「仲良きことは、リターンズ」

・『仲良きことは、』第3話。

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 稽古が終わり、面を外した門下生が、揃って正面を向き声を上げる。
「ありがとうございましたっ!」
 半分以上が声変わり前の少年の声である。聡一に礼の姿勢をとると、彼らは三々五々道場を引き上げていく。だが時間に余裕があってこの後何が起こるか知っている幾人かは、いつも大抵ぐずぐずと道場に残っているのだ。
 この道場は元は一つの町内会が始めたものだった。今では近隣の町も幾つか参加して規模も大きくなっている。だが本間聡一(ほんま そういち)の住んでいる町は含まれていなかった。
「いつもすまないね聡一くん」
 手ぬぐいで顔の汗を拭く聡一に、師範の一人、深見賢一が声をかけた。
「いえ。無理を言って越境させてもらっているのは俺ですから」
 聡一の返事に深見はにこにこと目を細めた。彼はこの礼儀正しい真面目な少年を、実は道場内のどの弟子よりも気に入っている。「三段以上の方に是非御教授願いたい」と言って聡一が初めてやって来た時のことを、深見はよく覚えている。剣道に対する真摯な向上心に、深見はいたく感じ入ったものだ。
 道場の規定と睨めっこをして、師範代扱いで年少者を教える代わりに時間外稽古をするという苦肉の策をひねり出したのは深見であった。
 月に二回――大抵第二土曜と第四土曜であったが――聡一は少し離れた町の剣道場へ、電車に乗って出稽古に行く。高校二年にして聡一は剣道二段の腕前である。残念ながら彼の学校の剣道部にも、自宅最寄りの剣道場にも、聡一の相手になる剣豪はいなかった。
 深見は剣道四段だ。ここでの聡一の稽古相手は大概深見がしていた。
「ここも門下生がふくれたからね。こちらも聡一くんのおかげで助かってるよ。また不思議とやんちゃ坊主らが、聡一くんの言うことはきくじゃないか」
 深見は声を上げて笑う。聡一は厳しくて確かに畏れられていた。だがそれだけでは、稽古の終わった門下生が、目をきらきらとさせて聡一の挙動を見ている理由にはならない。彼らは聡一の剣道に憧れているのだ。
「じゃあ、そろそろやるかね」
「お願いします」
 すわ、お待ちかねの師範と師範代の稽古が始まると、面以外の防具も外さずに待っていた子供達が色めき立つ。もちろん待っているのは子供だけではない。聡一より段位が上の大人達でさえ、月二回のこの一戦は十分観るに値するのだ。
 きちんと面をつけ直し、二人が道場の中央に進み出る。向かい合って礼をし、膝を折って屈んだ姿勢で竹刀を構える。背筋が伸びてこれだけの姿が美しい。すいと立ち上がると、先に深見が間合いを詰めた。深見の一撃が聡一の籠手にきれいに入った。
「あっ!」
 壁際で見ていた者達が思わず叫ぶ。聡一がこれ程あっさりと一本を取られるのを、彼らは見たことがなかったのだ。打ち込んだ深見も同様である。
「どうした、聡一くん」
「……すみません。もう一本お願いします」
「いや、打ち込んでみてわかった。調子が悪いね? 反応が鈍い。もしかして病気じゃないかね」
 さすが深見師範、と聡一は深見の力量を見誤ったことを心中に恥じた。正直に詫びる。
「すみません。ごまかせるつもりでいました」
 それを聞いて深見は自分の面を外した。稽古は終わりということだ。
「いけないね聡一くん。体を大事にするのも一流の資質だ。君が剣道を好きなのはわかるが、だったらなおさら、ベストの状態で臨めるように心がけるべきだね」
 一言もない、と聡一は反省した。聡一自身、月二回の深見との対戦はひどく楽しみで、多少の風邪や熱などと引き替える気になれなかったのだ。
「……申し訳ありません」
 聡一が頭(こうべ)を垂れる。深見は聡一の肩を叩くと、
「今日は帰って大事にしなさい」
と慰めた。
 溜め息をついて面を外す聡一の側に、今の対戦を見ていた小学三年ぐらいの少年剣士がやって来た。緊張した面持ちで、聡一を見上げて言う。
「し、師範代、病気か? 熱あるのに来たのか? こんど土曜日来る時、元気になって来てよ」
 壁際で見ている少年の仲間が、聡一に話しかけた彼の度胸に青ざめている。
「……ああ」
 聡一は微笑んで応えた。聡一が背を向けた後に聞こえた「おっおっおおっ」という驚きの声は、滅多に笑わぬ聡一の珍しい笑顔を見た、度胸ある少年のものだろう。


 学生服で帰途に着きながら、聡一は思った。
(やはり、無理をしたのかもしれんな)
 竹刀が重く感じる。間違いなく熱が上がっているのだ。自分の健康管理ミスのせいで好きな稽古をふいにしたばかりか、相手の深見をも愚弄してしまった。病気のせいで判断力は低下していたろうが、原因を作ったのも結果を招いたのも結局は聡一だ。考えれば考える程自分の失敗が浮き彫りにされる。
 とにかく今の最良の方法は、家に帰って体を休めることだ。このまま病院に行くのもいいかもしれない。
 風邪をひくなど、どれだけ振りだろう。病気など滅多にしないから、一度かかると重くなるのかもしれない。そう言ったのは、母だったろうか、兄だったろうか。
 幼い頃に飲んだ子供用風邪薬のシロップが甘くて好きだった。
 風邪を引いた聡一を心配して、長兄の守はなかなか学校に行こうとしなかった。学校帰りに季節外れのハウスみかんを一個だけ買ってきてくれたのは次兄の太一だったか。
 ではあれは夏だったのだ。
 もともとは太一がひいた風邪だったろうか?
 太一は中学生で、守は高校の制服を着ていた。
 太一が学校を休んだのはいつだったろう。
 聡一は四つかそこらで、太一の風邪をもらったのだ。
 そもそも何故風邪をひいたのだったか。
 剣道の練習をすると言って、庭で竹刀を振った後、汗をそのままにしておいた。
 いやそれは太一だ。自分ではない。
 深見は気を悪くしなかったろうか。
(……いかん。思考力が低下している)
 取り留めなく浮かぶ思考を払うように、聡一は頭を振って、眩暈を感じた。
 聡一は電車に乗る時、例え空いていても立って目的地まで行くのが常だ。だが今ばかりは、座席に腰かけることに強い誘惑を感じていた。頭が重い。体がだるい。聡一のいる車両にはちらほらとしか乗客はいない。席は十分に空いている。それでも聡一が座らないのは、今座ると眠り込んでしまって、そのまま乗り過ごす可能性があったからだ。
 あと、二駅だ。そう考えたすぐ後だった。
 電車がスピードを落としたのは停車駅に近付いたからだが、運転士が乱暴だったのか、車両はかなりがくんと揺れた。聡一はバランスを崩し座席のシートに手を着いたが、思いのほか手に力が入らず、かろうじてシートの上に座り込んだ。立ち上がろうとしたのだが叶わず、聡一はそのまま意識を失ってしまった。



 長沢顕(ながさわ あきら)はいわゆる不良である。煙草も吸うし万引きもした。暴力沙汰は日常茶飯事で、高校の教師達からは鼻つまみ者にされている。女も犯(や)ったし男も犯った。何にも本気になれない顕だったが、最近ちょっと、その男の方に本気になりかけている。
 名前を伊部舞箏(いべ まこと)という。可愛らしい、女と見まごう美人だ。最初は舞箏の方から顕を誘った。頭も尻も軽そうに見えた。顕はちょっと気に入った。ところが舞箏は、その後本間聡一という嫌な奴を好きになってしまうのである。それだけでも顕は気に入らないのに、聡一は勉強のできるいい子ちゃんで、おまけに顔も良くて、剣道も馬鹿強いときている。
 舞箏はもうちっとも顕になびかない。無理矢理さらって来て一緒にいても、「本間くん本間くん」とあのムカつく名前ばかりを言う。力ずくで犯したら、顕はもっと舞箏を好きになってしまった。舞箏が可愛くて仕様がない。だが聡一が絡むと憎らしくて仕方ない。
 聡一はケンカでは負け知らずだった顕を三度もぶちのめし、病院送りにまでした奴だ。聡一をぎったんぎったんにしてやらなければ顕の気が済まない。それで舞箏に「本間くんより顕の方がいい」とわからせて、舞箏の身も心も手に入れるのだ。

 顕の頭には、鬼のように強い、憎ったらしい聡一の姿しかなかった。だから電車に乗り込んだ時、そこに倒れているのが聡一だとは、すぐには気付かなかったのである。

(……なんだ?)
 顕は目をすがめてシートの上を見た。電車がゴトンと動き出すまで、顕は馬鹿みたいに突っ立っていた。そこに転がっているのが「よく似た別人」という考えと「本間聡一本人」という考えが暫く戦っていたのだ。竹刀、制服といった顕が知っているアイテムが揃っているにも関わらず、随分雰囲気が違って見えた。
 大体、あの本間聡一がこんなところで眠っているとは思わないじゃないか。
 最大の理由は聡一の顔にあった。もともと聡一は端正な美形なのだが、いつもは目が開いていて、鋭く厳しい内面からの光を放っている。それゆえ、きれいより何より、まず恐いといった印象を見る者に与えるが、その目が、今は閉じられている。
(……本間、か?)
 見る者を射る厳しさや正しさの光はまぶたに遮られて、聡一の顔本来の美しさが前面に出ていた。
 聡一の顔は、本当に整った美しい造形をしている。
 顕はそれを、初めて見たのだ。
 舞箏も美人だが、それとは違う。どこまでも完璧な部品が完璧に配置されている。そんな感じの整った、整った美しさ。
 その聡一が、こんなところで倒れている。顕は少しずつ状況を把握してきた。
(……そうだ。これはひょっとして、ラッキーなんじゃねえか?)
 殺しても飽き足りない奴が、前後不覚で目の前にいるのだ。
(そうだ、そうだ。俺ァこいつに殺されかかったんだ。今こそこいつをギャフンと言わせて)
 舞箏を手に入れる。
 だが電車の中ではどうも頂けない。どこか都合のいいところに連れていく必要がある。まてまて、連れていくったってどうやってだ。俺は今一人だ。手伝う仲間を呼ぶか? しかしそれまでにこいつが起きたら? そりゃあ至極面倒だ。何しろこいつは鬼みてえに強い。いやもちろん俺がそのうち絶対倒してやるんだが……。
(本当に本間か?)
 顔を見て考えるうち、顕はまた疑いを持った。無理もない。何しろ目の前の特別きれいな顔が、頭の中の「本間聡一」のイメージとどうしても重ならないのだ。
「……おい」
 そのうち顕は、何だか聡一の顔を見ているのが口惜しくなって、起こしてやろうと声をかけた。目を開ければ、きっとあの憎らしい本間が姿を現わすのだ。
「おい!」
 だが聡一は目を開けない。顕のもどかしい戸惑いを吹き飛ばしてはくれない。顕は半ば自分をもてあましてイライラとした。聡一の腕を乱暴に掴んだのは八つ当たりに近い。掴んで、はっとした。熱いのだ。
(……なんだ、病気かよ?)
 あの本間聡一がこんなところで寝ている訳がないと思ったのだ。だったら、それは始めから考えられる理屈だった。
 ちくしょう。
(――しょうがねえ)
 このまま捨てていくこともできたが、顕は眠っている聡一が他の誰かの手に落ちるのも何だか口惜しかったのだ。
 電車が次の駅に止まる。顕はもう一度ちくしょうと毒突いて、眠る聡一を背負い、開いたドアからホームへと出た。親切にも、聡一の竹刀も忘れていない。身長は自分と同じ程だが、細身の分聡一が軽い。顕が想像したより楽に運んで行けそうだった。
(こっから一番近いのは、あいつのアパートだな)
 不良仲間の一人を頭に浮かべると、顕は通行人の視線にガンを飛ばしつつ、背中に感じる聡一の熱に(薬あるかなあいつんち)と思う。思ってから(ちくしょう何で俺が)と愚痴るのも、もちろん忘れなかった。

「何だよ顕、何だこいつ?」
「いいから薬だせ! 熱さましか風邪薬だ」
「え……あ、ああ……」
 かわいそうにいきなり顕の襲撃を受けた不良仲間は、部屋を占拠され、訳もなく顕に怒鳴り散らされた。
「おいその前にここいら片付けろ!」
 散らかり放題の部屋の一角を一畳分程片付けさせて、顕はやっと聡一を床に横たえた。横たえられた聡一の制服を見て部屋の主が言う。
「おい顕……こいつ南丘のヤツじゃんかよ。お前南丘の奴は嫌いなんじゃなかったっけ。ほら、本間とかいう……」
「うるせえな。いいから薬持って来い」
 こいつがその本間だとは、言うに言えない顕である。ぶつぶつ言いながら、仲間は薬を探しに行った。
(にしてもよ……)
 聡一の顔を見て考える。
(……こいつはサギだぜ)
 舞箏の寝顔は美人で可愛らしくて、思いっ切り惚れ直したものだ。それで、舞箏が惚れてる憎ったらしいこの野郎の寝顔が、何でこんなにきれいなんだ? まったく、こんなにムカつく野郎は他にいないというのに。
 目さえ覚めれば。いやダメだ。今起こしたら不本意とはいえ自分がここまで助けて来たことがバレてしまう。それだけはダメだ。なけなしのプライドが許さない。
(……じゃ、どうやって薬飲ませんだ?)
「顕、粉薬しかねえぞ」
「お……おう」
 市販の風邪薬を一服受け取って、考える。
「水がねえぞ、水が」
 そう言って仲間を追い払って、なおも考える。
 いやしかし。
 それはちょっと。
 相手は本間だぞ本間!
「ほれ、水」
 コップになみなみと注がれた水をじいっと見て、顕は言った。
「……わりぃ。タバコ買って来てくれ」
「ああ? んだよ人使い荒えなあ。俺の『マイルド・ライト』じゃダメかよ」
「んな軽いもん飲めるか! 『スーパー・ナイン』だ、間違えんなよ」
 顕がコップを受け取ると、後で金払えよ、とぶうたれながら、仲間は部屋を出て行った。
(……ちくしょう)
 コップと薬と、聡一の顔を交互に見ながら考える。
(そうだ。本間だと思わなけりゃいいんだ。ここに寝てんのはただの美人だ。ただのきれいな……)
 その考えは、顕のプライドがはめた枷に触れなかった。途端素直に、見たままの印象が脳に伝わる。顕はコップと薬を床に置いて、聡一の寝顔にもっと自分の顔を近付けた。
(……ホントにきれいな顔してやがる……)
 まだどこかでこれは本間だぞ、という声がしたが、こうなるとそれすらも歪んだ征服欲にすり替わって感じる。
(ざまあ見ろ。何が起きてるかも知らねえで)
 胸が高鳴った。聡一は無防備に身を横たえている。起きている時に発する殺気のかけらも感じはしない。ここに寝ているのは、ただの美人だ。
 吸い込まれるように、顕は聡一に口付けた。
 軽く触れて、それから強く唇を押し当てた。
(う……やべ)
 顕は身を起こした。体の芯が熱くなった。
(そ……そうだ、く、薬)
 ぱっと床の風邪薬を手に取り封を切る。無意識に欲情を抑えようとする自分の行動が腹立たしかった。
(……ちくしょう)
 これが聡一でなかったら、顕は間違いなく体に正直に行動している。我慢が体にいい訳がない。なぜ聡一だと我慢するのか? 明確な答は顕自身にもわからない。
(ちくしょう)
 顕は薬と水を口に含み、それを聡一の口の中に流し込んだ。意識がないまま水を飲み込む聡一の反応が、艶めかしくさえある。
 顕は聡一が水を飲み終ったのを確認してから唇を離し、自分の口を拳でぐいと拭いた。



 今日は第二土曜日、大抵の学校はお休みである。舞箏の通う南丘高校も同様で、土日の連休をどう使おうかと昨夜思案した結果、とりあえず「本間くんちにおしかけよう」と結論した舞箏である。昨日学校で「本間くんデートしよう」と誘ったのに「馬鹿者」という冷たい返事をもらったことなど、舞箏はすっかり忘れている。
 聡一が自分を嫌っていない、いやひょっとして好いているのだと思うにつれて、舞箏の行動は押しが強くなった。ちょっとくらい「馬鹿者、離れろ」と聡一が嫌がっても、組んだ腕を放してやらないのだ。
(本間くん大好き)
(うるさい!)
 周りに人がいようがいまいが、一日一回は聡一に愛の告白をして、ことごとく怒鳴り返されている舞箏である。それでも、
(本間くんからキスしてくれたもん)
 過去のほんの一瞬の出来事を心の潤いにして、今日も恋に突き進むのだ。
「こんにちはー」
(……あれ?)
 舞箏が聡一の家に辿り着いた時、本間家は留守だった。
(なあんだ……家族旅行にでも行っちゃったのかなあ)
 それならそうと言ってくれれば、訪ねて来て淋しい想いをせずに済んだのに、とがっかりした。俺も本間くんと、できれば二人っきりで旅行したりしてみたいな、などと考えてみる。自分の想像で、ほんのちょっぴりだけがっかりした気分が紛れた。
 その時、一台の乗用車が舞箏の前に停まった。
「ああ、伊部舞箏くんだね。聡一を訪ねて来てくれたのかい」
 運転席から覗いたのは聡一の長兄、守だ。
「あ、お兄さん」
 舞箏は車を振り向いて、目をしばたかせた。後部座席に、毛布に包まって眠る聡一がいたのだ。
「……本間くん?!」
「剣道の稽古の帰りに熱を出して倒れたらしくてね。迎えに行って来たんだよ」
 運転席から出た守は、まず家の玄関の鍵を開けた。そうして後部座席のドアを開けると、聡一を毛布ごと腕に抱えて、車から家の中へと運んで行った。



 深見は珍しい訪問者に、一瞬驚いてから顔をほころばせた。
「どうした顕。お前が訪ねて来るとはなあ」
 顕は目だけで道場を見回してから、フンと鼻を鳴らした。門下生はもう全員帰ってしまっていて、残っていたのは深見ともう一人の師範の二人だけである。もう一人の師範は、剣道場には余り相応しいとは言えない顕の姿に何か言いたげだったが、深見の知り合いらしいので何も言わないといった風である。
「深見さん、もう道場を閉めますが」
「ああ、私が閉めますよ。甥が訪ねて来てくれたんで。浅田さん、お先に」
「……そうですか。じゃあ」
 浅田は会釈をして去って行った。顕がそれを横目で見ていると、深見は笑いながら言う。
「おお、一端(いっぱし)の不良らしい目付きじゃないか」
「……るせえな! 俺ァ不良なんだよ!」
 深見はかかかと笑う。
「会う度に説教をするから俺は嫌いだと言っていたお前が自分から会いに来たんだ。よほどの用があるんだろう」
「よほどの……」
 顕は嫌そうな顔をする。認めるのが口惜しいのだろう。深見は甥が素直に「うん」と言うとは思ってなかったが、それにしてもこの甥はひねくれていた。
「んなんじゃねえよ。ほら……おっさんよく言ってたじゃねえか、俺に剣道習えってよ。ちっとばかり、教えさせてやっても、いいぜ」
 顕の言い種に、深見は笑い出したいのを我慢して聞いていた。顕は極めてやる気がなさそうに言葉を続ける。
「言っとくけど、俺ァ剣道なんかどうでもいいんだからな。ほんの少し、気が向いただけでよ」
「そうか、剣道をやる気になったか」
 深見は吹き出す代わりにこう言った。
「これを機に顕が更生してくれたら、姉さんも喜ぶのになあ」
「……誰が更生なんざするか!」
 深見の姉は顕の母である。女手一つで顕を育ててきた彼女は息子の素行について悩んでいたが、顕は彼女を嫌っているので、残念ながら母親のために更生することはないのだろう。
「おっさん、強いんだろ?」
 顕の尋ねる顔が、深見に何かを伝えた。
「ん?……そうだな。竹刀を握ればな」
「じゃあ、俺を強くすんのも簡単だろ。さっさと頼むぜ」
 顕の顔が真剣になっている。もとより深見に断る気はない。
「わかった。じゃあ入門の手続きをしておくから、早速次の練習日から」
「そんなんじゃ遅えよ、今すぐだ!」
 深見の言葉を遮って顕は叫ぶ。
「顕……」
「俺ァ今すぐ強くなりたい……」
 最初、深見にどうでも良さそうに話していた様子など、もう顕にはない。
「鬼みてえに強い奴がいるんだ。俺ァどうしてもそいつに勝ちたい。そいつを、ぶっつぶしてやりてえんだよ」
 きっかけは何でも良かった。対象も何でも良かった。深見は顕に、何か一つ真剣に取り組むものを見つけさせたかったのだ。
 どうやら顕はケンカで誰かにこてんぱんに負けたらしい。どこの誰だかが、顕を真剣にさせてくれたようだ。
「……そうか。そんなに強いのか。年は? お前と同じ位か」
「……ああ。剣道やってる奴だ」
(高校生で鬼のように強い剣士か……聡一くんのようなのが、他にもいるのかな)
 まさか、聡一が当の相手だとは思いもしないので。
 それにしても、同じ剣道で対抗しようとは、顕もなかなか正々堂々とした不良じゃないか。
 深見はこっそりと笑ってうなずいた。
「よし。じゃあ早速基礎からだ。急ぐならなおさら、基礎をみっちりやらんと身につかないぞ」
「なんだよ、俺ァさっさと強くなりてえんだぞ!」
「嫌ならやめろ。それで鬼のように強い奴に、いつまでもコテンパンに負けるといい」
「……」
 顕は口をへの字に曲げて上着を脱いだ。
(どこの誰か知らんが、こりゃその『鬼』に感謝せんといかんな)
 大丈夫、お前はもともとの動きが敏捷だから、と深見はとりあえず顕を励ました。



 舞箏は守に許可をもらって、聡一の側についていた。
(本間くん、きれいだなあ……)
 聡一の眠るベッドの横に座り込み、ベッドに肘をついて聡一の寝顔を覗き込んでいる。
(本間くんの兄弟三人ともハンサムだけど、本間くんが一番きれいだよな)
 滅多に見られない聡一の寝顔を目の前にして、聡一の部屋で二人きり、しかも聡一は「うるさい」も「馬鹿者」とも言わない。
(……寝てるから当たり前だけど)
 舞箏にはかなり幸せな状況である。聡一の病気も心配だったが、顔がだらしなく笑ってしまうのは仕方がない。
 聡一の額のタオルを傍らの洗面器で冷やし直して、舞箏はそうっと再びタオルを乗せた。
(……ちょっとぐらい、いいかな)
 舞箏は聡一の寝顔を見ながら考える。
(いいよね、ちょっとぐらい)
 だってせっかくの二人っきり。
 舞箏は腰を浮かせて、聡一に唇を重ねた。
(――あ、風邪薬の味がする)
 そっか、病気なんだなーと改めて思う。
(……そうそう、体あっためなくちゃ)
 舞箏は自分で考えついたことにわくわくして、忍び笑いをしながら、こっそりと聡一のベッドに潜り込んだ。
 本間くんと添い寝。
 聡一に起きる気配はない。
(う……うふふふふ。気持ちいい――)
 聡一の体にぴったりと自分の体をくっつけて、一緒の布団に包まっている。舞箏は随分幸せな気分で、いつの間にか眠り込んでしまった。


 目が覚めて聡一は随分驚いた。いつの間にか自分が自室で寝ていることにも驚いたが、それよりも何より、舞箏が自分のベッドで一緒に眠っていることに。
 考えるより先に体が動いた。聡一は身を起こすなり、舞箏をベッドから突き落としたのだ。
「いっ……たあ――! 本間くんひどい!」
「何故いる?!」
 ベッドから落とされて目を覚ました舞箏が、恨めしそうに聡一を見上げる。
「落っことすことないだろ! 本間くんのサド!」
「サ……」
 言われように呆れたところに、響いた物音を聞いた守が一階から上がって来た。
「今の物音は何だい」
「あっお兄さん、本間くんたらねっ」
「兄さん何故こんな奴を家に上げたんです」
 双方から同時に訴えられ、守は一瞬視点を失ったが、すぐに弟の元気な姿を認識して、ほっとした顔をした。
「ああ、楽になったみたいだな。熱は下がったかい」
 兄の言葉で、聡一は舞箏のおかげで忘れていた疑問を口にすることができた。
「兄さん、俺は自力で家まで帰って来た覚えがないんですが」
「ああ……」
 守は少し考えるように拳をあごに当てていたが、やがて、手を下ろして聡一を向いた。
「電車の中で、お前は倒れていたそうだ。それでお前の生徒手帳を見てうちに電話を入れてくれた人がいるんだが、自分が助けたと決して言ってくれるなと言われてね。まあ名前も聞かなかったからお前に教えることはできないんだが」
「――は?」
「うん。何だかとても真剣に頼まれてしまって。気になって落ち着かないだろうが、許してくれ」
「……はあ」
 聡一は腑に落ちないながらも了承した。義理堅い守が弟を助けた恩人の名前も聞き出さずに諦めて来るとは。
(一体誰だ?)
 守の言う通り、よほど相手が強く頼み込んだのだろう。でなければ守が引き下がって来たとは思えない。
 口の中に薬の味がした。聡一が使ったことのない薬の味だった。滅多に風邪などひかぬから、薬が変わったんだろうと思った。

 舞箏は早々に聡一に追い出された。
「病人の部屋だ、とっとと出ていけ」とは、とても病人の言い種には思えなかったが。
「舞箏くん」
 階段を一階に下りたところで、守が声をかけて来た。
「ちょっと」
 聡一には内緒、と視線と態度が言っている。舞箏は守の手招きについて、キッチンの中まで入って行った。
「さっきは済まなかったね。つっけんどんな弟で」
「え、いや、あはは」
 本当に済まなそうな表情で謝る守に、舞箏は笑って応える。
「聡一はあれで、『伝染(うつ)るといけないから出ていけ』と言ったつもりなんだよ」
(あ、なるほど)
「舞箏くんには、随分気を遣わない話し方をするようだね、聡一は」
「……」
 それはひょっとして、喜ばしいことなのだろうか?
(でも、ちょっとくらいは気を遣ってくれてもいいのに)
 聡一と恋人関係になりたい舞箏は、聡一のにべもない態度にそう思う。何と言っても、聡一は舞箏をベッドから突き落とすような男なのだ。
 守は冷蔵庫からジュースのびんを取り出すと、氷を入れたコップに注いで舞箏に勧めた。
「聡一にはああ言ったんだけどね」
 舞箏が礼を言って守からコップを受け取る。
「やっぱり、弟を助けてくれた人にはお礼をしたいんだよ。舞箏くんは『中橋』という名前に心当たりがないかなあ」
 言われて舞箏が考える。だが知らない名前だった。守の顔を見て首を振る。
「そうか。口振りからして、聡一の知り合いだとは思うんだけどな。高校生ぐらいの男の子が二人いてね。そのうちの一人が……ああ、もしかしたら、その子は中橋くんじゃないのかもしれないな。連絡を受けて聡一を迎えに行ったアパートの部屋の表札に『中橋』とあったんだけど」
「どんな人だったの?」
「うん……何と言うか、ちょっと不良っぽい感じだったね。聡一の友達にしては珍しいタイプだと思ったんだ。聡一を助けたのが照れ臭いといった感じだったから、いい子なんだと思うけどね」
(守さんて……人が良い……)
 舞箏はジュースを飲みながら心中に呟いた。
(不良……?)
 ふっと心当たりが思い浮かぶ。そうだ。他に聡一に不良の知り合いがいるとも思えない。この際品行不良だった自分のことは当然棚の上にある。聡一に好かれるように、いい子になろうと決めた舞箏である。
「まあ、明日にでも『中橋』くんのところにもう一度行って、尋ねてみる気ではあるけどね。舞箏くん、今の高校生ってどんなものを喜ぶのかなあ」
 何しろ聡一みたいな変わり種しか家にはいなくて、と言う守の口振りは、まるで保護者だ。
「さあ……菓子折りで良いんじゃないですか、フツーに」
「普通に?」
「はあ」
 返事をしながら、舞箏は明日顕のところに行ってみようと考えていた。



 とは言っても舞箏は顕の家を知っている訳ではない。守から聞いた中橋のアパートに行ってみたが、留守だった。中橋のアパートの場所を尋ねた舞箏に、「じゃあ舞箏くんも一緒に行こうか」と守は言ったが、事態がややこしくなりそうだったのでそれは辞退した。
(日曜日に学校行ってる訳もないしなあ)
 守が何時にここを訪ねるつもりか知らないが、守より早く顕に会おうと思って、舞箏にしては随分早起きして来たのだ。何とまだ朝の八時である。毎日これだけ早く起きれば、学校に遅刻して聡一に叱られることもないのだが。
 舞箏は中橋の部屋の前に座り込んで、部屋主の帰りを待った。朝は冷える。段々寒くなって来て、舞箏は膝を抱えて丸くなった。
 やがて三十分もした頃か、夜遊び対策だろう、厚手の上着をきちんと着込んだ高校生くらいのカップルがやって来た。こんな朝早くに出かけるのでなく帰って来たらしいところを見ると、夕べの居場所の想像はつく。茶髪の女はそばかすの浮いた鼻にしわを寄せて言った。
「ちょっと、何よあの子」
 舞箏のことを言っているらしい。言われた男の方は戸惑っている。
「何であんたの部屋の前で待ってんのよ」
「え……え?」
 ではあの男が中橋だ。舞箏は座ったまま、彼女と舞箏をきょろきょろと見る男に尋いた。
「ねえ、長沢顕って知ってる?」
 男は二度まばたきをして、明らかにホッとした。
「なんだ、顕の女か」
(違うけど)
 中橋は舞箏の為に、部屋の電話で顕を呼び出してくれた。舞箏が待っていると聞いた顕は、文字通り飛ぶ勢いでやって来た。
 中橋の部屋の中で待っていた舞箏は、ドアが壊れんばかりに開くのを見た。顕は顔中から汗を流して、ぜいぜいと息をしているのだ。
「まっ……舞箏……」
「……走って来たの?」
 自分を真っ直に見る顕の姿に、舞箏は呆れた。
「へ……へへ……」
 玄関の壁に手をついて、顕は笑った。中橋の電話がガセではなく、本当に舞箏が自分を待っていたと確認して、自然込み上げた笑いだった。
「……中橋、水」
 肩で息をして催促する。差し出されたコップを一息にあおって、顕はようやく人心地ついたようだった。
「……本間くんのお兄さんが、どうしてもお礼したいって」
 舞箏の言葉を聞いて、顕は固まった。
「本間くんには言ってないよ。お兄さんが俺に相談しただけ」
「……だからなんでお前が相談されんだ?」
 顕は舞箏を睨みつけて尋いた。
「だってそこに居たから。お兄さん今日、ここに来るって言ってたから、会いたくないなら出かけちゃった方がいいね」
「居たァ……?!」
 顕がぎりぎりと歯がみする。不意に中橋を向くと怒鳴った。
「おい昨日の奴が来ても何も言うな! 本間の兄貴から礼なんかもらうんじゃねえぞ!」
「本間って……」
 中橋は驚いて呆れているようだ。
「あいつ、本間だったのか? お前本間を助けたのかよ、お前めちゃくちゃ嫌ってんじゃ……」
「うるせえ! 病人伸(の)しても意味ねえだろが!」
 顕は八つ当たり気味に中橋にわめくと、舞箏を向いて怒鳴った。
「何しに来た!」
 言われて舞箏は、はてと思った。そういやそうだ。別に聡一を助けたのが顕だと確認しなくても、顕が守に謝礼を受けても、舞箏には特別意味はないように思える。ただ確かに、顕が聡一を助けたという事実は、意外なことだった。
「うん。……顕のこと、ちょっぴり見直したからかな」
 考え考え言った舞箏の台詞に、顕は目を見開いて、少し赤くなり、少し笑顔になった。舞箏は自分の一言一言が、顕を天国にも地獄にも引き回すということを、余りよくわかっていない。顕は今、天国の方に引っ張られていた。
「な……なんでえ。そ、そうだ舞箏、ちょっと、出ねえか。ほら本間の兄貴が来んだろ。ちょっとつき合えよ。中橋、邪魔したな」
 舞箏の腕をむんずと掴むと、顕は呆然とする中橋カップルを置いて舞箏を引きずるようにしてドアを出た。
「いたた……腕っ」
「あ……悪ィ」
 顕は何だか素直だ。少しでも舞箏が見直したことが、よほどうれしいのだろう。
「なあ……どっか行こうぜ。行きたいとこねえか。つき合うからよ」
 ひょっとしなくても、これはデートの誘いだ。舞箏はうーんと思った。
(本間くん風邪で寝てるしなあ……)
 本当は聡一と一緒にいたいのだが、見舞いに行っても、ベッドから突き落とされるのがオチだ。
「……ヘンなことしない?」
「ヘン……?」
 尋き返してから、顕はがっかりした顔をした。
「あっ、今『ちぇっ』て思っただろ『ちぇっ』て!」
「わかったよ、しねーよ!……だから、いいだろ?」
「……」
 じゃあねえ、と舞箏が言う。
「動物園」
「……あ?」
 顕は意外だったのか、暫く舞箏の顔を見て黙り込んだ。だが待っても「じゃなくて」とか「は冗談でえ」という言葉は出てこない。舞箏のリクエストは本気だからだ。顕は見返す舞箏の目を見て、ようやくそれに気付いたらしい。口の端を上げて、笑顔でうなずいた。
「わかった」
 舞箏は完全に不意を突かれたので、顕のキスを随分深く受けてしまった。
「んっんっんん――!」
 抗議の声を上げるが、顕は舞箏の頭と背を抱えた腕を離さない。ますます頭を強く抱えられて、口を吸われた。
「……ウソつきー!!」
 口が自由になったとたん、舞箏は顕を罵倒した。だが顕はうれしそうに笑っている。
「もうしねえ、ウソじゃねえって。動物園な、オッケー。おし、行こうぜ」
 舞箏の手を握って、顕は先を歩いて行く。遊園地も悪かねえなあ、と顕は前を見たまま言った。



 月曜日、舞箏は学校を休んだ。
 聡一が担任の塚本に訊いたところ、風邪をひいて欠席すると家から電話があったとのこと。またぞろ何事かあったのかと思った聡一は、ほっとするやら呆れるやらだった。寝込んでいる聡一の布団に潜り込んでいたせいで風邪が伝染ったに決まっている。一言馬鹿者と言ってやるつもりで、聡一は放課後に舞箏を見舞いに行こうと思った。
「伊部さんは、風邪ですか?」
 職員室から戻って来た聡一に、同級生の野原広史が尋ねる。広史は、聡一が何の用事で教室を空けていたか、聞かずともわかるらしい。この学校で聡一の次に優秀な生徒であるのは間違いない。
「そうらしい。そうだ、野原くんも伊部くんの見舞いに行くか? プリント類を持って放課後に行くつもりだが」
「え……は、はい!」
 広史の顔を見て、(野原くんも風邪だろうか)と聡一は思ったが、広史が顔を赤くした理由は風邪ではない。聡一は知らないことだが、広史は舞箏に横恋慕している。舞箏の家を訪ねると思ったことで、つい心拍数が上がってしまったのだ。
「野原くんも体調には気をつけろよ」
「は? はい」
 そんな訳で、放課後聡一と広史は連れ立って学校を出た。
 校舎から出た時点で、聡一も広史も視線に気付いた。決して好意的とは言えないそれは聡一に向けられている。広史がちらりと聡一を見たが、聡一は構わず、そのまま歩いて校門を出た。向こうが声をかけてくるより先に、敵意の主が誰かは予測がついていた。
 顕が、木刀を肩に乗せて立っている。
 だが聡一は、それを無視してすたすたと歩き続けた。
「っ……待て本間ァ!」
「気にするな野原くん、行くぞ」
「は……はい」
「シカトしてんじゃねえぞコラァ!」
 背を向けた聡一の後ろから、顕が怒鳴る。
「シカトしてみろよ。こないだみてえに他の生徒がケガするかどうかよ……」
 聡一は立ち止まった。振り向くと、顕が歪(いびつ)に口を上げて笑っているのが見えた。
「へ……相手する気になったか?」
「本間さん……」
 広史が心配気に視線を寄越す。
「君は物覚えが悪いのか? 何故俺に絡む。また病院送りになりたいのか?」
「なるかよバァーカ。おめえを倒せば、舞箏は俺のモンなんだよ」
(……どういう思考回路をしているんだ?)
 聡一が呆れて考えている間、広史は辛そうな顔をして聡一と顕を見ていた。
 以前聡一は顕とその仲間を半死半生にして、学校から処罰を受けた。原因は、やはり舞箏だった。
「なんでえ。今日は手ぶらかよ。御愛用の竹刀はどうした?」
 今日は聡一も広史も、放課後部活に寄らずに学校を出て来た。朝家から持って来た聡一の竹刀は、部の活動場所の格技館に置いてあった。
「……伊部くんは誰のものでもないぞ。見当違いなことを言っていないで立ち去れ」
「ってめえが言うな!」
 右手の木刀をブンと振り下ろして顕は怒鳴る。
「ちくしょう、ムカつくぜ! 舞箏はなあ……そうだ……おい、今日は一緒じゃねえのか、舞箏はどうした」
「……今日は欠席している。風邪をひいたそうだ」
「……」
 顕は一瞬目を見開いた。何かを考えている風だったが、やがて口端を上げると、含み笑いをしてこう言った。
「そうか。そういや昨日、ちっと無理させちまったもんな」
「……なに?」
 聡一は目をすがめた。広史も顕を凝視している。
「昨日は楽しかったもんなあ。舞箏と二人っきりでよ……へへ、知りてえか? 何をしたか」
 以前聡一は、顕を半死半生にした。
 殺しかけた。その理由は、顕が舞箏を犯したからだ。
「あんなこととか、こおんなこととかよお」
「……黙れ」
 聡一の声が、くぐもった。
「殺されたくなければ、黙れ」
「へっ……」
 聡一の警告は本物だった。いつかこの男を殺すかもしれないと、聡一は考えていた。それは全くの不本意で、自分自身の理性の望むところは、かけらもありはしないというのに。
「おい、そこの腰ぎんちゃく」
 広史のことらしい。
「本間に竹刀持って来てやれよ。やる気になってるみたいだぜ……」
「本間さん!」
 広史とて顕に腹が立たない訳がないのだが、黙って顕を睨みつける聡一の様子の方が、はるかに広史を不安にさせた。
「――野原くん、竹刀を」
「本間さん……」
 広史はゴクリと息を飲むと、身を返して校舎の方へと引き返して行った。顕はニヤニヤと笑う。
「へへ、そうこなくちゃよ……」
「何度も言わせるな」
「あァ?」
 聡一は多分、もうプツンという音を聞いてしまったのだ。
「伊部舞箏は俺のだ。手を出すな」
 だからこんな台詞が口から出てくる。
 以前も聡一はこう言って、顕を殺しかけたのだ。
「――てめえ」
 顕はぎりぎりと、ぎりぎりと歯を噛んだ。右手の木刀が震える。
「それが……! 何が伊部は誰のものでもねえだ! この……っ」
 顕の足が地面を蹴った。
「大ボラ吹き野郎!」
 右手の木刀を袈裟がけに振り下ろす。聡一はすいと身を引いてその一撃をかわした。
「だああ!」
 左下に下りた木刀を横一文字に振り払う。顕は木刀を振り回しながら聡一に迫ったが、聡一は一定の間合いを崩さない。
「てめえが! てめえが!」
 顕が怒鳴る。
「気に入らねえんだッ!」
 校門の外で起きている出来事に、既に何人かは気付いていた。グラウンドで活動している部の部員達が、ざわざわと色めき立つ。校舎の方に走って行くのは、教師に連絡する為だろう。
 広史が、竹刀を持って駆けて来た。遠巻きにしている野次馬達の間を縫って、校門から外に出る。
「本間さん!」
 声を合図に竹刀を投げる。聡一は広史の投げた竹刀を、見もせず上げた左手で受け取ると、掴むなり両手で握り直し、顕の振り下ろす木刀を竹刀の鍔(つば)近くで受け止めた。
 ほんのわずか、ごく近くで聡一と顕が睨み合う。顕はさっと身を引くと、息をゆっくりと吐いて木刀を構え直した。それを見て聡一は(おや)と思った。
(――中段の構え……?)
 幸いにも、ということになるのだろう。顕が取った一端(いっぱし)の剣道の構えが、聡一を冷静にした。顕がそれまで通り木刀を振り回すだけだったなら、聡一は今度こそ顕を殺していたかもしれないのだ。
 顕が叫んで踏み込んでくる。面狙いだ。聡一は軽く竹刀で木刀を払う。顕は再び姿勢を直して、今度は胴狙いで来た。木刀の先を竹刀で叩いて、顕の腕を下げさせる。
「くっ……」
 顕は律儀に中段の構えから攻撃を始める。聡一にことごとく受け、払われて、顕の木刀は聡一の体にかすりもしなかった。
「本間……!」
 担任の塚本が職員室から駆けて来た。叫んで飛び出そうとするのを広史が押しとどめる。
「大丈夫です、本間さんは冷静です」
 塚本は自分を抑える教え子の顔を見て、今一人の教え子の顔を見やった。
 聡一は確かに余裕を持って、顕の木刀をいなしていた。まるで上級者が下級者に稽古をつけている様に似ている。
 稽古は突然終わりを告げた。聡一は本気のスピードで間合いを詰めると、竹刀で顕の腕を強打した。打ち抜く勢いで聡一の体が顕を追い越す。
「!」
 顕はたまらず木刀を取り落とした。
 籠手一本。
「く……くそ……」
 聡一は顕の背中を振り向くとこう言った。
「剣道をやるなら、せめてもう少し形になってから来い。話にならん」
「……!」
 顕が唇を噛むのは聡一からは見えなかったが、悔しがっているのは気配で十分知れた。
「っきしょう……ばかやろう、てめえら、見せモンじゃねえぞ!」
 顕がわめいて駆け去っていく。だったらこんなところでケンカを売るなと聡一は思ったが、わざわざ教えてやる程のことではないので黙っていた。
「本間さん」
 広史の差し出す竹刀の袋を受け取る。傍らに塚本が立っているのが見えた。
「……なんだ、その、今の奴だが」
 塚本は聡一に、どこか諦めたようにこう言った。
「今度今の奴が来たら、構わんから格技館に入れろ。今程度の打ち合いで満足するなら、練習試合として認めてやる。本間、稽古つけてやれ」
「……」
 聡一も広史も呆れた。彼らの担任の度量が広いのはよく知っていたのだが。
「……はい」
 聡一は薄く笑ってうなずいた。次に顕を格技館に招き入れたら、顕は何と思うだろうと考えた。



 広史は舞箏の家に来るのは初めてで、舞箏の家が日本舞踊の宗家だということに驚いていた。舞箏がその跡取りだと聡一に聞いて更に驚いているところに、舞箏の母の三恵(みえ)が玄関に現れた。
「まあ、聡一さん、わざわざ……もうお一方も学校のお友達で?」
「の、野原広史といいます」
 緊張した面持ちで広史があいさつする。
「伊部くんの具合は?」
 三恵の会釈が済むのを見てから聡一は尋ねた。三恵は板張りの床に着物の膝をついた姿勢で、聡一を見上げるようにして答えた。
「ええ、ちょいと熱があるんですよ。なに、大したこたないんですがね……まあお上がり下さいな」
「いえ、プリントを持って来ただけですので、これで」
「よして下さいな聡一さん、玄関(ここ)で追い返したとあっちゃ、あたしが舞箏に恨まれますよ、ささ」
 三恵はそう言って立ち上がると、さっさと奥へ入って行ってしまった。かろうじて姿の見えるところで、
「さ、どうぞ」
と振り返って呼ぶのだ。聡一と広史は靴を脱いだ。
「広いお屋敷ですね……」
 広史が感心した声を出す。三恵が案内して行く舞箏の部屋は、どうやら一階の離れにあるらしい。見事な庭を見ながら廊下を通って行く。
 三恵が声をかけてふすまを開ける。舞箏の部屋だ。
「あら……」
 だが三恵は気の抜けた声を出した。
「馬鹿だねェこの子ったら……舞箏ときたら、寝ちまってますよ」
 病気で寝ている息子に馬鹿とは物凄い言い種だが、三恵は舞箏が聡一を好きだと知っているので、会わせてやれないことが残念なのだ。
「すみませんねえ、せっかく来て頂いたってのに……せめて馬鹿息子の馬鹿な顔でも見て行ってやって下さいな」
 さすがに息子を起こそうとは思わなかったらしい。眠るのが回復に一番良いのはわかっているのだ。
 聡一と広史は静かに部屋に入った。そこは意外にも質素な部屋で、舞箏が好きそうな装飾品などは殆ど置いてない。もしかしたら、舞箏の本来の部屋は他にあって、ここはただ療養の為に当てられているだけの部屋かもしれなかった。
 舞箏は静かに、床に敷かれた布団の中で寝息を立てている。聡一は舞箏の寝顔を一瞥すると、自分の鞄のふたを開けて折り曲げたプリントを数枚出し舞箏の枕元に置いた。そのまま舞箏に背を向けると、ぼうっと舞箏を見ている広史に言った。
「行くぞ野原くん……どうした、顔が赤いぞ」
「え……いえ、あ、いえ、はい」
 広史は慌てて聡一を見て応えたが、聡一はさほど気にもせず、三恵に退室を告げた。
「おや、もうお帰りですかえ」
「これ以上いても病人の邪魔になるだけですので」
 三恵は残念そうにしていたが、聡一と広史を先導して玄関へと向かった。広史は部屋を出る時に、一度舞箏を振り向いた。
 聡一と広史が三恵に見送られて玄関を出ると、門の外で舞箏のはとこの揚羽(あげは)が待っていた。会釈をすると髪を一つに束ねている青いリボンが揺れた。
「私、聡一さんに個人的にお願いがあってお待ちしてましたの。多少時間がかかると思います。申し訳ありませんけれど、お連れの方は――」
 聡一は広史を見た。揚羽の言葉を広史がどう聞いたか見ようとした。だが広史は別段不愉快になった様子もなく言った。
「あ……じゃあ、俺はこれで……先に帰ります」
 聡一と揚羽に、広史はそれぞれ頭を下げる。
「……すまんな」
 いえ、と聡一の言葉に応えて、広史は一人で舞箏の家を後にした。ほんの暫く広史の姿を見送って、揚羽は聡一を誘って門を入る。玄関までの距離を歩きながら、聡一は揚羽に尋ねた。
「用とは?」
 揚羽は、玄関を入るよう聡一を促して、聡一が靴を脱いで板の廊下に上がるのを見届けてから言った。
「舞箏さんが目を覚ますまで、舞箏さんといてあげて下さいな」
 聡一は呆れて、目を見開いた。
「個人的にお願いがあると言われたと思いましたが」
「ええ、私個人がお願いしてるんですわ。聡一さんに」
 揚羽の舞箏に似た顔がにっこりと笑む。
「目が覚めて傍に聡一さんがいたら舞箏さんがどんなに喜ぶか、私よくわかるんですもの」
 ですから、どうかお願いします、と揚羽は頭を下げた。聡一は強硬に断る理由もなく、先程舞箏の部屋を辞してから十分もせずに、再び舞箏の傍らに佇むことになった。
 聡一が置いたプリントが先程のままある。
 舞箏も変わらぬ姿勢で布団の中にいた。
 夕方から夜になれば、また熱も上がってくるだろう。こうして大人しく寝ている姿のしおらしさなど、普段の舞箏の迷惑な程の元気からはどうして思えるだろう。
(こうしていれば、可愛らしいところもあるのだ)
 舞箏の横に一人座って舞箏の寝顔を見ていると、先程から考えないようにと努力している事が浮かんでくる。放課後、校門の外で、顕が言った言葉。
・・無理させちまったもんなあ・・
 彼は君に何をした?
 舞箏が寝込んでいる事に、もしかしたら加担しているのかもしれない。
 本当に、ただの風邪熱なのか?
 その疑問が頭をかすめた故に、今日また顕を聡一は殺すところだったのだ。今再び胸のあたりに込み上げてきた感情を持てあまして、聡一は寝ている病人に毒突いた。
「……馬鹿者」
 舞箏が目を開けた。聡一がぎくりとしたのは一瞬で、寝足りなさそうな顔をした舞箏が聡一に気付く頃には、いつもの無表情に戻っていた。
「あれっ……本間くん?」
 舞箏が慌てて身を起こす。
「えっどうして?」
「今日配られたプリントを持って来た。急ぐ物もあったのでな。君の枕元に置いてある。野原くんも一緒に来たんだが、先に帰った」
「えっえっお見舞いに来てくれたんだ、うれしい!」
「こらっ、病人は大人しくせんか!」
 飛び跳ねんばかりの舞箏に聡一が怒鳴る。舞箏はすっかり敷き布団の上に座り込んで、パジャマ姿を聡一にさらし両手を握り合わせて喜んでいた。聡一は右手を伸ばして舞箏の額に触れた。
「……熱がある。寝ろ」
 舞箏は大きな目でじっと聡一を見ると、素直に身を横たえた。自分で布団をきちんと着て、またじっと聡一を見た。熱のせいか、舞箏の目は潤んで見える。
「……本間くんが来てくれて、うれしいな」
 大人しい声も静かに響く。舞箏の素直さに引きずられたように、聡一は静かに尋ねた。
「……昨日長沢顕と何かしたのか」
「……」
 舞箏は「どうして」という顔で黙り込んだ。
「何かあったのか」
 何かあったのだ。舞箏は言おうか言うまいかという顔で考えている。結果舞箏は、言うことにしたようだ。それを聞いた聡一がどう行動するかなど、考えてないに違いない。多少口ごもって、どこか不器用に言葉をつむいだ。
「キスした……」
 聡一の拳がぴくりと動いた。だがそれは聡一すらも気付いていない。
「……それから?」
 聡一は促した。顕の言う「無理させ」たことを確認したかった。
「……動物園行って、遊園地行った……」
(……)
「遊園地?」
 聡一の意外そうな声に舞箏は気付いたろうか。
「あ、ジェットコースター乗って、ついしがみついちゃったけど、ほんとはこれが本間くんならなあって、思ってたもん。手つないだのも、ハンバーガー食べたのも、ほんとは本間くんとしたいんだから」
 では顕の言った「あんなこと」や「こんなこと」は、動物園に行ったり遊園地に行ったりということなのか。
 黙って見つめる聡一に、舞箏は少し悲しそうに、キスだけだもん、と呟いた。
 聡一は予定にない行動をとった。寝ている舞箏の掛け布団を掴む手を上から握って、びっくりしている舞箏の唇に口付けた。二人して目を閉じて、暫く手と唇の熱を感じている。
 聡一は以前程自分の行動に驚かなかった。「他人が欲しがるものはゴミでも欲しい」という例えはさすがにあまりなものがあるが、自分はきっと舞箏を欲しいのだ、と聡一は考えた。
 聡一が舞箏の上から身を起こすと、舞箏はますます赤い顔をして、真上にある聡一の顔を見た。そして突然、何かを思いついたように「あっ」と叫んだ。
「もしかして本間くん、顕と『全部した』って言ったら、全部してくれた?!」
「……馬鹿者!!」
 聡一は至近距離で舞箏に怒鳴った。
 聡一の腰に後ろからしがみつき「いや、まだ帰らないでえ」と引き止める舞箏は一分程で布団に転がされ、「とっとと治して登校して来い!」と言い捨てた聡一は後ろも見ずに今度こそ帰って行った。



 聡一のクラスの火曜日の欠席者は、舞箏ともう一人広史も増えていた。もとは聡一の風邪なのだが、聡一自身はそんなことも知らずぴんぴんとして登校している。昨日伊部くんの家で顔が赤かったのはやはり風邪だったんだな、などと広史について考える。
 聡一の風邪で寝込んでいるのは、今一人いた。顕である。

(くっそう本間め、覚えてろ……!)
 自宅のベッドで療養しながら、憤懣やる方ない顕である。自分の風邪が聡一からもらったものだと、顕だけは知っている。そのことがまた、聡一に負けたことと共に顕をイライラとさせて、寝ていてもカッカと熱を上げさせた。
 これではなかなか、治らない。

 暫く聡一の周辺には、欠席者が続くことになった。最初に聡一にとりつこうなどという風邪には、やはりそれなりに結構な根性が備わっていたようである。




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