・五十五章~終章・
五十五章
久し振りに戻ったベベロに、老は目を丸くした。
「……ベベロさんかの」
ベベロは照れ臭そうに下を向いて、もじもじとしている。
「嫌ですわ、老、そのようにじっと見られては……」
「うん、いや、まあ……」
確かに、ベベロさんじゃ、と頷く。
ベベロは随分と様変わりしていた。というよりも、百年前の姿に戻っていたのだ。
「わたくし、どうにも老にお会いできないのが切なくて……食欲が落ちて、そしたらこんな」
痩せてしまった。ベベロは、あれ恥ずかしい、と顔を押さえて背ける。
「これこれ、隠さんでもよい。ほおー……」
妖魔界一、二と謳われた頃よりは幾分年を重ねたが、スリムな体に出る所は出たラインや、愛らしい笑顔には何の変わりもない。
老はにやにやと笑う。
「こりゃ驚いた。ベベロさん、そんなにわしに会いたかったかの」
「はい、それはもう……」
答えてベベロは涙ぐむ。
「ありゃ」
老は慌ててベベロを慰める。
「泣かんでいい、わしが悪かった、人間界へたった一人で遣いに出したわしが悪かった。のう、ベベロ」
「ヤサ様……」
ベベロは目を擦ってにこりと笑う。
「ずっと、チョウラの子の家におったのか?」
「はい。お帰りになったヨウ様やトシヤ様から幾分の事情は伺いましたが……」
「……そうか。なら、話して聞かせようかの……」
老は新しく出来たばかりの屋敷の窓から外を眺めた。中庭に色とりどりのナジの花が咲いている。
この森に咲くナジはハジャナジのように大輪ではないが、可憐な白いパオナジである。隻腕の鋼族が、パオナジの世話をしていた。
ゴウである。
終始無言で、手入れを続ける。この森に、ミョウの亡骸を埋めた。ここは、ミョウの生まれた森だ。いつかまた、ミョウが生まれて来るかもしれぬ。そう信じて。
「メカナ様」
サンの国の城の一番端にメカナの私室がある。メカナはこのところベルとザラサにしか会わぬ。その為、どんな瑣末な用事でも、ザラサが請け負うことになっていた。
「仰せの飛びリラです」
「ん……」
メカナの髪と同じ色の、見事な毛並みの飛びリラだ。
捕って来いと言った癖に、メカナはザラサの捧げ持つ籠を一瞥もせぬ。椅子に腰かけ窓辺に肘で凭れかかり、ふう、と怠惰に呟く。
「詰まらぬ……退屈だ」
老の手回しによって、崩れ掛かっていた国々のバランスは保たれた。メカナは手中にしていた人間界と繋がる穴も全て妖魔界の共有財産として手放す羽目になったのだ。
ベルは床にペタリと座り込んで、そこら中に散らかしたナジの花で首飾りを作っている。昨日ザラサが持って来た花だ。既に花冠がベルの幾分伸びた黒いおかっぱ頭を、色とりどりに飾っている。
「どうだザラサ」
「よくお似合いです」
「そうか。これができたらお前にやろう。もうじきだから座って待て」
「……は」
ザラサは仕方なく床に正座する。
「詰まらぬ……そうだザラサ、歌でも歌え」
「は……う、歌でございますか」
困惑するザラサに、国主の命だ、とメカナは言う。畏まりました、とザラサは正しく畏まって歌い出したが、三言も歌わぬうちに、
「もうよい」
とメカナは顔を顰めた。申し訳ございませぬ、とザラサは冷や汗をかく。
「……チンから何か言って来ぬか」
ザラサは頭を垂れ、何も、と答えた。
「……詰まらぬな」
メカナは窓を向いて溜め息を吐く。ザラサはそのメカナの横顔を見る。このところメカナの部屋で、まるで日課のように繰り返される光景であった。
山崎は溜め息を吐く。
「ああ……裕美ちゃん……」
克己は困ったようにあははと笑って、友人の背中をぽんと叩いた。
妖魔界(むこう)でてんやわんやの間にもそんな気はしていたけど、と山崎は泣く。チンが柊家の一員となって新しい家に住み着いたと聞いた日には、教室の机に齧り付いて泣くしかないではないか。
「そう泣くなよ勝太。裕美一人が女の子って訳じゃないんだから。ほらほら、見ろ、教室の半分は女子だぞ」
「うう。お前にそういう慰められ方するとは」
人間界を十日近く留守にしていたのだが、柊家及び山崎の失踪は、大きな事件にはなっていなかった。数也は、全く便利な伯父である。
「……そういや克己、お前眼鏡は?」
「ん? ああ、いいんだ。どうせ伊達だったし」
その伊達の意味を山崎は知っている。克己? と尋ねると、もう、いいんだ。と克己は笑った。
「……そうか。ま、深くは聞かねーけどよ。でも気付いてっか? 今朝からお前、ますます女子の注目浴びてっぞ」
「え?」
だめだこりゃ、と山崎は俯く。
「あっあっ、見捨てるなよ、何、何だって?」
いーや、見捨てる、と席を立つ山崎に克己はすがり付く。
「……そーいやお前の妖魔界(むこう)の妹、ベルちゃんだっけ。まだちっこかったけど、けっこ美人だったよな。お前に似て」
「……なにお前、年下趣味?」
「こーなりゃお前でもいーや」
今度は克己が、見捨てる、と背を向けた。
「あっあ、見捨てないで」
そして山崎が克己にすがり付く。
新築された柊家は三階建てで、二階を丸々<穴>の為のフロアにした。これからもちょくちょく寄らせてもらうから、と新築資金の半分は数也から出た。というより、敏也達住人が帰って来る先に施工に手を付けて、建て替えておいたから半分出せ、と言ったのだが。
「いや、これだけの穴が住宅地に開くに任せるのは危険じゃないか」
これが、お帰り、の次に数也が敏也に言ったセリフだ。敏也は、はあ、そうですね、と言う他なかった。
ちょくちょくどころか、数也はここを新たに仕事の拠点にしたようだ。家人が学校や仕事から帰って来ると、しょっちゅう居間で何やらしている。
「伯父さん……住むなら住むではっきりしてもらえませんか。部屋を用意しますから」
「ん? 気にするな。……そうだ。敏也、峻くんから連絡は?」
いいえ、と敏也は首を振る。
「……そうか」
数也はばりばりと首を掻いて。
「ここと、もうひとつ他にあった穴も、今は俺が管理してるが……その穴で、俺の仕事関係で揉めてる所へ、来合わせたらしいな、峻くんは。銃弾の傷があった、と言っていたろう。撃った奴が見つかった。そいつに聞いた、いきなり現れて何もかも吹き飛ばしていった男の人相風体が、峻くんそっくりだ。その一吹きでエラいさん方の悶着が、嫌でも治めにゃならなくなったんだがな。……まあ、お蔭で俺の仕事はご破算だが、やな事を一つやらずに済んだ。一言礼と詫を言いたいんだが」
「……」
敏也は俯き、唇を噛む。その顔に、数也はサングラスの奥の目を細め、そっと呟いた。
「……伝言は、間に合わなかったかな?」
「……はい」
終章
気が付くと、彼は見知らぬ草原にいた。足首まで埋まる草は、「草色」ではない。枯れている訳ではなさそうなのに、オレンジ色をしていた。空の色は対を成すように翠(みどり)。
――いや。俺はここを知っている。
オレンジ色の草原の向こうに、一人の子供が立っていた。子供はじっと彼の方を、大きな目をかっと開いて見つめている。きれいな子供だ。だが彼にはすぐにわかった。あれは人間の子供ではない。
子供が口を開いた。透き通る、きれいな声だ。
――この子供を、知っている。
――ああ、そうだ。俺はここで、ヨウに、出会った。……
サジの林を、殆ど無意識に抜け出た。激しいエネルギーに、あれからどの位の時間と距離を飛ばされたのだろう。かつて初めて妖魔界に足を踏み入れた時の幻が、まるでスクリーンのように空気に映る。
一度は己とヨウの気で、荒野となった草原。全てが幻でないなら、回復したのだ。そう思うと、何故か嬉しい。
林の中で、どれ位倒れていたかもわからぬ。オレンジの草を踏みながら、歩を進める。あてなどない。
一人になれたのだ。
峻の口に微笑みが上る。穏やかな笑みだ。
ぼろぼろの体を引き摺って、不意に歩くのを止めた。足元を見つめる。オレンジの草々。膝を着き、抱き締めるように身を倒した。草の匂い。目を閉じる。
ヨウの幻が、立っていた辺り。
――俺はここで、ヨウに出会った。
「――おい」
声はヨウのものだ。
「なにやってんだ?」
峻は身を起こした。オレンジ色の草原の向こうに、一人の子供が立っていた。子供はじっと彼の方を、大きな目をかっと開いて見つめている。きれいな子供だ。だが彼にはすぐにわかった。あれは人間の子供ではない。
子供が口を開いた。透き通る、きれいな声だ。
――この子供を、知っている。
――ああ、そうだ。俺はここで、ヨウに、出会った。……
終わりのない幻灯を見るようだ。ああ、こんな幻なら、いつまででも見続けよう。あの幻の場所に行って、幻の足下を抱き締めるのだ。
幻が笑った。
「何て顔してんだよ?」
幻が近付いて来る。オレンジの草を踏み、峻の跪く場所まで。
「……夢でも見てたんか?」
間近に、ヨウの顔。
「あーあ、お前ぼろぼろじゃんか。そんなんで寝てたら、死んでると思われるぞ。んだから俺の気にも気付かなかったんだろ」
「……ヨウ?」
「うん」
「……本物か?」
「何言って……――」
峻はヨウを掴まえ、草の上に倒した。身を重ね、ぎゅっと抱く。先程、草原の大地にしたように。
「……峻」
「先生はどうした」
髪を撫でる。
「……放って来たのか」
頬を頭に擦り付ける。
「家族の元に帰れ」
「……お前言ってることとやってることばらばらだぞ」
峻は無言でヨウを撫で続ける。
「……俺が来てうれしいだろ?」
峻は答えぬ。
「……心配すんなよ。俺黙って来たんじゃないし。ちゃんと敏さんや皆に話して……会いたくなったら、戻ればいいんだし。なんたって俺んちに出入り口があんだぜ。……なあ、うれしいって言えよ」
ヨウは峻の背を抱き締める。
「せっかく会いに来てやったのに」
「……ああ。うれしい」
「……だろ?」
「……会いたかった」
ヨウの涙腺が堪え切れずに涙を溢す。目尻からつ、と流れる涙を、峻は口で吸った。
「峻っ……」
涙はとめどなく溢れる。峻は口で吸うのを諦めて、頬を当てた。ヨウはしがみ付いて泣いている。
「あ……会いたかったっ……会いたかった……会いたかった……!」
わんわんと泣くヨウをきつく抱く。夢なら。
幻なら、きっと自分はもう、死んでしまっているのだ。幻の体温を感じる。心音を感じる。
「ヨウ……」
「うんっ……うんっ」
呼べば答える。泣きじゃくりながら。手の中にいる。これは俺のものか。
いいや駄目だ。放さねばならぬ。手放さねばならぬ。この手の中のものが、愛おしいならば。
禁忌(タブー)だった。愛しいものを手に入れるのは。これは、壊れはしないか。俺は壊しはしないか。―――
「……峻?」
帰さねばならぬ。
――帰したくない。
これを大事に思っている者のところへ。
――放したくはない。
「……何時迄ここにいる?」
震える声で、小さく尋ねた。
ヨウは泣き顔でニッと笑った。
「お前がダメだって言うまで。でもダメって言っても、いるけどな」
ヨウの背中にオレンジの草原。峻の背に翠の空。
峻はまだ怯えている。だから口付けは、唇の端にほんの軽く触れただけだった。
終