る姿が見つけられるわけでもない。
だけどこの丘から眺める学校は想像以上に小さくて。そしてきっと、あの学校の窓からは丘のてっぺんにいる自分を見つけることは出来ないんだ。そう思うと可笑しくなって、ちょっとだけ気が大きくなった。
視線を上に転じると、重なりあう緑の葉の先に青く透き通った空が見える。
久しぶりに、登ってみようかな。
身体を木の幹から離し、つるりとしたその木肌に手をあてた。つう、と手を滑らせて、その幹のかすかな起伏を辿る。
トラップが一番苦労したのがこの木だったような気がするな、とマリーナは口元を緩めた。トラップがまだ幼く、少しふくよかだった頃のことだ。やっと、大抵の木であれば登るのにてこずらなくなってきてからも、この木だけはなかなか登れなかった。
といっても、手先が器用な彼のこと。コツを掴んでしまってからは誰よりもはやくてっぺんまで登りきれるようになっていたのだけれど。
*
ブランクがあったせいか多少足を滑らせぐらつきながらも、一番下の枝に掴まりグッと身体を安定させるとあとは簡単に登りきることが出来た。マリーナは右手と左手をそれぞれ丁度いい枝に任せ、具合のいい場所を選んで腰を落ち着けた。
この大木は奔放に力強く伸びた枝が外側に向かって大きく広がっているため、上の方に登ってしまえばかなりのスペースがある。だからマリーナとクレイは先に登って思い思いの枝に座り、必死で登ろうと試行錯誤するトラップを励ましたものだった。懐かしさに、かすかに胸が揺れた。
*
さあ、っと、風が吹き抜けた。
周りを覆っていた緑の葉が揺れ、ざわりと音を立ててその向こうにある景色をあらわにさせた。
さっきよりも高い位置から見下ろす、ドーマの街並み。
そしてその向こう。
果てしなく続いていく大地――――世界。
*
急に、視点がぐらついた。身体が揺れたわけではない。何か、不確かな強いものが、心にぶつかった。
わたしは。
この木の上から、この世界を見下ろすことしか出来ないんじゃないか。
あの学校がこんなに小さく見えるからって、何だというのだろう。
わたしは、ここからあの二人を見ていることしか出来ないんじゃないか。
あの二人は――この風と一緒に、この風のように、あの世界に飛んでいくのだろうに。
この世界に足がすくんでしまうわたしでは、あの二人の傍にはいられないんじゃないか――
*
「マリーナ!」
不意に、足下から呼びかけられビクっとした拍子にバランスを崩した。
しまった。
声を上げる間もなく、とっさに掴もうとした枝も手からすり抜けてしまい、滑り落ちるように木からその身が離れる。
「危ない!」
声を聞いたのはほとんど気のせいだと思った。けれど、気がつけばマリーナは、やわらかな衝撃にぶつかりながら地面に転がっていた。
「ん……」
身体にまだ衝撃が残っている。あちこちをズキズキとさせながら、マリーナはゆっくりと身体を起こした。
と。
「っつー……」
目の前にいたのが――というよりも自分が緩衝材にしたのがクレイだということに、マリーナは驚きを通り越して声を失った。ぱち、ぱちと瞬きを繰り返すことしか出来ない。
「マリーナ……、大丈夫?」
「え……? あ、あ、うん!」
そこでクレイの上に思いっきり乗りかかっている自分に気付き、マリーナは慌てて飛び退いた。と、地面についた左足に走る鈍い痛みに軽く顔を歪ませる。
「足? どうかしたの?」
すぐに感じ取ったクレイが、地面に腰を落ち着けたままマリーナの左足に触れた。気のせいではないらしい。もう一度、確かに感じた痛みにマリーナは左目を閉じて堪えた。
「ひねっちゃったのかな……ごめん、おれが急に声かけたりしたから」
「そんな、クレイのせいじゃないよ! それに、クレイが受け止めようとしてくれたからこれだけで済んだんだし」
首を振って、笑顔を作ってみせる。大丈夫だ。これくらい。
「そんなこと言っても、辛いだろ?」
「だから、平気だって。ちょっと休んでれば楽になるから」
もう一度、殊更に笑ってみせて、マリーナは木の根元に腰かけた。クレイはまだ心配した表情のままだったが、やがて申し訳なさそうにマリーナの隣に移って腰を下ろした。
「早かったのね。掃除当番は終わったの? トラップは?」
マリーナが訊くとクレイはちょっと困ったように笑った。
「うん、掃除は終わったんだけどね。トラップのヤツ、また居残り」
「えー?」
「掃除が終わって帰ろうとしたらさ、先生に呼び止められて。あいつ、昼の授業サボったらしくてそれがしっかりバレてお説教」
「あはは」
他愛もない報告でも、思わず笑ってしまう。そっか、じゃあさっき木の上から学校を見ていたときにはもうトラップしかあそこにいなかったんだな、なんて、どうでもいいことも考えた。
風がざわりと木の枝を揺らす音がした。
「マリーナは? 何してたの?」
クレイに訊かれ、マリーナは一瞬、ためらった。けれど次の瞬間、自分が何にためらっているのかがわからなくなる。
「あのね、木の上から街を見てたの」
曖昧に微笑って答えると、クレイは「へえ」と声を上げた。
「そっか、この木……相変わらず大きくてつるっとしてるなあ」
笑いながら右の手で幹に触れる。そしてクレイはそのまま木のてっぺんを見上げた。
*
「マリーナは、街を見るんだね」
*
「え?」
クレイの言葉の意図がわからず、訊き返してクレイを見つめた。
クレイは上に向けていた視線をマリーナに戻して、微笑んで言った。
「おれは、木に登ると空を見上げるからさ」
マリーナはしばらく、クレイを見つめたまま目を瞬かせていた。
クレイはまた、ゆっくりと顔を空に向ける。
「なんとなく、この丘に登ると空が近い気がしてね。木になんか登っちゃうと余計に」
笑い混じりの声で、楽しそうにクレイが呟く。
柔らかな風が吹いた。また一つ、枝葉がさざめいた。
風に誘われたように、マリーナも空に視線を上げた。木の枝の、葉の間から、薄い雲が流れる青い青い空が見える。
わたしは。
どうして気付かなかったんだろう。
この空の青さに。
この大地の上に架かる、果てなく続く青い空に。
風が吹く。
つられて舞い上がった一枚の緑の葉が、楽しげに空で踊った。
遠いものなのだと思っていた。
遠いものなのだと自分を納得させて、知らず、諦めようとしていた。
いつしか地に落ちた視線は、この空の青に負けない強さを、どこかに置き忘れてしまっていたのかもしれない。
*
クレイはのんびりと一つ伸びをした。
「やっぱり、落ち着くなあ。ここにいると」
マリーナは幾分か落ち着いた気持ちを胸の中に閉じ込めて、頷いた。
「うん、そうだね」
木に身体をもたせかけると、クレイの向こうに優しい空の青が見えた。
「本当に……ありがとう、クレイ」
「ん?」
訊き返されたことは、聞こえなかったことにしてそっと目を閉じる。
意識が遠のく中で、柔らかくあたたかな手が自分を包んでくれた気がした。
*
まどろむ直前に見えたのは、空を翔ける風。クレイが教えてくれた空の色。
そして、クレイの優しい色。
それは、青が魅せた青――。
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