(小説2冊、エッセイ1冊、合計3冊)
『沈黙』や『深い河』といった作品とも共通のものであろう「信仰とは何か」を考えさせられる作品。信仰とは言ってもキリスト教がどうのこうのといった問題よりもむしろ、日本人であるということ、人間であることは、どうゆうことなのか。を考えさせられるスケールの大きな作品。主人公の侍の、あまりにも世間ずれしていない人物像には多少違和感を感じないわけではないが(今は小学生だってもうちょいすれてると思う(笑)。)当時の時代背景などを考えれば「それはそれでありかな」と、なんとか納得の許容範囲内に…。とかなんとか書いてますが、僕としては基本的に「ぜひとも読んで欲しい」作品、作家です。アーヴィング等の海外文学にはまっている人ほど「これって意外とおもしろい!」って思うかも。
この本が彼女の(活字のね)作品の中でどのような位置にあるのかわからないけれど、この一冊を読んだ限りでは「絵がなくても(実際は少しあるのだけど)結構面白いなあ」といった読後感。巻末にはビートたけしとの対談なんかも載ってたりして、なかなかお徳だし。…ところで、さくらももこって『ちびまる子ちゃん』のマンガ(アニメでなくて)は今でも書いているのだろうか?テレビアニメだけなのかな?
この本は既に読まれている方が多いと思うので感想は割愛、疑問点をひとつ。う〜ん、勿論この本には「面白さ」もあったのですが、それだけでなく「気になるところ」もあったりしたんですよね。え〜と、新潮文庫の『ハックルベリィ』をお持ちの方、119ページ(救急車を呼ぶときの番号ですね。)を開いてください。真中からちょいとひだりよりにのジムじいのセリフで「おら、そんなもん百万円もらったっていやだね」ってのがありますよね。他は全部「ドル」「セント」なのに、何故ゆえここだけ円なんでしょうか?どなたか理由をおわかりの方いらっしゃいますか?わからん。謎だ…。 (小説5冊、エッセイ2冊、合計7冊)
そこで僕が思い出したのは、村上春樹『羊男のクリスマス』です。多分に『アリス』を意識して書かれたであろうあの作品には、(この作品のそれとは多少異なるかもしれないけれど)日本語特有の「ことばの面白さ」がぎっしりと詰まっていますよね。多少『アリス』の面白みが解らなくたっていいじゃないですか。 アリスがいなくても、僕らには羊男がついているのですから。
ところがところが、この本には『ガープ』の話よりもさらに興味深い話題があったのです。「デレク・ハートフィールドについて」です。村上春樹ファンの方なら勿論ご存知のこの作家(村上春樹の処女作『風の歌を聴け』において、重要な位置をしめる。)、おそらくどこかでそんな感じの記述を目にしたんだと思うのですが、「村上春樹による架空の人物」だと思いこんでいたのです。しかし、実はそうではないらしいのです。なんと!この本には、 「前にも日本人からハートフィールドについて手紙をもらった。(中略)ハルキ・ムラカミって名前だったけど、知ってるかね」というセリフで始まる文があるのです。そして文庫本約5ページにわたって綿密に「ハートフィールドについてのあれこれ」が書かれています。 僕は思いましたね。「なんと!ハートフィールドって実在したんだ!」って。そして、あのハートフィールドが実在するとなれば、こちとら必死で探しましたさ。ネットで情報を。そりゃあ、目を輝かせながら…。 で、判明したのは、やっぱりハートフィールドは架空の人物だって事。まんまと騙されましたですよ…(涙)。村上春樹が『風の歌を聴け』でまるで実在の作家かの如く登場させた架空の作家、デレク・ハートフィールド。作者の青山南さんも、その「つくりばなし」に乗ってみた。ということらしいのです。この文章の初出が、『風の歌を聴け』の刊行にほど近い頃という事からも、そうゆうことで間違いないと思います。で、でもね。青山さん。その遥か20年後。21世紀の世の中で、その文章に一杯食わされることになる「間抜け野郎」が存在することになろうとは、想像していなかったでしょう?そのとき…。
そんな感じで始まる痛快青春ストーリーは、主人公の天馬が弟子入りしている落語の要素が上手く絡まり、独特の雰囲気をかもし出している。途中なんとなく展開が読めてしまうようなところもあったりするが、それを補って余りあるテンポの良さやストーリーの面白さがあるように思う。僕が大好きなブルーハーツの音楽がよくあうこの作品は、以前読んだ『カレーライフ』とも共通する「何とも言えない読後感の良さ」があった。 読者を楽しませ、その上、元気づけさせちゃう。そんな効能が竹内真の作品にはあるのかもしれない。
ヘミングウェイは殆ど読んだことが無いのですが、この作品に限って言えば、可も無し不可も無しの、安心して読める作品か、というところでしょうか。特筆すべき点もないような気がします。時代も国も全く異なる人間に「そう思わせる」ことは、凄い事なのだとは思うのだけれど…。 ところで僕が読んだのは、たぶん新潮文庫の古いバージョンだと思うのだけれど、それの巻末のわりと長めの解説(福田恆在さん)は、いまいち納得できず。不満。
この物語は、2000年の今の彼らと、1990年の彼らの日常が並行して語られる構成で成立っている。高畑監督の『おもひでぽろぽろ』や、村上春樹『世界の終わりとハードボイルドワンダーランド』の構成を思い浮かべてもらえると良いかもしれない(本当は違うのかもしれないけど、異なる時系列が並行して進行していく点は、たぶん同じだと思う。たぶんね) この作品を読んで感じたのは”同世代感”ということ。僕は本読みといっても、(残念ながら)それほどコアな本読みでは無いこともあり、今まで自分と同世代の作家の小説を、ほとんど読んだ事が無かったんですよね。タケウチさんと僕とは、厳密に言えば同世代ではないのかもしれないけれど、それでも僕の読書経験の中ではずば抜けて、同世代の作家の作品だと思う。もちろん小説には、実際の自分とは異なる、生活、世代、時代、国、世界観、考え方、などなどを活字を媒介して擬似体験する楽しみがある。しかし、それが同じ世代、同じ世界観であってもいいはず。音楽やマンガなどでは当然のように感じていた「その感覚」を、今回読んだ一連のタケウチ作品で味わえた気がする。 今回、『カレーライフ』、『粗忽拳銃』:、『風に桜の舞う道で』の3冊を読んだのだけど、僕の一押しは『カレーライフ』。たしか作者のタケウチさんも、「アーヴィング作品を意識して執筆した」と仰っていたし、アーヴィングファンの方はきっと楽しめるはず!
僕も釣り好きのはしくれだったりするので、釣りに対しての彼の考え方、取り組み方はとても興味深かった。だけど『ゴーマニズム宣言』を読んで「ああ、このひと傲慢だなあ」と思うのと同じ位、「ああこの人の釣りは誤ってるなあ」とも感じました。う〜ん、やはり問題はそうゆうことじゃないなあ…。そもそも「正しい釣り」なんてものがはたぶん無い。だから、彼の釣りが誤りなのは、別に問題無いはずなのだ。 糸井重里がバス釣りが好きな事は充分伝わってくる、それなのに、それなのに、読んでも全然面白くないものに、この本は何故ゆえになってしまっているのだろうか?それは彼の釣りに対する”ヒステリックな愛情”が原因なのではないかと思う。糸井重里は冷静さを失ってしまったのである。釣りの魔力によって…。 彼は自分が周囲を見渡せないでいる事に、気がついていなかったのだ。まあ、それだけのめり込めたということは、彼の「誤釣生活」はある意味成功したと言えるのかもしれないのだけれど…。 |