「東遊記(GO EAST)-斉天大聖異聞-」

・第12回(最終回)・

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「遅いですねえ」
 トラックの中で、竜男は武井家の別荘を見つめて呟いた。高昌が別荘の玄関の鍵を破壊して乗り込んでから、もう三十分は経っている。
 高昌が退いた助手席で、紅緒は、むうー、と膨れている。膨れながら、目は今にも泣きそうだ。
「僕、見てきましょうか?」
 紅緒に尋ねる竜男を、それでも「野暮言うんじゃないのッ!」と叱り付けるだけの理性は持ち合わせていた。竜男の方は叱られてから、「えっ、え?!」と想像が追い付いたらしい。
 荷台では、秋生が幾度目かにちらりと正臣を見た。
「……いい。わかっている」
 小さく応えた声は、余りに静かで、その昔、忍ぶ恋をしていた水妖を、秋生に思い出させた。



 高昌はぱちくりとして、「今、なんて言った」と尋ねる。
「その、俺に、して欲しかったとか、そんな風に聞こえたんだが」
 貴史は、カアアと首まで赤くなる。
 その顔を見て高昌は、聞き違いではないと確信したようだ。何処かそわそわと言葉を繋ぐ。
「……でもお前、……そうか? 嫌じゃなかったか?」
 貴史は気恥ずかしくて、床に落ちたシーツを頭に被った。
「あっおい」
 シーツ越しに高昌の声がする。
「隠さねえでくれ、あんたの顔が見たい」
「……だって」
「……頭隠して尻隠さずだぜ」
「!」
 ばっとシーツを腰に落とす。現れた貴史の頭を高昌はすかさず掴んで、唇を押し付けた。
 恥ずかしさに引き締めていた唇から、次第に力が抜ける。貴史の手は高昌の腕に触れて抵抗するような仕草をしたが、やがてゆっくりと高昌の背に回って行った。
 高昌の口付けは、相変わらず乱暴だ。貴史の体をきつく抱き締めて、嵐のように唇を貪る。長い時間そうして、漸く唇を放したと思うと、いきなり高昌は「駄目だ」と言う。
「……え?」
「わかってるんだ、あんたは偉い目に遭って疲れてるだろうし、きっとあちこち痛えだろうし」
 ぶつぶつ呟いたと思うと、高昌は拗ねたように困ったように、しかし赤い顔をして、「もう一回、いいか」と尋いた。
 貴史は瞬き、吹き出した。
「あッ、笑いやがったなッ!」
「だって、」
 貴史は微笑む。滲む涙を拳で擦る。
「……俺と、おんなじこと考えてたから」
 三蔵、と呼んで、あっと高昌は尋ねる。
「貴史の方がいいか?」
 貴史は首を振った。その拘りは既に消えた。
「……どっちでもいい。俺こそ、悟空さんって呼んでるけど」
「いい。『』付けてねえだろ?」
「……うん」
 高昌は気付いていたのだ。すなわち、貴史と高昌の距離が近付いていたことに。
「……一つお願いしていい?」
「あ?」
 貴史は、照れ臭いのを抑え付けて、口にした。
「……なるべく、ゆっくりやって」
「……ああ、そうか」
 高昌が神妙な顔をして、頑張る、と言うものだから、笑ってくれた方が恥ずかしくなかったかも、などと貴史は思うのだ。
 高昌は貴史の腕を掴み、引き寄せた。唇を重ね、ゆっくりと貪り始める。どうやら貴史の望みを入れてくれるつもりらしい。
 次第にキスは激しくなる。高昌の手は、貴史の髪を撫で、肩から、背、足へと滑り行く。貴史を隠すシーツが、這う手に押されて、するりと落ちる。正直に熱くなるものが現れる。
 高昌の手がそれを握った。
「――ん」
 体温が上がる。合わさる唇と舌が、淫らに動く。
 触れられながら、貴史は思う。
 やはり、かつてどこかでこの唇を、いや、
 ――<この者>のぶつけてくる愛しいという想いを、……
 どこかで。
「三蔵……」
 高昌の指が股の間に入る。
「んっ……」
 貴史は身を捩る。膝が震えたが、高昌に抱き付くことで、嫌ではないのだと伝える。
 辛かったら言えよ、と高昌は囁く。小さく貴史は頷いて、高昌の胸に顔を押し付けた。高昌の、血の匂いがした。
「……悟空さんこそ、」
 貴史の震える声に、俺は平気だ、と高昌は答える。
「お前と和姦できるってのに、これっくらいの傷で放り出せるか」
 貴史は照れながら言う。
「……さっきのは、強姦じゃないよ。多分、誘ってたし、俺」
「……まあ、他にもな」
「え?」
 何でもねえ、と高昌は貴史の頬から、耳へと唇を這わせる。ちろちろと嘗められて、貴史はぴくんぴくんと動く。
「ん……あっ」
 知らず、挿し込まれた指をぎゅっと締め付けた。貴史は自分で刺激を受けて、そこから体に痺れが走る。
「痛っ……金緊禁のまじないみてえだ」
 高昌はそんなことを言う。
 入れた指を動かしながら、貴史の肌を嘗める。ん……ん、と漏れる貴史の声が、段々に切なさを増していく。
 高昌は徐に指を引き抜くと、貴史を床に寝かせ、ズボンを脱ぎ捨てた。逞しい下半身も露になる。右腕の金輪と、傷に巻かれたシーツの包帯だけの姿になって、貴史の膝を割り、猛るものを挿入する。
「ああ……っ」
 貴史はのけ反る。
「あっあっ」
 挿入した途端、高昌は約束を忘れたようだ。貴史の背を床に押し付けて、ガツンガツンと押し込んでくる。
「あっ……悟空さんっ……背中が、痛い……」
 貴史の訴えをはっと聞いて、すまねえ、と謝る。高昌は挿し入れたまま、貴史の体を抱え立ち上がった。高昌の腰に繋がったままの貴史は、妙な具合に刺激を受けて、「んくんっ」と鼻から息を漏らす。その声に高昌は感じたのか、貴史の中でびくんと膨れた。
「あ……」
 身動きが取れないまま、貴史は高昌に抱えられて、自分の中で動く高昌を感じている。それが嫌に淫らで幸福で、貴史は息を荒くした。
「あ……悟空さん、の……」
 凄い、動いてる、と呟くと、高昌は貴史を腕一本で抱え、お前のも動いてるぜ、と言って、互いの腹に挟まれた貴史のものを掴み、貴史の口に舌を入れた。
「あっ……ん……ん……」
 貴史は積極的に高昌の舌をしゃぶる。繋がっているところと掴まれているところが熱を持って、内から外から貴史を融かしていく。
 高昌は貴史をベッドに降ろした。汗ばむ背中が僅かにひやりとする。腰も口も合わせたまま、互いに体をぎゅっと抱く。
 貴史の華奢な体を、高昌は確りと抱える。高昌の逞しい腕も、胸も、肩も、貫くものも、貴史を捕える軛(くびき)のようだ。ああ、しかも、嫌ではない。高昌に繋がれて、それが己の定めのように、もっと強く繋がれることを願っている。もっときつく、縛る程に。高昌に、貴史はしがみ付く。
 高昌は腰を使い出した。今度は貴史が望んだように、ゆっくりと。
「んあ……っ」
 貴史が身を捩って出来た唇の隙間から、貴史の声が漏れる。高昌は離れた唇を追い掛けて、再び塞ぐ。
「んう……んん」
 ……ああ、上の口も、下の口も、
 高昌で一杯だ。
 貴史は淫らな考えに身を任せる。心までも、高昌に支配されていく自分が、淫猥なまでに幸福だ。
 穢されているという思いはない。彦一郎には、あれ程踏み込まれまいと、せめてと心は守ったものを。
 身も心も、高昌に任せて、高昌に開いて、それがこんなにも、安堵する。
 正臣と恋人であった時も、確かに自分は幸福であった。だが高昌とこうしていると、自分は高昌とこそ、こうなるべきだったのだと思えてくる。
 口を犯され。奥を抉られ。
 不思議な人だと、会った最初から思っていた。
 思えば、それは縁だったのだ。
「あっ……ああ……」
「三蔵……っ」
 その名が己だとは、まだ信じていないけれど。
 高昌の動きが荒くなる。突き上げられる度、貴史のそこがギチュ、と音を立てる。合わさる濡れた唇と舌が揺れて、クチュクチュと鳴る。
 ――淫らだ。
 思いつつ、それが心地よいと感じている。
 蕩ける。心も体も、蕩けてなくなる。
 肉の快感も、心の安息も、一つに溶けて、消えてなくなる。
 ――色即是空。空即是色。
 貴史は目を開けた。
 高昌は眉を寄せて、貴史を揺すっている。
 違う。いや違わない。
 貴史を抱いているのは高昌だ。目に見えるのは、肌に感じるのは、
 そうじゃない。そうではなくて――
 何を、思い出しそうになったのだ。
 高昌はいよいよ激しく貴史を突く。
 突いて、突いて、突いて……
 そうだ、こうして、彼はこうして、以前にも。
 何だ。誰の記憶だ。
 自分を抱く逞しい腕。
 貴史は快感に身を反らす。
 一方で、彼への溢れる愛情が、何者かへ許しを乞う。
 ――ああ、私は、私はどうしたら……
 高昌は突き上げる。貴史の口を、首を、肩を吸い、きつくきつく抱き締めて、
「はあッ、はあッ……」
 息荒く、壊さんばかりに貴史にぶつける。
 貴史のものも、貴史の中の高昌のものも、はち切れんばかりに膨らんでいる。おそらく高昌のものは貴史の中で、貴史のものは高昌と己の腹に挟まれ擦られ、収まり切らずに先端から零し、迎える頂きの予兆を示している。
 ぬらぬらとした液が、立てる音を増やす。
「あ……ああ……っ」
 貴史は首を振る。口の端から唾液が流れる。
 目を閉じ、眉を寄せ、昇り詰めていく感覚を余さず受け止める。抱き締める痛い程の高昌の腕が、貴史を守り、また高昌も溺れているのだと伝える。
「はッはッはッ」
 息の合間に、好きだ、好きだと高昌は呟く。
 ――ああ、私も、私も……
「ああん……あっああ……」
 貴史の口からは、喘ぎ声しか出てこない。高昌に溺れて、言葉が出ない。
「はあん、ああ、ああん……ああっ」
 破裂する。想いの丈が破裂する。
 がくがくと揺れる体は、感情の入れ物だ。
「あッあッああ……――!」
「ウッ……」
 高昌がびくんと震えた!
「三蔵……ッ!」
 ……ああ、
 思い出した。





 池の中から顔を出して、三蔵はゲホッと咳をした。やはりすぐ傍らに、悟空は同じく濡れ鼠で立っている。
 悟空はどこかきょとんとした顔で、三蔵を見ている。自分の顔をぺたりと触り、左胸を触り、右腕を触り、最後に頭に手をやって、唖然とした。
「キン斗雲……ッ!」
 空を向いて一声叫べば、彼の乗り物が上空にやって来る。
「……じゃあ、これはやっぱり緊箍児かッ……?!」
 あんぐりと口を開いて、悟空は頭に嵌まった輪っかを再び掴む。
 はっとして、三蔵を見た。彼が何者かを、見極めようとした。
 三蔵は震えて水面(みなも)を見つめ、口に手を当てた。今、三蔵は、悟空に、この池の中で犯されたのだ。震えて、泣いて、怒って、当然だ。
 悟空は頭痛経を覚悟した。
 三蔵は、大粒の熱い涙を、ぽたぽたと水面に落とした。怒気は感じない。どうやら頭痛経はない。胸に痛みを感じて、
「三蔵……」
 と悟空は呼び掛けた。
 三蔵は震える唇で、言葉を紡いだ。
「私は、お前を忘れて……」
「―――」
 悟空は目を見開く。
「た……」
 三蔵は、悟空が別の名で呼ぶ前に、涙を拭いて池を出た。木の枝に掛けた着物を取って身に纏う。
「おいっ……」
 ひたひたと焚火とは別の方向に歩いていく三蔵を、悟空は大急ぎで追い掛けた。
 ずぶ濡れのまま暫く行くと、三蔵は突然立ち止まった。
「ここで観世音菩薩に御会いした」
 独白か、悟空に聞かせようとしているのかわからぬ響きで、三蔵は呟く。
「南無観世音菩薩」
 三蔵は地面に跪き、掌を合わせて呼ばわる。
 呼応するようにサアッと白い光が降り、空は明るく眩いばかりだ。
 悟空は三蔵の傍らで立ち尽くす。茫然とする悟空の頭に、菩薩の声が谺する。
『――よく、戻りました。三蔵、悟空』
 三蔵は目を閉じ、頭(こうべ)を垂れる。悟空は我に返りはっとし、そうかこいつが元凶かッ! と歯を剥いた。
「そういや二郎真君とナタの奴が、如来がどうのと言ってやがった。元凶は如来で、戻ったって知ってるってことは、てめえが実行犯だなッ!」
「悟空、慎みなさい」
 三蔵の窘めも役に立たない。悟空は怒りで、如意棒を振り回す勢いだ。小さいごみと紛いそうな刺繍針程のものを耳から抓み出し、手頃な大きさにした棒を実際にブン、と一振りして、あるじゃねえか、と悟空は久方振りのような己の武器に感激した。
『……三蔵』
「はい」
『このまま旅を続けてくれますね?』
「勿論でございます」
『有難う。それこそが、悟空言うところの、この犯行の目的……』
 三蔵と悟空は瞬く。
『三蔵に、取経のやり直しをさせるのが狙いなのです』
「なんだ、そりゃあ」
 悟空の惚(ほう)けた声を合いの手に、菩薩は企みの真相を語り出す。
『……そもそも、この取経の旅は、人界の乱れ、人心の荒廃を救おうと、釈迦如来様が東勝神州(とうしょうしんしゅう)の人間に三蔵の経文を与えようとして、天竺は雷音寺まで取りに来させるというもの。大乗のお経によって善人も悪人も生者も亡者も救われて、幸福な世を体現する為のもの。……さて三蔵。千三百余年の未来、後生のそなたの見た世は、果たして救われてあったかな』
「……いいえ。愚かな争いや欲が、町の日常にございました」
『そうであろう。そなたの見た東の土地などでは、そなたの旅の甲斐あって、確かに仏の教えは、それと気付かぬ程日々の暮らしに馴染んではいるようだ。しかしそれでさえの人心の荒廃。決して救えているとは言えまいよ。まして、天竺であった地では、仏教は廃れて仏への信仰は最早ないに等しい。信仰心が薄れれば、仏の極楽浄土も天帝の霊霄殿(うんしょうでん)も荒れる。そうなれば、ますます人間を救うことは難しくなる。……我々の力の及ぶうちに、と考えたのだ。仏の教えを広める、大きな基点からもう一度やり直せば、と。三蔵。そなたには、より仏教の為に働いてもらわねばならない。その為に、遥かな時空で、今少し修業を積んでもらいました。共に旅する者たちも、やはり修業と、三蔵の護衛を兼ねて。……しかし実際ここへ戻ってこられるかは賭けでした。如来様のお力も弱くなる世で、三蔵の一行を全て護るには余裕がありませんでした。なるべく皆が三蔵の近くにいてくれればと、比較的まだ動けていた、戦う神である神将に遣いを頼んだのです。せめて悟空、お前だけは三蔵の傍にいてもらわねばなりませんでした。何故なら、三蔵が一人で戻っても、やはり到底この旅は為し得ないものであるのだし、第一に、お前がこの時代への扉を開く鍵だったのです』
「鍵……?」
 片目を眇め、両目を皿と見開き、アッと悟空は叫んだ。
「まさかてめえ……!」
『……そうです』
 菩薩の声は微笑んでいる。僅かに混じった悟空の羞恥を見抜いている。
『三蔵が旅をしたこの時代と、転生した三蔵の生を繋ぐ必要がありました。未来の三蔵が己の役割を思い出す時にここへと戻れるように。それには、三蔵の心身に一番深く想いを刻んだ出来事と同じ出来事が、未来でも必要だったのです』
「この出歯亀野郎ッ!」
 悟空は怒鳴った。今生でも後生でも、自分と三蔵の出来事が覗き見されていたのである。怒鳴るうちに、本当に腹が立ってきた。
「ホトケなんて連中は信用ならねえッ! 大体未来の人間だってそれなりに生きてるんだ! てめえらが信仰が足りずに力が失せるってんなら、人の面倒なんざ見る必要はねえ、余計な世話だ! 御為転(おためごか)しなこと言いやがって、てめえらの地位や存在が危うくなるのがヤバイってのが本音だろうがッ!」
「悟空!!」
 黙って手を合わせていた三蔵が悟空を叱る。
「何ということを言うのです!」
「三蔵! てめえだって修業だなんだって、あんなひでえ目に遭わされたんだぞッ! 憶えてるんだろッ?!」
「私の為に御用意なされた試練だ」
 三蔵の瞳に偽りはない。見つめられ、見つめ返して、悟空は呆れた。
「……坊主の考えはわからねえ」
「……南無観世音菩薩」
 三蔵は改めて空を見る。
「御心(みこころ)は十分に理解致したつもりでございます。一層の精進に励みます故、これからもどうか、拙僧共を御導き下さいますよう」
 処置がない、という顔で三蔵を見て、悟空は乱暴に菩薩に尋ねた。
「おい、観音。悟浄や八戒や馬は?」
『戻っています。紅孩児も高昌国王も、それぞれの住処へ。もっとも、高昌国王は、やはりやがて国と共に滅びる定めではありますが……』
 三蔵は高昌国王の為に祈っているようだった。
「けっ、あんな奴の為にしてやることなんざねえよ」
 そう言いながらも、どこか厳粛な気分になった悟空だ。だから、
「二度も同じ滅亡の憂き目を見るのだ。気の毒だとは思わないか」
 と三蔵に言われても、何も言わずにそっぽを向くだけだった。
「観世音菩薩、今一つお教え下さい。後生の私は、私の親は、友垣等はどうしているのでしょう」
『心配には及びません。今は今生が現在。未来はその言葉通り、未だ来らず……』
 悟空はそっぽを向いたまま、やれやれ未来を作り直すたあ大儀だぜ、仏様はお偉いよな、と揶揄する。悟空、と三蔵は小さく窘めたが、その声には郷愁のようなものが混じっていた。
 人の世の極楽の為です、と、ほんの一言、菩薩は、確かに在ったはずの未来の世を消滅させたことについて、言い訳した。
『……さあ、行きなさい。天竺で如来様が待っています』
 空は暗に戻る。三蔵は消え行く菩薩の気配に頭(こうべ)を垂れて、悟空を振り向き呼び掛けた。
「悟空……再び、面倒を掛けるけれど……」
 柔らかく微笑む。
「また、共に、天竺へ行こう」
 悟空は三蔵を、どんな顔をして見て良いのかわからない。今生で、後生で、契り合い、繋がり合って、確かに互いは互いのものになったのだ。
 三蔵には、悟浄との記憶もあるだろう。
 その記憶を持ったまま、何もなかったかのように、師匠と弟子としてまた旅を続けろと言われても。
 しかも一度通った道だ。何があったかは憶えている。この先も困難が待ち受ける。やっとの思いで天竺に辿り着き経文を手に入れても、三蔵は自分の国に戻るのだ。自分達お付きの妖怪変化は唐に入る前に御払い箱だ。
 三蔵は唐で経文の翻訳に一生を費やす。
 自分は生まれ変わりでもしない限り、
 二度と三蔵には会えない。
 悟空は、キッと力を込めて三蔵を見た。
「――このままバッくれよう!」
 いきなり言った悟空の言葉を、三蔵はぽかんとして聞いた。
「わかってるんだぜ、この先どうなるか。取経のやり直しをしたからって、そうそう何かが変わるとは思えねえ。また生まれ変わったところで、俺は忘れられちまうしよ……。首尾よく仏教世界が変わったとしても、そうしたら今度は俺とあんたは二度と何処でも会えねえかもしれねえんだ! そんなくらいなら、このまま、あんたと」
 悟空は祈りを込めて、三蔵を説得する。
 三蔵は、静かに応えるのだ。
「それは出来ない」
 悟空とて、三蔵が承知するとは、これっぱかりも信じてはいなかったのだが。
「もし私がここで放り出せば、次の誰かが思い立つまで、御仏の教えは百年単位で遅れ伝わらぬだろう。それだけ世の人々が、救われずに彷徨うのだ。私が大乗を伝えなければならない」
 悟空は口の端をぐっと下げ、奥歯を噛み締めている。
「……わかってるよ。俺は妖怪であんたは人間だ。例え一緒に逃げたところで、あんたの方が先に死ぬ。何遍も考えた。考える度に泣きたくなった」
「悟空……」
 悟空は俯く。三蔵を見ずに、一世一代の提案を引っ込めた。
「……心配するな。ちゃんと天竺まで付き合うぜ」
 三蔵は、何故か悲しそうな顔をする。そのまま薄く微笑んで、ぽつりと悟空に呟いた。
「此度は、以前に増して辛い旅になりそうだ」
 声音に気付いて、悟空は顔を上げた。
 涙が、ぽろぽろと三蔵の頬を伝っている。拭っても、拭っても、ぽろぽろぽろぽろ……
 ――触れたいと思うのは、悟空だけではないのだ。仏に仕える身には、それはいかにも辛い痛みだ。
「三蔵……」
 三蔵は泣きながら微笑む。涙を拭うのを諦めたように、自分の顔から手を放した。
「悟空」
 そうして、にこりと悟空に呼び掛ける。
「―――」
 ふわりと触れて来た唇に悟空は魂を抜かれた。
 三蔵は目を閉じ、悟空の唇にそっと触れ、すぐに離れた。唖然と見つめる悟空に、目を開けた三蔵はまだ泣いたまま、伝える。
 生まれ変わっても、――きっと。
「例え忘れても、愛しているよ」
 ……そんなことを、言われてしまっては。
「……仕方ねえなあ」
 くすぐったそうに口を歪め、ぱしんと頭の緊箍児を叩いた。
「また見付け出すから良いか」
 口の中で呟いて、今度は空を向いて思い切り怒鳴る。
「誰が見てやがったって関係ねえぞッ畜生!」
「あっ」
 悟空に腕を掴まれて、いけない、と三蔵は拒む。
 もう一回だけ、もうしねえから、と、悟空は三蔵に唇を合わせた。
 長い、長いキス。
 少し離れた木立の陰に、焚火の傍で寝ているはずの八戒と悟浄が、いつからいたのか、二人を見ていた。
「あららあ」
 口付けを交わす二人に、八戒は小さく感嘆を漏らす。悟浄は静かに、ただ見ている。八戒の後ろで白馬が、ぶるる、ぶふー、と、鼻息を吹いた。





 日暮の時刻だった。
 取り分け上等でも粗末でもない住宅地。賑やか過ぎることもなく、静か過ぎることもなく。
 いつものように学校から家まで、急ぐでもなく遊ぶでもなく貴史は自宅への道を歩いている。
 高昌は、沈みかける太陽を背負って、貴史の行く手に腕組みをして立っている。右の上腕に巻き付けるように嵌められた金輪のアクセサリーは、やはり持って来た緊箍児だ。赤い鬣(たてがみ)のような髪は、紐で括って背中に垂れている。
 高昌はにやりと笑って、爛と光る目で、歩く貴史を見つめている。貴史はそれに気が付いた。
「――よう」
 貴史は瞬き、立ち止まった。高昌は、にっと歯を見せた。
「捜したぜ」
 貴史は目をぱちくりとして、それから「あっ」と声を上げた。
「何っ……?!」
 高昌の方が驚いたのだ!
「その赤い髪、赤いタンクトップ、金の腕輪、自称『悟空』さんでしょ?! 有名だもの! ……えっ、俺に何かご用ですか?」
「……」
「えっ、どうかしました?」
 にこにこと尋ねる貴史に、がっくりと高昌はうなだれる。
 貴史は背中から肩を叩かれ、振り向いた。
「貴史、何してるんだ?」
 背の高い細身の男。その隣に、丸々と肥えた高校生。
「正臣、秋生ちゃん」
 高昌はやはり忘れられている。
(――しかもまたお前らが先かッ!)
 睨み付ける高昌に、秋生はくふくふと、正臣は優越感に満ちた目で、笑って寄越す。
「てめえ……」
 唸るように高昌は呼ぶ。正臣の答える声は冷ややかだ。
「俺ですか? 俺は彼の家庭教師だが」
「んなこと尋いてんじゃねえ!」
「ちなみにこっちは、知っているかもしれないが、貴史の同級生だ」
「今日はおいらも一緒に教えてもらお、思て」
「んなこと尋いてんじゃねえって言ってんだろッ!」
 正臣は徐に貴史の肩に腕を回し、「秋生、向こうを向け」と命令した。秋生は、うわあ意地悪や、という顔をして、手で目を覆って後ろを向いた。
「えっ、ちょ……正臣」
 貴史は高昌を気にしたが、あっと口を開く高昌の目の前で、正臣は貴史を抱き寄せキスをした。やがて貴史はうっとりと目を閉じる。
「……さ、貴史、中に入ろう。今日は数学の日だね。宿題はできているかな?」
 正臣は貴史の背を押して貴史の家へと近付いていく。秋生は高昌に、そんなら後で、と口を動かして、二人を追って玄関のドアを潜(くぐ)った。
 高昌はふるふると震えて、拳を握り締める。
「ちっくしょう……ッ!」
(――一体、何遍繰り返せばいいんだッ?!)
 腹の中で如来に毒突いた時、くんっ、と頭を後ろに引っ張られた。
「こら哮天犬。そんなものを食べては腹を壊す」
 ワンと答えるのは高昌の髪を銜えた大きな白い犬、その背を撫でるは美丈夫、二郎真君。
「やあ斉天大聖。此度は私一人で来た」
「……今度はまた偉く早えな?」
 うんざりと振り向く高昌に、なに、お前の問う声が聞こえたのでな、と二郎真君は笑う。
「弥勒(みろく)に任せてあるとか」
 言葉少なに二郎真君は伝える。高昌は顎を摩って、如来の解答の意味を考えた。
「弥勒う? 弥勒ってえと確か……ゲッ!」
 高昌はあんぐりと口を開く。怒鳴ろうと思った二郎真君の姿は既にない。
 弥勒とは、釈迦入滅後、五十六億七千万年経って下生すると言われている、未来仏である。
 それに思い至った時、高昌はぐらりと眩暈を覚えた。
 釈迦如来が、弥勒菩薩に任せた、ということは――。
(五十六億年待つのか、まさかッ?!――)
 自分が、三蔵と何の束縛もなく、手を取り合える日がやって来るまで。
 そもそも、そんな日がいずれ訪れるという約束は何処にもないのだと、こうして二つの生を行ったり来たりしているばかりでは、五十六億年など何回繰り返しても経ちはしないのだと、高昌は気が遠くなりそうな事実に気が付いた。
 ……それに今の世の状態を見る限り、今生で貴史と情を交わせたとしても、その途端取経の旅に逆戻り、の可能性は、滅法高い、と高昌は思うのだ。
 これでは、キン斗雲を駆ってなお如来との賭けに負けた時分と、なんら変わりがないではないか!
「おいおい……」
 譫言(うわごと)のように呟いて、やっぱり、連れて逃げれば良かったか? と、高昌は緊箍児の嵌まっていない頭を抱え込む。そうしながら、先の世でも今の世でも、三蔵は言うことを聞かねえだろうな、と考えて、深く深く、溜め息を吐いた。
 ――さて、弥勒が現れるまでは……いや、果たして現れるのか。未だ如来の掌の中。石猿の恋は、どんな形で成就するのだろう。……
 遥か東国で人の身に辟易する斉天大聖。
 今次講釈はこれにて、一巻の終わり。――




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