と、病床から声をかけるからである。 「清さんです」 と、お律がいうと、子規は露骨によろこんだ。病床で考えつづけているさまざまな思案を、虚子に聞かせるっことができるからである。 (本文より) 明治を描く本作、ようやくの2巻目突入です。我ながらマイペースが過ぎる気もしますが、どうかご容赦を。 作品の主な登場人物は、四国の田舎から出てきた青年たちなのですが、彼らはなんというか、LET IT BE(なすがままに。)という風に、特に悩み苦しむこともなく(というか、そうゆう姿を表に出すこともなく、ということですけど。)、前へ前へと着実に歩みを進めています。 僕としては、病床の身体でありながら、精力的に執筆を続けている子規のパートが特にほほえましくて気に入ってます。軍人として、いつのまにやらどんどん出世している秋山兄弟にしても、そのあまりにも潔い人間性が、密かにぐちぐちと悩みがちな今日この頃の僕としては、まぶしいです。 追伸: 時代小説初心者の方。おすすめですよ、司馬遼太郎!
四国の猿の 小猿ぞわれは (本文より) ついにというべきなのでしょうか。早くもと言うべきなのでしょうか。この小説の主人公の一人、正岡子規が死んでしまった。「亡くなった」のではなく、「死んだ」のだと僕は言いたい。世の中の一般常識としては、少なくとも対外的には「人の死」を「亡くなる」と表現しましすよね。例外は家族や本当に限られた親しい人間の死に対してくらいではないでしょうか。もちろん、それについて僕が良いだの悪いだのと意見する筋合いではないのですが(あたりまえですね)、そうゆうことを考えるとき僕は、「亡くなるのではなくて、死にたい」なと、そんなふうに思ったりするわけです。そのときに、「※が亡くなったね」ではなく「※が死んだね」と、そう言ってくれる人間が僕にはどれくらいいるだろうか。 閑話休題。 物語は俳人正岡子規の死から、本格的に日露戦争へと。もう一方の主人公秋山兄弟は、軍人として戦地に赴く。彼らの最後は僕に何をもたらすのか。 追伸:僕は自殺願望があるわけではないので、くれぐれもその点、ご心配なきよう(汗)。
またこの本を手にしてしまいました。何故僕は、こんなにもこの本に惹かれるのか。自分でも結構不思議です。僕は、軽度のニコチン中毒者であり、中程度の活字中毒者なのだけれど、あるいは重度の(それも末期症状の)『中国行きのスロウ・ボード』中毒患者かもしれないです(笑)。 「なぜ自分はこの作品を愛するのか?」って素朴な疑問は、読書好きの皆さんなら一度や二度は考えたことがあるのじゃないかと思います。そんなときに皆さんは、「徹底的にその(自分自身の)謎を解明してやろう!」って探求しようとするタイプでしょうか? それとも「よくわからないけど、とにかく好きなんだからそれでいいじゃん」って感じのわりとあっけらかんとした(笑)、タイプでしょうか? それって、結構「その人全般」を表しちゃうかもしれないなと、ふと思いました。ほら、なんとなーく、そんな気がしてきませんか? しませんかね?? 追伸:僕自身は、究極的には後者タイプだと思われます。(汗) |