自閉傾向がある子供を指導する時の注意点。
自閉傾向がある子供の場合、ソーシャルスキルトレーニングでどの程度までカバーできるか、疑問に思えて当然でしょう。人の行動や表情について、どんなに上手く説明したからといって、「自閉」という根本の症状がある限り、その場を乗り切ったにすぎないという面は、確かにあります。
指導する側にとってできることは、人生の最初の数年間をどのように迎えさせてあげられるかということです。「自閉」という障害がどのように変遷し、落ち着いて行くかは、社会との折り合いをどう付けていくかに懸かっています。そこに、ほんの少しでも手助けが出来るかどうかですが、その違いは大きいのです。
その目的と要点は、
- 生活に困らない程度のスキルを習得すること。学校で教わることのすべてが、生活に必要な知識ではありません。ただ、授業がまるでわからないのは辛いので、何をやっているか分からなくても参加できる程度の読み・書き・計算の基礎学力はあったほうがベターです。それはそのまま、生活にも必要な知力になります。小さいうちは特に、生活習慣の習得や、楽しく一日を過ごすことに、重点を置いた方がいいでしょう。
- 社会的に許される範囲に、行動を統制していくこと。法に触れること、人間としてしてはならないことは、誤解を招き、本人の立場を弱くします。人を傷つける・人のものを黙って盗るといった行動は、粘り強く説得を続ける必要があります。それに対し、部屋じゅうに紙を撒き散らす・水を出しっぱなしにする等の行為は、ばら撒いてさしつかえない紙を用意して与える・周りに人がいないところで存分にやらせてあげる等、被害が出ないように配慮すれば、特にやめさせる必要の無いものです。かえって、ちゃんとやらせてあげた方が、早く止まります。
- 興味や関心を持ったものは、とことん追求させること。自閉傾向があるからといって、「どうせ、何も出来ない」と諦めてしまうのは早すぎます。興味や関心の範囲はもともと、少ないのですから、出来る限りの可能性を伸ばすにはきっかけが必要です。どんなところに隠れた才能があるか分かりません。無理のない範囲で、いろんなことに参加させてみると、思いがけない発見があるかもしれません。ただ、主体はあくまでも≪本人≫です。指導する側の思わくは控えめにして、≪本人≫の反応を確かめながら、できそうなことがちょっとでもあったら、見落とさないようにします。
- 困った行動には違いないけれど、どうしても止められないこともあります。もともとの障害の性質上、どうしてもやめられないことがあり、困った行動をしてしまうのは、仕方のないことです。その行為そのものは「悪い」ことでも、≪本人≫が「悪い」わけではありません。その行為については厳しく叱ります。しかし、本人の言い分を聞き、「どうしてそういう行動をしたのか」という理由をはっきりさせて、二度と同じことを繰り返さないようにするにはどうしたらいいか、教えます。なるべくささいな出来事のうちに、学習できれば、大きな問題に発展する前に食い止めることが出来ます。
- 自分自身をよく知って、自信を持たせるようにします。先天的な認知の障害や人との係わり合いの構造的な欠陥というのは、訓練で補いきれるものではありません。自分がそういう「生まれ」であることは、恥ずかしいことでも、いけないことでもありません。ただ、普通の人がしないことをやってしまう・普通の人が簡単にできることができない、ことを指摘された時に、「言われたことを素直に聴いて、やめることが出来るかどうか」が大事なのです。どんな努力をしても、限界があります。それを超えると、本人の心理的負担が増えるだけです。
- ひとりひとりに、独自の方法があります。一般的な言語(言葉)・非言語(表情・身振り)がコミュニケーションの手段になっていないからといって、コミュニケーションがまるで出来ない・望んでいないわけではありません。それらに代わるコミュニケーションの手段を探すべきです。例えば、絵だったり、記号としての文字だったり、ゲームだったりします。一緒にやるというより、同じモノを並行に別々にやって、その共通の話題を通して繋がっている関係が良いのです。直接にやりとりするより、「何かを媒介にして」間接的に係わり合い、「共通する話題」について、別々に語らせると、饒舌になります。そこに、会話の糸口が見つけられるはずです。まずは、どういうことなら話が出来るかという、≪個性≫を発見することです。そして、そこで使われている用語を使って、他のものを説明していきます。交通標識の意味を理解しているのなら、日常生活の決まりを交通標識で表わして教えれば良いし、ゲームが得意なら、ゲームで使われている用語で身の回りのことを説明します。
軽度の「自閉症」者は、世間とは没交渉ではありませんが、独特の意味付けされた世界の住人です。昔のインドの逸話のように、目の前の一匹の象に触っているのに、ひとりひとりそれぞれが異なった見方で象を捉えているようなものです。世間一般に共通するような人との関わり方の様式にあてはめてみれば、謎だったり、奇妙に見えることがあるかもしれません。しかし、彼・彼女等を普通に近づけたいと思うならば、こちらに引き入れようとするよりもむしろ、こちらから向こうに入っていくべきです。