最終話



『波間の裸子はやがて。』



『――人肌の衣が裸子を守り、』



戦う時は物凄い力を発揮するのに。
その点だけは、スノウは半ば無意識に認めていた。
同級生も上級生も、やや力押し気味ではあるがタルの剣技については、最早一目置いていた。だが、集中力があるのかないのか。
いざという時以外は、居眠りしたりさえしているではないか。
タルと海上訓練の同じ班に振り分けられて、スノウは当惑していた。実際に洋上に出ての実践訓練は、新人訓練生には初めてである。なので各訓練は日替わり、各班には上級生も混じっての縦割りメンバーである。勿論、教官となる正騎士も同乗する。スノウたちの訓練船には、責任者としてカタリナ副団長も乗船していた。
スノウの当惑の種は、視線の先で鼾をかいている。気に入らない、扱い難い相手というのが、まず今までは滅多に現れなかった。もし現れたなら、ただ無視して遠ざければ済んだのだ。
ところが、どうも今回はそうは行かない。
カチャカチャと、鎧装具にしては大人しめの足音がスノウの後ろで止まった。
「……スノウはタルが嫌い?」
振り向くと、ヒルダが、スノウ以上に困惑した瞳で立っている。タルを睨むスノウの表情に気付いてのことだろう。手には、板に挟んだ紙とペン。各持ち場での定時点呼を纏めて回る役を仰せつかっているのだ。
「……嫌いだったら、どうするんだい」
大体が、こんなことを自分に訊いて来るのが初めてだ。
あろうことか、ヒルダはタルを気に入っている。腹の立つ、仮定ではあるが。
スノウに問い返されて、ヒルダは明らかに困窮した。口を半開きにしたまま、しかし自分の思いを手放すことに抵抗するように、スノウの瞳をじっと見た。だがそれは長続きせず。
喘ぐ様に息をしたと思うと、つと俯いた。
スノウは、嘘を吐いた。
「……嘘だよ。嫌いじゃないさ」
ヒルダはほっとして見えた。
「……ただ、訓練中に居眠りするのはどうかな」
見やると、甲板でこっくりこっくり、船を漕いでいるタルが、今まさに教官にどつかれて飛び起きるところだった。スノウは、ため息を吐いてヒルダを見る。ヒルダは、今の息苦しさなどなかったように、教官に向かって頭を掻くタルに薄い笑みを零していた。
笑っているのはヒルダばかりではない。訓練海域に船が辿り着くまで待機しながら時間を持て余している、近場の持ち場の連中は、余さずこの小イベントを歓迎していた。
「はいっ気をつけます!」
タルはやや大げさに、直立不動気味に上官に敬礼してみせる。叱っている教官も、決してこの気持ちのいい後輩を嫌いではないのだ。しかつめらしく見せていた顔を、ぷっと吹く様に崩して、また急いで厳しい顔を作り直す。
「……それとな。聞こえているぞ。お前、騎士団に無断で港でアルバイトをしているそうだな。団長の耳に入る前に、辞めろ。わかったな」
付け足しの叱責は小声だった。だがスノウには、そしてどうやらヒルダにも、聞こえたようだった。教官が肩を叩いて離れても、「はい、辞めます」との快活な答は終ぞタルの口から聞こえず。ヒルダの笑顔が消えたのは、どうやらそれが原因だった。



やって来るヒルダに気付いて、タルはニッと笑って敬礼した。
「船尾視認範囲異常なーし!……お、ああ、点呼か」
出航して2度目の定時点呼。ヒルダの持つ板とペンに、タルは挙手して(挙手は必要ないのだが)船尾哨戒員2名! 異常なし! と叫んだ。船尾にはもう1人、タルとは逆の左後方の持ち場で同じ訓練生が、生真面目に遠方を凝視している。
船尾哨戒員2名、異常なし、と復唱して、ヒルダは紙に書き付ける。
こうして不特定多数と、定句とはいえ必ず言葉を交わす仕事を振り当てたのは、団長、副団長の采配であろう。
「……どうだ、船酔いしてるヤツなんかいねえか?」
稀にはいるのだ、と乗船前に先輩が脅して聞かせていた話だ。
海上騎士団員の癖に船酔いするような奴は、何より査定に響くのだそうだ。どこまで真実で笑い話か、新人訓練生には測りようがない。
「……うん。誰も。……タルは、船、慣れてるもんね」
おう、とタルは笑う。
「騎士団以外の仕事もしてるの」
とヒルダがあまりにさらりと口にしたので、タルの方が一瞬ぐっと返事に詰まった。
「だから、疲れて居眠りするの?」
「……あー」
タルが即答しない。きっと、伏せておきたい事だったのだ。タルは2、3度瞬いて、ケビン、ともう1人の哨戒員に声をかけた。
「わりい、オフレコで頼む」
忙しい、とだけケビンは答えた。生真面目に、哨戒を続ける。タルは黙ってケビンを片手で拝んで、ふう、と息を吐いてヒルダを見た。
「……んーまあ、内緒で、荷運びのバイトしてんだ。ちょっと、家に仕送り増やさねえといけなくなってな。だからって、騎士団の仕事や訓練を疎かにしていいって訳じゃねえからな。うん、俺がよくねえな」
居眠り、気をつけるわ、とタルは笑う。
ヒルダは笑えない。
「……心配いらねえって。体力が取り得なの、知ってっだろ、な」
バイトは、続けるつもりなのだ。
タルは、ヒルダの頭をぽんぽんと叩く。ほら、次の点呼行けよ、と促す。
いつもは嬉しいタルの手が、後ろめたくて重かった。
ヒルダは、タルの体調より、仕送りしなければならないタルの家族より、もっとつまらないことを考えていたからだ。
最近、お昼ご飯に誘わなかったのはそういう訳か。家族、大事だもんね……
自分には本当には家族愛などわからないことと、身勝手な嫉妬を早くタルから隠したくて、うん、と小さく肯くと、ヒルダは顔も上げずに船尾を後にした。


「あっヒルダ、ごっくろーさん!」
ジュエルは元気よく挙げた手を、しおれるようにかくん、と垂れた。ヒルダが、こちらをちらとも見ずに、さっさっと横を通り過ぎて行ったからだ。点呼番の板を持っていた。それで頭がいっぱいなのだろうか。
「……船酔いでもしたかなー?」
最近は、よく話すようになった同僚について思う。始めは、話しかけると、何やらこちらが苛めている様な気になったものだ。それが次第に庇ってやらなきゃ、という気に変わり、今ではどこか、女友達めいた連帯感を持っている。ヒルダが聞いたら、なんと言うだろう。
きっと黙って困ってしまう。だってヒルダが痴漢に合ったら、悲鳴も出さずに固まるに違いないから。
そんなゴシップめいた例え話を頭の中で展開して、ジュエルはくっくっと笑った。
「おーい! タル! 交代だよー!」
船尾への階段を駆け上るなり、ジュエルは声を張り上げた。おう、と応えて、おせえ! と怒鳴る声がした。声音の通り、タルの顔は怒っていない。歯だけ剥き出して見せて、
「点呼はお前が受けるはずだろがよ! まあ、お陰でヒルダと話せたけどな」
そんな自慢をして寄越す。
「ふっふーんだ、『船尾乗員異常ありません!』なんか、羨ましくないよーだ!」
相手がケネスだったら、報告の台詞の間違いを指摘したところだろう。
ジュエルが舌を出すと、「いや」とケビンが口を挟んだ。顔は哨戒方向を向いたまま。
「あんなにヒルダの声を聞いたのは、俺は初めてだよ。ほんとに、タルとは沢山話すんだな」
「えー!」
ジュエルは声を上げる。
「ほんと?! さっきヒルダとすれ違ったけど、挨拶もしてくんなかったよー!」
なにようタルばっかり! えい! えい! とジュエルはタルに蹴りをくれる。
「だっ! こら、蹴るな! おま、こら、ほんとに女かア!」
向こうを向いたまま、どうやらケビンは笑っている。
「ふんだ! もうご飯食べたモンね! 羨ましいでしょ!」
「うご! お前が来ねえと食いに行けねっつの! 行かせろメシ!」
タルはジュエルの何度目かの蹴りをするりと避けて、わっはっは、と笑いながら船尾を逃げ去った。その背中に、「食べ尽くすんじゃないわよ、この食欲大魔王ー!」と怒鳴っていたものだから、ジュエルは、タルのズボンから蹴り落とされた紙切れに気付きながらも、拾うのが遅れた。
船内の配置図か予定表か。はたまた昼飯のメニューか。
そんなものだろうと思ってのんびり拾い上げたジュエルは、記された文字列を見て、非日常に凍りついた。
「……なにこれ」
まず否定する言葉が出た。問いながら、意味は否定だ。
ジュエルの声に、ケビンが、初めて顔を振り向けた。ジュエルは動かない。手にした紙に食い入って、静かに混乱して見えた。ケビンが持ち場を離れて、ジュエルの手の紙を覗き込んだとき、おそらく、ようやくジュエルの頭に、文字列が意味を成して辿り着いた。
ケビンははっとして顔を上げたが、タルの姿はもう見えない。ジュエルはかっと大きな目を見開いて、ぼたぼたと大粒の涙を零したと思うと、物凄い勢いで船尾を駆け下りた。ケビンは少し迷って、結局自分の持ち場で遠くを見つめることに決めた。


どたどたとうるさい足音が追いかけてきた。タルはもう少しで船内に下りるところで、同じくこれから食事のケネスと、手を挙げて挨拶を交わしたところだった。
「タル―――!!!」
声に振り向く前に、どかっと背中にぶつかられるのを感じた。続けて、ドカッドカッと拳で殴る感触。
ジュエルが、力の限り、殴っている。
「うお?! ってー、なんだよ?!」
言うほど痛くはない。むしろ、鎧の上から殴るジュエルの手の方が、痛いはずだ。そう思い、タルはジュエルの手を掴む。殴られる意味はわからない。ケネスも、他の周りの連中も、呆然としている。ジュエルの起伏の激しい性格は知っていたが、これはまるで意味がわからない。
「なんなんだよ、おい」
大声で、バカ! と罵られた。
「バカ! バカタル! 何で黙ってんのよ! なんで言わないの?! 何でここにいるのー!!」
顔を上げたジュエルの目には涙が溜まっていて、次々にぼろぼろと零れ、また溢れてくる。泣いて、怒って、わんわんと叫ぶ。掴んだジュエルの手の、紙切れに気付いた。
「お母さん、死にそうなんでしょ?! ハハキトクってそういうことでしょ?! ニイチャン、キテ、って書いてあるじゃん……!」
―――凍り付いた。全員が。
「あんたそんな冷たいヤツなのー!!?」
カタン、と軽い板が甲板に落ちて当たる音がした。点呼を終えたヒルダが、そこに立っていた。


騒ぎを聞きつけた教官が、カタリナ副団長を連れてやって来た。
もうくしゃくしゃになった報せを一読するや、カタリナはさっと顔をタルに向けたが、カタリナが何か言う前に、
「乗船することは、自分で決めました」
そうタルが発言した。
タル! と怒鳴ったのはジュエルだ。
「……そうですか。わかりました」
カタリナはそれだけ応えて、皆持ち場に戻るように、訓練は続行します、と告げた。



点呼報告も上の空だった。食事は咽を通らなかった。
タルの家族が、楽しい時間を邪魔した気にさえなっていた。
耳に、タルの声が蘇る。
(子供らにチューしまくる母ちゃんで……)
タルを育てた人が、死ぬかもしれない…―――



よく食えるもんだ、と囁く者もいた。食堂に入って、タルは黙々と食事した。一緒に席に着いたケネスの方が、食が進んでいない。いろいろと考えてしまうのだ。耳に入る口さがない言葉と、目の前の、けして旨そうには見えない、食べることが大好きなはずの同僚の食事風景。考えることが苦手な彼が、どれだけのことを考えてここにいるのか。


ジュエルは船尾の持ち場にはいるものの、しゃくりあげて腕に顔を埋めてしまって、とても哨戒の仕事をこなしている様には見えない。君が泣いても仕方ない、と声をかけて、うっさい! と怒鳴られてから、ケビンは哨戒任務に集中している。
ナセル鳥が一羽。船から飛び立つのをケビンは見た。



ナセル鳥が飛んで行くのを横目で見ながら、スノウは船首付近で、午後からの訓練の手順の確認をしていた。
「なんだったんだ、さっきの騒ぎは」
あのナセル鳥はきっとその報告だろう、と思い、誰にともなく口にした。一緒に作業をしていたポーラが、思いの他、返事をくれた。
「タルのお母さんが、危篤だそうです」
スノウは、驚いて、確認の手が止まった。
「き、危篤?……危篤って、あの、危篤?」
「はい、そうだと思います」
随分間抜けな質問をしてしまったものだ。それを誤魔化すように、スノウはポーラの耳を誉めた。
「……よく聞こえたね?」
「はい。良く、聞こえるんです」
そうだ。彼女はエルフ種で、僕らとは造りが違う生き物だった。普段は忘れている事実を思うついでに、彼女が件のタルと親しいことも思い出した。ちらりとポーラを盗み見る。
平気そうだが、それも、造りが違うのだろうか。
こほん、とスノウは咳払いをした。もう一つこほん、とやって、鎧の腰に手を当てる。
「……気に、なるなら、行ってくればいいよ」
ここは、僕が見てるから、そういうと、ポーラは珍しく目を見開いた。ありがとう、とさっと頭を下げて、風のように駆けて行った。
船首に一人残って、スノウは首を傾げる。
頭を下げられるのは慣れているはずなのに。
「……ポーラに頭を下げられるのは初めてかな?」
頭を下げる行為は、感謝に発してこそなのだと、未だ気付かず。



詰め込むような食事を終えて、タルとケネスは食堂を出た。まだ15分程、食事休みが残っている。既に任務に就いている者もいたが、タルもケネスも、午後の訓練が始まるまでは、休憩時間だ。
甲板に出て、中央マスト付近から風上に向かい、船縁に寄りかかった。
「いつ来たんだ」
ケネスにしては、言葉の足りない質問だった。だが、今考えていることなど、きっと他にないのだろう。
「俺が行ってもな。弟たちがいるし結構しっかりしてる」
母の危篤を知らせる速達のことであると、タルは間違わずに返事した。
「親子のことは、それは俺にはわからないかもしれないが……」
一度切り出すと、タルもとっくに考えただろうと思ったことも、次々と出てくる。ケネス自身に動揺があるのだろう。余計なことだとわかりつつも止められなかった。
「……お前に、来て欲しいと思うぞ、きっと」
「遠いし」
タルはぽつんと答える。その次に隠された恐ろしい予測は口にしない。
(行ったって間に合わないかも)
そういえば、船の上で生まれたと言う彼の家族は、今どこに住んでいるのだろう。
「そういうことじゃないだろう」
(たとえ間に合わなくたって)
恐ろしい言葉を口にしないのも、調和のうちだ。
タルの返答もほぼ予測通りのものだ。ケネスは予定調和を求めて、言葉を吐き出したいだけなのだ。自分が落ち着く頃にはタルも落ち着くだろうと、タルが淡々と返事することにどこか救われながら、タルよりも、おそらく自身が落ち着きたくて。
こうして会話を続けるうちに、話題は一応の終結を見る。言葉に出して語ることで、混乱は整理され、平穏を取り戻す。
うん、まあな、タルは呟く。
理解して、受け入れて、自分の行動を自ら決めた。彼は強い。
何故、そこで止めなかったか。
「そりゃあお前はそうしていられるほど強いかもしれないが、報せを送って待っている弟さんや……」
――ケネスは息を呑んだ。
己の失敗に気が付いた。
「――強い?」
タルの皮肉な顔というものを、そこにいる誰もが、おそらくは初めて見たのだ。
「――お前らが言うほど、俺は強くなんかねえよ。こんな紙切れ貰ったって、何をどうしていいかもわかりゃしねえし、母ちゃん治せるほど頭よくねえし、名医雇えるほど金もねえし、結局今までどおり、ここに残って仕送り増やすくらいしか、出来やしねえ!」
言葉は全て己へ返る。
「なんも出来ねえよ俺は……!!」
嘲る。いや、憎む。タルは、恐らく憎いのだ。自分の無力が。
こんな予定はなかった。何が予定調和だ。
言葉に出して整理するのはタルも同じだと、信じた訳ではあるまいに。
「タル……」
名を呼ぶだけだ。ケネスに手段はない。この友人がこんな風に己を否定すると、欠片も予測しなかった。
どんな時でも足を前へ出す男だと、勝手に信じていたのだ。
――否。確かに前へ向いている。無力感に打ちひしがれながらも。
立って足を踏み出しながら、それが本当に前なのかどうかもわからずに、困惑している。
タルはケネスを向いて怒鳴った。だがケネスを見てはいない。己を怒鳴った。無力だ。精一杯が、無力だと。
「だ……」
声は。
ヒルダだ。
「だ、大丈夫……タルが、頑張ってるんだから、きっと、大丈夫……!」
彼もまた、精一杯の体で。タルに近付くと、背伸びをするように腕を伸ばして、頭を撫でた。タルの頭を、よしよし、と。
タルは目を見開いた。
「おかあさんは、だいじょうぶ……!」
タルは、ヒルダを見た。
「ヒルダ……」
名を呼んだ。見上げてくる目が。懸命な様が、弟に重なるのか。兄の気質を思い出させるか。
皮肉と苦痛に歪んだ頬が、違うように曲がる。片頬がくくっと上がり、堪えた息をふうーっと吹く。タルは、ヒルダの頭を大きな手で、ぐしゃぐしゃと撫でた。
「……ありがとな」
いつもの顔には程遠かったが。
タルは笑って、ヒルダの手を、自分の頭からどけた。
「もう、大丈夫だからよ」
ぽんぽん、とヒルダの頭をとどめに叩く。
「……そうだな。信じよう……」
ケネスの呟きは、自分自身に聞かせるもので。
傍らで、ポーラが、何かを囁いた。エルフの言葉か。何かを、祈ったようだった。



あんなものは、上辺の言葉だ。
ヒルダ自身が、よく知っている。
祈っても、願っても、じいちゃんも、ばあちゃんも、留まってはくれなかった。
それ以前に。
自分は、親の元に、留まりなどしなかったではないか。
ヒルダは思う。
タルは持っているのだ。結局。
どうしていいかわからないほどに、なくしたくはないものを。
……自分は持っているか。自分は何を持っているか。裸の赤ん坊が貰ったものは、何か――――
どうしても、スノウの姿と赤いリボンが思い浮かぶ。その以前に貰ったものの事は、思い出せない。



訓練海域が近付くにつれ、先輩たちが怪談風に話していた、海で死んだ者が仲間を連れに来る、という話を思い出す。船酔いすると査定が下がる、と同じレベルで話されていたものだから、信憑性はあまりない。
午前中に通常航海における操船、哨戒についての訓練を済ませた彼らは、航行中に敵に遭遇した場合のシミュレーションを午後に行う。敵を乗船させない為の指導を受けた後、いよいよ、訓練生同士が敵味方に分かれての、仮想敵に乗船された場合の実戦訓練に入る。
海はいい具合に荒れていて、怪談よりも、海戦の臨場感に溢れていた。
ヒルダは腕に黒いリボンを巻いていた。乗船してきた敵の印だ。これを取られたら、切り倒された場合と同様、訓練終了まで、その場で伏して動いてはいけない。
敵は、合図があるまで、船縁に寄って、大人しくしゃがんでいなければならない。司令室のカタリナ艦長の手から杖を奪えば敵の勝ち。果たせず、敵全員が討ち取られれば、訓練は無事成功という訳だ。勿論、敵が勝っても支障はない。ただ、カタリナが、大人しく杖を渡してくれるとは思えないのだが。
ジュエルの声が響き渡る。
「――左舷に敵艦接舷! 敵乗員、本艦に侵入!」
合図だ!
ガタガタッと、敵役の訓練生達が一斉に駆け出す音がした。ヒルダも、同じく立ち上がる。
早い者は、もう剣を交えているようだ。ヒルダが広い甲板に出る頃には、剣戟の音に、沈むように倒れ伏す斬られた敵役も転がっていた。
あちこちで交えられる剣。腕に黒いリボンを付けた訓練生達が、司令室を目指して切り込んでいく。先陣を切る一団から少し離れた場所で、黒いリボンを付けたポーラが、風の紋章を発動していた。眠りの風。かかった者たちがばたばたと倒れ、道を空ける。
「行かせないよー!」
叫んで剣を振り回すのはジュエル。どりゃー! とばかり敵役達を迎え討つ。船尾にいたのに、もう戦いの中心にいた。混戦の中を、くるくると器用に立ち回っていたのはケネス。
「おっと」
ジュエルの強撃にぶつかる前に身を引くと、腕の黒リボンを棚引かせ、船首への階段を駆け上った。途端に左拳が光を帯びる。
「纏めて散れッ!」
詠唱が早いか、不穏な掛け声が早いか。一面に雷が降る。怒りの一撃!
「わっ! 危なッ! 怖いよケネスー?!」
多分に漏れず、ジュエルも痺れて尻餅をつく。一撃必殺の必要はない。足を止めれば良いだけなのだ。ケネスは、怯んだリボンなしの一団の合間を、すいすいと擦り抜けた。
――ひゅうっと、
タルが降って来た!
咄嗟にケネスが身を捻ると、ドカッ! とケネスがいた場所にタルの剣が降りかかる。ちっと舌打ちをして、タルは素早く剣を引き構える。
「もうちょいで、ちょんまげ切れたんだがな」
「……なっ」
どこから、と見上げた。メインマストの上。物見台が、頭上にあった。
「――サルかアー?!」
「るせえ、斬られろ!」
ギイン! と剣の身に一撃を受けて、ケネスは踏ん張りきれずにずりっと下がった。先程の無力に打ちひしがれていた男ではない。同情なんかしていたら、太刀打ち出来ない。ケネスは密かに、タルの集中力に舌を巻く。全く、単細胞は切り替えが簡単だ!


ヒルダは、とにかく司令室を目指した。真正面から打ち合うことは極力避け、生きて司令室に辿り着くことを優先した。相手の剣を上手く流し、幸いにも切り倒されることもなく、司令室前の扉までやって来た、と、扉の前にいるのはスノウ。
互いに目が合い、ヒルダは反射的にびくっと怯んだ。
「手加減はしないよ!」
スノウはぐっと剣を握ってこちらへ構える。
スノウは自信に溢れている。それはそうだ。スノウはヒルダと打ち合って、負けたことがないのだから。
ヒルダはスノウと打ち合って、――全力を出せた試しがない。
タルが一度誉めてくれた「結構な一撃」など、スノウに打てたことはない。
スノウを打ち負かすなど、ヒルダに出来る訳がないのだ。
「やあっ!」
気合もろとも、スノウは剣を打ち込んでくる。ヒルダは懸命にその剣を受ける。逃げてもいけない。余力があると知れてもいけない。……いや、ヒルダは本当に、それで精一杯なのだ。
海が荒れて、波が高い。船が大きく揺れた。
ジャッと音を立てて離れる剣が、偶然、2本のリボンを絡めた。
一つは黒いリボン。一つは、
赤い、リボン。
「―――――」
ヒルダが目を見開いたのは、敵の証の黒いリボンを取られたからだと思ったろう。
「やあ、勝負ついたね、ヒルダ。惜しかったけど、君はここで……ヒルダ?」
船が揺れる。揺れて傾く視界に、赤いリボンが、流れていく。
「……ヒルダ、血が、ご、ごめん、大丈夫かい?!」
掠めた剣先が切ったのだ。ヒルダの額と、赤いリボンを。
伸ばした手をヒルダの額に触れる前に、スノウはヒルダの目線に気付いた。
「ああ……切れちゃったね」
そうして、風に流されて、ヒルダとスノウの見守る先で、戦う訓練生達の頭上を越えて、リボンは船を離れて海へ出た。
スノウは、少しばつが悪そうにヒルダを向く。
「……いいじゃないか、そんな古いリボン」
言い終わる間もなく。ヒルダ、とスノウは叫んだ。
剣を交わし続ける仲間の中へ、ヒルダは突っ込んでいく。物も言わず、物凄い勢いで、鎧を押しのけ、剣をかわし。
リボンを追って、海へ――
「バカ、止せ!」
止めたのはケネス。剣を交わす最中に目の端に飛んでいくリボンを見つけ、次いで人海の中を掻き泳いでくるヒルダを見た途端、剣を放り出して突っ込んでくるヒルダを抱き止めた。
「放……っ」
初めて聞く、ヒルダの怒号。
「放せ!」
ケネスは僅かに怯んだが、放せば、ヒルダがリボンを追って海に飛び込むのは必至だった。
ヒルダは、船縁を背にするケネスに抱えられて、海に向かってもがく。いや、最早見えぬ赤いリボンに向かって。あれは、あれは唯一の。―――
視界の端に、実戦訓練中の彼らとは1人違う動きをする鎧が見えた。
叫ぶヒルダの向こう、少し離れた船縁に飛び乗って、きれいに頭から海に飛び込む、
タル。


「――――――」

ヒルダはケネスの腕の中で固まった。ザン! と水音がする。
飛び込んだぞ、タルだ、と誰かの声がした。ケネスは振り向く。ヒルダを放し、「タル!」と叫ぶ。
飛び込んだ? タルが? 鎧のままで。――……


(海戦で無念にも命を落とした兵士達は、仲間を求めて引きずり込むそうだ。波の高い日に……)
(人数が揃わなければ船が動かないのさ。それで彼らは仲間を探してる……)
(間に合わなかったら)
(遠い)
(そういうことじゃないだろう)
呼んでいるのは、タルの父か、母か。


「タル――……!」
船縁から身を乗り出して、ケネスは顔を巡らせる。その名の主は、見当たらないのか。
波が高い。鎧が重いだろう。


(何でここにいるの!)
(……お前に、来て欲しいと思うぞ、きっと)
呼ぶのは。鎧が重いだろう。


(あんたそんな冷たいヤツなのー!!?)
(……嫌いだったら、どうするんだい)
波が高い。鎧が重いだろう。
(ニイチャン、キテ、って書いてあるじゃん……!)
……もしも、このまま。



ケネスが声を張り上げる。
「タル!」
周囲が、わっと沸いた。各々腕を掲げ指差し、口々に何か言う。口調は明るい。
ヒルダは磁石に惹かれるように、船縁に張り付いた。海を覗くと、波間で上下に揺れながら、掴んだリボンを高々と掲げてみせるタル。


下ろされた縄梯子まで泳ぎ着いて、タルは流石に重そうに登ってきた。ずぶ濡れで、甲板に辿り着いても、海に浸かり切った衣服はまだ吸った水を吐き出し続ける。髪も顔もしとどに濡れて、足元には忽ち水溜りが出来た。
濡れた顔で、ヒルダを見た。にっと笑って、赤いリボンを差し出した。
「……っとお?!」
駆け寄るヒルダが体当たりするとは思わなかったに違いない。不意を付かれ、流石に疲れているだろうタルはふらついて、尻餅をついた。
ヒルダはタルにぶつかったまま、ぎゅっと抱きつき、沈むタルと一緒に膝を着く。濡れた服や鎧の冷たさが、却ってヒルダに呼吸を促した。
ヒルダは、息も絶え絶えだ。
「ほら、リボンは無事だ、落ち着けって。なんだお前、怪我して……」
違う。違う、リボンじゃない。
怖かったのは。
「……ごめ……ごめ、んなさ……」
声が震える。呼吸が浅い。怖かった。怖い。とても怖かった。
大事なリボン。
海に落ちた。
タルが、落ちた。
帰らなかったら、と思ったら、動けないほどの恐怖に襲われた。どうしていいのかわからなかった。
タルはこんな気持ちと戦いながら、船に乗っていたのだ。
失くす、と思った。ヒルダはもしかして、
持っているのだろうか。
この―――
鎧に押し付けていた顔を、ゆっくりと上げた。
タルは、ふーと息を吐いて、ヒルダの頭をぐしゃぐしゃと撫でた。
「……謝るなら俺にじゃねえぞ。心配と迷惑、みんなにかけちまったんだからな」
まー俺もおんなじだから。そう言って笑う。よっこらしょ、と立ち上がる。
ヒルダを横に避け、ぴしっと姿勢を正した。そうして、勢いよく、上体を90度曲げる。
「スミマセンでしたァ…ッ!!」
大きな声が、船をはみ出し、海に響いた。
ヒルダは、はあっと大きく呼吸する。タルの隣にきちっと並んだ。
「……すみませんでした……!」
ヒルダにしては大きな声が、下げた頭から発せられる。ちらと横を見ると、同じ高さに傾いた顔が、にいっと笑ってヒルダを見ていた。



ヒルダは額に絆創膏を貼って貰って、帰島前の点呼確認に船内を回っていた。
午前中にはなかったことだ。異常なし、の報告の後に、誰もがヒルダに笑顔を向けた。おでこ大丈夫か、リボンなしのお前見るの初めてだ、でかい声もでるんだな。―――
ヒルダは上手く返事が出来なくて、悉く、相手を苦笑させてしまったのだが。



タオルで頭をがしがしと拭いているところへ、スノウがやって来た。
「こんなところで着替えるな。見苦しいだろう」
まだ胸の鎧を外しただけではあるが、確かにタルは甲板で裸になるつもりでいた。
「今の持ち場ここだしなあ。それに着替えねえし、絞ったらまたすぐ着るからよ」
「女の子だっているんだぞ、少しは考えたらどうなんだ」
「……おお、それもそうか」
タルは下着は諦めた。鎧のすぐ下のシャツとズボンだけ、絞ることにしよう。
濡れてくっつくシャツを苦労して脱ぎ始めたタルに、スノウは怒鳴る。
「わかったんじゃないのか!」
「……おう、だから、全部は脱がねえぞ?」
「……っ君は」
裸になるつもりだったのか! という叫びは飲み込んで、スノウは額に手を当て、首を振る。
「全く……君のせいで訓練は中断するし。班長として僕は」
「決着なら着いたじゃねえか。敵の勝ち」
騒ぎの中へ、カタリナも司令室から出てきていた。タルとヒルダがすみませんでした、と叫んだ後、カタリナの隣に偶々立っていたポーラが、カタリナの手から、ひょいっと杖を取ったのだ。
「……あら、まあ」
カタリナのその声で、訓練は決着した。
「はっ班長として言わせてもらうが」
スノウは、どこか引け目を感じる虚勢臭い声を張り上げる。
「……リボンの為に、海に飛び込むことはなかったんじゃないか」
捲り上げたシャツを肩の高さに持ったまま、タルはちろ、とスノウを見た。
「大事にしてんの知ってたからよ。お前がやったリボンなんだろ?」
「……!……バ、バカじゃないのか君は?!」
「なんで」
「……と、とにかく、反省してくれ。騎士団の館に戻ったら、僕も一緒に、団長に謝らなきゃいけないんだから。班長として!」
「……おう。悪かった」
にか、と笑い、タルは待たせていたシャツを脱ぐ。
スノウは怒ったように目を泳がせて、ジャーッとシャツを絞るタルに背を向けた。
去り際、パン! とシャツをはたくタルに、背中で。
「その……お母さん、助かるといいね」
きっと、聞こえなくても構わないと思っていただろう。言葉の最後は、靴音に紛れていた。
絞ったシャツを肩に担ぎ、タルはスノウの背を眺めた。
悪い奴じゃねえよな、と口の中で呟いた。
ナセル鳥が1羽。
甲板を横切り、司令室のある中央の船室上空で旋回した。
女子訓練生に嫌がられながらズボンを絞り、何とか水が垂れない程度に仕立てたシャツとズボンを再び着込んだ。その上に適当に絞ったキュロットを履き、外しておいた鉄板を付ける。胸の鎧を被ったところで、上官が自分を呼ぶ声がした。
「君宛の速達だ――」
ひゅっと、呼吸が妙な音を立てた。
上官がタルの手に、小さな紙切れを渡す。ナセル鳥の足に付いている書筒に入れて運ばれたのだろう。くるくると、きつい巻癖が付いている。
こんな風に、嫌な報せはやってきたのだ。
見たくない。だが見なければ。
交代したらしいジュエルが船尾からやって来た。
「……タル?」
動きの鈍(のろ)いタルを不審に思ったか。
タルに手紙が来たと聞いて、船首の方からケネスとポーラが駆けて来る。こちらは勝手に持ち場を離れたか。
幾度か端を摘み損ねて、巻き戻ろうとする紙を指で引っ張り伸ばす。知らず呼吸を口でしていた。タルは文面を一目見て、
「ちょっ……タル?!」
はへっと変な音を口から出し、その場にへたりと座り込んだ。
「ねえ、何、どうしたの、なんて書いてあんのー!」
ジュエルは気も違わんばかりに己の髪を掻き回し喚き散らす。
ケネスが、タルの手から紙切れを奪って、震える声で読み上げた。
「……ハハ、ヤマコエタスカッタ、ブジ……!」
ばっと、ポーラとケネスは破顔し顔を見合わせた!
ジュエルは、わーん! とタルに飛びつき、声を上げて泣き出した。
タルは何も言わず。へたっと座り込んだまま、ジュエルがしがみ付くに任せている。やがて俯き、蹲る。ただ涙を、ぼろぼろと流した。
手紙を持ってきた上官が、後ろを振り向き、笑顔で肯いた。そこでは、こっそりとカタリナが、涙を拭っていた。




『やがて―――』



タルが倒れた。過労だ。母親が助かって、気も抜けたのだろう。
夕方の赤い日差しが窓から入る。凭れ立つケネスの背中から、タルの眠るベッドに、沈み行く陽がかかる。二人部屋の同室の者は、早くも食堂へ行ってしまった。彼なりに気を使ってくれているのである。この二日、なるべく音を立てないようにと振舞ってくれた。
ラズリルの港に辿り着き、訓練船を降りた途端、タルは睡魔に負けるように石畳に伏した。
ヒルダがあんなに叫ぶのを初めて見たものだから、お陰で却って他の皆が冷静になれた。
そのヒルダは、今、タルの眠る布団の上に伏している。ベッドの横に据えた椅子に座って。ずっと。
タルの同室者がなるべく部屋を空けるようにしてくれたのは、居た堪れずに、というのが正直なところだろうな、とケネスは思う。ヒルダも、ようやく眠ったのだ。
ヒルダが執着する姿を見たことがなかった。何も大切なものがないような。返せば、何からも大事にされてはいないと思い込んでいるような。
放っておけないとタルが言った、ケネスにもその気持ちはわかる。
今は、タルよりも、ヒルダの眠りを邪魔したくなかった。
……のに。
「っやべっバイトぉ――!?」
がばっと叫んで飛び起きたのは。……タルだ。このチクショウめ。
体を起こして、ベッドに頭を乗せて眠るヒルダを発見した。あれ? とばかりに瞬く。
「静かにしろ。やっと寝たとこなんだ」
タルはようやくケネスに気付いて、間抜けな顔でケネス、と呼ぶ。
壁際に腕を組んで立つケネスは、にっこりと笑った。
「自分の体力過信した働き過ぎのバカが色々迷惑かけてくれたんでなあ」
「…………申し訳ありませんでした」
タルはだらだらと冷や汗を流し頭を下げる。そうして、ん、と気が付いた。
「ヒルダが寝てないって、じゃあお前は……?」
「こっちは3交代制だ」
ケネスとジュエルとポーラ。指を3本立ててみせるケネスに、タルは3人分の頭を下げる。
ぺこぺこ深々と下げた頭が止まる。見ているのはヒルダだ。
「……リボンがねえな」
「ああ……ヒルダが、持ってるはずだが」
リボンを巻いてない頭は赤ん坊の時以来だな、とタルは呟いた。ラズリルの海に流れ着いた赤ん坊のヒルダを拾ったのがタルだ、という噂は、本当なのだろう。
右手を伸ばして、ヒルダの頭を撫でた。そっと、そっと。
「……心配かけちまったなあ。不甲斐ない兄ちゃんでごめんなあ?」
体を前へ倒す。撫でた頭に口付ける。また撫でる。
「……ほんとにチューしまくる一家だったんだな」
ケネスの感想に、タルは目線をくれた。にか、と笑う。
「……羨ましいか?」
「……少しな」
正直な答に驚いたのは、ケネス自身もだ。瞬きしたあと、タルは笑って手招きした。
「兄ちゃんがしてやろうか?」
「いらん!」
これにはきっぱり断った。
タルの具合はどうですか、とポーラが部屋に入ってきた。食事を終えて来たのだろう。後ろから来たジュエルはポーラを追い越し、「アー! 起きてるー!」叫ぶなり、がばーっと走り寄り、どかん! とベッドにぶつかった。ケネスが止める間も有らばこそ。
「ああ……起こした」
ケネスが右手で顔を覆って呟く通り。
ヒルダが、むくりと頭を擡げた。
瞬いて、タルを見上げる。
タルはこれにニカ、と笑う。
「……おはよ」
「……」
ヒルダは無言で、にこ、と笑んだ。
「心配かけて悪かったな、もう、大丈夫だからよ」
ヒルダの頭をまたくしゃくしゃと撫でて、タルは他の3人を向いた。
「ホントだよ!」
ジュエルは腰に手を当て、むくれてみせる。ポーラは微笑んで肯いた。ぷっと吹いて、ジュエルは続ける。
「でも食事時に起きるのはさすがだよね!」
「おお、飯か?! 通りで腹が……!」
「それはお前が寝っぱなしだったからだ!」
タルは腹を擦りつつ、寝っぱなし? とケネスに尋ねる。二日だ、と答えると、二日ー?! と頓狂な声を上げた。
「そりゃあ食わねえと……!」
いそいそとベッドを降りて、支度を始める。倒れて運び込まれた時に着替えさせられた騎士団の予備のシャツとズボンは小さめで、タルの手足がにゅっと出ていた。自分の服ではないと思ったのだろう、サイズの合った支給品を棚から出し、着替えようと改めて自分の格好を見て、ぶはっとタルは吹き出した。
「んだこりゃ。弟の服みてえだな!」
ケタケタ笑って、ほんの少し、神妙な顔になった。
「……母ちゃんが子供らに、お前たちいい加減、それぞれ、チューしてくれる人を探せ、って言ってたことがあんだよな。父ちゃんが死んで、また母ちゃんの体調が悪くなったころの話でよ」
弟らは、えー母ちゃんが良いよーって、駄々こねてたな。そう言って笑う。
棚から出した服をベッドに置いて、小さめのシャツの裾に手をかけた。
「……家族を、探せってこと……?」
ヒルダが尋ねたので、タルは手を止めて、上を見る。
「……まあ、そういうことかなあ? いつ、母ちゃんにチューしてもらえなくなっても、おかしかないんだよな。あんま、考えたこと、なかったけどよ」
タルの言葉が終わらぬうちに、ヒルダは歩み寄っていた。タルの腕の短い袖を引いて、タルの体を傾ける。
「うお?」
なんだ、とタルは訊こうとしただろう。その前に、ヒルダはタルの頬に、ちゅー、と口で音を立てていた。
「…………?!」
タルは本当にびっくりしたようだ。目を見開くばかりで、声が出ない。
ジュエルとポーラが、ちら、と互いに目を見交わした。と、ぱたぱたと二人タルに駆け寄り、ヒルダとは逆の頬に、次々にちゅー、とやはり音を立てる。
どひー?! とばかり、タルは真っ赤になって汗をかく。
思わず見守ってしまっていたケネスと、タルの目が搗(か)ち合った。タルは途端に怒鳴る。
「……お前はすんな! 気持ち悪い!」
「するかァ!」
くわっ! とケネスは怒鳴り返した。
ジュエルは、ポーラも、くすくすと笑う。
ヒルダは良いんだな? と思いながら、ケネスはぶつぶつと毒吐く。
「兄ちゃんがしてやろうか、とか言った癖に俺にはすんなか、ったく! 勝手だな!」
もしかして、自分もしなきゃならんような気になってたのは秘密である。
しかし、タルはニヤニヤと笑う。手招く。
「何だよ、して欲しいなら来いって」
「お断りだ!」
「遠慮すんな」
がばーとばかり、タルはジュエルたちから離れて、ケネスを抱きかかえるのだ。しかも、ちゅーちゅーと音を立てながら!
「ぎゃー! よせ、バカヤロウ!」
不運なタルの同室者は、これを目撃してしまった。
「……やあ、起きたんだ、タル」
「おう、心配かけたな!」
不覚にも、ケネスは固まってしまって動けない。同室者の目は泳ぐ。そりゃあ、見たくないだろう。
「……今食堂で、うん」
「お、食ってきたのか! メシ、何だった?!」
「……ケビンとね、話してたんだ。……ヒルダなら、まあ、可愛いもんな、て、……アハハ。そうか。お、俺は勘弁してくれよな、ハハ、ハ……」
言葉の後半は、後退りながら。今入ってきた扉を、また出て行く。何言ってんだ、あいつ? とタルは首を傾げた。ケネスはそこで、ようやく動けた。
「……違うそうじゃない! 待て、おい、聞け――!!」
ケネスの叫びは廊下に吸い込まれた。
ジュエルは大喜びだ。身を折って、ひいひいと笑っている。
きょとんとしているヒルダに、ポーラが何やら耳打ちした。ヒルダは口に手を当てて、プッ! と吹いた。ケネスやタルやジュエルやに見られて、顔を赤らめ、「ご、ごめん……」とケネスを向いて謝った。ポーラは、何を囁いたのだろう。
空腹に耐えかねたか。その後タルは素晴らしいスピードで着替えた。5人揃って、部屋を出る。ポーラとジュエルは食事を済ませていたが、食堂に向かう彼らに、途中まで付き合った。
「……リボン、つけねえのか?」
タルは、ふいっと隣のヒルダを向いて尋ねた。ヒルダは、ごそごそとズボンのポケットを探る。取り出して見せたのは、洗濯して、縫い合わされた赤いリボン。
「……そっか」
タルは微笑む。
「うん」
ヒルダは肯く。
「自分で、考えたんだな?」
「うん」
「そっか」
ヒルダはリボンをポケットに仕舞う。
「……つけねえのか?」
「今日は、しない」
「なんで」
「まだ少しだけ、おでこが痛い」
はにかむように。ヒルダは言った。




後日、訓練場で。ヒルダはいつもの、赤いリボンをつけて剣を振るっていた。
「ハアッ!」
声を出して打ち込むようになった。踏み込みもいい。太刀筋はもとより、悪くない。
「うわっ……」
剣を飛ばされた相手は、参った、と手を挙げる。
「驚いたな、強いじゃないか、ヒルダ。どうだ、昼メシ、一緒に食わないか?」
ヒルダは首を振る。
「俺は、まだいい」
「そうか?」
じゃあ、食堂が混むから、と彼は手を振って行った。
ふう、と息を吐いてヒルダは顔の汗を拭う。使い慣れない一人称は胸がときめく。まだ訓練を続けている、向こうの一団を見やる。
ヒルダ、と背中から声をかけられた。
スノウだ。
「自分で縫い直したのかい?」
開口一番、リボンについて訊いた。こくん、とヒルダは肯く。
「……新しいものをあげようか?」
ヒルダは首を横に振る。
「これがいい」
スノウは瞬く。密かに眉を寄せ、どこか諦めたように、微笑んだ。
「……そう。そうだね」
遠くの方から。訓練が終わったものか、
「ヒルダ―――」
タルが呼ぶ。
ヒルダはぱっと顔を上げ、しかし戸惑うように、スノウを見た。
「……いいよ。今は特に用はないから。……ああ、でも」
目で肯いて、もう駆け出しそうになっていたヒルダが、ぴくりと止まる。
「後で、買い物に付き合ってくれ」
こくりと肯き、ヒルダは駆けて行く。


「スノウは来ないのか? おおい、スノウ―――」
ヒルダと離れて背を向けるスノウに、タルの声は届かないようだった。やがて目の前に、ヒルダは息を弾ませて駆けて来る。
「おし、じゃメシ行くか!」
こくりと肯くヒルダを、ケネスが、ジュエルが、ポーラが微笑んで見た。


失くしたくないものを、正直に、大切に、まずはせめて、そこから―――それが。

波間を漂う赤子だった彼の、寒さに堪えるための果肉となる。



『―――やがて、裸子は芽吹く。巨木に育つ若木に化ける。』





END


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