社会的人格と日本人

日本という国は、公には、仕事と社会的地位で得られた人間関係で成り立っているらしい。何処の誰・誰の子供・誰の妻・会社の何がし・何校の卒業生…。そういう、社会的な人格=自分と思い込んで、それを頼りに生きているようだ。そして、プライベートでは、愚痴をこぼす仲間が多いほど、株が上がり、人気者だとでも言うのだろうか? 

どんなに仕事が出来て、地位や名誉をたくさん持っていても、「そんなものは、自分じゃない!」と思っている人は、孤独だ。また、ずっと、そういう生き方をして来て、仕事も地位も名誉も失った時、悲惨な余生が始まる。なんだか、日本人全員が、「本来の自分」を封印することを教育と勘違いして来たみたいだ。そして、社会的人格に命を注ぎ、その不満を共有することで「仲間意識」を高めるように調教されてしまったのではないだろうか?

ここは、社会的人格を「自分」と認められない人には、住みづらい国だ。

では、社会的人格以外の「自分」というものが、日本人にはあるのだろうか? 自分の意見や考えを持たずに、集団に自己を埋没させ、趣味と称して流行を追ってきた民族に、個性なんてあるのだろうか? どんなに良い人で、能力があっても、集団内での期待される人間像と、理屈に合わない不条理なものを、ガンとして受け付けない人は、外に出されるかいじめられるかのどちらかではないか!

個人的にはどんなにずるくて腹黒くても、社会的人格と交友関係の中にある「自分」と「本来の自分」との違和感を感じない人は、大きな顔をしていられる。どんなに汚くて間違ったことでも、根回しをして力で押し通す技量があれば、正しいことになってしまう。そればかりか、「本来の自分」そのものさえも、社会の中にちゃんと位置付けていられるではないか。そういう人達は、どんなに個人的な見解を述べても、けっして社会からつまはじきにはならない。社会的な自己と、個としての自己を使い分けることも出来るし、個でありながら尚、社会的でいられる。

しかし、「社会的な自己」と「個としての自己」との間に、ギャッブや違和感を感じてしまう人と、そもそもの「個」に社会性が無い人は、とても生き辛い一生を送らなければならないだろう。自閉的な個性に限らず、すべて、「力」の理論に逆らうものは、潰されてしまうだろう。

もともとの「心の理論」に不具合があって、欠けた所を頭で考えて補ってきた自閉民族にとって、存在の基盤があって、現実との強固な繋がりがあり、かつ、「力の理論」を振りまわす、思いやりのない人の存在は、許すべからざるものだ。でも、社会的人格を拒否しつづけ、「孤独」を楽しんでいる私だって、「自分と同じような人が何処かにいる」という安心感と、現実的には何の利益もない連帯感を、心の支えにしているではないか! 

やっぱり人は、一人では生きていない。

さしあたって、「社会的自己」の外に、「本来の自分」を探しつづけられるなんて、幸せなことに違いない。


                 

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