(小説5冊、その他2冊、合計6冊)
あと言えることは「この本は読むのに時間がかかる」ってことです。それが良いとか悪いとかの問題じゃないですが、「無手勝流」やら「寛闊」やら、「原文はいったいどんな単語なの?」って思わず問い詰めたくなるような語句がいっぱいです。 キングの子供時代から最近の交通事故のいきさつまで、さすがキング!って感じで読めちゃうのですが、これから読む方にアドバイスをするなら、「キングの代表作はをひととおり読んでからのほうが、より楽しめるかも!」ってとこですね。僕は『キャリー』を読んでなかったのが、ちょっと残念だったので…。 あとはそうですね…。前書きを読むと「カーネル・サンダースをなめるなよ!」って言えなくもないですが、そこまでいくと、いちゃもんの部類でしょうしね…(笑)。
それはまるで、「これは哀しいお話だよ――」「あなたに、その覚悟はあるの?」と表紙の絵に問われているようだったのでした…。 と小説の内容には全く触れず、感想を終わります。(にやり)
もし私のアーヴィング入門がこの短篇集だとしたら、2冊目のアーヴィング作品を手に取ることは無かったかもしれない、とも思うのだ。もし実際にそのようなアーヴィング入門体験をしてしまう人がいるとしたら、それは、とても不幸なことである。 ※以上、今回は偉そうな評論家っぽい雰囲気でお届けしました。偉そうな感じ出てますか?(笑)
(ねたばれ要素あり、既読の人向け感想) ラストでふきさんの孫娘が出てくるあたり、いわゆるタイムスリップものの定番そのものなのだけれど、魂のこもった魅力的な登場人物、2・26事件という特殊な舞台設定などによって、「ありがちな設定」という弱点をしっかり補えていたと思う。さすがですね。 ただ、納得できない点がひとつ。既にその時代の成り行きを知ってしまっている(作中の言葉を借りるなら)「未来人」が存在するのに、何故その時代より過去からやってきた時間旅行者「過去人」が出てこないのか? ということなのだけれど、どう思いますか? 「過去人」が出てこない明確な理由は示されていなかったと思うのですが、僕が気付かなかっただけでしょうか? 例えば、タイムスリップは時間旅行者が明確にイメージできる時代にしか行くことが出来ない。だから結果的に「過去人」が現れないだとか、何とでも理由付けはできると思うのですが…。何故しなかったのだろう。大体、主人公の青年がそのことに疑問を持たないのかが、不自然でしょうがなかったです。いつになったら「過去人」について触れるんだろうって、そればかり気になっていたのに最後まで説明されないまま終わってしまった…。 あともうひとつ、今思い出したのだけど、主人公が「湯たんぽを知らない」のには、びっくりしませんでしたか? たぶん彼は僕と同じ年代で、僕より少し年上だと思うのだけど、その僕でさえ「湯たんぽ知らないって、そりゃないだろうよ!」って思いました。彼は昔の冷蔵庫は氷で冷やしていたとか、昔のTVは白黒だったとか、そうゆうことも知らないということなのか? いやいや、そんな風ではなかったですよね。それだからこそ、よけいに不自然に感じました。う〜ん??
この小説を読んでいて頭に浮かんできたのは、安部公房の名作『砂の女』イメージ。主人公が自らの意思に関わらず、というか「自らの意思決定に基づいて」行動しているつもりでも、抗うことの出来ない特殊な状況にじわじわと追いつめられていく過程は、まさに『砂の女』そのものという感じすらしました。これはアメリカ版『砂の女』だなと。日本語版同様、読書中のぞくぞく感には、他では得がたいたまらない何かがありますね。(謎) ただ、ラストの終わり方は、いささかあっけなさ過ぎると感じたのは僕だけでしょうか? ――そういえば、『砂の女』のラストってどんなだっただろうと、むしょうに気になる……のに、全く思い出せない…。
なにをさておき、主人公の双子の少年たちが「かわいいやつら」なのである。 ん? かわいい……? かわいいって言ったって、彼らは中学生の男子である。大人の女性がジャニーズの美少年を見るが如く、「ふふ、あの子たちってカワイイんじゃない」ってのなら話はわかる。しかし、ざんねんながら僕は20代の男である。子供もいない。そんな僕が彼らを「かわいい」? なにやら自分に微かな不安を抱いてしまう僕である……。 中学生の男子といったら、決してかわいいものなんかではない。「そんなことないよ。まだかわいらしい子供じゃない」と思われる方もおられるかもしれないが、そんなことは断じてないのである。 なにしろ反抗期だから、自分の親を必要以上に忌み嫌うところがある。にきびやら声変わりやらで見た目も決して美しくはないだろう。なぜだかわからないが異性との間が急にぎくしゃくしてきたりするが、それが自らの自意識過剰の所為だとは全く気づいていない。そのくせ生意気にも自分をひとりの大人として捉えている。ろくなものではない。――実際に3年間中学生男子をやった経験による結論である。そこには、わりと信憑性ってのがあったりもするのだ。 では何故彼らをかわいいと感じたのか? 両親が各々家出をした結果、ふたりだけで暮らしていた彼らは、隣家に入ろうとした泥棒の男を助けたみかえりに擬似父親の役を承諾させる。親のいない自由気ままな生活を楽しんでいる彼らだが、日常生活(社会生活)には大人の存在が必要とされる場合が多々あるのだ。「僕らだけで勝手にやれて愉快だなあ」って発想ではないのである。彼らはちゃんと現実を見ているのだ。両親に対する思いやりも忘れないし、時には担任教師の危機を救ったりもする。頭の回転もはやく、ユーモアのセンスも充分である。それでいて尚且つ、「かわいいやつら」なのである。 何故彼らはかわいいのか? 理由はいろいろあるだろうが敢えてここでは追求しないことにする。ただひとつ確かなのは、著者である宮部みゆきの、彼らに対する暖かい眼差しである。
ところがこの本、望外に面白い。面白いと書くと、コメディアンの本故に、「腹を抱えて笑う」面白さだと思うかもですがそうゆう面白さではなく、「とっても興味深い」って類の面白さ。一読の価値ありですよ。 (小説2冊、合計2冊)
ま、この作品については以前にも感想書いたと思いますし、ね……。(反省)
収められている作品は「バナナフィッシュにうってつけの日」だとか「笑い男」、「コネティカットのひょこひょこおじさん」や「愛らしき口もと目は緑」などなど、とにかく本好きをわくわくさせる面白そうなタイトルの作品が多い。日本語の訳も良いですよね。――でも、「タイトルの印象ほど面白い話でも無かったな」というのが僕の率直な感想。サリンジャーファンの方ごめんなさいね(ぺこり)。もちろん「つまらない」というつもりは毛頭無いです。そもそも僕は、電車内でうとうとしつつ読むという、良くない読者だったですし。 ――それにしても、あれらのタイトルは良過ぎる! |