モナドのお話
ライプニッツによると実体とは、単純にして拡りのない、したがって不可分のものであり、その本質は作用する力である。それはあらゆる有限的事物の根底に存在し、そしてみずから働くものである。ライプニッツはこのような実体をモナド(monado単子)と名づけた。モナドは無数に存在して全宇宙の根本本質をなしているのであり、一切のものはすべてモナドによって成り立っているのである。
岩崎武雄著『西洋哲学史』(有斐閣・教養全書)より
ライプニッツのモナド論とは、万物の根元は何かという哲学論争において、「唯心論」に位置付けられる思想です。それは、存在するすべてのものは、≪心≫とは言えないまでも≪表象≫する働きを持っていて、低次のものから高次なものまで連続体をなしているというものです。例えば、モナドだという点では、私の肉体を構成している細胞も私が腰掛けている椅子の粒子も同じモノと考えます。しかし、生物のモナドは意識的な表象を持っているけれど、無生物のモナドは無意識的であるところが違うわけです。
それに対峙するのが「唯物論」で、すべての存在は物質的なものであるとします。人の≪心≫まで科学的に解明できる、という現代の科学至上主義は、後者の流れから来るものです。
ライプニッツのこの考え方は、普通の人にとってはとっても理解し難いものであるようです。でも、私からすれば、どうして皆がこんなに解り易くて明らかな思想を理解できないのか、不思議でたまりません。
だって、私はいつも、目の前の机やパソコンあるいは空間さえも、とっても生き生きとしたモノとして感じているからです。確かに、これらのモノは自分から動く事がない無生物で、物質的な存在である事は知っています。物質は固くて、ぶつかると痛いし透過できない「物」だと知っているし、空間を満たしているのは気体であって固体ではないことも、解っています。でも、それらのモノが私と異質なものであるという実感が無いのです。むしろ私は、こういう「物」や「空間」に常に溶け込んでいるのです。
でも、だからといって、私がすべてのモノを擬人化して見ているなんて誤解してもらっては困ります。機関車トーマスのように、私の目の前のパソコンに目や口が付いて、心情を語りかけてくるわけでは無いのです。そうではなくって、≪心≫を持っているモノも持っていないモノも、私の目に映る像としては等質なのです。≪心≫を持っているモノの視覚的映像から訴えかけられるものが弱いのではなく、「物」から感じられるものがあまりにも生き生きとし過ぎているのです。
だからこそ、その世界の彼方からやって来て侵略してくる≪人間≫が怖いのです。予め私の風景の中に組み込まれている≪人間≫であれば、特に何でも有りません。しかし、突然現れたり、勝手に係わってきたり、≪心≫を押しつけて来たりする部外者は、私に苦痛をもたらします。でも私は、像として映っている≪人間≫たちの気配を完全に消す(シャットアウトする)ことができます。だから、お出かけモードの時は、大勢の人の前に立っても平気だし、どんな大役だってこなせます。だから、対人恐怖症でもないのです。
物と生物(特に人間)との境目がはっきりしていない、または、照準がいささか物寄りであることが、我々の特異と言われているいくつかの行動に直結するようです。それが、「人間にとって、特に所属する文化的に有意義なあるいは一般的な、価値のある情報とそうでないものを取捨選択する能力」に欠陥があるだけなら、事物への極限的な興味と固執に繋がり、いわゆるオタクへと発展するでしょう。しかし、「存在するすべてのモノ(生物だろうが無生物だろうが)から感じられる快・不快の感覚に過敏」であれば、モノの部分に対する機能的でない要素への固執に留まってしまうでしょう。
でも、この発想こそが、「すべての物質の質量はエネルギーに換算できる」という相対性理論を発見した、アインシュタインの偉業に繋がったのだと考えられませんか? (最近の研究では、どうやら、アインシュタインは我々の仲間らしいですよ。)
そして更に、以下の発想こそ、ズバリ我々の人間関係そのものだとも思うのですが、いかがでしょうか?
モナドはそれぞれ独立的であり、相互の間には何ら因果関係が存在しない。すなわち「モナドは窓を持たない」。モナドはただ自己自身の働きによってその諸状態を変化させてゆくのである。
岩崎武雄著『西洋哲学史』(有斐閣・教養全書)より
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