2001年9・10月の読んだ本。



2001年9月の読んだ本。
(小説7冊、合計7冊)

  • 竹内真 『天真中学物語-お前を感動させてやる-』  ★★★★☆
 竹内真の初期のジュブナイル作品で、現在は絶版となっている「天真中学シリーズ」の一冊。文字通り、中学校を舞台に物語が展開される。この作品にはテーマ曲があリ、物語でも重要な役割を果たすことになります。曲名はザ・ブルーハーツ『夕焼け』。この曲は、僕が実際に中学生だった時に何度も何度も聴いた曲だ。名曲です。なかなか手に入れにくいかもしれませんが、竹内作品の黎明期を垣間見る事の出来る、貴重な一冊です。


  • 竹内真 『ミッドナイト・ボーイズ』  ★★★☆☆
 同じく、竹内真のジュブナイル作品。中学生の主人公立ちが、FMラジオの海賊放送「パイレーツ」の謎を追う、心温まる青春ストーリー。子供の頃、『ズッコケ3人組』や『ばくらシリーズ』といった児童文学に親しんだ経験のある方なら、すんなり入っていけ、そして、それらを読んでいた「あの頃」を思い出させてくれる作品です。


  • トルーマン・カポーティ 『あるクリスマス』  ★★★★☆
  • トルーマン・カポーティ 『クリスマスの思い出』(再読)  ★★★★★
 『ティファニーで朝食を』などの作品で知られる、トルーマン・カポーティのクリスマスストーリー2冊。カポーティの少年の日の思い出が、彼の類稀な文章力と、村上春樹の翻訳で奏でられる。
 主人公の少年バディーの両親は離婚している上、そのどちらも彼と共に生活を送っていない。彼は親戚の家で暮らしているのだ。だからといって、彼が天蓋孤独の身の上であったというわけではない。だって、彼には大好きな「おばあちゃん従兄弟(※)」のスックや、犬のクイーニーがいるのだから…。 彼らとの別れも、そう遠いものではないという事を、バディーはまだ知らない…。
(※)バディーのおばあちゃん、ってほうが自然なくらい歳が離れているんです。


  • 妹尾河童 『少年H』  ★★★★★
 いわずと知れた大ベストセラー作品ですね。最近TVでドラマかされたらいいですが、僕は全然知らなかったので、ほぼ予備知識なしのまっさらな状態でのぞむことが出来き、それがかえって良かったのかもしれない。
 舞台は、第二次世界大戦前後の神戸の街。少年Hが体験した「あの戦争」とは、一体なんだったのか?
 彼は、時代に翻弄されながらも、「一体これはなんなんだ?」、「こんな世の中まちがっている」という疑問を無くすことはない。
 アーヴィングの『ガープの世界』が、「ガープの目を通した世界」であるのと同様に、この作品は「H少年の目を通した太平洋戦争」つまり『少年Hの戦争』だ。その生きざまは非常に痛快である。
 映画や小説など、様々なメディアで「あの戦争」に触れてきたわけだけれど、この作品ほど共感できたものは無いかもしれない。正確に史実に基づいているのかという問題は別として、とても貴重な作品だと思う。
 この世の中、僕が生きている間に、実際に「戦争」というものと直面することがあるかもしれない。いや、むしろ「戦争にかかわらずに生きていけるのではないか」などと考えるのは、虫が良すぎるというか、楽天的に過ぎるのだろう。「その時」どう生きたら良いのかのヒントをもられる作品です。


  • 吉本ばなな 『哀しい予感』  ★★★★☆
 吉本ばななの「超」有名作。ばなな作品は幾つか読んだけれど、これはめぐりあわせの妙なのか、何故か未読だった作品。村上春樹『ノルウェイの森』のようなせつない読後感があり、今まで読んだばなな作品ではベストかもしれない。
 そして、この作品にとって欠く事の出来ない重要なファクターは、ずばり!「表紙の絵」である。
 「なんだそれ、あれはばななさんの絵じゃないじゃん!」と、お怒りになる方もいらっしゃるかもしれませんが、僕は「あの絵があってこその、この作品」だと思う。
 未読の人は、作品を読む前に見た「表紙の絵」と、読後の「表紙の絵」から受ける印象を是非堪能してもらいたい。あの絵を呼び寄せた幸運も、吉本ばななさんの才能の成せる技だろう。


  • 宮部みゆき 『R.P.G』  ★★★★☆
 今をとくめくミステリー作家、宮部みゆきさんの文庫書き下ろし(ありがたや〜)作品で、ついでに言うと、僕の宮部作品デビュー作。話題になった『模倣犯』も読みたかったのだけど、金銭的な理由により(笑)躊躇していたところ、文庫書き下ろしの新作が出たというのでおもわず購入。
 物語は、ネット上の(ここと同じですね)、擬似家族のひとりである「お父さん」が何者かに殺害されてしまうことから始まる。やがて、被害者がネット上で擬似家族を持っていた事を警察もつかむ。果たして犯人は擬似家族の誰かなのだろうか?同時期に起こったもうひとつの殺人事件との関係は?といった感じで展開されていく。
 正直、予想以上に面白く、最後の最後に起こる「大どんでん返し」にも意表をつかれた。インターネットにはまっていればいるほど、よりいっそう楽しめる作品です。
 真犯人の心が痛い…。



2001年10月の読んだ本。
(小説2冊、その他1冊、合計3冊)
  • ポール・オースター 『リヴァイアサン』  ★★★☆☆
 アーヴィングのファンにも人気が高い、ポール・オースターの作品。物語は、主人公の友人であるベンジャミン・サックスという男が、ウィスコンシン州の道端で爆死した事からはじまる。彼は自らが作成した爆弾で死んだのだ。主人公は「友人が爆死するに至るまでの人生」を出来るだけ詳細に文章として残そうと決意する。そしてその文章こそが、『リヴァイアサン』なのだ…。
 僕としては、作品の後半1/3くらいの盛り上がりまでの、助走の部分が多少だれ気味の部分が(生意気な言い草ですね。いったい何様(笑)。)残念だった。後半は文句無く面白かったので、なおさら惜しい気がしてくる。この作品に『ムーン・パレス』のような、最初から読者を引き込み、引っ張っていくものがあれば、申し分ないのになあ…。


  • ポール・オースター 『スモーク&ブルー・イン・ザ・フェイス』  ★★★★☆
 ポール・オースターによる映画作品2作のシナリオや、インタビューが収録されている新潮文庫の一冊。映画脚本のほうは、実際に映画をご覧になった方なら既にご存知の通り(とってもおもしろい)なので今回は割愛。
 「ザ・メイキング・オブ・『スモーク』」と銘打たれたオースターのインタビューに、「うんうん、そうだよな」って思わず納得してしまうお話があったので、それについて書きますね。インタビュアーがオースターに小説とシナリオ(映画)について話をふったのですが、それに対してオースターは次のように返答します。

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(前略)
本を読むには、言葉の意味と積極的に関わらなければならない。読む側も努力しなくちゃいけない。想像力を使うことが必要なんだ。そして、想像力がひとたびフルに目覚めると、まるで自分の人生であるかのように、本の世界に入り込める。
(後略)
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 オースターはここで、映画は”壁に映し出された、平らな絵”であってあくまでも二次元的なものだと言っている。それに対して小説は、読者の想像力によって”三次元の世界になりうる”のだと。
 
 これは、いつも僕が思っている事と同じことを言っているんだな、って思ったんです。「小説と違って絵があるマンガや、絵に加えて音楽まで準備されている映画というメディアのほうが、活字だけの小説よりも自由度がありキャパシティも広いんだ。小説なんて堅苦しいだけの過去の遺物だじゃないか」って思っている人が多いと思うんです。(たぶん僕の思い違いだけではないと思います)(これを読んでくれている本好きの方は、そうは思わないでしょうが)
 でも「それは違うよなー」って思います。僕はマンガも映画も(小説と同じくらい)大好きだけど、より自由な媒体は小説だと確信しているし、その自由を愛しちゃっているのです。

 マンガは絵が決まっちゃっているので登場人物や情景を”想像(創造)することが出来ない”し、映画に至っては、絵は勝手に動いてしまい、好き勝手な声色でしゃべり、強制的にBGMやテーマ曲まで聴かされる(=自分で想像できない)。その点、小説は自由極まりないと思うのです。僕の頭の中では、僕が想像した”僕固有の物語が繰り広げられます”。根っからのわがままもので、他者に縛られるのが大嫌いな僕は、そんな小説的自由が大好きなんですね。


  • 宮部みゆき 『模倣犯』  ★★★★★
 公園のゴミ箱から女性の右腕が発見される。それは「人間狩り」という快楽に取り憑かれた犯人からの宣戦布告だった。やがて、第一発見者の少年と孫娘を殺された老人が事件に巻き込まれ、犯人に振り回されていく‥‥。 
(解説より抜粋)


 おそらく今年一番の話題作であろう、宮部みゆきさんのミステリー『模倣犯』読んだ。上下二巻組、1500ページ近くにもなる大作だ。こうゆう面構えの本は、アーヴィングファンの血をうずかせてくれる…(うずうず)。そして、その期待は裏切られることはなかった。なにしろ僕は、あの分量をわずか二晩で読み終えたのだから。
 まだ読んでいない方、思いっきり期待して読んでも、大丈夫ですよ。安心してください。その期待は裏切られませんから。

 この作品は三部構成からなっている。そして、いわゆる連続殺人事件そのものは、第1部(上巻の半分ほど)でほとんど語られてしまう。その時点で読者は真犯人を知ってしまっているわけだが、読者は犯人がわかってしまってからの、のこりの1000ページあまりに(!)退屈することはない。その理由は、犯人の視点、被害者の視点、ジャーナリストの視点、被害者の家族の視点、など多くの視点で、それは事細かに、綿密に展開されているストーリーにもあるだろう、もちろん。しかし、それだけではないのではないだろうか?
 私たちが、事件そのものよりむしろ、犯人の心理や、その事件が生み出された土壌について、被害者、加害者の家族について、そして、その事件を捉えている我々自身について、より多く思いをめぐらし、より深く考え、そして知る必要がある、と本能的に感じている。それがそのまま、この作品の構成に反映されているように思えてならない。だからこそ、読者は残りの1000ページに心引かれるのだ。


 この作品を読んでいるあいだじゅう、常に感じていた事がある。それは、「ああ、宮部みゆきってひとは、わかっているな」ということ。
 現実の社会でも、この作品の犯人のような、いわゆる愉快犯というくくりで語られる人達がいる。この作品も、その社会の中で紡ぎ出されたもの、生まれたものなのだ。この作品は数年間にわたって、雑誌に連載されたのだという。
 宮部みゆきは、具体的な若者(少年)による実際に起きたいくつかの忌まわしい事件、を念頭に置いた上でこの作品を執筆し始めたのだろう。そして、そういった事件は、宮部みゆきがこの作品を連載している間にも、途切れることなく起こっていたし、あなたがこの作品を読んでいく上でも、きっと実際に起きたいくつかの事件を思い浮かべる事になるだろう。口惜しいけれど…。

 そして宮部みゆきは常に感じていただろう。彼らに対する、彼らの起こした犯罪に対する、メディアの取り上げ方や、メディアから情報を得る数多くの人々の受け止め方に、(というと誤解を招くかもしれない、それらが漠然とした全体像として発している印象、とでも言ったらよいのか)自分は疑念を抱いていると。
 それは犯人に対する、怒りや嫌悪とはまた別のものだ。何故なら、その全体像の中に自分も含まれているのだということを、その自己矛盾を、自分自身で引きうけなければいけないからだ。
 僕も、そのように感じていたし、特殊な反応ではないと思う。それは、漠然とした全体像として捉えられていた多くの人々が実際に感じていたはずのことだ。

 「これじゃ被害者をおとしめ、犯人を喜ばせているだけじゃないか!」

 ジレンマである。それも、大いなる不安に四方を囲まれた、その上でのジレンマだ。

 そのことを宮部みゆきは、本当に良くわかっている。その上に、自らが極上のストーリーテラーである(ちなみに、この作品の真犯人も自分を極上のストーリーテラーであると信じ、そのことに誇りすら持っている)彼女は、もしかしたら自分自身の中にある悪魔性を、この作品の犯人に投影していたのかもしれない。
 そんな彼女だからこそ、どうすれば犯人を徹底的に打ちのめす事ができるかも良く判っているのだ。あなたが、この作品のタイトル『模倣犯』の意味を知ったとき、あなたもきっとそう思うはずだ。「宮部みゆきはわかっている」と…。

 この作品は、決してハッピーエンドではない、むしろその対極にある作品だ。しかし、作品のエンディング部で、登場人物たちは次のように語る、「これと同じような事件はもう起こらないだろう」「これをひとまわり小さくしたような事件なら起こるかもしれないけれど…」
 でも、読者はそれが希望的観測に過ぎない事を知っている。「自分たちが言ってる事は希望的観測に過ぎなく、希望的観測に過ぎない事は判っていても、そう言わずにはいられないのだ」と、登場人物自身が感じていることも、読者は感覚的にわかってしまうのだ…。
 
 哀しい小説である。
 
 
 たった一人の孫娘を殺された老人は、小説の後半で次のような言葉を発する。

「人殺しがひどいのは、被害者を殺すだけじゃなく、残ったまわりの人間をも、こうやってじわじわ殺していくからだ。さらに腹立たしいことに、それをやるのは人殺しじゃない。残された者が自分で自分を殺すんだ

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