雨の切れ端が頬にかかって、ハッと意識が覚めた。途端、雨がおれを叩きはじめる。 いや、それは正しくない、か。正確には「叩く感触が伝わりはじめる」だ。実際、おれはずいぶんと長いこと雨に打たれていたらしいのだから。ぐっしょりと濡れた赤い髪に軽く触れ、おれは小さく口を曲げた。戸惑いが背を抜けてゆく。 おれは、どうしてここにいる? おれたちは久しぶりにエベリンに立ち寄ったのだった。そのまま、ぐだぐだとマリーナの店に世話になっていて。 誰かを追って外へ出たんだったか? そういえば、パステルたちが雨の中を散歩するとかなんとか言って出かけていったような記憶がないでもなかった。酔狂なことで、と、それをぼんやりと見送った記憶がないでもない。 砂漠の街・エベリンを湿らせてゆく雨は、いよいよ本降りになってきていた。傘を持たないおれは、もうすでにすっかりと濡れそぼってしまっている。 不意に、風が体を突き抜けた。風に飛ばされた雨粒がおれの顔を激しく叩く。思わず、細めた目をそのまま閉じかけた、瞬間。 何かが、開いた。 雨を含んだその風の匂いに、覚えがあった。ひどく懐かしい、忘れかけた――いや、忘れてしまった匂い。 あれは、忘れたかったのだったろうか? わからなかった。けれど、おれはなんだか妙に満足した思いにとらわれていた。そうだ、きっと。おれは、これを思い出すために――。 知らないうちに、雨が降り出していた。 言い訳が許されるなら、これは当然のことだろうと言いたい。 そしておれは、知らないうちに知っていた。 そうだ。あの日も。 教室の窓から見ていた空は、まだまだ黒く重いだけだったような気がするのに。いつの間にかその雨雲は雨粒を落とし始めやがっているのだから、くそ面白くない。おれは昇降口の前に立ったまま、憎々しげに空を見上げた。 あーあ。居残りさせられるなんて聞いてねーよ。 とことんついてねー。いきなり居残りを言い渡されて、そいでもってそれが終わって帰ろうとしたらこの雨だ。ちくしょー、クレイを馬鹿にしたのが悪かったか。そういう問題じゃない気もするが。 仕方ない。走って帰るか。よく考えてみたら、家までは全然対した距離じゃないわけだし。 家のすぐ前まで無事(っつーかそれが当たり前なんだが)に辿りついたところで。おれは、もうとっくに帰っていたマリーナを見つけた。別におかしいことじゃなかったんだが、傘をさしてどこかへ出かけようとしているマリーナがなんだか妙に気にかかった。 邪魔になるカバンだけ、家の中に放り込んで。おれは、マリーナを追って走り出した。 ********************** 後から考えれば――さっきから後から考えてばっかりだな――このとき、もしもマリーナを追わなかったら、もう少し何かが違っていたのだろうと思う。ただ、それは本当にかすかな違いであって、大筋を変えるものにはなり得なかっただろう、とも思う。 ただあの時。 雨が、降っていたのだ。だからおれのその想いは、雨に流れたのだ。 残ったものは、何だったのだろう? ********************** 雨の中を、マリーナは歩く。ゆっくりと、ゆっくりと。何か、雨の日を楽しむように。 やがて。 おれは無意識の中で、何かがカチリと音を立てて収まったような感覚を抱いていた、ように思う。それはひょっとしたら、感情の歯車ってヤツだったのかもしれない。 ぐるぐる、ぐるぐる……。 歯車が、廻り出す。 やがて。 マリーナの前に、そいつが現れた。屋敷から出てきたそいつに、マリーナは目を見開いて、――ゆっくりと、笑んだ。 ああ、そうか。 おれはそこで初めて、言葉を胸に抱いた。 ああ、そうなのか。 何に対しての言葉だったのかは知らない。それはひどく漠然としたものだった。けれどそれはすっぽりと、おれの中に収まった。 おれは、くるりと二人に背を向けると、家に向かって走り出した。 風が吹きはじめた。雨粒を含んだ風が、頬を叩いた。 家に帰って、放り出しっぱなしだったカバンを引っつかんで、部屋に閉じこもった。ガキっぽいと思った。自分はこんなにガキだったんだと、自覚したのは初めてだった。 涙は出なかった。ただ、妙に心が凪いでいた。 マリーナは、あいつに、クレイに向かって微笑んだ。その瞬間、おれにわかったこと。 マリーナは、誰に言う気もないんだろう。だったらおれも「そのこと」は言わない。だったらおれも、「ついさっき気づいた」自分の中の気持ちを見ない。言わない。 クレイだから。相手は、クレイだから。 おれだって女だったら絶対あいつを選ぶ。そんなクレイに、マリーナが惹かれるのは当たり前だ。 おれは、笑ったのだろうと思う。笑おうとして、顔を動かしたはずだ。 雨だと思った。雨だと思おうとした。おれは部屋の中にいて、雨が頬にあたることなんてあるはずがないのはわかっていたけれど、けれど雨なのだと思った。 「……ちくしょー」 どこか遠いところで、雨音が聞こえていた。何かがゆっくりと、おれの中の何かがゆっくりと、その雨に融けていった。 知らないうちに、忘れていた。 ああ、そうか。 まだまだおれはガキだ。 けれど。 今度ばかりは、おれも雨に濡れてるわけにはいかねーんだ。 濡れた前髪をかきあげて、おれは小さく笑った。なんだ、こんなことだったのか。 なんと言ったらいいのか……同化していた。それは、『あいつ』を想う気持ちと一緒になっていた。 なあ、マリーナ。おめーは、気づいてるか? おれがおめーをまともに見られるようになったのは、『あいつ』のおかげでもあるってことに。 おめーは気づいてるんだろうな。そんで、今頃気づいたのかって笑うんだろうな。おれのことを。 懐かしい、風の匂いに。おれは一人、そっと目を閉じた。 〜FIN〜 |
「雨つ風」は、「天つ風」のもじりです。 「天つ風」っていうのは、「空を吹く風」の意味で、それと「つ」の意味を考えると「雨つ風」っていうのは「雨と吹く風」とか「雨と共にある風」とかそういうような意味になると思うのですが、古文にくわしいわけでもないので、しゃれを重視してつけただけのタイトルだったりします(どちらも、「あまつかぜ」って読んでくださいねー)。 わたしがトラップとマリーナの関係を書いたのは、ひょっとしたら初めてかもしれません。 が。ある日、ちょっとうとうとと眠りかけたわたしのところへ、トラップが降りてきたのです(笑) この話、書き始めるまでが難産でした。トラップが動いてくれるかやたら不安で、プロットも途中まで組んだもののラストはほとんど放りっぱなしで(爆) でも、トラパスでトラマリ苦手って人も読んでくださるとうれしいなあ、と思いますー。 |