2003年1・2月の読んだ本。




2003年1月の読んだ本。
(小説5冊、合計5冊)


  • 宮部みゆき 『東京下町殺人暮色』  ★★★★☆
 毅や彼の友人たちは、人が本物の悲鳴をあげなければならないような事態は、自分の住んでいる縄張りの範囲内では起こりっこないと信じているのだ。本当に恐ろしいことが起こっているはずはないと最初から決めつけているから、ぶっそうな噂話をでっちあげることもできる。  (本文より)

 (※この感想はねたばれです)
 事件のすべてが明らかになったとき(文庫P291)、道隆は才賀に向かってこう言いました。「ある意味、あなたたちが浮田聡子を殺したのです」 そのとおり。ある意味才賀たちが彼女を殺したのですよね。そこで僕が思ったのはですね。「(小説として)それじゃだめじゃん」ということなんです。「なんであの場面が作品の否定につながるのさ?」とあなたは思うでしょう、たぶん。では、僕はなぜ「だめじゃん」と思ったのか?

 罪のない善良な人間を「ある意味」で殺してしまったことになる。だから、才賀の一連の行動は否定されるべき行いなのだと、あれだけ読者の心を惹きつけ動かした物語が「そうゆう図式」におちついてしまったことに納得がいかないのですよ僕は。善良な市民を殺した人が責められるのは当たり前(少なくとも僕の中では)のことで、僕が期待していたのはそうゆうことじゃなかった。ということなのです。では、僕は「何を」期待していたのか?

 一連の才賀の行動が、あらゆる意味で善良な市民を殺さず、たとえば「逆に第三者の人命を救う結果となったとしても」それでもなお、才賀のとった殺人という行動はちがうのだと、間違っていたのだと、そう確信させて欲しかった。その確信を僕は期待していたのです。「小説に何を期待してんのよ」とあきれられるかもしれなけれど、それを思わず期待してしまうくらい(著者)に期待してしまった。だから(そうゆう類いの)期待をさせるところまで読者を惹きつけてしまったからには、「おとしまえをつけてもらおうじゃん。みゆきさんよ」(byすごんでるチンピラ風)と思うわけですよ(笑)。

 書き手としては、話をわかりやすくしようという意図なのかもしれないですが(あの人は非道な人間をやむなく殺してしまった。あいつらは死んで当然のわる〜い奴らだった、天罰よね。だけどさ、そのために関係のない善良な人間までまきぞえにしっちゃったのだから、彼は悔い改めるべきよね)、その瞬間、せっかく組み上げられた物語という名の建築が、一瞬にして、うずたかく積み上げられた塩化ビニールの積み木と化してしまったように、僕には思えたのです。その積み木はもしかしたら誰もが賞賛する世界一の積み木かもしれない。だけど、やはりそれは積み木でしかない。

追伸:何か偉そうなことを書いてますが…(汗)、これは今読んでいるドストエフスキーの『罪と罰』にも感じていることでして、これはもう「神でも信じる」しか方法はないのかと思う今日この頃です(神様ごめんなさい)。――「あなたは神を信じますか?」


  • 宮部みゆき 『長い長い殺人』  ★★★★☆
 悪いことのできる子じゃない。絶対に悪いことの出来る子じゃない。わたしにはわかっている。わかっているのに。  (本文より)

 財布目線である。吾輩は財布だったのだぁぁ!………ごほん(せき払い)、え〜と…、夏目漱石さんの『わがねこ』は猫の目を通して、当時の社会を伝えてくれるわけです。ところが、この小説では、猫ではなくて死者から犯人までの数々の財布たちが、彼らの目線を通して、ある殺人事件を物語るのです。

 財布。というと結構味気ないですが、どうやら彼らもそれぞれに人格というか個性というか、そうゆうものをもっているようです。そのうえ、この作品に登場する個性豊な財布さんたちは皆、とっても持ち主想いの財布さんたちでして、読者はおもわず目頭が熱くなり、自らの財布に目を向けてしまうことしばしばだと思われます。それはもう、人間、自分の財布に嫌われたらおしまいだ、と、そんなことすら思ってしまう始末です。皆さんも自分の財布に見放されたらおしまいですよ。

追伸:中身がいつもスカスカでごめんなさい。
 


  • 村上春樹 『蛍・納屋を焼く・その他短篇』(再読)  ★★★★☆
「でも結局のところ、苦労して小屋に辿りついたのに娘の体は既に蝿に食われちゃってたんだろ?」と友達が訊ねた。
「ある意味ではね」と彼女が答えた。  (本文より)


 ベストセラー『ノルウェイの森』の原型となった短篇作品「蛍」を含むこの短篇集を、僕がはじめて読んだのはもうずいぶん前のことです。

 その時僕は、熱心なファンになってまもないその作家の文庫本を手にとり(そこには『蛍・納屋を焼く・その他短篇』と書かれていた)、
「 星空は輝き、一面の田んぼが広がる、真ん中を横切る3両編成の電車の光、その向こうにはかすかに小さな山なみが見える。集落の脇にはおそらく水田のための用水路であろう小さな小川が流れている。そして、その傍らにはひっそりと納屋がたたずんでいる。僕はもう一度星空を見上げ、ふぅっと息を吐き再びその納屋に視線を下ろす。するとそこには、何百、何千もの蛍の、ひとつひとつでは消え去りそうに淡く儚い光によって燃えるように輝く納屋がある。僕は呆然と立ちつくし、その光景を見つめ続ける。」
ってゆーよーな小説なのかしらん、とそう思ったのです。けども、実際は皆さんご存知の通り全然違う小説でした。「納屋を焼く」は何やら恐ろしげな話でしたし、そもそも「蛍」と「納屋を焼く」は独立した別々の作品でした。見当違いも甚だしいとはこのことですね。

 でもこの本を見かけるたびに僕は、僕が思った蛍で燃える、神秘的であり同時にどこか不気味なその燃える納屋を思うのです。

追伸:一体どんな了見で、無数の蛍が納屋になんて群がるなんて思ったのでしょうね僕は……(汗)。
 


  • 村上春樹 『雨天炎天』(再読)  ★★★★☆
 たとえば釜茹でにされている聖者がいる(この人はちょっと弱ったなという顔をしているが、特に熱そうではない)、一寸刻みに手や足を斧でちょんぎられている聖者がいる(この人はかなり痛そうである)、おなかに焼けた石炭を載せられている人もいる(この人は「もう何でもいいや」という顔をしている)。  (本文より)

 村上春樹さんがギリシャとトルコを旅した「とてもハードな」旅行記。ギリシャでは、ギリシャ生協、じゃなくて正教の聖地アトスをひたすら歩き、トルコでは運転する四駆で国を一回りするその旅は、まさに「旅」という言葉がふさわしい旅なのだ。

 僕だって、別に完全オートメーション化されたパック旅行を否定するつもりはないですが、男の子なら(女の子でも?)だれだって一度はこうゆう旅をしてみたい。と思わずわくわくしてしまう(?)、そんな旅行記です。
 


  • ドストエフスキー 『罪と罰』  ★★★★★
 罪と罰  (タイトルより)

「人間ってのは、十九世紀のロシアでも、二十一世紀の日本でも、たいして変わらないものだなあ」などと、彼は百年以上前にロシアの人が書いた、人々が果てしなく長い科白を語りつづけることで知られる名作を読んで感じたらしい。そしてその男「オレってば、けっこう単純でかわいい奴なのかもしれない」などと、自分自身についての感想を書いたりしているのだから手におえない。そんな彼も、自分のやっているサイトだと、なぜかすんなり弱音を吐いてしまう困り者だと、認識してはいるようである。同時に、そんなの読んでいる人にはいい迷惑だとも薄々感じているらしく、「これって罪だなあ」などとつぶやいている。そうゆう人に、私は、決してなりたくない。だって、そんな奴は雨ニモ風ニモ絶対負けちゃうからだ。

 僕は勝ちたい。絶対に勝ちたいんだあ!!(号泣)(←バカ)



 え〜と、さてさて、ついに『罪と罰』を読みましたですよ。すごい作品でしたが、まいどまいど小説に速攻で影響されちゃう僕も、違う意味ですごい(迷惑)と思います……(汗)。

※以下ねたばれありですが、『罪と罰』の場合ストーリーをご存知の方が多いでしょうし、知っちゃっても関係ないすごさがある作品なので、個人的には未読の方も続けて読んじゃって大丈夫かと思います。でも「大丈夫じゃなさそう」って、ちょっとでも感じた方は読むのを止めておきましょう。あなたの直感のほうが断然大切です。)

 以下は、先日宮部みゆき著『東京下町殺人暮色』の感想で書いた件、というか『東京下町殺人暮色』と『罪と罰』とのある類似と、それについての僕の気持ちです。その前に『罪と罰』のなかで、今回指摘する点に必要な部分を示したいと思います。単なる繰り言になってるかもですが、本人かなり切実なのでご容赦ください(苦笑)。『カラマーゾフの兄弟』のときも、『アンナ・カレーニナ』のときも簡単に切実に参ってしまったので、いつものことと言えばいつものことなんですけどね。

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 主人公の青年ラスコーリニコフは「金貸しの強欲な老女(と青年は思っている)を殺して金を盗っちゃおう。老女は悪い奴で、僕は良い奴、その金をもとにナポレオンよろしく大業を成し遂げるのだ。それこそが世のためなのさ!」などとゆう妄想(仮説「一つの微細な罪悪は百の善行に償われる」)をふくらませる。挙句の果て、ついに金貸し老女の殺害、その妹の善良で可哀想な白痴の老女(と青年は思っている)に現場を目撃され、やむなくその老女も殺してしまう。その後色々ありまして(その色々が小説の中心です。ぜひ読んでください)青年は、シベリア送りになります。そしてそのシベリアの地で、ついに信仰心あふれる自己犠牲の人である娼婦のソーニャに心を開き、自らの過ち(罪)を認めました。
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 と、まあ他にも本当に色々ありましてとにかくものすごい小説なんです。未読の方、ぜひいつか読んでくださいね。え〜、ようするに僕の好きな小説にしばしば登場する、ダメ人間のへなちょこ野郎が主人公なわけですが、主人公の青年が自らの立派な(と青年は思っている)仮説「一つの微細な罪悪は百の善行に償われる」にもとづいて殺人を犯したのにもかかわらず、その行為に終始重荷を感じ続け、最終的に彼なりのある種の懺悔するに至ります。しかし、そこに至る源(みなもと)には、金貸しの妹で、善良で可哀想な白痴の老女(と青年は思っている)殺害という、いわば想定外の第二の殺人を犯してしまったところによる部分が非常に多いと思われるのです。(…と僕は読んだのですが、違いますか?)

 そうなのです。前述の宮部作品同様、「罪の無い善良な市民を殺してしまう」のです。それが非道な行いであることなんて、いまさら指摘される程でもない、とっても当たり前の周知の事実ではないのでしょうか? 違います? もしかして世の中は僕の想像を超越したものすごいところまで行っちゃてますか? たぶんそんなことはないでしょう。なぜなら恐らくドストエフスキーが「こりゃだめだ」という思想を持つ青年(最近の若い奴)として描いたであろうラスコーリニコフでさえ、終始その行いの重さを感じ続けたわけですから。つまり、そもそも、第ニの殺人によって彼の行いは彼にとって「一つの微細な罪悪」ではなく、彼にとって既に「一つの重い罪悪」だったいうわけです。


 もし、ラスコーリニコフが第二の殺人を犯していなかったなら、もし彼が「彼自身が卑小な悪人と認識している人間」だけを殺害したのだったなら、彼は第二の殺人を犯してしまったのと同様のラストを迎えられたのでしょうか? それ以前に、『罪と罰』のラストにおいて、主人公ラスコーリニコフは「一つの微細な罪悪(卑小な悪人殺害)」に対して、どの程度「罪と罰」を感じていたのでしょうか? 


(僕が決定的な誤読をしているのでなければ)前述の宮部みゆきさんの小説も、この『罪と罰』も「彼が《彼にとっての悪人》を殺すことの罪と罰」を示してはいないのですが、僕が示して欲しいのは「彼が《彼にとっての悪人》を殺すことの罪と罰」ですし、多くの読者が求めているのはそこなのではないかと思うわけです。

――いずれにせよ、ラスコーリニコフの第二の殺人を「一つの微細な罪悪」と捉える人間が現れたなら、僕の疑念なんて紙くずほどの価値も持たないわけですけれど……。う〜ん、あるいはそうゆう人間が存在し続けてきたからこそ、人は戦争をし続けるのかもしれませんね。ラスコーリニコフくんが心酔したナポレオンだって、戦争が同時に存在したからこそ正当化されえたのですから。


 
平和上等!!


追伸:長々と書いてしまいました。すみません…(汗)。お付き合いくださったすべての方に感謝です。ありがとうございました。え〜と、反論待ってます(笑)。



2003年2月の読んだ本。
(小説6冊、合計6冊)


  • 宮部みゆき 『理由』  ★★★★★
 蛇口を止め、耳を澄ませた。物音は聞こえない。台所で、春樹が大きな音で『笑っていいとも』の総集編をみている。  (本文より)

 読後、「面白いとはこうゆうことさ」と敬愛する紅の豚ことポルコ・ロッソさん口調で僕が思わずつぶやいてしまっていたことからも明らかなのは、この本は面白いということだ。うん、間違いない。文庫の解説の人も書いていたけれど、「面白いよ」という以外に書くことがないです。これで終わると短いので、僕が宮部みゆきさんに訊いてみたいことをひとつ。「僕は僕の一度っきりの人生なのですが、宮部さんも一緒ですか?」

追伸: きっと、30通りくらいの人生を体験済みに違いない。(疑念)

 


  • 安部公房 『砂の女』(再読)  ★★★★☆
 こうして、誰にも本当の理由がわからないまま、七年たち、民法第三十条によって、けっきょく死亡の認定を受けることになったのである。  (本文より)

 ポール・オースターの『偶然の音楽』を読んで以来、ずっと再読しようと思っていた一冊です。今回再読してしみじみ思うのだけど、この本は本当にやばいです。笑いごとでなくて「砂の女で人間やめました」(古っ!)という人間だって少なくないんじゃないか? と思うのです。

 そして、その「やばさ」は小説特有の、小説だから持ち得る種類の「やばさ」なのではないか……などと書いている僕もそうとうやばいのですが、それはこのさい置いときまして……(号泣)。

 読書というと世間的にも「わりとまともな趣味」というイメージがあるので、良識のある人々も意外と油断しがちです。ですが、多くの本好きは同時に「妄想」という趣味を持っているのは確実で、その中のへなちょこさんは活字から膨らませた自らの妄想に負けてしまいがちなものなのであります。そして小説家の手による巧みな文章は、同時に活字ゆえに読者のイマジネーションの余地を残しており、本好きの妄想癖を刺激するには最高のしろものなのであるわけなのです。

 そんな一連の現象を「活字スパイラル」と呼び危惧する偉い学者もいるくらいですから、これを読んでいるあなたも「他人事」ではないのかもしれません。そう言いつつも、本好きビギナーの一人としては、「いつか立派な活字中毒者になる日が来たとしても、きっと僕は楽しい生活をおくれるに違いない」と楽観しているのです。ただ下手な活字中毒者になってしまうと、周りが全く見えない恥ずべき人間に成り果てる危険がともないます。書を携え旅に出ましょう。

――あなたが「あの人は、おとなしく読書をしていて感心ね」などとひとり言をつぶやいているその刹那、目の前のホモサピエンスの脳内では、それはそれは大変な事態が勃発しているかもしれません。恐いですね。

追伸: 以上は一人の本好きの妄想にすぎません。もちろんフィクションです(笑)。

 


  • 夏目漱石 『坊っちゃん』(再読)  ★★★★★
「あなたの云う事は尤もですが、僕は増給がいやになったんですから、まあ断ります。考えたって同じ事です。さようなら」と云いすてて門を出た。頭の上には天の川が一筋かかっている。  (本文より)

 『坊っちゃん』は気持ちのよい小説だ。「気持ちよい」というのはもちろん、「あいつは気持ちのよい奴だ」の「気持ちよい」なのだけど、この「気持ちよい」と出会えたとき人は本当に幸福で、「これほど気持ちのよいものは他にはなかなか無い」と思うのは、僕の趣味が妄想であることとはあまり関係ないと僕は信じている。だから、誰もが「気持ちのよい」奴と友でありたいだろうから、多くの人が『坊っちゃん』を愛しているのは、至極当然のなりゆきなのだと思う。

 ちなみに僕が好きなのは「主人公と清のエピソード」だ。本当に心穏やかな幸せな気持ちになる話で、小説『坊っちゃん』を読めば、赤シャツだってちょっとくらいは感動するに違いない。そして「主人公と清のエピソード」の終わりでもあり、小説『坊っちゃん』の終わりでもあるこの作品の最後の一文は、僕の人生の中でも最高の文章のひとつだ。セチガライこの浮世において、人は「だから」という言葉を「〜だから、しようがないよ」という否定的なイメージの言葉に繋げがちである。「だから=あきらめ」ってゆうイメージすら、抱いている人だっているかもしれない。

 そんな中、『坊っちゃん』の最後の「だから」は本当に潔くて、僕に「だから」という言葉を、「本当に気持ちよい奴だ」と思わせてくれる。だから、僕はこの本が気に入っている。


追伸: 『坊っちゃん』的「だから」ラストの小説を、最近読んだ気がしていたのだけど、
どれだか忘れてしまいました。もしかして夢? とりあえず僕の世紀末的記憶力に乾杯!(完敗) とか書いちゃう僕は、既にオヤジかも。とほほ……(号泣)。




  • 藤沢周 『ブエノスアイレス午前零時』  ★★★★☆
 場末の温泉旅館にブエノスアイレスの雪が舞う――老嬢と青年の孤独なタンゴに幻滅とパッション、リリシズムと幻想が交錯する胸うつ名作  (帯コピーより)

(※ねたばれ気味です)
 この本には表題作の「ブエノスアイレス午前零時」と「屋上」というふたつの作品が収められています。
 
 まずは表題作。読み終えてすぐに、というか読んでいる最中からレイ・カーヴァーの「大聖堂」を思い出しました。意識的な作品なのか、無意識に似てしまったのか、あるいは僕の妄想なのか(汗)、そこらへんはよく分かりませんが、いずれにせよ日本版「大聖堂」は温泉の匂いのする不思議な作品でした。

 次に「屋上」。さびれた屋上遊園地という僕の大好きなスポットが舞台の作品で、それだけで個人的にはかなりの高ポイントです。いいですよね、さびれた屋上遊園地。(あれに惹かれるのは人に理解されないのですが、少なくともこの作品の著者とは同じ趣味だと分り、ちょっとほっとしました。笑)ちなみにこちらは日本版『熊を放つ』か。理由は読んでのお楽しみ――。

追伸: 100ページちょいの単行本一冊で、『大聖堂』と『熊を放つ』を両方味わえると思えばかなりお得かもしれないですね。僕の仮説(←単なるこじつけとの噂あり)が完全に的を射ていたとしても、かなり間違った行為って気もしますけど…(汗)。

 


  • 金城一紀 『レボリューションNo.3』  ★★★★☆
「でも、ひとつ問題があります」僕の左隣に座っている萱野が言った。「僕たちは勉強の得意な女にもてません」  (本文より)

 周囲から《ジュラシックパーク》と呼ばれる高校に通う《ゾンビ》たち。彼らは本当に気持ちの良い連中だった――。そんな本書には、表題作の「レボリューションNo.3」に、「ラン、ボーイズ、ラン」、「異教徒たちの踊り」を加えた3つの短篇作品が収められています。

 僕の好きな村上龍『69』の雰囲気が漂う痛快青春物語で、それだけで僕としてはハナマル評価をつけずにはいられない気分になってしまう、いわゆるひとつの「生理的に大好きな」類いの小説ですね。でも表題作から、2作目、3作目、と読み進めていくにしたがって、徐々に作品のパワーが減少していってしまうように感じたのも正直なところで、そこが☆が1つ足りない原因です。残念。

 同じ金城さんの『GO』や、村上龍さんの『69』を愛してやまない方、これはあなたのための小説ですよ。

追伸: コミックのような装丁もGOOD!

 


  • スティーブン・キング 『アトランティスのこころ』  ★★★★★
「世の中には、筋立てはそれほどおもしろくなくとも、すばらしい文章で書かれている本がいくらでもある。筋立てを楽しむために本を読むのもわるくはない。物語を楽しむことをしない読書家きどりの俗物になるんじゃないぞ。そして、ときには言葉づかいを……すなわち文体を楽しむためにも本を読みたまえ。そうゆう読み方をしない安全読書家の連中みたいになってもいけない。しかし、すばらしい物語と良質の文章をかねそなえている本がみつかったなら、その本を大事にするといい」  
(本文より)


 伝言板でこうちゃんさんにおすすめしてもらった作品です。ビンゴでした! この作品は「黄色いコートの下衆男(ロウ・メン)たち」「アトランティスのハーツ」「盲のウィリー」「なぜぼくらはヴェトナムにいるのか」「天国のような夜が降ってくる」の五つの長・中・短篇から成っていて、それぞれは、独立したひとつの作品なのですが、全部の作品が繋がってひとつの大きな物語を生み出します。

 なかでも僕のおすすめは「黄色いコートの下衆男(ロウ・メン)たち」。文庫の上巻まるごと一冊をしめる長篇作品です。母子家庭の少年ボビーが、不思議な老人テッドと出会い、そして――。というよくある、少年の日の思い出、少年と老人の友情物語なのですが、秀逸という言葉につきる名作です。この上巻だけでも読む価値ありだと思いますよ。あまりの切ないストーリーに、読書中にもかかわらず、有酸素運動中なみの脈拍上昇が味わえるかもですよ。

 ちなみに、本文からの引用は、テッドがボビーに小説の読み方を指南するシーンです。だれもが自分の子供時代にもこんな友達が欲しかった、って思うのではないでしょうか? 僕は断然欲しかった。――(遠い目)

追伸: 「ロウ・メン」が口癖になりそうで恐いです(笑)。

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