神話の世界と聖剣伝説
すみません、しばらく故郷に帰らせてください。
是非善悪は別として、ちょっと今はそういう気分です。神話と言っても、この場合はほとんど「ギリシア神話」、聖剣伝説は「中世の騎士物語」をさします。言うまでもなく、これが今現在私がゲームをやっている最大の理由の一つです。RPG(ロールプレイングゲーム)というジャンルのゲームに登場する人物・キャラクター・モンスター・ドラゴン・武器・技や魔法・情景・設定の大元は、だいたいこの辺にあるからです。
現代という時代は、科学がすべてに優先しています。が、かつては、世界観といえば宗教がお手のものでした。最終的には神への畏敬・信仰を求めるものである以上、世界中の「神話」という「神話」は、本来ならば宗教的なものです。でも、神話的な世界観が本当の世界だった古代人ならいざ知らず、「神話」の世界を本気で信じる現代人などいるはずがありません。私が世界中の「神話」を読みふけっていた小学校高学年〜中学生の頃だって、単なるお話として愛好していたにすぎません。
それは、"好き"というより、ほとんど"あこがれ"の世界でした。だって、世界中のすべての物や事象が、神と神とのあるいは神とその他の種族との関係において説明がされている、理路整然とした世界だからです。すべての物と出来事に属性と善悪がはっきりしていて、敵と味方に分かれて闘う理由やその結末にも筋が通っています。人間の感情などというものは、神への恐怖の前にあっては、容易に打ち砕かれます。
まあ、たいていのRPGのストーリーといえばほとんどのアニメと同じく、「世界征服を企む悪者の陰謀を正義の味方である主人公が仲間と協力して阻止し、世界を危機から救う。」というものです。だいたい、そんなヒーローがカッコイイからというより、さまざまなトリックを見破っていくのが楽しみでゲームをやります。私のように、人間でない登場者狙いでやっているのも、珍しくはありません。ただ、そういう世界が≪自分≫の元いた世界で、故郷に帰るようで懐かしくてやっている人は、そうはいないと思います。
ましてや、ゲームの世界観を自分自身の象徴にしているなんて人は、もっといないでしょうね。クロノ・クロスの「自分の生きている世界」と「自分の死んでいる世界」を行き来することを自分の処世術に重ね、ファイナル・ファンタジーZの「すべてを破壊しようとするセフィロスの黒魔法」と「星の命を守ろうとするエアリスの白魔法」との衝突を自己存在の葛藤に重ねているような人なんて…。でも、一見言葉で考える人種のような私ですが、言葉を理解するためにこういうビジュアルなものを使っているんです。
一つ一つは孤立している球体が、何らかの(出来れば数学的な)関係性のあるネットワークの中に置かれていて、それぞれ自律しながらも全体として機能していること。それが私自身の世界だし、私が世の中に具現することを求めていた世界でした。
でもそんな≪私≫が住んでいたのは、こんな世界なのです。
- ちゃんと人の中にいるのに、私の文脈から一歩も外に出られない世界。
- 自分は一人だけの世界にいるような口を利きいているけれど、実は、いつも誰かに依存して生きている世界。
- 自分は入っていないのに組み込まれている「世の中」のことを、感情と勘定を除外した目で観察し分析している世界。(その実態は、様々な気分と囚われにがんじがらめになりながら…。)
- どんなにたくさんの新しい情報の流れの中にいても、自分の記憶にストックされている古い情報と突き合わせることしかしていない世界。
- 自分に響いてくる物事と自分と同じモノだけを選択して、組み合わせている世界。
そんな、人の姿をした宇宙人の思い通りになるはずなんか、なかったのだ!
なのに、私はず〜っと思っていた。≪他人≫というのは、「何故、自分の思っているように行動しないのか?」「何故、こんなに簡単で分かりやすいことができないのか?」 そして、「何故、頼んでもいないのに・勝手に、私に干渉してくるのだろう!?」「何故、私を放っといてくれないのだろう!?」 でも、本当は、≪自分≫が思っていたことは≪他人≫に思われていたことだったのだ。それに、今ごろ気づいたなんて!
それで、まずは小学校5年生までの、極楽トンボだった≪私≫に戻ることから始めてみることにしたのです。結局、普通なら自然に備わっているはずの「群れる」構造が始めからなく、"自分で取捨選択した「こだわり」の世界に生きていること"に気づいて、あるものは軌道修正し・あるものはそのまま認めさえすれば良かったのではないか?ってことなのです。
私は普通に生活しているのに、『もう闇のなかにはいたくない』の著者ビルガー・ゼリーン(重度自閉症の青年)との共通項がたくさんあります。それは、"意識は普通で自分の中に閉じ込められている"者、人と共にいながら人に関心がなく人との係わり方を学習できなかった者、過剰な神経の反応に振りまわされたり色々なものに同化して≪自己≫を保つことに失敗した者、ということでしょうか?
一方、セロトニンという物質の分泌を調整する薬(SSRI)を飲むようになって和らいだのは、自然に人と係われない為に引き起こされていた不安と恐怖でした。相変わらず感覚は過敏なままだし、たとえ人の気持ちを思いやって適切な行動が出来たとしても、私は自分の文脈の外には出られないままです。ただ、禍緊張の状態を保持できなくなったお陰で、またまた、時と所と自分の立場(TPO)と年令をわきまえずに、思っていることを調子よくベラベラとストレートに喋ってしまう、危ない人になっているようです。
そればかりか、忘れ物・落し物をしたり肝心なことを抜かしてしまう、随分とオマヌケな人になってしまいました。そういえば、もともとの私は、結構ボーっとしていて"おっちょこちょい"だったことを思い出しました。よくいろんなことを忘れるので、寝る前の10分間「明日、起きたらOOをやる」と念じてその通りする訓練をしたのは、やはり5年生の頃でした。で、そのお陰で無意識のうちに自分で自分を緊張させる術を身につけてしまったようです。ははん、今やっているのはその逆なんだな、と思います。
というわけで、周囲の方々には肉体的・精神的・経済的苦痛を撒き散らしておりますが、しばしご勘弁願います。もしかしたら、ず〜〜っとになるかも知れないけど…。
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