良寛さん

「ペンギンくらぶ」の看板の隣には、手毬を持って子どもに語りかけている良寛さんの像がまつられています。私は良寛さんの書や詩に造詣が深いというわけではありません。ましてや、"禅者"としての良寛さんについて語るつもりもありません。

実は、手毬を持って子どもたちと戯れる良寛さんの姿に、≪教育≫をめぐる、いや、今どきの≪親子関係≫が抱えている様々な問題を解くカギが隠されていると私は思っています。良寛さんはその象徴です。

良寛さんは、子どものココロで子どもたちと遊びました。楽しそうな子供たちに囲まれて、自分自身も楽しんでいたに違いありません。でも、何も生み出さず・何の儲けもない"子ども"との遊びに日がな一日を過ごす良寛さんを、生活の為の労働に明け暮れていたまわりの大人達は、きっと、冷ややかな目で見ていたことでしょう。

いつの世も、時代は≪大人≫のものです。でも、かつて、"子ども"には≪子ども≫でいられる時間がありました。≪子ども≫らしくいられる空間もありました。子どもには子どもの≪社会≫があり、そこで子どもたちは≪子ども≫のココロを十分に育みながら、≪大人≫社会のルールを学びました。

それが今、失われようとしています。核家族・少子化という時代に生まれた子ども達は、常に大人に監視されている(過保護・過干渉)か、適切に指導できる先輩のいないところで≪社会≫を知らずに育ってしまう(放任)かのどちらかになりがちです。

良寛さんの手毬に当たるものは、大人の望むものであるとは限りません。良寛さんは、手毬で遊ぶように子ども達に強要したわけではありません。子どもたちは、良寛さんの持っている手毬に興味を持ったから一緒に遊んだのです。確かに、用意したのは大人です、でも、遊びたい気持ちのないところに遊びは成立しません。

一方的に大人が決めたのでも、子どもが子どもだけのサル知恵で作ったのでもない≪遊び≫。ルールがちゃんとあって、ひととしての"道"を教える人がいて、"学び"の場でもあったはずの≪遊び場≫、それが「ペンギンくらぶ」の"PlayROOM"です。子どもたちは、その日の気分でゲームをしたり、虫捕りをしたり、サッカーをしたり、鬼ごっこをして遊びます。

良寛さんは、今日もそういう子ども達を見守っています。

 

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