雨つ風
―トラップ―

 

 雨の切れ端が頬にかかって、ハッと意識が覚めた。途端、雨がおれを叩きはじめる。
 いや、それは正しくない、か。正確には「叩く感触が伝わりはじめる」だ。実際、おれはずいぶんと長いこと雨に打たれていたらしいのだから。ぐっしょりと濡れた赤い髪に軽く触れ、おれは小さく口を曲げた。戸惑いが背を抜けてゆく。

 おれは、どうしてここにいる?

 おれたちは久しぶりにエベリンに立ち寄ったのだった。そのまま、ぐだぐだとマリーナの店に世話になっていて。
 何日か街を覆っていた雨雲が、とうとう今朝、雨を降らせはじめた。それをぼんやりと窓越しに見ていた、そこまでは覚えている。
 けれど、どうして好き好んで雨の中、傘も持たずに外へ出て――今ここで、雨に打たれて立ち尽くしているのか。それがわからなかった。

 誰かを追って外へ出たんだったか? そういえば、パステルたちが雨の中を散歩するとかなんとか言って出かけていったような記憶がないでもなかった。酔狂なことで、と、それをぼんやりと見送った記憶がないでもない。
 だったら、それを追って?
 そこまで考えて、苦笑する。どうしておれが、パステルたちを追いかけなくちゃならないんだ。雨の中、傘もささずに。

 砂漠の街・エベリンを湿らせてゆく雨は、いよいよ本降りになってきていた。傘を持たないおれは、もうすでにすっかりと濡れそぼってしまっている。
 けれど、そのままマリーナの店に戻る気にもなれなかった。
 何故だかなんてわからない。ただなんとなく、戻ってはいけない気がした。
 ひょっとしたら、理由はたったそれだけのことだったのかもしれない。戻ってはいけない。それが、おれが雨の中外に出た理由。
 そう考えたら、なんだかおかしくなった。それだけわかれば、いい。頬に当たる雨を厭うように、おれは軽く目を細めた。

 不意に、風が体を突き抜けた。風に飛ばされた雨粒がおれの顔を激しく叩く。思わず、細めた目をそのまま閉じかけた、瞬間。

 何かが、開いた。
 懐かしい、何かが。

 雨を含んだその風の匂いに、覚えがあった。ひどく懐かしい、忘れかけた――いや、忘れてしまった匂い。

 あれは、忘れたかったのだったろうか?
 あれは、忘れたくなかったのだったろうか。

 わからなかった。けれど、おれはなんだか妙に満足した思いにとらわれていた。そうだ、きっと。おれは、これを思い出すために――。

知らないうちに、雨が降り出していた。
ちょうどそれと同じように、おれは知らないうちに、彼女に惹かれていた。

言い訳が許されるなら、これは当然のことだろうと言いたい。
彼女に惹かれない人間なんて、いない。
雨が葉を滑り、土に吸い込まれ、やがては空に還るように。
それはひどく当たり前のことだった。

そしておれは、知らないうちに知っていた。
彼女の笑みが、向けられる相手を。

そうだ。あの日も。
ちょうど今日と同じように、知らないうちに、雨が降り出していた――

 教室の窓から見ていた空は、まだまだ黒く重いだけだったような気がするのに。いつの間にかその雨雲は雨粒を落とし始めやがっているのだから、くそ面白くない。おれは昇降口の前に立ったまま、憎々しげに空を見上げた。
 そういえば朝、母ちゃんが「今日は雨が降るから傘を持ってけ」ってうるさく言ってたような気がするな。めんどくせー、と思って、それを無視してきたのが悪かったのかもしれねえ。
 ラストの授業一時間だけなら、天気ももってたんだよな。よっしゃ、これなら傘なしでも全然問題ねーじゃねーか、と密かにガッツポーズもしてたんだ。律儀に傘持ってきてたマリーナやクレイを心の中で馬鹿にもしてたしな。

 あーあ。居残りさせられるなんて聞いてねーよ。

 とことんついてねー。いきなり居残りを言い渡されて、そいでもってそれが終わって帰ろうとしたらこの雨だ。ちくしょー、クレイを馬鹿にしたのが悪かったか。そういう問題じゃない気もするが。
 一つや二つ傘の忘れ物があったっておかしくない気がするのに、これまた運の悪いことに傘立てには一本も傘はなかった。いや、あることはあったんだが、その傘はしっかりぽっかりでっかい穴があいていて、とてもじゃないが傘として使えそうにないシロモノだった。
 当たり前といやあ当たり前なんだけどな。最近は、いつ雨が降るかわかんねーような天気が続いてる。一度傘を持って帰り忘れて次の日雨が降ったりなんかしたらどうしようもないし。
 でも。おれは「今」、どうしようもない状況なんだよ。
 一本ぐれー置いていってくれたっていいだろうが、と勝手なことをぶつぶつ言っている間にも、雨足はどんどん激しくなる一方だ。これは、ちょっと待ってればやむだろう、って程度の気楽な雨ではないに違いない。

 仕方ない。走って帰るか。よく考えてみたら、家までは全然対した距離じゃないわけだし。
 そんなに悩むこともなくおれはそう決めて、雨の中に飛び出した。ずぶぬれのおれを見たらまた母ちゃんはうるさく言うんだろう。それを思うとちょっとだけ気が重かったが、まあどうにかなるだろうとそれを頭から振り落とした。

 家のすぐ前まで無事(っつーかそれが当たり前なんだが)に辿りついたところで。おれは、もうとっくに帰っていたマリーナを見つけた。別におかしいことじゃなかったんだが、傘をさしてどこかへ出かけようとしているマリーナがなんだか妙に気にかかった。
 マリーナはおれには気づかずに、家を出て歩き出す。
 どうしてそんなに気になったのか……後から考えれば、なるほどと納得するだけの理由はあったのだ。だけど、そのときのおれには全くわからなかった。

 邪魔になるカバンだけ、家の中に放り込んで。おれは、マリーナを追って走り出した。

**********************

 後から考えれば――さっきから後から考えてばっかりだな――このとき、もしもマリーナを追わなかったら、もう少し何かが違っていたのだろうと思う。ただ、それは本当にかすかな違いであって、大筋を変えるものにはなり得なかっただろう、とも思う。
 どちらの道を選ぶのが正しかったのか。そんなこと、おれにわかるはずなんてない。いや、そんなことはどうだっていい。

 ただあの時。

 雨が、降っていたのだ。だからおれのその想いは、雨に流れたのだ。
 その想いがあったことすら、忘れたのだ。

 残ったものは、何だったのだろう?

**********************

 雨の中を、マリーナは歩く。ゆっくりと、ゆっくりと。何か、雨の日を楽しむように。
 おれは見つからないように少し離れて、急ぎ過ぎないように走りを歩きに切り替えた。そのころにはもう、おれの体はしっかりとすぶぬれていて、やっぱり母ちゃんにどう言い訳しようか、なんて考えると気が重かったりなんかした。

 やがて。
 マリーナの、足が止まった。おれも、足を止めた。
 翼竜を型どった紋章の、レリーフされた門柱。延々と、続く庭。
 マリーナの視線の先には、それがあった。大きな、大きな屋敷――。

 おれは無意識の中で、何かがカチリと音を立てて収まったような感覚を抱いていた、ように思う。それはひょっとしたら、感情の歯車ってヤツだったのかもしれない。

 ぐるぐる、ぐるぐる……。

 歯車が、廻り出す。

 やがて。

 マリーナの前に、そいつが現れた。屋敷から出てきたそいつに、マリーナは目を見開いて、――ゆっくりと、笑んだ。

 ああ、そうか。

 おれはそこで初めて、言葉を胸に抱いた。

 ああ、そうなのか。

 何に対しての言葉だったのかは知らない。それはひどく漠然としたものだった。けれどそれはすっぽりと、おれの中に収まった。
 泣いていたのかもしれない。おれは、泣いたのかもしれない。
 ただ、雨が、降っていたのだ。だから、何もかも皆、それに流されたのだ――だから。

 おれは、くるりと二人に背を向けると、家に向かって走り出した。

 風が吹きはじめた。雨粒を含んだ風が、頬を叩いた。
 湿った、匂い。

 家に帰って、放り出しっぱなしだったカバンを引っつかんで、部屋に閉じこもった。ガキっぽいと思った。自分はこんなにガキだったんだと、自覚したのは初めてだった。
 風の湿った匂いは、おれの体に染み付いていたのか、心に染み付いていたのか、それとも窓の隙間から部屋に滑り込んでいただけだったのか。いずれにしろ、その匂いは部屋の中にまで入り込んでいた。ひどく、みじめな匂いだった。けれど、何故だかほっとした。
 泣いてもいいのだと、言われているような気がした。

 涙は出なかった。ただ、妙に心が凪いでいた。
 そうか……そうだった、のか。
 ぼんやりと、あの雨の中の二人を思い浮かべた。

 マリーナは、あいつに、クレイに向かって微笑んだ。その瞬間、おれにわかったこと。

 マリーナは、誰に言う気もないんだろう。だったらおれも「そのこと」は言わない。だったらおれも、「ついさっき気づいた」自分の中の気持ちを見ない。言わない。
 どうあったところで、マリーナの想いが揺るがないことくらいわかる。いや、それ以上に。おれじゃあ、あいつには役不足だってこともわかってる。わかりすぎるほど、わかっている。

 クレイだから。相手は、クレイだから。

 おれだって女だったら絶対あいつを選ぶ。そんなクレイに、マリーナが惹かれるのは当たり前だ。
 クレイなら、いい。やたら鈍いところのあるヤツだから、まだ全然、マリーナの気持ちになんか気づいちゃいないんだろうが。
 でもクレイを想うマリーナが、不幸にはならないことくらいわかるから。その想いが、何処へ辿りつくのだとしても。
 マリーナは、クレイを想っていることで幸せになれるのだろうから――。

 おれは、笑ったのだろうと思う。笑おうとして、顔を動かしたはずだ。
 だけど、気づいたら頬を冷たい――それでいて熱いものがつたっていたのだった。

 雨だと思った。雨だと思おうとした。おれは部屋の中にいて、雨が頬にあたることなんてあるはずがないのはわかっていたけれど、けれど雨なのだと思った。
 だって、……湿った、風の匂いがする。降り続く、雨の音が聞こえる。
 だからこれは雨なのだ。誰がなんと言おうと、雨なのだ。……雨でなかったら、辛すぎる。

「……ちくしょー」
 洩れた呟きが、何に向かってだったのかは覚えていない。
 目を閉じて、寝転がって、そのまま、おれは眠ってしまった。

 どこか遠いところで、雨音が聞こえていた。何かがゆっくりと、おれの中の何かがゆっくりと、その雨に融けていった。

知らないうちに、忘れていた。
多分きっと、それは雨に融けてしまったのに違いない。

ああ、そうか。
おれは、きっとこれを思い出そうとしたんだ。
つい最近にも、似た思いを抱いた気がするから。
幸せなら、それでいいと。
そう告げた相手が、おれには居る。

まだまだおれはガキだ。
そう告げるまでに、ずいぶん彼女を傷つけた記憶がある。
ああ、そうか。
だからきっと、おれはこれを思い出そうとしたんだ。

けれど。
笑いたい気持ちでおれは空を見上げる。
雨粒を、顔に受ける。
残念だったな?
誰に向かってでもなく、おれは呟いた。

今度ばかりは、おれも雨に濡れてるわけにはいかねーんだ。
今度ばかりは、
忘れちまうことなんてできねーくらいの想いなんだよ。

 濡れた前髪をかきあげて、おれは小さく笑った。なんだ、こんなことだったのか。
 ずいぶん昔のことを思い出したもんだ。すっかり忘れていて、だけどそのことが無くなってしまっていたわけではなく。

 なんと言ったらいいのか……同化していた。それは、『あいつ』を想う気持ちと一緒になっていた。
 だから『あいつ』を追いかけて外に出た、というのもあながち間違いじゃないのかもしれない。

 なあ、マリーナ。おめーは、気づいてるか? おれがおめーをまともに見られるようになったのは、『あいつ』のおかげでもあるってことに。
 多分、そうだ。そうじゃなかったらおれは、雨に融け残ったおめーへの想いに振りまわされちまってたと思うぜ?
 そうならなかったのは、すっかりきっぱりその想いを忘れちまっておめーに会えたのは、きっと、おれが『あいつ』に惚れてるから、なんじゃねーのか?

 おめーは気づいてるんだろうな。そんで、今頃気づいたのかって笑うんだろうな。おれのことを。

 懐かしい、風の匂いに。おれは一人、そっと目を閉じた。
 眼裏に浮かぶのはやっぱりたった一人――そう。パステル、だった。

〜FIN〜

 

 「雨つ風」は、「天つ風」のもじりです。
 「天つ風」っていうのは、「空を吹く風」の意味で、それと「つ」の意味を考えると「雨つ風」っていうのは「雨と吹く風」とか「雨と共にある風」とかそういうような意味になると思うのですが、古文にくわしいわけでもないので、しゃれを重視してつけただけのタイトルだったりします(どちらも、「あまつかぜ」って読んでくださいねー)。

 わたしがトラップとマリーナの関係を書いたのは、ひょっとしたら初めてかもしれません。
 そもそも、トラップのマリーナに対する気持ちっていうのは、大抵真っ二つにわかれます。
 ズバリ、「マリーナはトラップの昔好きだった人(初恋の人)」or「トラップはマリーナのことが好き(現在進行形で)」。
 わたしね、このどちらでもないんですよー。というか、どちらでもなかったんです。
 トラップが、マリーナを好きだった(もしくは好き)ってことがどうも納得できない。なんというか、しっくりこないんですね。マリーナへの想いの形が「そういうもの」だというのが。

 が。ある日、ちょっとうとうとと眠りかけたわたしのところへ、トラップが降りてきたのです(笑)
 そのときわたしの心に浮かんだトラップの感情に、(ほとんど)忠実に書いたのが、この話です。
 これならOKかなー、なんて。自分がマリーナを好きだってこと、認識しないまま失恋しちゃったんだとしたら。

 この話、書き始めるまでが難産でした。トラップが動いてくれるかやたら不安で、プロットも途中まで組んだもののラストはほとんど放りっぱなしで(爆)
 でも、案ずるより生むが安しとはよく言ったもので。トラちゃん(ドーマ時代のトラップのこと(笑))、やたらころころと動いてくれて、ついていくのがやっとでした(笑)
 ラスト、トラちゃん……というか、トラップの想いの行きつく先がちょっとわかりにくかったかなーと思ったのですが、はっきりきっぱり名前を出し過ぎちゃうのはイヤだったので、最後の最後まで、あえてトラップの現在の想い人の名前は出しませんでした。
 でも、そうするとちょっとトラマリっぽく思えちゃうのかしら? バリバリトラパスのつもりで書いたんですけど……;;

 でも、トラパスでトラマリ苦手って人も読んでくださるとうれしいなあ、と思いますー。

 

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