その客がやってきたのは過去二度だけだった。
店を開いて間もなくと、それから数年後に一度だけ。
そいつが海賊であることは、頬に刻まれた傷痕から察しがついた。
親しげにクソじじいの通り名を口にしたことからも、名のある海賊なのかもしれない。
それでもそいつは、他のカタギの客に迷惑をかけるでもなく、俺達コックにも偉ぶるでも
なかった。
「…何しにきやがった。」
口では迷惑そうにいいながらも、いつもクソじじいがそいつを案内するのは、バラティ
エの中で一番クソじじいが気に入っている席だった。
店内で、一番海が綺麗に見渡せる席。
店で客と話すことなどしないクソじじいが、そいつとだけは楽しげに喋った。
だからよく覚えている。
そいつにだけは、予めステーキを切り分けて出すことも。本来左に置くはずのフォーク
類を右側に置くことも。
無造作に羽織ったマントの下、そいつには左腕がなかった。
紫煙がゆらゆらと空へ溶けていく。今日もイーストブルーの空は嫌になるほど快晴だっ
た。
「コックは禁煙…じゃねぇのかい?」
振り返るまでもなく声の主は察しが付いた。
「ここ、一般のお客さん、立ち入り禁止なんすけど。」
俺の返しにそいつがにやりと笑って、俺の隣に並ぶ。
「おお、いい天気だな。店内にいるのが勿体ないぜ。」
うーんと大きくのびをする。並んでみるとそいつは大して背が高くない。ああ、初めて
会った時から、俺の方が伸びたのか。
こいつがバラティエに来るのは、今日で三度目だ。
「あの船、あんたのかい?」
くゆらした煙草の先で遠くの船影を指してみれば、ああ、そうだと嬉しそうに頷いた。
「…でかい船だな。」
「ああ、でかい。」
にやりと笑って。
「だが、それだけじゃない。」
あ、そ。あの中にいるのは現役の海賊共か。……あれだけの船なら、お抱えコックも何
人もいるんだろうな。
「で、そのお仲間達残して、あんた一人で美味いもん食ってる訳かい?いい身分だな、海
賊頭ってのはよ。」
「おお、美味いぞ。酒が美味くなるもんばかりだからなぁ、ここのメシは。お前が選んだ
っていうワインも最高だった。」
ケッ。酒なら何でもイイってツラしてる癖に。
俺の台詞に、違いねぇとひとしきりそいつが笑う。
「何、暫くこの海を離れるんでね。立つ前にイーストブルー1の料理を楽しんでおきたか
ったのさ。」
イーストブルーを、離れる?
俺の視線を感じているだろう癖に、わざと俺を無視してそいつは海の彼方を眺めている。
「ついでに、腕のいいコックをスカウトして行きたいんだが…」
コックを…。
ごくり。知らず俺は、喉をならした。
こいつは、行くのか。
このイーストブルーを離れて。あの―――偉大なる航路へ。
『時期が来たら、グランドラインを目指せ』
時期が、来たら。
『俺はあの場所に』
『オールブルーの可能性を』
時期が―――
「生憎これと見込んだ一人には随分前に断られちまってるんだが、もう一人若くてイキが
いい方の答えをまだ訊いていなくてね。」
気付けば正面から俺を見つめる瞳。
何が違う?海賊ならクソ腐るほど見てきた。そいつらと違う何か。自信、力、プライド。
震えがくる位の、――眼。
「――俺の船に、乗る気はねぇかい?」
―――時期が、来たら。
風が来る。
強い風が。
俺の髪をばたつかせ、そいつの赤髪も、マントもばたばたとはためいた。
ああ、いつだって南からの風は、嵐の前触れなんだ。
マストを支えるロープが風に鳴く。マストの上で、五月蠅いくらいに旗もばたばた鳴っ
た。
何かに追われるみたいに、海鳥が飛んで。
「…あ…」
―――あの鳥の行く彼方に、奇跡の海はあるだろうか。
その一瞬未だ知られぬその海の、香りを嗅いだ気さえして。
知らず止めていた息を、俺はゆっくりと吐きだした。呼吸とともに俺の肺を満たしたの
は、嗅ぎ慣れた煙草といつもと同じ潮の香だけ。
そう、ゆっくりと吸い込んだ紫煙を吐き出してゆく。
「――生憎、野郎の誘いは全部断ることにしてんだ。」
俺の答えに、そいつはにやりと笑い返した。まるで俺の答えなど、とうの昔に知ってい
たというように。
「それに、行くなら自分で行くさ。あんたの力は借りない。」
そう、まだその『時期』じゃない。だって俺は、まだ返すモンも返していねぇから…。
ぽん、とそいつの右手が俺の頭に置かれた。振り払う暇もなく、髪をぐしゃぐしゃにか
き混ぜられる。
「何すんだ、オロスぞ、てめぇっ!」
「昔、お前と同じコト言ったガキがいてな。」
ふと見ればそいつの眼は、ひどく懐かしそうな色で。
「お前、いくつになる?」
「……17。もうすぐ18。」
年も似たようなモンか。そう言って何が嬉しいのか、楽しそうに声をあげて笑ったから、
俺は何も言い返さずに、ただチビた煙草を靴の裏でもみ消した。
「何いつまでサボってんだ、サンジ!てめぇのクソ不味い料理を食ってくださろうってい
うタコ物好きな客共が待ちくたびれて餓死しちまわぁ!」
ちっ。うるせぇ、クソタヌキめ。落ち着いて一服もできやしねぇ。
舌打ちと共に新しい一本を銜え、俺がデッキを離れる。だがそいつはまだデッキを動こ
うとしなかった。
「……あんた、」
まだそこ居るのか、俺が訊こうとするより一瞬早く。
「もしお前が―――」
風が、吹いた。強い強い南からの風。
「何だ?聞こえねぇよ。」
声を攫う。五月蠅いくらいに唸るロープと波の音にかき消されて。
「――――――――――――――」
声なんか届く訳がないのに。
眼に焼き付いたのは、そいつの笑顔と掲げた右手。親指だけを空に向けて。
ああ、空は。
空はどこまでも、繋がっているもんなぁ。
俺もただ、右手を挙げて同じ合図を返した。
『もしお前が、あいつと会ったら』
それは、彼らが出会う一年と少し前のこと。
『グランドラインで、また会おう』
someday ; NEXT SOON! someplace ; GRAND-LINE!
Now , Here we go !
< Someday someplace > ××END××