午後、虹
―クレイ―

 

 雨はまだ、やまない。

 あまりに強く傘を打つ雨だれに閉口して、おれは右手で傘の柄を持ち直した。こんなに強く、長引くなんて思わなかったなと考えて、急がなくちゃ、と足を速める。
 大丈夫だ、と、彼女は言ったけれど。
 お客様なんだからゆっくりしてて、と、彼女は言ったけれど。
 それでも彼女だって、こんなに雨が激しくなるとは思っていなかったに違いないと思ったから。

 なかなか帰らない彼女が気になった。ひょっとして、大荷物にこの雨で困っているんじゃないか。そう思ったらやっぱり、放っておくことは出来なくて。
 出かける前にあれだけ断られたにも関わらず、結局家を抜け出して彼女を探して雨のエベリンの街を歩き回ってしまっている。

 前にやっぱり彼女の家にお世話になったときに教わった彼女御用達の店には、彼女はいなかった。
 流石に買い物は済ませてしまったんだろう。それでも――入れ違いになった可能性はあるとはいえ――家にはまだ帰っていなかったことを考えると、この雨に驚いてどこかで雨宿りでもしているのかもしれない。
 彼女が濡れていなければ、いい。
 彼女が冷たさに震えていなければ、いい。
 心配の理由は控えめに、けれどいくらでも浮かぶ。どうか彼女がめいっぱいの荷物に困っていませんように。どうか彼女がこごえていませんように。
 自分の手が彼女に届かなくても、せめて彼女が難を逃れていますように。
 故郷を出てからずっと、離れて生きる幼なじみの少女へ、いつも願うこと。

 彼女はいつも、大丈夫だからと笑って見せるから。

 ザンッ、と、雨が傘を叩いた。
 傘越しに空を見上げ、そして、自分の持つ傘をふと意識する。
 いつだったかも、こんなことがあった。ぼんやりと思ってから思い直す。いや、『こんなこと』?
 何を思ったのだろう。そうだ、傘だ。
 あのときも。

 あのときも、彼女は、なんでもないように笑って見せた。

 傘を持つ手を見つめる。マリーナの家に立てかけられていた、古ぼけた薄紫の傘。それを持っている手。
 そうだ。

 あのときも、おれが持っていたのは彼女の傘だった。

 ザンッ、と、もう一度雨が傘を叩いた。
 記憶の戸を、その音が、叩いた。
 そうだ、あのときも。

記憶の遠い遠い奥底から、あの空が浮かび上がる。
忘れていたわけでもなく、
思い返すごとに懐かしむわけでもなく、
けれどずっと、確かに記憶の底に広がっていたもの。

あの空が、初めてだったわけではない。
あの空が、最後だったわけでもない。
あの空が、特別だったわけではない。
当たり前のように空に架かったものが、
当たり前のようにおれたちを照らした。
ただそれだけだったのに。

それでも、雨が強く落ちるこんな日には、
誰かの言葉を思い出す。
あの空を、知らせてくれた言葉。

雨はいつか、止む。
けれど、それでも終わりじゃないんだ。

「本当に、傘ありがとう。助かったよ」
「ううん、気にしないで。わたしいつも傘の予備持ってるから、また何かあったら……」
 言いかけて、彼女は何か思ったらしい。「あ」という口の形をさせて、それから小さく笑った。
「もちろん、もう何もない方がいいんだけどね。でも、傘忘れたとか、そういうことがあったらまた貸せるから」
 『何かある』ということが、おれがまた傘をなくすことにかかっていることに気付いたのだろう。おれもそれに思い至って同じように笑った。

 学校からの帰り道。傘をなくしたおれと、おれに傘を貸してくれたマリーナ。おれの家の前で二人向き合っていた。
 少し手間になってしまうけれど、彼女に頼んで自分の家までついて来てもらったのだ。傘を返す手間を省こうとして。
 おれは持っていた傘を身体が濡れないようにしながら閉じ、自分にもマリーナにもかからないように用心深くその傘の雨粒を振り落とした。くるりと丸めてから、ふと気付く。
「そっか。このまま渡しちゃうと傘乾かせないんだ。濡れたままの傘持たせるのも悪いし……荷物になるもんな」
「え? いいのよ、別に。うちは大家族だから、傘とか一気に乾かしちゃうし。平気」
 マリーナは笑って、その傘を受け取ろうとする。
「でも、やっぱり悪いよ。おれが横着しようとしたのがいけないんだ」
 おれは苦笑して、マリーナの手から傘を遠ざけた。マリーナがちょっと驚いたような顔をする。

「折角、ついて来てもらったのにごめんな。やっぱり乾かしてからにするよ。こんな風にしてマリーナに傘返したなんて言ったら母さんにも怒られてしまいそうだ」
 冗談めかして最後の言葉を付け足して、おれはマリーナに謝った。
 マリーナは何か言いたそうにしていたが、ちょっと困ったように笑って頷いた。
「クレイのお母さんに叱られちゃうなら、仕方ないわね」
「もしすぐに欲しいってことなら、おれがマリーナの家に持って行くよ」
「ううん、言ったでしょ、うちは大家族だから傘にも困らないの。急がなくっていいから、思い出したらまた返してね」
 にっこりと笑って、マリーナは「それじゃ」と手を挙げた。おれも片手で応える。
「また、明日」
「うん、また明日」

 *

 玄関に入り、丸めていたマリーナの傘を解いてもう一度雨粒を振り落とした。と、そこで、自分が左手に何かを握っていることに気付く。
「?」
 手を開くと、中から出てきたのはくしゃっとした皺のついた、折り畳み傘の傘袋。
「あ!」
 思い出しておれは空いていた右手のひらで額を押さえた。

 確かあれは、家に着く少し前のこと。
 マリーナが少し足を滑らせてつんのめった。幸い、転ぶことも濡れることもなかったのだけれど、靴の調子が少しおかしいからと言って道の隅で靴を履き直したのだ。
 そのときに、一旦マリーナの荷物を預かった。傘袋はあのとき、確か鞄に入れたりすることもなくそのまま持っていたから、ああ落とさないようにしないといけないなあとまでは意識していた。
 けれど、それを返すところまでは、意識がもたなかったようだ。
 返すのを忘れていた。から、今この手の中にある。
「しまった……」
 呟いて、ため息を一つ吐く。これも忘れないようにまた返さないと。

 とりあえずの雨粒が落ちたのを確かめてから、水が滴らないように気をつけて傘を自室に持ち込んだ。もちろん、傘袋も一緒に。
 ドライヤー、あったかな。傘を乾かさないと。
 ぼんやりとそんなことを考えて、何気なく窓から外を見る。

 雨はまだ、強く降り続けている。庭に出来た水溜りにたくさんの大きな水玉が走る。屋根を、窓を叩く雨粒の音が遠い音響のように聞こえ続けていた。
 通り雨だと、思うんだけどな。
 傘袋を机の上に置き、傘をその机の横に立てかけ、ドライヤーを探しに出ようとして、ふと、窓の隅で何かが動いたように思えた。
 もう一度窓から外を見遣る。
「え?」
 そこに見えた人影に、おれは驚いて部屋を出ようとした。そしてふと気付いて机の上から傘袋を取り上げ、もう一度ドアを開けて玄関へと向かった。

*

「マリーナ、どうしたの?」
 門柵の向こう側でこちらを見ていたマリーナに、慌てて走り寄っておれは尋ねた。
 マリーナがちょっと驚いたように目を見開き、それから少し照れたように笑うのを見て、ああ、確かにマリーナだとどうでもいいことを思ったりした。
「ごめんなさい。あのね、傘袋をどこかにやっちゃったみたいで……それで、ひょっとしてクレイが持ってたんじゃないかと思ったの」
 やっぱり、と思って、おれは手で掴んでいた傘袋をマリーナに渡す。
「ごめんな、預かったまま返すの忘れてたのに、マリーナが帰ってから気付いて。ひょっとしてなくしちゃったんじゃないかって思っただろ?」
 受け取ったマリーナは、小さく笑った。
「ううん。こちらこそごめんなさい、なんだか催促しちゃったみたいになって」
 おれは首を振る。マリーナがまた何かを言ったようだったが、一際大きく傘を叩いた雨でそれが邪魔されてしまった。わずかに身を乗り出して「何?」と聞き返したが、彼女は何でもない、と笑う。
 再び、ザン、と、雨の音。

 と、そのとき、ふと思い出したことがあった。

「マリーナ、これからちょっと、時間ある?」
 訊ねると、マリーナは小さく首を傾げた。
「あるけど……なあに?」
「それじゃ、ちょっとついて来てくれないか? 傘袋はポケットにでも入れて」
 おれが茶目っ気たっぷりに口元に人差し指をやると、マリーナは小さく笑った。
「ええ、どこに行くの?」

 *

 街の中心から少し離れた原っぱに着いた頃には、雨は最後の力を出しているところだった。
 マリーナが不思議そうにおれの顔を見上げているが、いいから、とおれは空を指し示して何も言わない。

 確か、その前の日の理科の授業だった。
 先生が空を見上げてぽつりとそれを言ったのは。

 ふ、っと、雨が弱まった。
 す、っと、陽射しが雲間から差し込む。

「「わ……」」
 マリーナとおれ、二人の声が重なった。おれも、自分で言い出したことだったのに――普通に驚いてしまったから。
 本当に、それが架かったことに。

『こんな雨の日にはですね』
と、先生は何気なく言ったのだった。
『虹が見られるかも、しれないですねえ』
 そう言いながら黒板に、簡単な図を描く。続いていく説明が、雨の音にゆっくりと融けていき、なんだかすごく綺麗だと感じた。
『止まない雨はないんですねえ。こんな綺麗な贈り物まで残してくれるんですよ。ちょっとぐらいの雨にはおおらかでいようって気になるじゃないですか』
 先生はそう笑ってから、一呼吸置いてまた授業の続きに戻っていった。

「綺麗……」
 マリーナが空を見上げて声を漏らす。
「色々、お世話になっちゃった御礼代わりに」
 おれが笑うと、マリーナはこちらを見て少し面食らったようにまばたきし、それから嬉しそうに、微笑んだ。
「こんな御礼がもらえるなんて、まるでエビで鯛を釣っちゃったみたい」
 空に視線を戻して言う。
「ありがとう、クレイ」

 虹が架かる空を経由して、おれのところにまで声が届く。
「こちらこそ」
 おれも、空に向かって応えた。

 マリーナのその笑顔は――おれの気のせいかもしれないけれど――この日初めて、何の引っ掛かりも感じない笑顔だったように思えて、おれはそれが少しだけ、嬉しかった。

何でもないかのように笑う。
そんな彼女の笑顔が、どこかに引っ掛かっていた。

雨は止むんだよ、と、言ってあげたかった。
だけど、綺麗な虹がかかるんだよ、と、教えてあげたかった。
だから無理して笑わなくてもいい。
大丈夫だと言わなくてもいい。
この空はきっと明るくなる。
だから君が、必死で雨を隠さなくてもいいんだ。

雨が無くてもちゃんと笑えるんだから。
君は、ちゃんと笑えていたから。
あの虹の下で。
おれの気のせいかもしれないけれど、
綺麗な笑顔で、あの空を見上げていたから。

 角を曲がったところの喫茶店で、窓の向こうに彼女の姿が見えた。

 ああ、この喫茶店で雨宿りしていたんだ。
 ホッとして喫茶店に向かおうとする。と、傘の抵抗が弱まった気がして、おれは空を見上げた。
 雨が、止みかかっている。
 雲の向こうに、太陽が待っているのが見える。
 ひょっとして。

 おれはスピードを少しだけ上げて、喫茶店のドアではなく、マリーナが座っている席の窓へと近づいた。
 コンコン。
 ガラスを、そっとノックする。
 顔を上げたマリーナに、おれは微笑んで空を指差した。あのときのように、黙って。

 空には、ほら、虹。

 雨は止むから。
 そして、綺麗な贈り物を一つ、置いて行ってくれるから――。

〜FIN〜

 

 「午後、虹」が「午後二時」のもじりだと言ったら……怒られますか(滅)
 でもそうなんです……ごめんなさいごめんなさい。学校から帰って来たのはきっと二時ぐらいだったんですよ!てそれじゃあまりに早いな。土曜日?だったら遅い。……ぐぐ……ごめんなさい(もう一度。)

 というわけで、第一章でトラップが見ていたあの事件、そして第二章のマリーナの行動のその後とは、こういうことになっていたわけでした。無理がある? まあ今更!(ヲイ。)
 雨に、止まないでと願ったマリーナと、ちょっと対照させて雨上がりの虹を題材にしました。雨はやむけれど、それでも虹がかかるよ、と。しかしクレイ視点は難しい! これからの課題ですね。むむ。
 恋愛感情とは呼べなくても、クレイはクレイで、たくさんの想いを持っているんだろうと思っています。クレイの恋愛感情を出させないで、それでも大切な想いを出す――というのはとても難しいのですが。でもその距離感こそが大切だと思っている、クレマリ好きっ子のわたくしです。今回は? うーん……引き分け?(滅)
 というわけで微かではありますが、クレマリ風味が出せてればいいなあと。

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