記事タイトル:質問がある時は… 


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お名前: 管理人   
人が、マスコミ等で報道された特定の個人に対して、どのような感慨を抱こうと自由です。が、ここは、
特定の個人に対して直接攻撃をする「場」ではありません。
[2001年8月2日 16時39分39秒]

お名前: Chip   
ニキリンコさんの講演会予定をご存じの方 教えてください。
[2001年8月1日 15時40分31秒]

お名前: 管理人   
 ただし、管理運用上の必要以外の理由から、あちらこちらの項目に散らばった個々の書き込みを削除す
るように要求されても応じられません。(依頼するのは、個人で開設した項目全体の削除に限定します。)
[2001年7月23日 7時31分47秒]

お名前: 管理人   
この掲示板は自分で削除できないので、本人の要望を受けてこちらで削除するようにしています。
[2001年7月21日 9時6分55秒]

お名前: 一角獣   
管理人殿。
投稿者自身の要望であれば、投稿を削除していただくことは可能なのでしょうか。
[2001年7月21日 7時59分28秒]

お名前: 一角獣   
人間の表情の変化が生理的負担、というのも
私にとって警戒対象である人間の情動や衝動の表出が、
直接的に安全を脅かされる感覚の亢進のトリガーとなる為でしょう。

私が人間や空間から感知している情報量は普通の人と比較にならないほど多い、とも医師は言います。
その医師からも「あなたに限って被害妄想は無いでしょう。」と言われるとおり、
理性の上ではそれらは中立的な情報であっても反射する感覚に訴えてくる情報の氾濫は負担です。
細分化して微妙な階調の変化まで拾っており、その位相の違いにも瞬間ごとに反応が引き起こされる。
それはおそらく神経生理学的な次元の身体活動とでも言うべき状態であって、
感知=言語化できるほどに意識する以前の段階で情報入力⇒反射が起こっているのでしょう。

普通「トラウマ」に関して語られる場合のような
能動的選択的な(体験の主体的な認知加工済みの)記憶反復の結果の気分変動などでない。
また私が「人間の表情」と言ってもそれは集合的な無名の存在であって、
特定の「トラウマ」の固着した対象ではない。

過覚醒状態では「一瞬」でも一定量の情報が拾われてしまいます。
私が一瞥しただけで共感覚的に感じ取る情報量は多過ぎるものとなるようです。
だから疲れやすいらしい。→生理的負担。

外出から帰宅してガックリ来ないで済むようになったのは、治療関係が安定してきた最近のこと。
ずっとこの疲労しやすさ緊張性頭痛も慢性であったし、
医師から指摘された今現在でも「過覚醒」という自覚はあまり無い。
それが当たり前だから内側からはわからないのでしょう。
私が言わない限り、外からもわかりようが無かったでしょうけれど。

間主観的妥当性のある客観的な状態描写はずっと課題だったけれど、
結構まとめがはかどっている。医師が診断を確定してくれたからでしょう。
[2001年6月16日 8時32分14秒]

お名前: 一角獣   
ふ~む。
純粋不純正当不当にこだわる「浮き世離れした巫女的発想」をする傾向は
幼い頃から視野にはいる外界の全てに対する不安と孤立無援感が強かったために、
私が自分だけの神様を創出したからかも。
怖い、怖い、と思った時に、心中で助けを呼べる対象がなかった為にそこに神様を必要とする。
神様は身の守りという最低限の願いを託す目に見えない存在で、しかし常にいてくれなければならず、
そのために、私は見られていなければサボっても大丈夫、とは思えない子どもだったのかも。
それだから精神分析の言う
「親の権威が形成した=両親の愛を失うことを恐れたり処罰の脅威が変貌したところの=超自我」とか
「他者の視線を媒介した社会化過程」などと違う方向に発展していたりして。

私の思想体系の「脈絡の違い」から
私がおそらく普通の人と同じ感情体験をしてきていないだろう、と医師は見ているようです。
かなり早期(幼時期)に、その相違は始まっているらしい。
何故他人の意識下の情動や欲求すら感知してしまうのか、何故「負の気配」に敏感なのか。
それらはやはり当時から続く過覚醒の故であろう、とも。

他者に現実の形で攻撃を向けることはS級アラートが現実のものになった時以外は無いであろうが
手加減しない自己破壊衝動も根は同じということか。

「解離的防衛機制の開発、断片的自己規定の発達、感情状態の病的制御」というのが確かに妥当かも。
[2001年6月16日 7時24分55秒]

お名前: 一角獣   
私に正しい病識が無かったとはいうものの、
自分の病的な状態にあることを知らなかったわけではありません。
しかしいつか克服できると思い続けて数十年。
こんな半生を生きてきたのだから、自分の境遇という不条理に対する漠然とした怒りはある。
もうアトの無い現在ではそれを闘病の原動力に転換すべく収斂させているようですね。
だからこそ、それ以外のことで安易に怒ってはいられない。その余裕が無いのです。
前向きなエネルギーに転換するには不純な怒りは邪魔であり正当な怒りである必要があるらしい。

しかしフツウの人にとっては「自然な人間らしさ」であろう喜怒哀楽の一つである「怒り」に
不純とか正当とか言うのも「脈絡」が違うのでしょうね。
そんなこと考えずに生きていけるものなら私もそうしたい。しかしそうではないのでお構い無く。
[2001年6月16日 0時29分16秒]

お名前: 一角獣   
ログの件でしたら予測外のことで驚いたのでリアクションに困ったのでした。
掲示板上で第3者に分かりやすい書き方をしていないという自覚もあり、
医師との会話すらも何故かうまく意思が通じないことで頭を痛めている矢先でしたので、
コトバだけを取り出されて何事か示されても悩ましい限り。

こんな会話があった。
なかなか治療関係が安定せずギクシャクしてしまうのは 「私が悪いの?」
これに対して医師は 「誰のせい、とか言っても仕方ないでしょう。」

「私の言いたいのは、
 私のせいじゃない、あなたのせいよ、キミは悪くないって言って、

ここで医師が反応して咄嗟に言葉を挟み、二人で同時に言っていたこと。

「あなたは悪くないですよ。」
「とかいうことじゃないんです。」

それでお互いに顔を見合わせてしまった。←話が通じてない。

「私が悪いの?」と聞いたのは純粋に医師に状況判断をしてもらうための質問だった。
今後同じ轍を踏まないために私の側に原因があるのなら知っておきたかったのです。
双方に原因があるのなら、それはまた検討しなくてはならないし。
しかし医師は私の聞き方が真剣であっただけに、感情的な問題として場を収めようとした。
私の質問を「マイナス評価されるかもしれない不安や罪悪感の緩和軽減を求める患者の訴え」と
受け止めてしまったのでしょう。

「悪い」という形容詞を使ってしまったせいかな。
しかし私は、私という人間への評価を問題にしたわけではなく、
コミュニケーションの取り方に限局して聞いたのですけれど。
いつまでも同じ失敗の繰り返しは不毛なので、対策を練らないと。
医師と信頼関係が築けないことで深刻に困るのは、医師でなく私だからですね。

お互いに悪気が無い、というだけでは安定した信頼関係に至らないのは
「状況依存的な対象恒常性の無さ」も私の症状だから。

そうだな。あと「憎悪」は私にとって「感情」というよりは「衝動」です。「攻撃衝動」かも。
だから瞬間沸騰と言う。持続しません。
フラッシュバックするほどの恐怖の反動であろうと私は思っています。つまりその2つで1セット。

常に生死の危険を意識している動物には明確に臨界距離があると言います。
例えば。
出合い頭に熊に遭遇したとき、驚いているのは人間だけではありません。熊も驚き怯えるのです。
その時、ある距離以上離れていれば、熊は安全を期して逃げる。
以内であれば、熊は背中を向けて逃走する余地は無いとの瞬間の判断で攻撃に移る。
とでも説明しますか。
『隠れた次元』(E・ホール)に寄ると、動物の場合この距離はセンチ単位で測れるそうですが。
そして人間も動物だから。そして生死の危険を何故か私は意識しているらしいので。
[2001年6月15日 23時11分6秒]

お名前: オレンヂ・・・   
ちょっと変なことしてしまいました
すみませんでした 
[2001年6月15日 21時55分32秒]

お名前: 一角獣   
ああ肝心なことを。
管理人さんの御配慮を感じています、と言いたかったのでした。
[2001年6月15日 18時12分21秒]

お名前: 一角獣   
外出から戻りました。今日の『日記』拝見しました。

私と主治医の治療上の困難が「アプローチしようのない恐怖感」、という状況があったものですから、
番組中の「抑圧された怒りの感情の解放」がキーになっているケース(と私は理解したのですが)
とは同じにできないと思う、と昨日の投稿のように反応したようです。
仮に「封印されている恐怖感」を解放できたとしても、
恐慌状態に陥るだけで治りはしないのが私の病気であるらしいので。

未処理の「恐怖状態」が私の問題です。

「(PTSD患者の場合、)
 一般的な生理学的覚醒と特別な神経伝達物質系の活性化と特別な記憶痕跡へのアクセスは
 すべて絡み合っているようである。

 記憶の想起とトラウマ関連状態が高度に状況依存的である」

    *    *    *

書店で『発達障害の豊かな世界』をパラパラッと立ち読み。
う~ん。期せずして私にも医師への手紙で「タイムスリップ」と表現した状態があるなぁ。
エリザベス・キューブラ-・ロスの『死ぬ瞬間 死とその過程について』は最近読んだなぁ、とか。

    *    *    *

私の投稿の文章は、それが許される場であるとの了解から基本的に独り言です。
何を想起して書いているかによって、つまり発話当時の会話の流れや状況によって、
単語の用法が微妙に違います。
例えば。
普通の人である医師との会話を想起して書いている場合には、私は彼の語彙の枠組みに則ってその流れを受けて書いているのです。
従って、大量の投稿文のうち、単語の一致だけで同じ文脈で語られたことのように集められると
私自身に矛盾があるように見えてしまうようですねぇ。だから「気持悪い」と感じたものかしら。

≪こだわり≫に投稿した一文が単語ダブってるので引いてみよう。

・ポケモンの時間帯は良かったのだが、遊戯王はダメ。声優が全部生理的にダメなタイプ。
[2001年6月15日 18時5分9秒]

お名前: 一角獣   
ああ。今日は時間が無いのでとりあえず、その論考の出典を明らかにしておきましょう。
『抱擁函Hug Boxあるいはドゥルージアンの発達 』斎藤 環さんがHPで公開されています。

私は全体として(いろいろなスタンスから読むことができますが)
この方の論説に「?」と感じるばかりでした。(←私アンチラカンだし)
[2001年6月15日 9時6分20秒]

お名前: ペンギン   
自閉症の場合の一人称の獲得の困難さって、「主体化への恐れ」ではないと思いますよ。
だって、「恐れ」ているから"しない"のではなくて、もともとそういうことが"できない"障害なのでは?

って、これはその『論考』に対するコメントです。

それから、専門家の先生方が、健常者のモノの見方・考え方から「自閉症」をひとくくりにしている論文
をよく目にしますが、本人の実感からすると「とんでもない!」「我々の文化に対する冒涜だ!」と思え
ることがあります。(特に、専門といっても、「自閉症」の専門家ではなく他の学問の専門家の書いたも
のは、ひどいです。)・・・これは、常々思っていることです。(これを機会に、便乗してます。)
[2001年6月15日 8時4分29秒]

お名前: 一角獣   
自閉症の場合の一人称の獲得の困難さを推量して「主体化への恐れ」と評した論考を読みましたが
それに対して「客体化への恐れ」と呼ぶべきであるような私の事情。

私は「私」であるが、私を見る「アナタにとって誰でもない」、それが望ましいことのようです。

イメージを固定させない傾向は私の未必の故意。
[2001年6月15日 0時17分38秒]

お名前: 一角獣   
ああ。誤解の無いように。
どなたかは存じませんがコメントは要りません。
下の文章、コメントしろという意味にはどうぞとられませんように。

自分の考える材料にするためにあまり厳密に選定しないまま投げ出したコトバの断片が
前後の脈絡から切り離されて単語の符合だけで恣意的に繋ぎ合されているのを見るのは、
気持が悪いものですね。
自分の写真を切り張りして加工されたまがい物の肖像でも見せられているようだ。
[2001年6月14日 23時53分40秒]

お名前: 一角獣   
「引用」は批評やコメントの為にするものです。(まあそれは著作権の問題があるからなんだけど)
後のコメントの為に書籍からメモしたことはあるけれど自分のログをメモと称して列挙されるとは。
[2001年6月14日 23時6分25秒]

お名前: オレンヂ・・・   
個人的観点からメモ
・感情抑制し過ぎ~抑制できずに破綻したら困る
 ~人間が許せないのは生理的な反射なのだから理性とは別次元。
・何故、人の表情の動きが生理的負担なのか。
・感情に流されて無駄に怒ってなどいられない~ 瞬間沸騰の人間に対する憎悪しか無い。

コメントは控えます
[2001年6月14日 22時15分59秒]

お名前: 一角獣   
病気に対する意識の問題。
診断基準も概念も無かった頃に罹患して麻痺しているらしい患者としては医療側にも問うてみたいところです。

治療態勢におのずと制約のあることは仕方ありませんが、
外部を遮断できる安心な空間と、信頼に足る一定の時間枠の確保という保証が無いと、
せっかく診察に通っていてもなかなか肝心のお話がデキマセン。

「愛着形成」ができていないと、退行という形で症状に転換できないということはあるかも。
結果として、ケアを要求する症状の派手な患者さんへの「緊急対応」の後に回される傾向は
ままあるかもしれません。
医師としてもそちらを処置しないと他のことは何もできないでしょうから。

まあ、私の場合。
主治医が時間だけは可能な限り融通して下さっているようなのですが。
う~ん。わからない。他人に聞かれる状況では話せない、という患者はそんなに居ないものかしら?
[2001年6月14日 12時25分36秒]

お名前: 一角獣   
「アナタと自閉症と何が関係あるの?」と改めて聞かれると確かに答に躊躇する。

「主体化へのおそれ」「視覚はもっぱら対象への同一化の手段」
「深部知覚への刺激がリラックスを生み出す」「さまざまな音への不快感」

これらが『自閉症だったわたしへ』に書かれている内容としてあることを知ったのが契機でした。
読んでみると確かになんだか共通要素とし読み取れることが書かれていた。

 しかしドナさんは自分の欲求に従ってエネルギッシュに活動しているなぁ、という印象でした。
 とっても感情主導で主体的、と思えたわけです。(←*フツウでない私の感想ですから)

そしてこの本を読んだ限りでは私は「自閉症」についての理解は過ったかもしれません。
某図書館で私の「自閉症」観はまたゼロに戻ってしまいました。つまり「?」になったわけですね。
『自閉症だったわたしへ』で理解したと思った部分と対極からぶつかるところがあるように感じたためでしょう。
(それは知覚過敏などよりは「コトバ」と「他者存在」の捉え方の問題が前面に出ていたからかな。)
それから『ペンギン日記』に辿り着いて私はようやく分かりやすい情報源を得た、と思った。
客観的な情報源として私が自分で解説本を読む必要を省いてくれましたし。(感謝)
しかし私が「分かった」のは実は管理人さん個人の言い分に関してだったのかもしれません。
なんだか思い当たることが書いてある。
それは「同じ」というよりは「対照させるとその文脈で相似形が描ける」という感じ。
勿論、PTSDの私はまた別の文脈からまとめるならば、まったく違った図形が描けると思いますが。

どうやら私との、共通項、示唆的ななにか、は、「自閉症」にではなく
『自閉症だったわたしへ』と管理人さんの所感と私との間にあるらしい。
最近思うところでは、それは、何かに外界との交流を障害された結果の適応手段の開発のしかたかも?

なんらかの身体的・神経生理学的(?)な理由で外界との直接的な関わりを阻害されていること、
そのために慢性的な不安を抱え、理解されない為に適切な支援が無く孤立無援の切迫感にも苛まれつつ、
しかし逃げ場が無かった為に、これと方針を決めて壁につきあたるまでは全力疾走の繰り返しだった、
というような気も。

発達心理学ではなく、精神分析においては、
環境への反応のしかたとは、自己防衛のしかた、だそうですから。
精神分析医にかかっていた頃にドナさんの書いた『自閉症だったわたしへ』から、
PTSDで防衛仕様の私がその視点から読み取りやすかったのかもしれませんし。などと思ってみたり。
[2001年6月10日 5時55分34秒]

お名前: 一角獣   
味方の有無も運不運。

しかし私があまりにも「人間が嫌い」なので誰も味方になり得ないという気も。
これもどうしてもわからない。
何故そこまでの嫌悪なのか。
人間が非理性の欲求や衝動の詰まった肉塊に見えるのか。

何故、人の表情の動きが生理的負担なのか。
そんなに内面を晒さないでくれ、ということかしら。
リアクションの大きい人、キャラクターの濃い人がダメ。(←殆ど皆濃く見える)
[2001年6月9日 22時59分46秒]

お名前: 一角獣   
「対象依存」であるよりは「場面依存」?

そー言えば、私は出来事というよりも場面として記憶している傾向が強い。
その為にいつまでも「人となり」の印象として統合されにくいようです。
[2001年6月6日 12時35分2秒]

お名前: 一角獣   
互換性が無いのは、表現(言語表象過程であてられる)スケールかもしれませんねぇ。

当人にとっては感じたままで大袈裟なつもりはなくとも傍からは針小棒大と聞こえるケース。
主観に忠実。しかし間主観性の不足? 語彙の獲得過程に原因? それともやはり感受性そのものの問題?

当人が瑣末なこと「それだけのこと」扱いでも傍からは病的な感情の平板化と聞こえるケース。
第三者感。 認識処理過程に原因? 

私は後者でしょうな。もっとも通常は言わないから気づかれないけど。で、やはり病的だけど。
[2001年6月6日 9時35分35秒]

お名前: 一角獣   
対象って何かな。

私にとっての対象とは何か、は分っているけれど。唯一の他者。唯一の鏡。
[2001年6月5日 23時46分47秒]

お名前: 一角獣   
不快刺激が強すぎた結果、装備としての側面が強くなったのかな。

彼女が「人との関係」というのもマトリックス=彼女にとって安定した環境の一翼を担うモノ、
という程度の意味なのでしょうか。
[2001年6月5日 12時0分41秒]

お名前: 一角獣   
不快刺激からの逃避と快刺激への没入や物の秩序へのこだわり。その優先順位。
ドナさんの場合はどうなんでしょうねぇ?というのが以前からの多少の疑問。
基本的に、自閉症の場合の一次的な問題は「快」刺激の方だと私の理解はあるのですが。

『自閉症だったわたしへ』エピローグの「わたしの世界」のことばの紹介の部分を読むと。

”....「世の中」からの侵入を防ぐための装備を、自分で施そうとしているのだ。”

この本を書いた当時の彼女は精神分析に馴染んでいたようだから、
反応の仕方=自己防御の仕方、という精神分析的視点で自己分析をしているのかもしれませんが。

象徴的行為として「紙を破くこと」の説明も。

”....また逆に、人と別れなければならない時にも、よく紙を破いた。
 別れによって心の中に穴が開いてしまわないよう、紙を自分とその人との関係に見立てて、
 先に自分から破くのだ。”

この部分を、「自閉症のドナさん」の行為として納得することに私はちょっと悩んでいる。
[2001年6月5日 11時16分26秒]

お名前: 一角獣   
さらに続き。

”ロバート・J・リフトンは、トラウマ後の統合という問題に本腰を入れて取り組んだが、
 愛の対象喪失への反応よりもむしろ死との直面に焦点をあてた。
 彼の理解によれば「死はすべての人にとって統合の試金石になる」からである。
 「瀕死の人の近親者と主治医たちは、連続、断絶、自己成就、崩壊という問題が提起されている
 総体的心理的布置の役割を分担している。」
 「不条理な」死との直面を際立たせることになる大量破壊によって、
 リフトンは生存者たちについて次のように理解するようになった。
 彼らは「人生を再吟味」しようとするが、
 「心的麻痺、脱象徴化、変形」(または「分散化」)のために、
 そしてまた「偽の悲しみ」への疑念によって
 親密な感情が回復できないために、その試みは挫折すると。

 事実上、リフトンの観察結果はこれまでに述べた見解、
 つまり老齢の生存者に目立ってくる困難は、
 トラウマ後の自己治癒や精神内部の損傷を克服しようとする試みにおける
 主要な困難の範例と考えられるのではないかという見解と、一致する。”

”喪の作業、そして、あるいは、人生の統合を成功裏に完遂すると、
 人は対象喪失を含め人生のすべてを自分のものと認知し得る地点へと到達する。
 この状態は、われわれが普通の生活において
 対象表象を外在化による抑圧という形態において維持していることを、
 つまり対象の心的表象を自己という状態で維持しているということを
 発見する機会を与えてくれる。”

”例外的ケースにおいてだが、
 もし彼らが損傷を受けた機能を発達または再生させる文学的・芸術的才能に特に恵まれていたら、  
 治療が可能だった。
 このことはわれわれが、激しくまたは早期に(幼児)トラウマを受けた人に対して、
 彼らが精神分析療法を受ける前にしなければならないことである。
 これらの例外的な人は、トラウマ後の問題から回復し、相当程度、自己治療を行うことができる。”

引用終わり。

≪普通の生活をしている人≫は、そういうことをたまたま「発見」するのですね…
「事実上」どの程度「見解が一致」しているのか不可解ながら、
私はこの章を執筆したクリスタル氏よりも、別章を担当したリフトン氏を支持。
つまりクリスタルの持論のうち、私が「?」に感じた部分は引用から外しています。
[2001年6月4日 11時26分36秒]

お名前: 一角獣   
引き続き『トラウマへの探究』 第4章 トラウマと加齢―30年の追跡調査 よりメモ。

「様々なものを失ってゆく老齢期に達すると、自分の過去と否応なく向き合わねばならない。
 こうした事態の展開によって、
 人は自分自身と自らの過去を受容するか、怒って否定し続けるかを、決定することになる。
 換言すれば、エリク・エリクソンが言うように、選択は、統合か絶望である。
 しかし、統合とはつまり、「唯一のライフサイクルと唯一の歴史のある時期の偶然の巡り合わせ」に、
 不本意ながら同意し受容しなければならないということである。
 エリクソンはさらに、統合を達成するためには、
 人は「自分自身のライフサイクルに重要な意味を持つようになった人々を、そうなるべくしてなったものとして
 受容しなければならない。またそれは必然的に、代替のきかないものである」と説明している。
 この仕事はまた、まさしくあらゆる精神分析による心理療法の目的と本質を表していると言えるだろう。

 精神分析の仕事の核心は、次の二点に集約することができる。
 1)意識的に認知された自己表象と対象表象の拡大。
 2)人生を構成するあらゆる出来事の不可避性と必然性を、充分にいわれのあるものとして受け入れること。

 老齢を受け入れることへの挑戦と、精神分析の仕事の到達点は、同じであると言えよう。
 つまりこれまで起こったことを認め、喜んで受け入れ、それについて怒り続けるのをやめるということである。
 しかしこの仕事に関して、トラウマ後状態に対する心理療法には、特殊で困難な状況がある。

 ホロコースト生存者にとって彼らの身に降りかかったことが、もっともな理由によって正当化されるのを受け入れるのは、
 ヒトラーとナチズムと、彼らが経験した信じがたい出来事も、充分いわれのあることとして受け入れることであるが、
 そのような受容は、虐待への屈従の記憶とあまりにも緊密に結びついている。
 自己と和解する過程は、それが過去の無力感と恥辱を想起させる経験である時、不可能となる。
 それゆえに多くの生存者は、この自己治癒を、ヒトラーに死後の勝利を与えるものと感じ、
 したがって憤慨して拒絶するだろう。
 彼らにとって自己統合は、生き残った唯一の正当性、つまり
 ホロコーストの極悪非道に対する怒りに満ちた証言者とならなければならないという
 唯一の正当性とは、正反対のものに思われるからである。

 そのうえ、全能感や完全の探究、また理想的良心を持つ権利などの幼児期の願望を断念すること、
 あるいはこうした激しい憤怒や復讐の感情などの自己の否定的な面を受容するには、
 喪の作業を効果的に行う能力が必要である。
 しかし服喪には、成人のタイプの感情が備わっていなければならないが、
 それこそが、アレキシシミアの患者に欠けているものなのである。
 加えてアレキシシミアに特徴的な「操作的思考」は、象徴化や精密な転移、
 また変容へと昇華達成への能力をさらに損傷させる。
 最後に、喪のプロセスを雪だるま式に拡大して抑鬱状態に陥ることなく実行するためには、
 高い感情耐性が必要である。

 ....ホロコースト生存者に共通してみられることであるが、
 アレキシシミアや感情耐性の損傷が比較的少ない場合でさえ、
 一人の人間が悲嘆を通じて吸収し、過去の統合と穏やかな受容を達成できる程度には、
 限界がある。
 悲嘆を通じてどの程度断念できるかには、絶対的な限界があるようだ。限界は二重である。
 まず一人の人間が一時に悲しむことができるのは、限られたわずかのことであるということである。
 二つめは、一人の人間が喪失や自分自身の否定的な特質を受容するのに際し、
 生涯を通じての限界が紛れもなく存在するということである。
 喪を通じて対処可能なことの限界には、質と量双方の要素が存在している。」
    
[2001年6月4日 11時12分35秒]

お名前: 一角獣   
「....ある社会学者によって最近発表された研究によれば、
 ホロコースト生存者母集団は、適度な家族生活、
 犯罪歴(のないこと)、適応性に対するその他の社会的基準に照らしてみて、
 一般的アメリカ人の平均よりかなり上である。
 ....われわれの見るところでは、正常に生活を営める生存者というものは、
 彼らが非常に多くの苦痛と共存して生きていくことを学んだ、と考えると
 最もよく理解することができる。」

(『トラウマへの探究』 第4章 トラウマと加齢―30年の追跡調査 )
[2001年6月4日 11時7分57秒]

お名前: 一角獣   
鏡に関心が無かったら? 

「彼ら」にも私に対する発言権が無い。
[2001年6月3日 21時54分36秒]

お名前: 一角獣   
「メルロ=ポンティは『見えるものと見えないもの』のなかで、
 他者の眼のもとに私たちをさらし出す遍在視の、あらゆる眼差しに対する優位を明らかにしている。  
 私は、私が見ているように人々が見ているのを見る。彼らは、彼らが見るように私が見るのを見る。
 こうした複数の私的世界は、どんな実定性も先行する前ー客観的な一つの共通世界のヴァリアントとして
 相互に交渉をもつ。

 ラカンは次のように言葉をつなぐ。
 「私は一点からしか見ることはできません。
  しかし私は、私の実存においていたるところから眺められているのです。」

「鏡を前にして、個人的で反射=反省的な同一化という、複雑で問題含みの、終わりのないプロセスを、
 それに附随する疎外も含めて引き受けるのは、人間のみなのである。
 ....客観的な鏡なるものは、客観的な写真が存在しない以上に存在しない。
 ....とりわけ鏡が視覚化するのは、人とその人自身のイマージュとの実存的関係、
 存在と仮象、客観性と主観性、真実と幻想、内密なものと集団的なもの等々の二極のあいだを、
 不安定に揺れ動く関係である。」

「要するに、鏡に向かうとき私は、二つの焦点化のあいだで、
 すなわち自己受容感覚に基づくインデックス的連続性という態勢と、
 自己を疎外するイコン的不連続性という態勢とのあいだで揺れうごくのだ。
 ....このように鏡は、私を自己同一化の中間的状態へと導く。
 ラカンは「鏡像的私から社会的私への転換」という言い方をしている。
 この転換はまた、他者の欲望を媒介にすることで、最終的には文化を介して生じるものである。

 ただ、鏡の前では私はまだ、この二つの態勢のうちどちらか、つまり、
 一次的ナルシシスムと二次的ナルシシスムのどちらかを選択するように命じられてはいない。
 ....「私を見る私」を一人称で綴るか、三人称で綴るかという選択について私は好きなだけ
 その決定を引き延ばすことができるのである。
 それゆえ、私たちは、鏡による自己視を、まさに精神分析家ウィニコットがいう意味における移行現象として
 性格づけることができよう。

 さて、人間はもともと投げ出されてある存在で、また未熟さをその構成要素としているが、
 このことから直接帰結するのは、その他者性が自己受容感覚に対して優位に立つということ、
 他者性こそが自己受容感覚に情報を提供し、形を与えるということである。
 ....鏡像は、私の根本的な未分化状態から私を引き離すことなく、私の自己同一性を先取りする幻影を私に提示するのだ。
 ....私たちは決してこの鏡のなかの分身の主人なのではない。
 この分身は、私たちのうちにある根本的にずらされた「他者」を表象するものであり、
 実際、自律的で制御できない、迫害的でパラノイア的な存在になることもある。」

「....鏡が私たちに教えてくれる人間固有のものとは、まさに人間の本質を構成する非固有性、
 決して自己と同一ではないということなのである。
 つまり、まさしく鏡に特殊的なのは、
 見ること見られること、あるいは対自と対他が重なり合うことはできないということであり、
 人はこの不可能性となんとかつき合っていかざるをえない。
 そしてこの存在論的な不可能性こそが私たちを分裂した主体に仕立て上げるのである。
 人間存在は反対の二方向への読み方に如何ともしがたくさらされた回文のようなものでしかない―
 この二つの方向がまさに鏡の中で相互に干渉し合うのだ。

(『不実なる鏡 絵画・ラカン・精神病』M・テヴォ-著 からメモ)
[2001年6月3日 21時43分45秒]

お名前: 一角獣   
考えていることと実行せざるを得ないことの間には天と地ほどの差があるだろう。
社会的には廃人となることを覚悟しなくては治療の緒につくことすらできなかった。
その私の基準が通用することはありえないので私には実質的に発言権というものが無い。
だから引用に終始する。
そしておそらく引用元の人間でさえ私の解釈の仕方は予測の範囲外でしょう。
[2001年6月3日 21時7分56秒]

お名前: 一角獣   
「人格は人間の芸術作品である。
 素質を持った人間が思い思いに作り上げた創造物である。
 それは素晴らしく、駄目で、未完成で、不完全であるが。」

これはジャネが言ったことだそうです。ジャネっていいヤツじゃン。と思った私。
[2001年6月3日 7時4分15秒]

お名前: 一角獣   
精度を下げているのは「意識的にかどうかわからない」、それがPTSD的、というのは、
自分が壊れない為、恐怖を伝達する神経の束になってしまわない為の、安全装置という意味ですね。
しかし警戒対象が人間であると分っているのは「意識」レベルと思うべきなのかなぁ。
[2001年6月2日 13時27分41秒]

お名前: 一角獣   
どうしても明るい話になりようのないPTSDの私で申し訳ないです。
私もまた何故か怒りの感情は一般より希薄なようだが、何かの拍子に瞬間的な激しい憎悪があります。
これが無かったら恐怖の問題があっても「うつ病」で自らを納得させて薬物療法しているかもしれません。

しかしターゲットは鬱ではない。鬱は私の当たり前。
薬を勧めようとする医師と「鬱は辛くないんですか?」「何故?」という問答をしているのは
やはりヘンかな、と言った後に思ったけれど、せっかく最近になって病識を持てたことですし。
鬱だけ軽くなると危ないような気もするし。

そういえば。薬はかつて何種類か試したものの全く薬効が感じられず、
薬効を感じたものは何に効いたのかわからないくらい「みしっ!」という感じになった。
それだけ身体的につらければ確かに精神的なつらさは意識する余裕ないケド…。
それはそれで破滅に向けてストレス溜まる。PTSDに無力感は禁物。
[2001年6月2日 2時3分8秒]

お名前: 一角獣   
こういう視点で見ると確かに私は「PTSD」かもしれない。と思います。

つまり「意識的に」精度を下げている、のかどうかは、確かでないかも。

こうしてみるとやはりつくづく「病的」かも。

しかし私は「PTSD」は
(フロイトの)「神経症」のようななんらかの生きにくい心理的事情の表現としての症状でなく、
どちらかと言えば。機能的損傷、怪我の後遺症ではないか、と捉えている。

実際の臨床場面においては複合状態もあり、そうそうキレイに分けられるものではないだろうが、
私の場合は、治療としての神経症対応はもう要らない。と思われます。しかし治療方法は暗中模索。
[2001年6月1日 18時48分16秒]

お名前: 一角獣   
つまり現実的対処の必要から、生理的感覚の次元に留まっているわけにもいかず、
遡及してヒトの情動や欲求の発生条件とその仕組を類推することも習熟したらしいです。

思い出した。以前に医師に書いたこと。(←忘れるなよ。とまたしても思う…)
私は「眠れる最終兵器」です、と。いくら易刺激性、易傷性があるからといって、
日常レベルの刺激に そのままに反応し続けていたら私が「異常者」になってしまう。
意識的にレーダーの精度を下げているのです。
2度とあってはならないS級アラートにのみ反応するか、麻痺させておく。
だから「眠れる最終兵器」。そして感情抑制か。
しかしレーダーは常に稼動し続けているし、アラート未満の情報の分析や防衛シミュレーションも欠かさない。

攻撃のシミュレーションは無い。最終兵器ですから。

「解離的防衛規制の開発、断片的自己規定の発達、感情状態の病的制御」か。
[2001年6月1日 18時8分23秒]

お名前: 一角獣   
以前にSF的エンパスとまではいかないが、と書いたとおり 
私(註:非・自閉症です)は人の情動や欲求に対して過敏なセンサーを持っている。
これが生来のものなのか「PTSD」のせいなのか、不明ですが、
いずれにしても
しかしそれは「精神分析」のいうところの「共感」ではないであろう。

他人の情動を、あたかもそれに自分の中に入り込まれたかのごとく生々しく感じるが、
その「共感的」理解は、実際には、観察と洞察の結果であるだけで
自分の中にある同様の質のものに照合した結果ではないらしい。
だからいつも「わかる」けれど「わからない」。

ということに気づいたようです。

他人の感情に共鳴、同化しているのではなく異物の侵入と感じている。
そして対処に追われ始める。なるほど。
[2001年6月1日 7時28分4秒]

お名前: 一角獣   
人は何故そこで心理的問題の解決をみるのか。

そこって場所のことでなく、その状況、その地点、その段階、において、という意味です。
つまり何故、そうなった時に、ラクになってしまえたのか。ということですね。補足でした。
[2001年5月31日 17時51分40秒]

お名前: 一角獣   
あら?
↓一部不穏当な表現があるため削除訂正とさせて頂きます。<見当違いな(←ここナシで)
[2001年5月31日 13時22分21秒]

お名前: 一角獣   
つまり私にわからないのは
「人は何故そこで心理的問題の解決をみるのか」ということのようです。

私は自分探しになど行く必要も、それ以前にそんな余裕も無い人間でした。
治療を始めてから医師からは「あなたは確かに他の患者さんと違うんです。」と言われる。
私が見い出したのは自分が居ざるを得ない場所だった。その異質さの内容はまだ明らかでない。

しかし私がこんなことを書いて整理できたのは管理人さんのおかげでしょう。
このようなことを他で書こうものなら、
自ら差別化している、個性を自慢している、という見当違いな反応すらもらってしまいかねません。

私だけが知っていればいいことを何故この場をお借りして文字にしているかと言うと。
私がようやく自覚するに至った病識もその重さも異質さゆえの治療の困難さも、
生活に対処する為に再び事実上御破算にしなくてはならなさそうな脅威に晒されているため。
まあ。証言と言うことですね。自ら忘れない為に。
[2001年5月31日 11時36分33秒]

お名前: 一角獣   
安心とは安心感という感情でしょうか。

実際にはヒトによって安全の保証が100%になることはありえない。
100%でない、ということだけが確かなこと。
そこに捕まっているのがPTSDなのかもしれません。←自らオチ。
[2001年5月31日 10時52分40秒]

お名前: 一角獣   
いつもなんでも「起承」まではともかく「転」で実感として違っていってしまうのです。
何故?(自問)

そして医師も混乱する。いつまでも私の反応パターンを予測できない。

はぁ~~(←邪見並にタメイキ)
[2001年5月31日 10時43分19秒]

お名前: 一角獣   
なるほど。了解です。<「ニンゲンの心的表象に対してではなく、こういうコトバに対して」

私は(とゆーか私こそ?)自覚以上に「人間の感情」というものが分っていないのかもしれない。
壊れてるからなぁ。
[2001年5月31日 10時10分54秒]

お名前: 一角獣   
PTSDではあるが、成人としての社会不適応が「治療目標」になっている人間でない以上、
安定した信頼関係を構築することは、本来の課題に向き直る為のスタートラインに過ぎないのですが。
自分の方にも病識が足りなかったから先方ばかりを責められません。

とにかくまだまだ。
[2001年5月31日 10時3分46秒]

お名前: 一角獣   
投影同一化を投影と同じものとする学者のある一方で、防衛の用だけでなく治療的側面として
投影同一化を捉えてきたらしい論もある。

”投影を受け手が上手に処理して、それを相手に返してやることで、
 投影する側がその処理の仕方に同一化して、自分も心理学的に変化できるということである。
 (怒りの感情を投影しようとして相手を怒らせるような態度をとっても、
  その相手がその怒りの裏にある気持を理解して優しい態度で返してやれば、
  最初の投影者も心理的に生まれ変わるわけだ。)
 これが投影同一化の治療的な側面である。”(『あいだの空間―精神分析の第3主体』)

↑
かなり単純化され、かつヒト臭い情緒的内容(怒りの感情、怒らせるような態度)
を取り扱った具体例の説明ではありますが、
「怒り」が「不信」でも「意思の疎通の断念」でも「共感的理解の不可能」でもいいんだろう。
要は現実に起こり得ること体験し得ることの可能性の問題で一度でも体験すれば確率は上がるから。
「心理学的な変化」が「主観的な認識の変化」でもいいのだから。←それって「現象学的」には同じことかも。

しかし通常は「怒りの感情の投影」「怒らせるような態度」も無く、
「断念」「不可能」の投影もしないように前向きな努力を積んでいるはずなのに
私はいまだに診察室でも「何故私のことがわからないの?」と感じることの多い日々。
当然先方も生身の人間である以上、無意識にこちらに投影しているなにかがあるのです。
「治療パターン」とか。あるいはまた別の「ヒトイメージ」とか。
[2001年5月31日 9時39分39秒]

お名前: 一角獣   
素朴な疑問。

過去においては実在しなかった重要な人物を診察室等に見い出して良い意味で驚くことに感情転移の側面はないのだろうか。
超自我の形成に両親のコトバに符合する要素が顕著である場合にそれは内在化された他者ではないのだろうか。
[2001年5月31日 9時18分21秒]

お名前: 一角獣   
パソコンが無かったら頭の整理作業もはかどらなかったかもしれない。
文字という視覚情報で思考を組織するにしても、キー入力は格段に効率的だし。
そして私の自我意識の連続性はアタマの中ではなくMOディスクの中にある。

なにかあると部分的に記憶が空白になりやすいのです。
(←解離性健忘の度合いが極端。と言うより「柔軟な心的図式」が無いので認識ごと欠落すると言うべきか。)
ということを過去に経験して懲りている。それで記憶媒体はディスクに頼っているわけです。

そーいえば。
前出の『意識のなぞ』連載にこんな記述が。

”意識の科学は、今、「認知科学革命」とでも言うべき局面を迎えている。
 多くの脳科学者が、認知過程の中枢である、前頭葉の研究に活動の中心を移し始めている。
 意識の本質は個々の情報処理能力にあるのではなく、
 それらを「私」という枠組みの中に統合する認知過程にあることが明らかになりつつある。
 コンピュータで言えば、計算処理速度や個々のプログラムの能力が問題になるのではなく、
 それらを統合するオペレーティング・システムが問題になるということになる。 ”

OSの違いが問題だったのかしら。
[2001年5月31日 8時8分50秒]

お名前: 一角獣   
あ。下の訂正。正しくは誠信書房です。
[2001年5月30日 8時57分57秒]

お名前: 一角獣   
最後に『カウンセリングの理論』(國分康孝著 誠真書房)から、ロジャーズ理論の問題点について引用シマス。

 ”ロジャーズ理論は診断を必要としない。それはあらゆる病理現象の原因がひとつであると考えるからである。
 原因がひとつであるということは対策もひとつであるということである。診断(問題の分類)して、それに応じて
 対策が違ってくるのなら診断の意味もある。しかし、対策に変わりがないのなら、診断は無駄である。
 以上は私の考えであるが、ロジェリアンはちがう理屈から診断を排除している。
 診断は外的枠組(診断者の考え方、色眼鏡)で捉えたクライエントにすぎぬ、
 それは真に相手を理解したことにならない。それゆえに診断は無意味だと言うのである。
 
 折衷主義に立つ私は、ロジャーズ理論の限界は、問題行動の各論に応用するときに生じると思う。
 ロジャーズ理論では、諸悪の根源は自己不一致なのである。
 神経症も非行も学業不振も自殺も暴走族も集団万引きもすべて、
 「あるがままの自分」と「かくありたい自分、思い込みの自分」とのギャップであると考える。
 それゆえ、このギャップを縮小すればよいという結論になる。
 来談者中心療法は万能薬だということになる。
 しかし、私は万能薬ではないと思っている。万能薬かどうかは使ってみればわかる。
 一番わかりやすい例が自閉症児である。
 これについては説がさまざまであるが、今日のところ非指示的・来談者中心どころか、
 その逆の方法がむしろ顕著な効果を挙げているようである。

 ロジャーズ理論は教義ではない。新事実に即して理論や技術を修正していくのでなければならない。
 にもかかわらず、この理論が教義のごとく信奉されたことはやはり、功罪の罪の方になると私は思っている。

 第2の罪として、現象学的見地の限界を挙げたい。
 現象学では環境はそのままでも、受け取り方が変われば、行動が変わると考える。
 ところがこの考え方は、環境への働きかけを軽視する危険性がある。
 一時的に休学させるとか転校させるとか環境を調整した方が問題解決しやすい時えも、
 現象学では、当人の内的心理状態(認知の世界)の変容に固執しがちである。
 非能率的な心理療法ということになる。
 現象学にはまだ、こんな危険性もある。
 環境(体制)を変えたくない権威者が、カウンセラーを採用して、環境への受け止め方を
 変容させることによって、体制維持をはかるかもしれない。
 つまりよくない環境に個人を我慢させる方便として、カウンセリングを悪用する場合がないとはいえない。
 折衷主義の立場から言えば、現象学に立ちつつも、
 ソーシャルワークのような現実的、環境的アプローチや、心理テストのような客観的アプローチの効用を認め、
 しかもそういう方法をも包括統合する来談者中心療法であってほしいのである。

 第3に、ロジャーズ理論の実践段階における受身性にふれたい。
 ロジャーズ理論そのものには受身性はない。私はそう思っている。
 にもかかわらず、普及したロジャーズ方式は受身性をそのトレードマークにしているように思う。
 ロジャーズ方式は説得療法ではない。しかし説得的でないということは受身的であることではない。
 それが誤解されたまま普及したのではないだろうか。

 第4に、技術上の問題として抵抗と感情転移を挙げておきたい。
 精神分析ではこの2つの概念は治療法の中心になっている。
 ところがロジャーズ理論では無視されている。しかし私が思うに、
 ロジャーズ的面接法でも抵抗は起こるし(例:料金ばかりとられて治らない場合)、
 感情転移も起こりうる。
 治療的リレーションを妨げるこれら雑物を除去するすべをロジェリアンも知っておくとよいと思う。

 最後に、これはロジャーズ派だけの問題ではないが、極端なプロフェッショナリズムと極端なパーソナル・セルフの問題である。”

引用終わり。
私個人的には、ロジャーズ理論は治療ではなく、悩める健常者や軽度の神経症にしか通用しないのでは?
と思ってしまうのですが。
好意的に接すれば簡単に「リレーション」が成立することが「治療」の前提なのだから。
[2001年5月30日 8時55分36秒]

お名前: 一角獣   
 下の投稿から続きます。
『カウンセリングの理論』からロジャーズの自己理論の来談者中心療法について。

”(自己不一致を自己一致に至らしめることが目標の面接である)来談者中心療法も3段階の変転を重ねてきた。
 そして、それぞれの方法が今でも使えると私は思っている。
 第1の方法は、1940年代のものである。例の、受容・繰り返し・明確化・支持・リードという技法を用いた洞察療法である。
 洞察の内容は、今まで気づかなかった「あるがままの自分」に気づくことである。
 第2段階は、1950年代で、ここでは技法よりもカウンセラーの態度が重視された。
 クライエントの枠組みでカウンセラーが一緒に考え、一緒に感じようとする態度、これが治療の不可欠条件だというのである。
 「共感的理解」とか「無条件の好意の念」がそれである。
 第3段階は1960年以降で、ロジャーズがきわめて実存主義的になってからである。
 クライエント・センタード(来談者中心)ではなく、パーソン・センタード(人間中心)にシフトしてきたのである。
 ....お互いができる限りホンネに忠実になり合う、こういう体験が人を癒すのだと考える。いわゆるエンカウンターの重視である。

 この3段階を通じて不変のものがある。それはリレーションである。
 カウンセラーとクライエントに相互に防御のないリレーションがある。
 リレーションが人を癒すと考えたところに来談者中心療法のエッセンスがあると思う。
 ではリレーションはいかにして人を癒すのか。

 自己概念をつきくずすような恐怖を与えないこと―これが自己概念変容の条件である。
 恐怖を与えないとは、この人(カウンセラー)は自分の味方である、自分の世界をそっくりそのまま受け入れてくれる人である、
 自分をとがめない人である、と思うような人間関係(リレーション)を体験させることである。
 このリレーションがありさえすれば、クライエントは自分から自己概念を変えるのである。”
[2001年5月30日 8時10分48秒]

お名前: 一角獣   
『カウンセリングの理論』から再び引用します。
一般には、カウンセリングを希望する「悩めるヒト」がイメージするのはコレであろうと思われる、
方法として許容性・受容性を強調するロジャーズの理論に関する部分。
まずおおよその紹介になると思われる部分を引用し、問題点についても引用シマス。

 ”ロジャーズの来談者中心療法は、精神分析より40年遅れて誕生したが、普及率は精神分析をしのぐものがあった。
 理由の第1は、ロジャーズが非医師であり、非医者でも心理療法・カウンセリングの実施が可能であることを示したことを挙げたい。
 第2は、その理論が単純化されているので、心理学専攻以外の人間でも比較的学習しやすいかったことが挙げられる。
 しかも初心者でも、精神分析の初心者ほどには、心的損傷を与える可能性が少なかった。それは、
 解釈のような推論に基づく斬り込みが少ないからである。
 第3に、精神分析よりは面接回数が少ないことも普及しやすかった理由になると思う。
 第4に、カウンセラーが相手を患者と見ないで、客(クライエント)と見るヨコの人間関係、
 これが民主主義の思想にアピールしたのだと思う。
 第5に、よくなる力が人間に内在しているという人間への信頼感は、特にアメリカ楽天主義にアピールしたのではないかと想像される。
 第6に、キリスト教文化で罪や罰の意識に苦しんだ人たちは、ロジャーズの世界には審判がないので、
 救われる思いがしたのではないかと思われる。

 ....人間は本来、自己実現の傾向がある。よくなる力が内在しているといったが、憎悪とか反抗とか
 意地悪といった現象はどう説明するのか。これは自己防衛の結果なのである。
 自己防衛は後天的である。次に述べるセルフの作用である。

 ....フラストレーションがあるから自分というものを感じるのである。自意識が出てくるのである。
 この自意識のことをセルフと言う。通俗的に言えば、「私が…」とか「私の…」という場合の「私」をセルフという。

 ロジャーズは自分が自分をどう評価しているか、が人間の行動を規定すると考えたのである。
 自分が自分にどんなイメージをもっているか、....この自己イメージのことを自己概念といっている。
 そして有機体(先天的)と自己概念(後天的)が不即不離の状態が理想的なのである。”

 ”ロジャーズの考えは基本的には現象学に立っている。
 目で見える客観的な世界がわれわれを動かしているわけではない。目で見える世界をどう受け取るか、 
 その受け取り方がわれわれの行動の源泉になる。
 ....客観的世界はひとつしかないが、それをどう受け止めるかという現象学的世界は人間の数だけある。
 
 自己概念の形成は後天的である。....後天的に他者からの評価を取り入れて作ったのが自己概念である。
 評価する人間にコンプレックスがあって、評価そのものが歪んでいる場合、
 評価された人間は歪んだ自己概念を形成し持続することになる。
 一度形成された自己概念はそれを壊されまいとする傾向がある。自己概念が変わるのは不安なことだからである。
 自己イメージが無くなると、自分が何ものかつかめない不安に陥るからである。
 ....今までの自己概念を守りつづけようとする。自己防衛である。
 精神分析の自己防衛は14くらい挙げたが、自己理論では2つである。歪曲と否認である。
 ....ポジティブな自己概念でもネガティブな自己概念でも、一度形成されるとなかなか変わらないものである。
 それをどうして変えさせるか、ロジャーズの来談者中心療法はそれに答えるものである。”

 ”自己概念を変える場合の原則は、自己一致するように変えることである。
 自己一致とは事実に即した自己概念を持つことである。
 ....事実に基づかない自己概念は絵に描いた餅であり単なる願望に過ぎない。思い込みに過ぎない。
 思い込みの自分を粉砕して、事実を直視せねばならぬ。主観と客観が一致せねばならぬ。これが自己一致である。
 精神分析的に言えばナーシシズムの崩壊である。

 ではなぜ人は自己一致になれず、自己不一致に陥りがちなのか。
 ひとことで言えば「ねばならぬ」にとらわれているからである。他者から教わった価値観をあたかも金科玉条のごとく
 疑いもなく信じこんでいるということである。
 それらの価値観に反する感情体験は、...意識の外に追いやるのである。
 「性はよくないものである」という価値観があるがゆえに、性欲を体験している自分を見まいとして、
 「自分は聖なる人間である」という思い込みの自分を、あるがままの自分だと誤解するのである。
 そして内心、この自己概念(自分は聖なる人間である)が、あるがままの自分(自分は性的人間である)によって 
 粉砕されるのではないかという絶えざる不安・緊張をもつことになる。
 だから初めから、あるがままの自分を容認し、「自分は性的人間であるが、絶えず聖的であろうとしている人間である」
 という自己概念にした方が、事実に即しているし、自己概念が粉砕される不安もない。

 「ねばならぬ」は文化人類学の教えるとおり、その大部分が相対的である。
 時代によって変遷し、地域によって変貌するものである。絶対の真理であるかのごとく固執するのはおかしいのである。 
 価値観は絶えず変容のプロセスにあるのである。”
[2001年5月30日 8時6分10秒]

お名前: ペンギン   
下の「防御の仕方」のリストを読んで感じたこと。

ニンゲンって、私が思っているよりずっと"なまぐさい"みたい。
[2001年5月29日 23時48分18秒]

お名前: 一角獣   
あら。改行を間違いました。
「抑圧は強迫的であるが、抑制はそうではない。したがって抑制の方が抑圧より健全である。」が見づらい。

同じく『カウンセリングの理論』から「精神分析の問題点」の部分を引用。

 ”フロイトの基本的発想は、実証的であり自然科学的である。
 しかし具体的な研究法は事例研究法であり、内省的であり、観察法である。
 今日の心理学のように実験法でもないし、実態調査法でもないし、フィールド・スタディでもない。
 つまりデータが限られているし、データの処理法も統計的ではない。
 そこでサンプルに片寄りもあるし、測定法に精密さを欠くという問題がある。   
 したがって、理論といってもどの程度事実に基づいているのか、どの程度推論なのかという曖昧さがある。

 第2に、また精神分析には概念がたくさんあるので理論全体の構成が複雑である。
 しかも概念の中には、実際上(臨床上)あまり使用されていないものもある。(例:死の本能)

 第3に、理論が複雑ということは、習得するのに時間がかかるということにもなるし、
 解釈に多様性が出てくる(分析者によって言うことが違ってくる)ことにもなる。
 また簡単に利用できない(例:ロジャーズ理論は単純だから使いやすい)という問題がある。
 初心者が下手に使うと(例:解釈の濫用)心的外傷を与えることもある。
 精神分析は本来神経症の治療理論・治療法として誕生したのであるから、それをそのまま
 神経症以外の分野にあてはめることはできない。
 たとえば、カウンセリングでは自由連想や夢を語ることは稀である。
 さらに、進路相談、結婚相談、学業相談となると、本来の精神分析療法とはかなり場面が違ってくる。
 そこで、精神分析の方法を技術的にどうモディファイするかが問題である。

 第4の問題として、精神分析の権威主義が挙げられよう。これは特にフロムが指摘するとおりである。(『フロイトの使命』)...

 最後に、精神分析は社会学的・文化人類学的観点が弱い。
 家庭生活が性格形成にどう影響しているかに焦点を合わせ過ぎている。
 なぜその家庭がそうなったのかについて、家庭をとりまく社会・文化にまで
 究明の鉾を向けなければならないであろう。
 精神分析は、基本的には個人心理学である。
 ....今後は、精神分析の中に社会学や文化人類学などマクロ的見地が導入されなければならない。”

この本は1980年初版ですが、版を重ねて私の見ているのは1999年発行の第27刷でした。
[2001年5月29日 21時22分52秒]

お名前: 一角獣   
『カウンセリングの理論』 國分康孝著 誠信書房 より部分的に引用してミマス。

”....防御の仕方として精神分析ではどんなものがあるか。

 �抑圧 外界からの非難・嘲笑・拒否を恐れて、無意識裡に、欲求の表出、充足を我慢すること。「よい子」の特徴。

 �抑制 損得勘定を考えて、あるいは状況を勘案して、意識的に欲求の表出・充足を我慢すること。   抑圧は強迫的であるが、抑制はそうではない。したがって抑制の方が抑圧より健全である。

 �昇華 現実原則の容認するかたちで、欲求を発散すること。

 �合理化 自分の欠点を認めるのが苦痛なので、それを正当化して自他を納得させること。
      (例:憎悪の自分を認めたくないので、愛するが故に叩いたのだと言う。)

 �感情転移 ある特定の人に向けるべき感情を、類似の人に向けること。
 
  �置き換え 坊主憎けりゃ袈裟まで憎いの心理。あるいは、理科教師に好意をもつ生徒が理科を好きになる心理。

 �知性化 感情を生々しく表現するのが恐いので、抽象化して表現すること。
      (例:君なんか大嫌いだと言わずに、君に対して抵抗を感ずると言う。)

 �退行 現状が苦しいので幼少期に戻って快楽原則に浸りたい心理。

 �逃避 現状が苦しいので他のものに心的エネルギーを出して、現状の苦しさを回避すること。

 �同一化 自分ひとりでは不安なので、自分以外のものと自分とが融合した自他一体感を持とうとすること。

 �摂取 自分の中に自分以外のものを取り入れて心の安定をはかること。
     (例:千恵子の好きだった彫刻を懐に入れていた高村光太郎。彼は妻を心の中に取り入れて淋しさを克服した。)

 �投影  自分の欠点を正視するのに耐えられないので、自分以外のものに責任転嫁する心理。
      (例:ボールを内損じた人がラケットを叩く心理。
         ケチな自分を認めたくない人が、他人を見て、彼はケチだと非難する。)

 �反動形成 自分の弱さを人に知られたくないし自分も認めたくないので、
       それを克服すべく他の極端に走ること。
       (例:弱い犬ほどよく吠える。劣等感のある人ほど威張る。)

 �補償 劣等感情を克服する方法。
     直接補償(例:結婚して、未婚の劣等感を消す)と、
     間接補償(例:専門職につくことによって人種的劣等感を乗り越える)がある。
     いずれも建設的な防衛機制。”
[2001年5月29日 21時3分16秒]

お名前: 一角獣   
「普遍的な価値」なるものが存在するかどうかでなく、主体として求める過程に意味がある。
目的=手段=思想=行為=存在=自己 という在り方? ←だから危ない。

ヒトは通常、気づかないまま外界に内面を投影して葛藤を代替(外在化?)させて
内面の負担を実は軽くしているように私には思えるのだけど、それに比して
私は外界に直接働きかけるよりは内面に振り替えてそこで沈静、消化しようとしてしまう。
だからダム。浄化槽?←無理がある。
そもそも私(←非・自閉症、PTSD)にとっての「人間」「外界」が安全でも平和でも無いのだから。

象徴的な二分対立が凝縮された四魂の玉を思い出しますな~。(←飛躍)
しかし四魂の玉がかけらになって散らばったら、邪の側にばかり力として働くのね。
仮に人間の手に渡っても妖怪に奪われてしまうのか。珊瑚ちゃんの里のように。
[2001年5月29日 20時30分10秒]

お名前: 一角獣   
私は水平方向の負担を減らして、ダムの底にあるものを突き止めようと思ったわけです。
長年「社会生活」に追われて保留にされてきた私だけの課題だった。
その過程で「生活」を振り捨ててしまいました。
ずっとその形骸を維持することに疲弊し続けてきたにも関わらず、結局は、手許に何も残っていない。
私的領域では人並みの経験内容の成育過程も無い。
無理をして維持した仕事も家庭も身体的健康も無くしたが結局は必然でしょう。
元の問題をなんとかすべきだった。

元々が、ある種の芸術家のように人との連関でなく物事との連関において世界を捉え
普遍的な価値を求める生っていいなぁ、と思いつつ、そちらにも行けなかったなぁ。
不特定多数の他人と想像で世界を共有して安定していられる出来でない以上、
固有の創造的な作業が必要なのですね。つまり昇華ってヤツかも?
[2001年5月29日 18時31分2秒]

お名前: 一角獣   
「精神分析」の言うところも鵜呑みにはできませんが、
ヒトの仕組は「投影」「同一化」のような語の説明で納得できるところが大きい。
と思う私。
しかしそれらの語の示す内容はおそらく「自閉症」と最も疎遠な領域であるかもしれない。

ちなみにシェママの『精神分析事典』によると「投影」とは

 主体が、思考、情動、着想、欲望などを、それと同定することなく、外界に位置付ける操作。
 したがって主体はそれらが、外部に、客観的に世界の一つの様相として存在していると信じている。
 より狭義には、投影は、主体が個人として受け入れることができない欲動を、外へ棄却したり、
 他人に限局したりする操作を構成する。
 そのことにより、主体は自分自身で欲動に気づかないでいることができる。
 投影は、”取り入れ”とは違って、本質的に想像的な操作である。
[2001年5月29日 18時13分50秒]

お名前: 一角獣   
同『現象学の視線』より 続けて引用。

 ”....世界はまず「わたしの世界」として構成され、そのあとに他者との交通のなかで間主観的な妥当性を
 手に入れるのではない。
 世界は自他の人称的関係の成立とともに、はじめから間主観的に妥当するものとしてのみ
 構成される。
 そして、このような匿名性の次元における世界の共同的な構成作業に参与していること、
 その意味で経験が他者に対していつも開かれていることが≪自然な自明性≫にとって
 本質的なことがらなのである。
 従ってまた経験がいつも自他のパースペクティヴな交錯のなかにあって多義的な意味を帯びており、
 その意味でいつも未決の部分を残していることが、
 ≪自然な自明性≫がいつも不確定の部分を内蔵していることの理由にもなっている。

 ....しかし、出来事としての経験が、
 「わたしの」という意味規定のうちに収束されていくプロセスそのものにかかわるような
 無名の共同的な働きに≪自然な自明性≫がその根を持つからといって、
 経験が生起する超越論的な場所の複数性が解消するわけではない。
 たしかに、「わたしの」という経験の我有化が自他の相互性を構造的に含み、
 それゆえいつも同時に脱我有化としてのみ現象することが、経験に間主観的な妥当性を与えているとしても、
 経験がそこにまとめられるこの「わたし」の場所は他者のそれとどこまでも交換ができないものである。
 しかし逆に、経験の意味づけが複数のパースペクティヴのなかで多中心的になされること、
 世界の構成が多極的に分岐していることが、われわれがそこに棲みつく世界に安定した相貌を与え、
 自明性の間主観的な構成を促す、という点も見逃されてはならない。
 つまり<隙き間>、裂け目を内蔵していることが≪自然な自明性≫の成立を可能にしていたように、
 ここでも、自他の架橋不可能な断絶こそが自明性に間主観的な<自然さ>をもたらしているという
 パラドキシカルな事態が見い出されるのだ...。”
[2001年5月29日 12時40分28秒]

お名前: 一角獣   
『現象学の視線』(鷲田清一著 講談社)から引用。

 ”....どのような内容をもった自明性が安定した日常性を形成するのかと問うてはならない。
 「非自明性は人間の世界内存在にとって自明性よりも『より少なく』構成的なのではなくて、
 単に自明性とは異なった仕方で構成的である。」と言えるからだ。
 だから重要なのは両者の関係性であり、この関係性がどのような場合に「均衡」を維持し、
 どのような場合に「破綻」をきたすのかということである。

 ...「自明性の喪失それ事体は病的なものではなく、全体としての現存在を統合する契機の一つである」...
 同じことはビンスヴァンガ-が「失敗した現存在の三形式」として取り出した
 <現実遊離>、<常軌逸脱>、<演出過剰>についても言える。

 ....自分で[自分から]何かができるという「ふつう」の状態、
 つまり行動の動機づけの根拠とその決定中枢を自分のうちにもっているような生の体制、
 それをブランケンブルクは「自立」と名づける。

 ....ブランケンブルクによれは、「自立性は自明性に依拠しつつも、同時にそれを
  (ヘーゲルの言う[否定し、保持し、高めるという]3重の意味で)止揚する」。
 ≪自然な自明性≫は、「自立」の構造契機としてのみ十全に機能する。
 ....自明性の自立性へのこのような「止揚」は
 自明性のうちに<隙き間>があるからこそ可能なのだ、というのがブランケンブルクの理解である。

 ....自然な自明性に隙き間がないことには、自我が自立性を確立する余地がないことになるし、
 逆にこの隙き間が大きすぎて脆弱だと、自立性は自己を十分に展開するのに必要な母胎を
 見い出すことができないうちに、
 いわばあまりにも早く自立を迫られて破滅してしまうことになる。

 ....≪自然と自明性≫は、≪あたりまえのこと≫を他者と共有しているという意味で、
 間主観的な妥当性をもっている。
 ≪自然な自明性≫がひとつの出来上がった日常世界の属性なのではなくて
 ....自他の間主観的な関係は、「自立」した自己と他の自己との対面的な関係をさすのではなく、
 それぞれの生の場所でともに構成するものとして働いているある「超越論的機構」間の共同的な関係、
 言い換えれば、それぞれの「自立」(=「自己であること」)を可能にしているような、
 複数の生の基底で発生しているある前人格的な関係である。”
[2001年5月29日 12時36分40秒]

お名前: 一角獣   
ヒトはしばしば存在価値、存在意義、などと言うことからして意義についても広辞苑を紐解く。

【意義】

 � 意味。わけ。
   言語学では特に「意味」と区別して[一つの語が文脈を離れてもさし得る内容]の意に使うこともある。

 � 物事が他との連関において持つ価値・重要さ。

ということは、
物事でなく「人」の場合は、他の「人」や「物事」との連関において、なのでしょうかしら。
「人」との連関、に限定されてしまうと私は苦しいゾ。個人的に。
[2001年5月29日 12時11分30秒]

お名前: 一角獣   
難題でございまするな。

価値≒価値観 ?
客観⇔主観 ?
絶対的⇔相対的 ?

広辞苑を紐解く。

【価値】
 �物事の役に立つ性質・程度。経済学では商品は使用価値と交換価値とを持つとする。ねうち。効用。
 �[哲学]「よい」と言われる性質。「わるい」と言われる性質は反価値。
   広義では価値と反価値とを含めて価値という。
   イ)人間の好悪の対象になる性質。
   ロ)個人の好悪とは無関係に、誰もが「よい」として証人すべきもの。真・善・美など。
[2001年5月29日 12時3分27秒]

お名前: 一角獣   
つまり水平方向、垂直方向共にもちこたえなくちゃならない。
その両方のバランスのとれる位置なんてごく限られた点でしかないだろう。
[2001年5月28日 23時11分58秒]

お名前: 一角獣   
医師の言ったところの私の「自我のまとまり」って堰堤のようなものですね。
水圧の割に欠壊しないから病名がつけにくいのでしょう。
同じ堤でも外からの圧力に対しての防波堤なら良かったのでしょうけれど。
欠壊しないのはダムの底の負の引力が強いからじゃないのかなぁ。
それに拮抗するように張力を張っていないと潰れる。ハイ。抽象的ですね。

ところで弥勒クンの風穴に吸い込まれた物は何処に行くんだろう?
[2001年5月28日 22時40分35秒]

お名前: 一角獣   
同じく同氏『意識のなぞ』から引用シマス。

 ”第12回 (最終回) 分散した心を結ぶ「言葉」
  
  現代の脳科学者は、ほぼ例外なく
  心は、脳の中のニューロンの活動で生じる脳内現象だと考えている。
  だが、本当に、心は脳にあるのか? 

  私たちの感覚を構成している、「赤い色の感じ」や「テナーサックスの音色」のような
  ユニークな質感(クオリア)については、
  それが、脳の中のニューロンの活動で生み出されていることに、疑いの余地は無さそうだ。
  外部から刺激が入力しても、それを解析する脳の神経回路網が機能しなければ、
  私たちは何も感じない。
  逆に、外部から刺激が入力しなくても、脳の中のニューロンがあるパターンで活動すれば、
  私はその活動パターンに対応するクオリアを感じる。
  刺激の入力がないのにクオリアが生じる場合、私たちはそれを幻覚と呼ぶ。
  しかし、ニューロンの活動によってクオリアが生み出されるプロセスそのものは、
  実際に外部からの刺激を感じる場合も、幻覚の場合も、同じである。
  その意味では、現実と幻覚の間に区別はない。

  ハーバード大学の哲学者であるパトナムは、「水槽の中の脳」という思考実験を提案した。
  すなわち、水槽の中に脳だけが浮かんでいても、その脳のニューロンが
  あたかも現実に何かを見聞きしているように活動するならば、
  その脳に宿る心にとっては、実際にそのような現実の中にいるのと区別が付かないだろう
  というのである。
  クオリアに関する限り、
  「水槽の脳」に宿る心は、確かに、現実と区別のつかない質感の世界を感じるだろう。 

  もちろん、私たちの脳は、宇宙の中に孤立しているわけではない。
  私たちは、人間の社会の中で、コミュニケーションをとりながら生きている。
  私たちのコミュニケーションを媒介する「言語」について考え始めた時、
  心と脳の関係には、社会的な視点が入ってくる。 

  果たして、言葉の意味は、脳の中にあるのだろうか? 

  一人一人の人間が、言葉の情報を処理している限りにおいて、
  その処理が、脳の中で行われていることには疑いの余地がない。   
  しかし、言葉の意味に関しては、完全にではないにせよ、社会の構成員の間で
  ある程度の合意が成立して、初めてコミュニケーションが成立する。
  言葉の意味は、脳の中にだけでなく、社会の中にある程度分散して存在すると考えざるを得ない。
  私たちの脳は、分散して存在する言葉の意味の世界における結節点のようなものだろう。 

  自分の感じる赤のクオリアと他人の感じる赤のクオリアが同じものであるかどうかを
  確認することはできない。
  クオリアはあくまでも私的な体験である。一方、私たちは、言葉の意味は共有できる。
  少なくとも、そのように信じている。
  言葉は、私的な体験を共有するためのテクノロジーとして進化してきたのである。
  そのことによって、私たちの意識も、脳の中に閉じ込められている状況から、少し解放された。 

  脳科学は、基本的に、脳を一つの物質系として取り出して研究する。
  そのようなアプローチでは探求し切れない問題の一つが、言語である。
  脳科学のアプローチと言語研究のアプローチの融合が、意識の問題を考える上で
  これらの重要なテーマの一つになることは間違いない。 ”
[2001年5月28日 17時19分35秒]

お名前: 一角獣   
茂木健一郎氏の1999年に日経新聞に連載された著作から引用シマス。

 ”『意識のなぞ』

  第1回 「心の動きは全て脳内現象」

  21世紀は、脳科学の時代になると言われている。
  生体の中でも最も複雑な組織である脳を、分子生物学、電気生理学の手法、
  さらには理論的解析を通して科学的に解明することは、
  人類にとって最大の知的チャレンジになることは間違いない。 

  ところで、脳科学には、私たち人間にとって、特別な意味がある。
  言うまでもなく、脳が、私たちの意識、心が宿る臓器であるということである。
  今日の脳科学は、意識は、脳の中にある140億のニューロン(神経細胞)の活動によって
  起こる現象であるということを大前提としている。
  言い換えれば、私たちが感じる全世界、私たちの思考、私たちの喜び、悲しみは、全て、
  脳の中のニューロンの活動によって引き起こされる脳内現象に過ぎないということだ。
  例え、富士山の偉容を前に立っている時にも、あなたの見る雄大な景色は、
  全て脳の中のニューロンの活動によって引き起こされるイメージに過ぎないのだ。 

  私たちの感じる全世界は、私たちの脳のニューロンの活動によって引き起こされる
  脳内現象に過ぎない。
  このことを人類史上初めて疑いようのない形で示したのが、
  カナダの神経生理学者ペンフィールドの実験だったと言ってよいだろう。 

  ペンフィールドは、てんかんの治療のために脳外科手術をしていた。
  その際、患者の同意を得て、大脳皮質の様々な部位に電極を刺し、電気刺激を与えて、
  その時の患者の様子を観察した。
  その結果、患者の頭の側面、耳の上あたりにある領域(側頭葉)を刺激した時に、
  患者が劇的な体験を報告することを見い出した。
  側頭葉のニューロンの活動により、患者の心の中に、あたかも実際にその現場にいるかのような
  生々しい体験が             引き起こされたのだ。
  ある母親は、ペンフィールドの持つ電極が側頭葉に触れるや否や、
  「台所にいて、庭で遊んでいる小さな息子の声に耳をすましている」というまさにその場面に
  自分がリアルタイムでいることに気がついたという。
  彼女には、息子に危険を及ぼすかもしれない近所の物音、たとえば走り過ぎる自動車の音なども
  聞こえたというのだ。
  これは、患者が過去に実際に体験した出来事であった。
  ペンフィールドは、患者からこのような「フラッシュ・バック」を初めて報告された時、
  自分の耳を疑ったという。
  それほど、劇的で重要な発見だった。 

  ペンフィールドの実験は、側頭葉が私たちのエピソード記憶(個々の具体的な体験の記憶)
  において果たす重要な役割を示すとともに、
  私たちが日々生活している中で感じている外界の現実感が、
  脳の中のニューロンの活動によってもたらされた「脳内現象」に過ぎないことを示している。
  ペンフィールドの実験において、外界から入力する刺激は、電極からの電気刺激という、
  何の具体的内容もない中立的な刺激に過ぎない。
  脳は、この中立的な刺激をきっかけとして、本当に外界が「ここに今」あるのと寸分違わない
  体験をつくり出してしまったわけである。 

  私たちの意識が、脳の中のニューロンの活動によってもたらされる脳内現象であること。
  この不思議を解明することが、脳科学の最大のテーマである。”
[2001年5月28日 17時14分23秒]

お名前: 一角獣   
PTSDと診断されているものの、
「アナタの状態をキレイに説明する病気の概念が無い。」と言われる私の場合。

易刺激性、易傷性、慢性的な不安状態、時に襲われる極度の恐怖と感覚変容などがあり、
しかし基本的に一般よりも理性的な傾向と受け取られるほど現実的判断や感情抑制を保ち、
思考様式、行動様式の内実は過剰防衛的であるが、外に向けて過剰攻撃とはならない。
鬱も強く狭窄により生活の質が下がってもそれが常態と適応し、(身体化はあるが)
欲求不満を口答や行動化でアピールすることもない。←これも「現実的判断」かもしれない。

私は診断が確定する以前から、医師から「自我のまとまりがある」とも言われました。
しかし本来の境界が脆弱だから自分で意識的に外枠を作って支えているらしいのだけど。
過剰な量と重さで入ってくる情報を排除することはできないが、
混乱、出力時に破綻しないようにすべて内で処理しているのです。
それに忙殺された結果の「病気」でしょうかねぇ。
限界に来て表面的な「≪社会≫適応」を放棄して初めて「病人」になりました。
個体として健康管理ができてないのにどこが理性的、現実的なんだ、と言ってはイケマセン。
その状態しか知らない人生もあるのですから。

そして情報処理システムに一般のヒトとの互換性が無くなっている模様です。
↑入力が通常と違っているのに出力では帳尻を合わせているのだから、
 処理システム自体が違っていて当然だった、と今にして思う。
 しかし外から見えない領域だから。誰も教えてくれないし。

精神療法の為に対話していても、予測と反応が違うので医師も応対に悩んでおられるようです。←申し訳ない。
[2001年5月28日 10時25分14秒]

お名前: 一角獣   
『トラウマへの探究』 第7章 ロバート・ジェイ・リフトンとの対話 からまた引用。

”....そのような自己洞察は先行する形式を打ち砕くことで始まります。
形式は新しい自己洞察が生まれるためには打ち砕かれなければいけないからです。
そういった意味では、形式を打ち砕くことは、新しい体験の次元でもあります。
私が研究してきた極限状態すべてにおいて最も困難なことの一つは、
そうした状況にいる人々が状況を理解するために必要な先行するイメージをほとんど持っていないことです。
例えば人生で、人をヒロシマに結びつけるものがあるのでしょうか。

兵器による都市全体の破壊が起こったヒロシマでの体験を取り入れることを可能とする先行イメージは、
ほとんど存在しませんでした。

だからこそ、いったん人々がそれと取り組み、自分の裡に取り込むと、
内的なイメージや生の経験を拡大していく余裕ができてきたのです。
ヒロシマの、それに例えば性質は違いますがナチスの収容所の、生存者たちに私がインタビューしたとき、
.....ほとんどすべての場合終わりに近づくと、彼らは自分たちが学んだことについて語りだしました。
驚かされることもありましたし、体験を失いたくなかったと言われて当惑することもありました。
ナチスの収容所についてそう言ったのです。そのことを聞いて奇妙に感じました。
というのは、言語化したり思考するうえで、彼らは自分自身についてあまりに冷静だったのです。
ですが、彼らが言いたかったことは、もちろんそれが終わったからこそ彼らはそう言えたのですが、
それでも自分たちは何かを体験したのだということでした。”

”....私がヒロシマでの生存者に関して精神的な麻痺状態について最初に話し始めたとき、
彼らが麻痺状態を必要としていると学びました。
つまり、感情の突然の中断、それは抑圧によっては単純に理解しえないことです。
麻痺状態には抑圧の要素や孤立の要素、否認の要素、精神的な防衛のメカニズムのあらゆる要素もありましたが、
最初に感情の途絶がありました。
....死を受け入れるという意味では直面体験は決して完全なものにはなりません。
いかに取り入れられるか、いかに排斥できるかの常に混合なのです。”   

”....極度のトラウマは第2の自我をつくりだすということです。
つまり役割や自我、そしてアイデンティティについて考えるようになったのです。
....極度のトラウマのような、過度の関与があると自我の感覚は根本的に変えられてしまいます。
そしてトラウマを被った、作られた自我が生じるのです。
もちろんその自我とは完全に新しいものではなく、トラウマが作用したものとして、トラウマのうちにもたらされます。
トラウマの後遺症や生存者の葛藤からの回復は、実際にはトラウマを被った自我が再統合されるまでは起こりません。”

”....生存者には自己非難や罪悪感と呼ぶものが存在しますが、それは道徳的判断の見地から逆説的です。
というのは、人々は過って道徳的に正しいという見地から自己を酷評するからです。
ですが、目撃を貫徹することは苦痛や罪悪を責任に転換させる方法であり、
責任を貫徹することは多大な治療的価値を持つのです。
それは社会にとって深遠な価値であり、生存者個人は治療されます。
責任を表出する意味で治療的で、責任の貫徹が自己の再統合にとっても非常に中心的な行為となるからです。”
[2001年5月27日 14時14分16秒]

お名前: 一角獣   
自己の客観視は自己疎外の始まりらしいです。
そうかもしれない、と経験的に思う私。
過剰な自己の客観視で、社会的人格をロボットのように作らなければ生きてこられなかったので。

しかし明確な根拠など無くても自己愛の土台となる自己肯定感を持っていて
主観的に振る舞えるのが個体として「健全」らしい。

私の状態が とっくの昔の大昔に、普通のヒトであれば健康問題として騒ぎ立てる範囲を越えている、
ということに気づいて相対的な判断から病識をもてるようになったのはつい最近。

しかし通常ヒトは、不調を訴える場合、
主観的判断を絶対のものとして主訴にしてなんら客観的視点など意識してはいないだろう。
ヒトにとって比較するものがあるとすれば、最も健康で楽しかった頃の自分、
それに比べて今はこんなにツライ、という文脈であるような。
[2001年5月27日 8時25分51秒]

お名前: 一角獣   
いや、言葉にしろ他者にしろ、
それが自分の利益や目的の実現の為の作用や交渉の対象や道具、である前に、というべきか。
自分が常に他者を指向的行為の対象としてターゲットにする立場に収まっているわけでなく
他者から指向的行為の対象とされ続ける一方の自分、と領域が侵犯されてしまっている。

独自のシステムを理解されないまま、言動の結果だけ帳尻を合わせるべく
無理な圧力をかけられる自閉者の事情は、相当にストレスフルだろうとお察しする次第です。
完全には察しきれないとは思いますが。
[2001年5月26日 7時6分39秒]

お名前: 一角獣   
非・自閉症だけれどそのケのある私、と言い続けて来ましたが、
感覚的なことと言葉の理解や対人関係の把握の過程、などの面で
妙にドナさんや管理人さんの書いていることが分かる、と感じる部分があった為です。
正確に言うと社会生活に適応する過程で似たような失敗エピソードがあるから。
3歳くらいまでが自分の世界、感覚を刺激されて得られる独自のイメージの世界に行ってた。
イメージというのは、私は視覚に多くを左右される人間なので。
当時はそちらに逃げてたわけじゃなかった。ただ幸福だったんですね。
その後、恐怖が通奏低音のように意識に入り込んでしまった。いつも漠然と不安。
そんな子どもが幼稚園という過程なく就学して集団生活に放り込まれて適応に苦労します。
自分を含めて二人まで、もしくは私的な範囲での「社会的行動」はなんとかなっていたが
複数の第三者の視線のある公的環境というものと、その上で、
学校が提示する物への自分の理解度を敢えてアピールする場だということを把握するまで。
その過程で、学校という場には私から見て無駄の多い独自のルールがあること、
何故か教師の言うことは「絶対」という空間であるらしいことが強くインプット。

失敗エピソード。
テストの時間に、私が解答用紙を手に持って立てて見直していました。教師から
「下に置いて見なさい。見えちゃうから。」と言われた。←意味わかります~? 私はわからなかったゾ。
「見なさい。見えちゃうから。」がもう???の世界。何がイケナイの~?
それで思案の挙句、字義通り「下」である床に置いてみました。変なの。と思いながら。
しかしこれは。
「机の上に置いて見なさい。後ろの席の生徒から見えちゃうから。」という意味だな?
しかしカンニングされる恐れがあるから、と言っては後ろの生徒に失礼だからだな?
とパッと気づいたのはず~~~っと後のこと。(このエピソード時私は小学校3年生くらい・・・)

おそらく自分にはカンニングの発想が無かったのと、
教師は意味不明の絶対命令を下すヒト、という初期データの影響力が強大であった為
と思われます。
主体の意識が弱いからかなぁ?
自己利得から発想するクセが無い。
そして自分にとってではなく発言者の立場から言われた言葉を理解しようとするクセがあるためでしょう。
そこに傾向としてあるものは「言葉」が相互作用や相互交渉の道具であるよりも、
まず、相手がその利益や目的の実現の為にこちらに何かを伝えようと使ってくる道具、
と感じていることですね。
[2001年5月26日 6時51分8秒]

お名前: 一角獣   
あ。下の「概念は把握しきれていない」の主語は「私は」、ということです。

個体として生命体として在ることが既に、身体的、生理的、感覚的に(?)
外界との接触のしかた刺激の感じ方(認知?)が多数派と異なる体験であるとしたら。
違う世界に生きていながら、
その存在を実感できない多数派の側の世界との二重生活を強いられるようなもの?
[2001年5月25日 23時57分9秒]

お名前: 一角獣   
わたしは管理人さんは「亜種」だと感じているのですが・・・。
自閉症に関する学術的な概念は把握しきれていないけれど。
書いていることが全然ヒト臭くないし、感覚世界が。

「私の世界」の画像を4枚まとめて見た時には、
昆虫はヒトに不可視の紫外線を見ているらしいけれど、それくらい違うのかも? と思った。
(私もまた別の方向で違うからかも?)
[2001年5月25日 21時31分15秒]

お名前: 一角獣   
数年かかって大枠で認識の一致に辿り着いたと思われる主治医と離れたら、また
私は「なんだかわからないけどとにかく深刻な患者」になってしまうと思われます。
もしも医師が変わるような事態になった場合には、また一からやり直し。
既存の患者のタイプに当てはまらない、ということで実態を掴んでいってもらうしかない。
もうその過程を繰り返すのはイヤです。

「精神科の患者」がいくら自己申告で「私はこう。」と簡潔に述べ得たとしても、
医師はそのままには受け入れないでしょう。
そういう意味では、現在の主治医との間でも人間関係を築く過程で実演してしてみせるしかなかった。
認知パターン。思考様式。行動様式。感情表出パターン。反応。作用。
医師に私という人間を体験してもらうことでしか、理解される道はありませんでした。

「言葉」とは、理解の妨げになることもあるのです。言語体系が異なっている場合には。

ヒトが「ツライ」というのは、私が「ツライ」という時の状態とは大きく隔たっていた。
ヒトは辛さの程度を正確に表現することが主眼ではなく、慰めを求めてそう言うからです。
精神科の診察室内であっても、その用法は変わらないらしい。
そして薬よりも慰めの言葉で「癒される」患者も多いらしい。(←それって「病気」?)
[2001年5月25日 18時35分28秒]

お名前: 一角獣   
ある心理関係のサイトで、連続殺人の映画「サイコ」に観客が恐怖を感じる仕組を
「(反復によって)虚構のフレームに現実が侵入してくる」から、と書いてあったのですが、
そりゃー、キミの意識が虚構のフレームに彷徨い出ているんだよ、と私は思うのだが。
[2001年5月24日 16時56分34秒]

お名前: 一角獣   
ヒトは普通、主体として自分を中心として構成された意識世界、
いわば「マイ・ストーリー」の中に生きているのが当たり前のようなので
テレビに映るスト-リーの中の主役も自己の鏡像の一つと容易に見なし得るのではないでしょうか。
特に、大人より自己中心的に生きている子どもにとっては、
主役は「なりたい私」のイメージに重なるように作られる。

テレビを観るという行為も一見受動的であるけれども、
主体として刺激を享受する、という能動的行為として選択されている状態のままなのでしょう。
だから感情「移入」はしても感覚的に「共鳴」まではしないのではないかしら?
誤解を畏れずに言えば。鈍感だから刺激が享楽で済んでいる、と言えないこともアリマセン。
自分の意識は画面の中でなく、画面に対峙する自分の身体の中に厳然としてあること、
身体感覚が自他の境界の保証としてあるからかもしれません。(←この辺り私にもよくわからん)
[2001年5月24日 16時41分40秒]

お名前: 一角獣   
『トラウマへの探究―証言の不可能性と可能性―』
 第7章 ロバート・ジェイ・リフトンとの対話 
 (ロバート・ジェイ・リフトン&キャシー・カルース)

...死との遭遇は心理的体験の中心になっているのです。
これは非常に単純なことなのですが、高度に心理学的な思想からは死は非常に安易に排除されてしまうのです。

(フロイトのしたように)何もかも説明のできる本能の構造として死を捉えることは、
人々をそれ以来ずっと混乱させることとなったのです。
....フロイトはある種のジレンマに捕らえられていたと思います。
彼は死に対して常に過敏で、死を意識し個人的に恐れていました。
....どんな理論も、何かを深く探って一方的にならないと理論とは言えません。
ある程度のバランスと公正さをそろえた創造的な緊張感の中でそういった偏りをもつことがコツなのです。
彼の場合は、性が、幼児性欲とリビドー論にのみ向けられています。
彼は自身の理論の中で死を最小限に表出する一方で、死への意識を維持しなければならなかったのです。
そして、そこから生まれたのが、第一次世界大戦後の精神分析論、死の本能論であり、
彼がそこで鍵として用いた戦略がナルシシズムでした。
彼は死の不安や解体への恐怖をナルシシズムの概念へと変容させたのです。

....理論を変貌させかねない死の力とはなんでしょうか? 
死は潜在的に、いかなるものも、あらゆるものも変容させます。
存在のうち唯一変化をしないものは死そのものだけなのです。
ですが、死を受け入れること、つまり死との遭遇に開放的でいることは、
常に究極的で重要であるものを再評価することを意味します。
....人生で本当に「大切な」ものは何か....
それは非常に強烈なものや生を肯定するもの、そして自身の死の後にすら残るものに関係しています。”

そーなんだね。弥勒クン。(←そーゆー話だっけ?)
続き。

”....本能は心理学的な実体ではありません。もしある種の本能というものの存在を信じているとすれば、
それは駆動力のようなものでしょう。
....心理的体験はいかなるものであれ意味に関わってきます。
そう考えれば、意味は最も広範な意味での心理学的実体なのです。
生死のモデルやパラダイムを考えるときに、それは意味と関連して存在しているはずです。
つまりそれは一方では生のプロセスや生命をいかに象徴化するかということに、
他方では未来の滅亡や個体としての死をどうやって象徴化するかということに関連して存在しているのです。

....意味についての心理学へ私が至ったのは、
ラカンではなくエルンスト・カッシーラやスザンヌ・ランガーを通じてのことです。
彼らが教示してくれたことは、私たちの中核となる動機やエネルギーは、
現実の、あるいは願望の中にある意味の構造に由来するということです。
いかにして理解したいのか、いかにして私たちは何かを理解したいと考えるのか、
いかにして自分自身を見つめたいのと考えるのか、ということですね。

....体験の流れの重要性を回復する一つの方法は、真面目にイメージを取り上げること...

形式や意味という性質こそ、人間の経験にとって中心となると私が考えているものなのです。

....私は死が本能に取ってかわるとは言っていません。むしろ象徴化が本能に取ってかわると言いたいですね。
だからこそ因果論の原理は象徴化の原理となり、問題は記号やイメージ、意味に関わってくるのです。
初期の段階から原因となるものは、私に言わせれば、
生命力、そして結局は象徴的な意味での不滅性を求めての努力なのです。
というのは、2歳か2歳半にならないうちに ―その段階ではそれはおぼろげなイメージでしかないのですが―
死の等価物と関連する多くの感情的な体験をしています。   
母親からの分離、人格統合の失敗への恐れ、人格統合の失敗の経験に近いもの、ですね。
たしかにこれらは因果論的な体験に関係していきますが、
私の見解では本能ではなくイメージと象徴化の先駆けとなるものです。
私が因果関係を見い出すのは、こうしたイメージ、象徴化、意味においてなのです。
結局、イメージ、象徴化、意味は生死のモデルやパラダイムの要素なのです。”
[2001年5月23日 7時24分58秒]

お名前: 一角獣   
『トラウマへの探究―証言の不可能性と可能性―』
 第9章 侵入する過去―記憶の柔軟性とトラウマの刻印 
 (べッセル・A・ヴァン・デア・コ-ク&オノ・ヴァン・デア・ハート)

”【結論】

長い空白期間の後、心理学と精神医学は、もう一度、人間を苦しめる記憶についての研究に目を向けるようになった。
20世紀にさしかかる頃、記憶の役割についての精神病理学的研究が発展したが、
その豊富な知識の底流は途絶えてしまった。
一方で精神分析は、個人の欲望と市民社会の義務との避けがたい葛藤に光を当てることによって、
外的体験が内的なるものに変形するようすを注意深く聞き取ることに情熱を燃やした。
現代の神経科学もまた、かつての知見には注意を払わなかったが、現代精神医学の創始者たちが打ち込んだ諸問題に
徐々に目を向け始めており、新しい研究方法によって、彼らと同様の結論に達しつつある。
同時に精神医学が再発見し始めているのは、人間の人生におけるトラウマにはリアリティがあるということ、
そして、実際の体験があまりに強烈な場合、その体験は既存の心的枠組みに統合されずに解離され、
後に、断片化した感覚ないし運動体験として侵入的に回帰するということである。
われわれが再発見しつつあるのは、ある種の体験は記憶の中に符号化されるものの、
それは自分に起こった出来事を理解し受け入れ、人生を続けていけるようなやり方ではないということである。

完全に回復した症例の場合、
その人はもう、フラッシュバックや行動的再演などのかたちで起こっていたトラウマ記憶の再出現に悩まされない。
その人はストーリーを語るだけではなくて、起こった出来事を振り返ることができるのである。
それは、トラウマを自分の生活史、自伝、ひいては彼の人格の全体の中に納める場所を作ることができたということだ。

だが、トラウマを負った人々は、いわば二つの世界に長く暮らす体験をすることが多い。
それはトラウマの世界と現在の普通の世界である。
その二つの世界に橋を架けることはできないのが普通である。
このことをL・L・ランガ-は、ホロコーストの生存者の口述証言の研究を通して、もっとも雄弁に叙述している。
「それは今住んでいる世界と決して結びつけることができない。それは永遠の二重性を示している。
 正確には分裂存在でも重複存在でもなく、平行存在である。生存者は一方から他方へ関連なく切り替わる。
 彼が示しているのは連続性ではなくて、同時性だからである。」

現在の時間からトラウマ記憶の世界への移行は、普通の心の状態とトラウマ的な心の状態という
二つの正反対の世界が同時に存在するということを含意するだけではない。
トラウマは人生のある瞬間に固定されるので、その人は二つの異なる人生行路の時期、すなわち
トラウマ的過去と漂白された現在に生きている。
トラウマを受け、固着化し、柔軟性を失った人格部分は発達を止めている。
体験の二つの領域に橋を架けようとこのことが大問題となる。

....このように、極端なポストトラウマ状態とは....
思い出せない過去の中で生き、現在の現実の中で過去のトラウマ体験を再演することである。

....精神分析に深く傾倒し、エーデルマンの業績にも明るい精神分析家A・モデルは、近年、
とくに転移の性質と意味に注目し、神経科学の新しい知識のいくつかを精神分析の臨床実践に取り入れようとしている。
彼はトラウマ記憶、もしくは同化できない記憶は転移の中で活性化されると考えている。転移の中では、
「一連の過去の経験が現在にもたらされる。
 蒼古的な感情カテゴリーが現在の認知を支配する時、それは日常生活の精神病理の原因となる。」

彼の考え方によると、なぜ治療関係で癒されるかの本質には、
「感情は伝達し伝染するものであるがゆえに、他者は感情の反復に巻き込まれ、
 主体が知覚のカテゴリーを承認するか棄却するかにおいて、
 意識的ないし無意識的に加担する」という事実がある。

「(治療状況において)苦痛な過去の相互作用を棄却する過程は、本質的に(意味図式の)書き換え過程である。」

モデルの研究は、トラウマがほぼ必ず治療関係の中で再現され、トラウマ体験を巡って築かれた意味図式は
非合理的知覚と恐怖の形をとって活性化されるという事実を説明するものである。
過去の恐怖を現在の体験に統合するために、トラウマの転移的表出を制御し利用することは、
トラウマを受けた患者の治療における大いなる挑戦のひとつである。”
[2001年5月23日 7時12分30秒]

お名前: 一角獣   
引き続き『トラウマへの探究―証言の不可能性と可能性―』第9章から

”【図式とカテゴリー】

記憶が能動的で建設的な過程であり、想起はその時点での心的図式に依存していることは今では常識になっている。
心の図式とは「どんなふさわしい有機的反応においてもつねに活動していなくてはならないような、
過去の反応あるいは過去の体験の能動的組織体」である。

このように心は二つの逆説的な活動に携わっている。
一方で、心は図式を作り、すべての新しい体験をその既存の概念に当てはめようとする。
また、それと同時に、
心はものごとをまとめあげる新しい方法、新しいカテゴリーをつねに模索しているのである。
新しい体験は、以前の図式に参照されてのみ、理解されうる。
ある出来事が起きた時に、優勢な特定の内的・外的状態が以前のどの意味図式を活性化するのかに影響する。

心は新しい感覚情報をそれ以前からあるパターンに組織化する。すなわち「パターンはメッセージである。」
パターンの中に体験を組織化していくという...この原則の理解は神経ネットワークについての新しい科学へと発展した。

....ニューロンは神経系の解剖学的な単位であるが、機能を構成する要素ではないとする考えに基づく研究である。
ニューロンの分布はパターンの識別に関係している。
....並列処理は一つの機能単位の中での非常に迅速な情報の処理を可能にする。
情報のごく一部が無意識に分析された後にのみ、適当な場合にそれは意識に留まるようになる。

....一方、刺激入力の性質を解釈することが難しいために、カテゴリー化に問題がある時にも、意識は活性化される。
だが、全般に入力情報の処理のほとんどは覚醒意識の外部に留まっている。
この中には内的葛藤や受け入れられない欲望と関わりをもつものは何もない。

....新しい考えや情報の断片がたえず古い知識と結合して柔軟な心的図式をつくりあげている場合、
記憶は不正確になりやすい。
一世紀も前にジャネが指摘したとおり、いったん特別な出来事で情報の断片がより大きな図式に統合されれば、
それはもはや個々の実体としてアクセスすることができなくなり、その以後、記憶はゆがめられるだろう。”

”【心はどのように記憶を凍結するか】

ほとんどすべての記憶はたえず再処理され、再カテゴリー化されることによって、変化しうる。
....では、ときに記憶が統合を免れ、それどころか「固定」されて、さらなる変化に抵抗するのはどのようにだろうか?

その一つは神経細胞の髄鞘形成によって起こる。発達的に髄鞘形成される前の脳は可塑性が非常に高い。
....現在の研究の示すところでは、幼児期の健忘は海馬の髄鞘形成欠如の結果である。
強烈なあるいは持続的なストレスは海馬の機能を抑制することがあり、時空に定位させることが難しいような、
文脈を離れた恐怖の連想を引き起こす。
その結果、トラウマ体験に関する感情だけはなく、特定の具体的な詳細についての健忘も生じる。

認知心理学者は中枢神経系において符号化された情報に3つの様式を見い出した。
すなわち、不活性型、イコン型、象徴/言語型である。3つの異なる様式は中枢神経系の発達段階に対応している....

人はトラウマに曝されると、つまり普通は体験しないような恐ろしい出来事に曝されると、
「言葉にならない恐怖」を体験する。体験は言語レベルでは組織化できない。
このように言葉と象徴における記憶の編成に失敗すると、それは体感的ないしイコン的レベルで組織化される。
つまり、身体感覚、行動的再演、悪夢、フラッシュバックなどである。”

”【覚醒亢進、トリガー、状況依存性学習】

悪夢、フラッシュバック、再演といった視覚的・運動的再体験には、生理学的な覚醒が先行しているようである。
イェ-ル大学の研究者サウスウィックらは最近、(ヨヒンビンの注射による)自律神経系の刺激が
PTSD患者にただちに古いトラウマの出来事に関連する光景、音、匂いを起こさせることを説得力をもって示した。
一般的な生理学的覚醒と特別な神経伝達物質系の活性化と特別な記憶痕跡へのアクセスは
すべて絡み合っているようである。

このように20世紀後半になって、われわれは
記憶の想起とトラウマ関連状態が高度に状況依存的であることを再発見しつつある。”

”【統合には行動が必要である】
ジャネはトラウマ記憶の固定と解離に関してもう一つの観察をした。
彼は、有機体が環境に対してうまく行動することは記憶をうまく統合するために必須であると考えた。
「ストレスへの健康な反応は適応的な行動の動員である。」
彼は、能動的記憶自体を行動であるとさえ考えていた。
「記憶は行動である。すなわち、本質的にそれはストーリーを語るという行動である。」

この概念は現代の神経生物学者の業績の中に受け継がれている。”
[2001年5月23日 7時9分7秒]

お名前: 一角獣   
『トラウマへの探究―証言の不可能性と可能性―』から引いてみます。

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第9章 侵入する過去―記憶の柔軟性とトラウマの刻印 
べッセル・A・ヴァン・デア・コ-ク&オノ・ヴァン・デア・ハート
<トラウマへの探究―証言の不可能性と可能性―>

”【ジャネの業績】
....ジャネをはじめとする黎明期の心理学者達は、丹念な臨床観察だけを手がかりに、
トラウマ記憶が意識に及ぼす影響についての包括的な定式化を打ち立てた。
また彼は、1970年代、80年代における神経科学の進歩を正しく予見していたにもかかわらず、
記念すべき彼の偉業は精神分析によってかき消され、大部分は忘れ去られた。
1970年になってようやく、アンリ・エランベルジェが『無意識の発見』によって彼を全き忘却から救い出した。”

”【物語記憶  VS トラウマ記憶】
ジャネの観察によれば、
「トラウマ記憶」と、通常のあるいは物語記憶との間の差異は、以下のようなものである。

まず第一に、....社会的行為である物語記憶にくらべると、トラウマ記憶は硬直的で不変的である。
....それは孤立的な行為である。それに対して通常の記憶は基本的に社会的な機能を持っている。
   
第二の違いは、....もともとのトラウマ状況を思い出させる状況で、それは自動的に起こる。
トラウマ記憶をつくり出すメカニズムを、ジャネは「統合への復帰」と呼んだ。
トラウマ体験の一つの要素が喚起されると、それに続いてすべての他の要素が自動的に喚起される。”

”【解離と意識下固定観念】
強烈な情動を引き起こす体験が記憶システムに適切に統合されなかった場合、解離が生じトラウマ記憶が形成される。
    
....精神病入院患者の20~50%に解離性障害が認められたという最近の研究のように、
ジャネなどの精神分析家ではない精神科医は、多くの患者が解離によってストレスに反応すると記載している。
患者はストレスに対して不適切に反応し、「自動症的に」行動する。その際、
無関係でステレオタイプなイメージ、観念、情動、動作は恐ろしい過去の出来事の断片的な再体験を表している。

「これらの患者は記憶の障害とともに、行動の障害も持っている。
それによってもっと深刻な問題、つまり意志の障害が隠されている。」”

”【抑圧と解離】
トラウマと解離に向き合うフロイトの両価値的な態度が、彼の抑圧概念に表われている。
彼はこの用語を、能動的に抑圧された葛藤的本能的欲望の意味で用いた。
それは原初的で禁じられたイド衝動―特に性的な性質の―に対する防衛である。
別の時には、彼は「抑圧」という用語を解離されたトラウマ記憶に近い意味で用いた。
同じような混乱は精神分析的文献にあまねく認められる。
トラウマに関して、「抑圧」という言葉を用いると
望ましくないトラウマ記憶を患者が能動的に排除するというイメージが喚起される。

実際の症例で、こうなっているのかどうかは、はなはだ疑問である。
  
最近の研究は、トラウマ体験の解離はトラウマが起こっている最中に起きることを示している。
圧倒的なトラウマ体験を排除する能動的過程が存在する証拠はほとんどなく、
体験を意識から切り離しているのは、抑圧とは別のメカニズムのようだ。

トラウマの生存者の多くは、自分が自動的にその光景から遠ざけられたと報告する。
生存者たちは、離れた所から見ていた、
あるいは完全に消えて自分の人格の別の部分が残されて圧倒的な体験に苛まれ、
それを記憶しているというのである。
....後に、生存者はフラッシュバックなどの現象に悩まされ、それにつづいてトラウマについて再び健忘的となるのだが、
その時にもトラウマ記憶は解離しつづけている。

....抑圧と解離の概念の間には(フロイトの語の使い方と反して)基本的な相違がある。

抑圧は心の水平的な層状モデルからきている。
つまり、抑圧されるものは無意識に押し込められている。
患者はもはやそれにアクセスすることはない。
ただ象徴的・間接的徴候が、あるかもしれないその存在を指し示すだけである。

解離は心の垂直的な層状モデルによる。
つまり、患者はトラウマを思い出せない時、その「記憶」は意識の別の流れの中に保持されており、
意識下に存在しているが、トラウマの再演のような時には、意識を支配するようになる。

二つのモデルを関連づけようとする試みは、いままでのところあまり成功していない。
失敗の一つは、これらの折衷モデルではトラウマ記憶が解離されることも抑圧されることもできないということである。”

”【記憶過程についての最近の考え】
ジャネは、記憶システムの基本機能は記憶の母体の中に感覚入力を貯蔵分類し、
それに続く内的外的刺激を適切に統合することであると述べた。

現代の研究者が見い出したことは、記憶の基本特徴はニューロン群の間に独自の結合を作り出すことであり、
それによって人間は世界の中で動き回れるようになるのである。
そして、記憶がもっともよく処理するのは、特別な出来事ではなく、
体験の質とそれにともなう感情であるという考えは、ジャネと同意見である。”
[2001年5月23日 7時2分51秒]

お名前: 一角獣   
『「あいだ」の空間 精神分析の第三主体』 トーマス・H・オグデン著、和田秀樹訳 1996初版

<訳者イントロダクション>からなんとなく引用。(ところによって略してます。)

”現在、アメリカ精神分析の学界では、
臨床面では、患者の心を一つの実体とみなして、それを分析するだの、治療するだのという考え)から、
患者と治療者を一つの対として考えていこうというモデルへと急速な移行が見られている。
・・・アメリカ精神分析学界では、「two-person model」が主流になりつつあるわけだ。

しかしながら、これらの理論の多くの重視するところが、
 治療者と患者の人間的な関わり合いであったり、
 患者の依存欲求に応じてあげることであったり、
 患者の【意識レベル】の体験を理解をしたり共感してあげることであったりするために、
これらを果たして精神分析と呼んでいいのかという批判も一方で沸き起こっている。
(原則的に精神分析は、患者の【無意識】と格闘するものとされてきた)”

”精神分析の治療の理論を考える時、人間の心の何を治療していくのかを想定しなければならない。
フロイトは当初、無意識を意識化するという治療モデル(局所論モデルと呼ばれる)を立てていたのだが、
1923年に有名な論文「自我とエス」を書いて以来、心の中の自我という部分をしっかりさせることで、
激しい本能からのつきあげ(「エス」と呼ばれる部分がなす)をコントロールし、自分の中に入り込んだ
親世界からの激しい命令(「超自我」と呼ばれる部分がなす)と折り合いをつけるのが
治療の目標だというモデル(「構造論モデル」と呼ばれる)を展開していく。
こうして、自我の機能を研究し、それをどう臨床に応用するかがその後の精神分析理論の主流となり、
自我心理学と呼ばれた。

現在、アメリカでもっとも人気のある精神分析理論は、「自己心理学」と呼ばれているものである。
これは、精神分析で大切なのは自我の機能を成熟させることなどではなく、
もっと人間の心を全体として統合していき、他者との関係を成熟させなければならない、
つまり、治療しなければならないのは自我という人の心の一部ではなく、
「自己」という、人とのかかわりあいをもてる人間の心全体をまとまりのあるものとしなければならない
という考え方である。
(自己の定義はあいまいで、それについてのさまざまな検討がなされている。
 いずれにせよ、自我よりは人間の心全体を指し示すものであることは間違いない。)
こうして、以前にもまして実際の患者の主観的な体験(これを組織するのが自己だとされている)が大切なものとされ、
また患者と治療者の人間関係を通じての治療も重視されるようになった。

 本書でオグデンは、精神分析が扱っていくものは、自我でも自己でもない主体なのだという新境地を開く。
言い方を換えれば、主体心理学として精神分析理論を再構成しようとするのである・・・
 ・・・二つの主体が存在すれば、必ずその間に、間主体が生まれ、それがお互いの主体性を規定する。
すなわち、主体というものは、一人の人間の枠だけで決まるものではなく、それを越えた存在なのだ。”

この本の著者の弁証法的な考え方は、やはりアメリカにおいては特異と言っていいそうです。
「とにかくアメリカ人は、クリアカットな理論が好きで、どちらかに立場をはっきりさせないと相手にされない」
「人間が欲動に動かされる生き物と見るか、関係性を求めて動く生き物と見るかが、これまでの精神分析理論に底在する二つの流れ」であるが
しかし「この二つが両立することはあり得ない、これからは関係性のモデルを選ぶべきだとする」のがアメリカの主流であるらしいです。
実用的ではあるのでしょうね。
分析家を訪れる現代のクライエントは円滑な社会生活を望んでいるのでしょうから。
[2001年5月22日 23時38分51秒]

お名前: 一角獣   
精神科医と精神分析医、か。

『心的外傷と回復』の記述にこんなことがあった。彼らの言っていることの違いは何かな。

<精神科医マーディ・ホロウィッツは「完全化原理(穴ふさぎ原理)」を提唱した。
 これは「新しい情報を処理して自己と世界との内的図式をアップ・トゥ・デートなものにしようとする、
 精神の持ち前の能力を一言で表したものである。」
 外傷は、定義上、この「内的図式」を粉砕する。
 ホロウィッツの言いたいのは、
 同化できていない外傷体験は「活性記憶」というものの中に貯えられるが、
 これは「内容を反復表出しようとする本来的傾向性」を持ち、
 外傷は、生きのびた者が何が起こったかを理解する新しい「心的図式」を生み出した時、
 その時だけ治癒するということである。
   
 精神分析医ポール・ラッセルは
 外傷の認知的な体験でなく感情的な体験の面が反復強迫の駆動力となっていると考えた。
 再生産されつづけるものは「外傷を修復するために感覚する必要性があるもの」である。
 彼は反復強迫を外傷を受けた瞬間の圧倒的感覚を生き直しその支配者となるための試みとみた。
 心の全景を占めている未解決の感覚は恐怖であるかも知れないし、持って行き場のない怒りかもしれないが、
 単純に死の危険によって生じる未分化な「アドレナリンのほとばしり」であってもよい。>
[2001年5月22日 19時17分45秒]

お名前: 一角獣   
以前に引用したSF短編集の『九つのいのち』ってクローンの話だったのですが。
若くして死んだ天才が10体にクローン再生された。
その時点で既にその才能ゆえに世界から請われて存在しているという絶対の根拠がある。
そして常に「9人の自分」がついている。
非クローンの人間が彼らを見て羨んで言ったこと。

「おちついてるなぁ。そのはずだ。考えてもみろよ。10人の自分がいるんだからな。
 どんな動作にも9人の介添、どんな投票にも9つの賛成。さぞすばらしい気分だろう。」
[2001年5月22日 19時11分36秒]

お名前: 一角獣   
私見でございまする。

どうやら一般的には「認められ愛され大事にされ」たことが自己肯定感の根拠だと
「意識されていない」のです。
事実関係として認識されていないのです。
過去の一体感や正の感情の記憶が、妖怪が合体するように意識に取り込まれてしまっているのです。(←例えが悪すぎ?)
バックアップを確信している時の安心感という形で、というべきか。
「自分の支持者が常にいる安心な状態」に近い感覚が具わっているはずです。
その支持者に実体は無いけれど。

まあみんな似たもの同士だと思っていればこそ一緒に居られるのです。
群れですね。動物が群れるのは利点があるからだ。

自分の感覚的な世界って、持ってる人は意外と少ないように見えます。
だからこそ人間は一人で暇を潰せない生き物なのです。
たとえ物資や食料が豊富でも無人島には行きたくないのが人情でしょう。

「精神分析」にも流派が色々在るし、元々見えないことを言語表象して体系に収めただけ、
と思うのでス。
脳の中を覗いても、エスも超自我も見えないし。用語や概念の定義も派によって微妙に違っていますし。

そういう意味で「精神分析」そのものが治療に有効な患者って限られると思うんだけど
(病気でない場合は、もっともらしい説明がついた、ということだけで安心してしまう人もいるだろうが。)
まず理論であることからして「治療法」としての発展の経緯としては
仮説だけど使ってみたら治療になった、だからこの仮説が当たっていた、
というのがホントのとこなんじゃないかなぁ?
だから学説は常に現在も変わりつづける。学派間の対立もあるし。
「精神分析理論」に限らず心理の学問というものは、
経験論や統計によってしか裏づけとれないような気もする。
そういう意味で妥当性が無い訳じゃないのでしょう。
しかし、だからマイノリティはその理屈からこぼれてしまう。
数が集まるまでは事実として記録されない。
仮説を構築する際には、ごく少数の例外を問題にしているわけにいかないだろうから。

葛藤や欲求不満は、バランスの問題でしょうねぇ。望むことと得られないことの。
主観的な問題だから、本人が苦しいと言えば苦しいのだろうけれど(以下略)

そうッスね。私が仮に精神科医でなく精神分析医のところに行って、
○○派の解釈に当てはめられてしまうと、病気が悪化しそうですナ。
[2001年5月22日 19時7分29秒]

お名前: 一角獣   
また訂正です。

同じアプローチは通用しないからです。⇒通用しない場合もあるからです。

かなぁ? 

最近は「PTSD」という診断名の適用される範囲もかなり拡大されているようだから。

正確を期すならば。私にや通用しないらしい。と言っておけばいいのですな。
[2001年5月22日 7時23分40秒]

お名前: 一角獣   
そして年令と環境の問題か。
発病原因となることを経験する前にどの程度の期間どのような社会生活を送っていたかによる。
(独白)
[2001年5月22日 7時14分36秒]

お名前: 一角獣   
キーワードは「他者不在」だったのかな?
[2001年5月22日 7時3分19秒]

お名前: 一角獣   
人間が傷つけられるのは、罪への罰や報復だけが理由とは限りません。
当人に責任なく犯罪の被害に遭った場合には適用できないでしょう。

PTSDになった戦闘参加帰還兵が帰還後も戦時の意識状態から解放されず、
過剰に外的刺激に防衛、攻撃反応を示すのも、
イメージの中の上官を恐れていたり国への義務に対する罪責感からじゃない。
自分の生命はそこまでしても自分の責任で守らなくてはならないことが
自明の常識になってしまったからじゃないのかな。

PTSDになった人間には、他者不在の極限状態での現実適応としての自責感がある。
それは戦争に行かなくても身につくことがあるのです。…たぶんね。
だから私は「神経症」と「PTSD」の区別にこだわっている。
神経症の治療と同じアプローチは通用しないからです。
[2001年5月22日 6時49分2秒]

お名前: 一角獣   
ヒトはどうしてそれほど他人に関心があるのか、としばしば思う。
ラカン派によれば「人間は皆神経症者に等しい」そうだ。
肯定もしないが否定もしない。
自分ははるか以前に「皆」の中に入っていない生き物になっているらしいですし。
[2001年5月22日 6時31分58秒]

お名前: 一角獣   
罪責感を口にしながら、しかし責任ある行動がとれないという場合には、
罪悪感はあるが責任感が希薄のかしら。
しばしばヒトの罪悪感の表明は免責要求であり、劣等感の表明は遠回しな他罰欲求である
と思ってみたり。
内面の規範であるはずのものから逃げて他者によって免責されたり容認されることで
心的負担の軽減を望むのがニンゲンの常であるらしい。それが健常ということかしら。
[2001年5月22日 6時16分40秒]

お名前: 一角獣   
フロイトの当時も「戦争神経症」の場合、
外傷は損失であって決して価値にはなりえないだろうという意味です。

二次的な疾病利得と表現したのは、ネットで見聞する限り実在する
「抑鬱や神経症を体験したおかげで健康だった頃よりも人として優しくなれた、人間的に成長した。」
などと本人が言うケースです。

私が自分の病気が治ることがあったとしても、
「PTSDになってよかったと思えることは」などと言うことは絶対にあり得ないでしょう。
どう考えても、そういう問題ではありません。
実際に一生治らないかもしれないし、ここまでの損失は大きすぎました。
私が闘病の末に何かを得ることがあったとしても、それは「病気」の副産物ではありえません。
私はただ自分を生きただけですし。
[2001年5月21日 0時32分10秒]

お名前: 一角獣   
私の手許にはR・シェママの『精神分析事典』が一応あるのですが。
帯の文句は「読んで面白い フロイトとラカンがよくわかる いまフランスで大評判」
現象学系というのかしら。
パラパラッとみたところでワタクシの解釈では。
PTSDではなく神経症についての記述であろうけれども
「外傷」を一次的ないし二次的な疾病利得とも言うべき「効果」を得るための
「価値」と位置付けているように読めるのでした。
いや「外傷という価値」と表現されている。

そんなことを言っているから「戦争神経症」の説明に苦労したのではないのか。>フロイト(←してない?)
「他者」とかに終始して生死の問題を視野に入れないのは戦争中もきっと安全に暮らしていたからなの?>ラカン(←偏見?)
[2001年5月21日 0時17分46秒]

お名前: 一角獣   
訂正です。

一体感や愛着が感じられない、ではなく、一体感や愛着が定着されない、でした。
[2001年5月20日 20時16分36秒]

お名前: 一角獣   
愛情というものも、ニンゲンにとっては支配欲や所有欲にすぐシフトしてしまうようですし。
息苦しくて当たり前?

ところで私、なんとなく負の気配の漂う場所、と感じることがあります。
五感のうち、どの感覚で、環境条件のどの要素で、そう判断するのか不明ですが。
強いて言えば、方位が悪い。などという感じかな。
こちら側が開かれていないといけないのに、建物が建っているとか。
配置が悪い。角度が悪い。
人間が悪いことをする時には、こういう場所を選ぶだろう、と感じているのかも。
雰囲気か。

邪気ですな。

つくづく私は対犯罪(人間悪)防衛仕様の生き物なんだなぁ。
[2001年5月20日 19時53分16秒]

お名前: 一角獣   
質問でもないのだけれど、日記の内容に触発された思考の断片をここに書きそうです。

「共感」(中立)的視線で感受する傾向が強いらしい私(←非・自閉症されど非・一般的)の場合、
その傾向が幼児期からはっきりしていたために、愛着形成が妨げられているかもしれない。
いや、愛着形成が不充分であったから、「同情」的視線で人間を見られなくなったのか。
しかし私は「10歳以前には、他人の期待に応えない決意をする必要があった」くらいに
同情的な洞察力に行動が支配されていた。
PTSDになっているくらいなので、そんな「決意」をせざるを得なかった環境条件が
悪すぎただけだったのか。

「解離的防衛規制の開発、断片的自己規定の発達、感情状態の病的制御」
これはPTSDの場合に見られることとして『心的外傷と回復』から拾った言葉。

いずれにしても、一体感や愛着が感じられない傾向の私は、
当然その裏返しの憎悪や恨みという感情も持続しない。

感受する内容の問題以前に、量の問題がある。
センサーが外界からデータを拾い過ぎ、情報処理量が多すぎる、意味過剰の世界を体験しているらしい。

洞察力が過剰だった為に、同じ程度の被害に遭った他の人がなるであろうよりも、
病状が重くなっているのか。

このように「ものの感じ方と反応の仕方」が一般的で無かった為に、
現在のような病状になっているのではないか、
というのが、治療に取り組み始めてから最近までに浮かび上がってきたことです。
まあシロートの仮説。しかし当事者としての実感。

蛇足ながら、私はドナさんが他の人間を「怒っている」ように解釈する、というのは、
極論すれば本質を捉えているのではないか、と感じてしまう。
動物は「疲れている」「不安だ」等々の時、攻撃的になるものだから。
しかし動物ではあれ、社会という互酬と監視による共同体を作って
或る程度の安全の保証を信じて生きている人間は、それらの状態から、
自分の領域を守る為に即攻撃するような行動に移すことはない。(はず。普通は。)

しかし五感で感じ取った徴候から、危険に対する反応が事実上引き起こされてしまう、
のがドナさんの「解釈」にあたるのかな~、と。
そこにはまた感覚を言語化するプロセスやボキャブラリーの獲得の順序が、
自閉症と非・自閉症の場合に違う、という見えない問題があるのかな~とか。
ドナさんが「木の葉はダンスをしている」と書いている、と知った時は違和感だった。
何故、非人間存在である木の葉にせっかく同化していながら、擬人化するのかな~と。
しかし、彼女が「ダンス」という言葉をどのように自分の言葉にしていったか、という問題かも。
彼女はニンゲンがそれに類する運動を「ダンス」と呼んでいる、と知る前に、
木の葉に同化して身体を動かしていたかもしれない。
しかし本を書く時点では、彼女は、間主観的な表現方法として語彙を用いていたからかも。とか。
[2001年5月20日 18時50分47秒]

お名前: ペンギン   
微細な脳の障害であっても、環境要因などによるものであっても、その「障害」そのものの軽
重よりも、その後の「発達」の経過の方が個人の将来を左右する重大因子になり得る、という
ことなのだ。
けれど、非・自閉症児の場合の「児童期」の関係障害がその後の発達にどれほどの影響を与え
るかということは、関係障害を軽くすることで「自閉症」の元症状をどれだけ軽くできるかと
いう課題と同様に、まだまだ研究が始まったばかりのところなんだろうなあ?

そう言えば、幼児の精神神経医学の専門家の先生でさえ、施設などで育った子どもで追跡調査
が可能だった、ごく少数の事例研究があるだけだと言っていた。(そういう関係の学会で。)
[2001年5月19日 17時14分42秒]

お名前: 一角獣   
下の「診断」が暫定かも、というのは、それでもまだ
「アナタの状態をキレイに説明できる病気の概念が無い。」と言われている為。
精神科においてもマイノリティであることだけは保証されてしまっています。(タメイキ)
しかし病気が治らないこと自体に責任は無いが、生きていることには責任があるので
まだ諦めないですケド。(というか本人が辛いし。)

分類とは便宜的なものです。細分化の一つの試みに過ぎない。
であるならば部分の総和イコール全体では無い。合計は綜合とは違う。
だから一つの分類基準の項目を全て並べても、元の現象を復元することにはならない。
(それは新たな合成物にしかならないでしょう。)

まあ、キュービスム絵画の理屈と同じことで。(←視覚的に物事を考える癖のある私)
[2001年5月19日 7時14分15秒]

お名前: 一角獣   
(*私は非・自閉症、診断はPTSD(暫定かも)です。)

圧倒的な恐怖や不安が極点に達すると、己の抵抗の限界を感じて自己処分。
という判断をするということは。
ワタクシは、
認知の歪みや性格の問題のように「直す」ことのできるわけでもないものを
自力で「治せない」ことが罪責感だったのか。(←今さら目からウロコ)

普通でないことと症状の自覚はあっても、それが常態だし制御可能な範囲もあった為に、
病気だからその改善に自己の責任でない範囲のあることに思い及ばなかったのネ。
もしかしたら、いまだに?(←重症)

しかし病識を持ったからといって医療や社会によって救われることは、また別の問題。
[2001年5月19日 0時22分20秒]

お名前: 一角獣   
僅かな徴候を感じ取った時点で既に体験してしまったと同じくらいの負荷がかかる点が
共通なような気もするし・・・。
PTSD関連の文献では「侵入」、「過覚醒」などと言うらしい。
アクチュアリティの混乱と言ってもいいかもしれない。
しかしリアリティではあるのですが。当事者にとっては。

徴候から最悪の事態を脳内で体験してしまう仕組が、
予期不安付きの被害妄想や回想とは一線を画し、反射的な自動再生システムであるところ、
が共通っぽいかも?

遊びやこじつけで共通要素を探しているというわけでなく、
脳の問題ってそーゆーこと?という仮定に立ってみているのでした。
[2001年5月18日 19時45分9秒]

お名前: 一角獣   
神様=絶対的味方としての内在的他者であり内面の規範の元、と
没我できた感覚世界、生きた象徴体系を取り戻すこと、かな。私の治療目標。

この後者の部分が、自閉者にとっての「こだわり」とも共通する領域かもしれません。

内面の規範は、神様不在の間も堅持しているようですが。
しかし子どもの世界と違って、オトナの社会生活を乗り切るには不利な規範だったかもしれない。
神様って薄情なのね。現実に守ってもくれないのに、私は捨てられなかった。
神様無き神殿を守る巫女ですな。

私の考え方は合理的過ぎるとも言われたが(←医師から)
自己保存、自己保身を目的としていない。
だから罰する方に審判が傾くと自傷などという過程無しで即決行してしまいます。
今のところ結果的に完遂にならなかったからここに書いているけれど。(暗い話で恐縮。)
[2001年5月18日 17時45分55秒]

お名前: 一角獣   
タイムリーです。(←自己都合ながら)
基本的に独り言とみなしてクダサイ。自分でもまとまっていないから。
いやおそらくどのみち、非・自閉症を挟んで自閉症と対照的な構図になってしまうと思いますが。
たまたまご覧になる方の為に、予め申しますと私は非・自閉症でPTSDと診断がついています。
(でもそのケ、というより何らかの非一般的な感覚の働きは生来のものかも。←現状未確認。永遠にかもしれませんが。)

私には記憶にある限り(つまり3歳くらいから?)
「親」というものの側から「認められ欲求」「見返り欲求」「安心したい欲求」の信号が送られてくるのをひしひしと感じていた。
自分が他の人間を指向的行為の対象とする以前に、
自分が他の人間から指向的行為の対象とされていることに気づいてしまったようなのです。
自己を客体化するのが早過ぎた。自己観察の歴史も長いはずです。
自他の未分化な状態から、自己の欲求をどう抑制できるようになるかということよりも
他人の欲求をどうしてやるかということに比重が置かれていたような。
(しかも自分の認められ欲求や見返り欲求との取引きの為では無い。また親=安心ではない。)
当然、「大人」であれ不完全で未熟で不安定な存在だとも知っていた。(これは成育環境の問題かなぁ…?)

自己抑制・社会化の学習過程で媒体としての自我を確立する、という一般的傾向と逆ベクトル。
私の認識には、私の利用価値を認める人間は居たが、存在そのものが承認されているという実感は希薄だったろう。
というか、ものごころつく以前に、やっぱり「乳児の万能感」なるものが欠如していたのかしら?

3歳くらいまでが自分の世界で幸福、親愛の情なども負担になる、というのは
ドナさんの記述と妙に符合するなぁ、と思いつつ彼女の本を読んでいる人間です。
その年令くらいまでは、他人の存在に煩わされずに済んだのだろう。
普通でもこの年令くらいは、連続した自我意識などできておらず半分無意識状態とも言うようですが。

10歳になる前には、もう他人の期待に応えないことを決意するくらいの必要があった。
でないと喰われる。(↑でもこの癖が直らなくてその後も苦労する。三つ子の魂百まで。)
日常的な問題も積もり積もっていたし、その年令以前に復数回犯罪級の被害に遭っていますし。(←暗い話で恐縮です。)

黙っていても分かってくれて守ってくれるはずの私だけの神様も、その時死んだ。
と思うので私は、「良い親」ではなく「神様」の復活に賭けている。どうせ内面のイコンだし。
[2001年5月18日 17時32分49秒]

お名前: ペンギン    URL
療育関係のお話は、繭子さんと狭山先生が同居している私にとっては「思考内語」でも、そう
でない人にはそうではありませんでした。
ということにやっと気がついたので、療育関係の書き込みをする場所を別に作りました。

以後、そういう書き込みはこちらにはしません。
皆様、本当にすみませんでした。ごめんなさい!
[2000年12月9日 16時17分50秒]

お名前: ペンギン    URL
ちゃんと聞かれたら、ちゃんと答えますよ。
自動検索機能付きのアンサー・ロボットだから。

ご主人様がいなくなったって、きっといつまでも答え続けるでしょうね。
愛想つかれて「うるさい!」って言われたって。
[2000年11月20日 8時1分20秒]

お名前: ペンギン    URL
自閉症児の親の皆さんへ!

どっちかって言うと、私みたいに腹くくっている人の方が少ないんだから…。
本人というのは誰でも気安く答えてもらえるなんて、思わないでね。
やっぱり、トラウマ乗り越えて笑い話にできるまでって、それなりの支えとか指導がないと
たいへんな状態なんだから。
[2000年11月18日 19時5分43秒]

お名前: ペンギン   
「質問があるときは」ってタイトルだけど……私は、「質問がないと」答えられない。
メールなどでちゃんと質問してくれれば答えが出て来るとか、掲示板で相談事やキーワードを
見つけたとか、そういうことがないと思い出せない。
早い話が、自分で体系化できないのだ。だから、誰かの解説付きでとか、人の話を受けてでな
いと話せない。従って、ちゃんとした研究者になったり本を書いたりできない。
で、ひとたび回路が繋がってしまうと、後から後からどっと答えが溢れ出してくる。

それが、やたら口数の多い右脳人間の限界です。それが分かったから、もう無理しない。
[2000年11月11日 0時4分34秒]

お名前: ペンギン   
ADHDと「自閉症」が合併している場合の主訴というのは次の状況。

いろいろな情報に注意が向くと同時に直ちに行動をしてしまい、結果としてやりかけの行動の
残骸(開いた引き出し・散乱するゴミ・積み重ねられた書類の山…)が至るところに証拠とし
て残っている。しかし、自分がいったい何をしていたのか忘れてしまっている。
さらに、注意の指向性が局限されていることや状況認知の弱さ、自分が何をすべきなのか具体
的な手順として指示されないと分からないために、今自分が何をしていたか思い出しても続き
から始められない。 

※更に、その続き。
[2000年11月8日 9時36分56秒]

お名前: ペンギン   
ADHDの診断基準は、
http://www.stagweb.com/ganbaru/ken_shiyougai/shindan.htmlにある通りです。
それから、「自閉症」の注意の障害は、
http://www.nhk.or.jp/nhkvnet/youyou/fix/fix_1009.htmlにあるように、特定の部分に
「注意」が集中してしまっていることが主な原因です。

でも、↑ではどっちも同じに見えてしまうって言われそうなので説明します。

自閉症といった他の障害に起因するものではないADHDの「注意」の 特徴は、「注意の転動
性」に「多動」と「衝動性」が結びついているところにあります。
というのは、いろいろな情報に注意が向くと同時に直ちに行動をしてしまい、結果としてやり
かけの行動の残骸(開いた引き出し・散乱するゴミ・積み重ねられた書類の山…)が至るとこ
ろに証拠として残っている。しかし、自分がいったい何をしていたのか忘れてしまっている。
けれど、それを思い出せば続きから始められる。・・・というところです。

それから、下記の項目は一見「自閉症」と同じように解釈されがちですが、原因が全然違いま
す。
>直接話しかけられた時にしばしば聞いていないように見える。
>(例えばおもちゃ、学校の宿題、鉛筆、本、道具など)課題や活動に必要なものをしばしばなくす。
>しばしば教室や、その他、座っていることを要求される状況で席を離れる。
>しばしば、不適応な状況で、余計に走り回ったり高い所へ上がったりする。
>しばしばしゃべりすぎる。
>しばしば質問が終わる前にだし抜けに答えてしまう。
>しばしば順番を待つことが困難である。
>しばしば他人を妨害し、邪魔する(例えば、会話やゲームに干渉する)。
※「自閉症」では、主に注意の指向性が局限されていることや状況認知の弱さ、自分が何をす
 べきなのか本人の理解のレベルに合わせた具体的な手順として指示されないと分からないこ
 とから起きている。

それから、これは明らかに「自閉症」とは違うことが明記されているところ。
>しばしば指示に従えず、学業、用事、または職場での義務をやり遂げることができない(指示
を理解できないためではなく)。←「指示を理解できていない」というところ。
>(学業や宿題のような)精神的努力の持続を要する課題に従事することをしばしば避ける、嫌
う、またはいやいや行う。←「精神的努力の持続」はいとわないはず。
>”またはまるで“エンジンで動かされるように”行動する。←興奮の状態が違う。 

※↓の書き込みの続き。
[2000年11月8日 9時34分41秒]

お名前: ペンギン   
【ウチの長男の場合。】「自閉症」にADHDが重複していると、以下のような特徴がある。

ADHDの「注意の転動性」で目的に添った系統だった行動が完遂できないところに、「自閉
症」の状況認知の弱さが加わって、全く何をしていいかわからなくなりパニック状態になる。
ADHDの「多動-衝動性」で興奮状態に陥った時の行動の奇妙さが、「自閉症」があるため
に極端に暴走して生半可でなくなる。


【ウチの次男:生まれた時から「自閉症」児&者に囲まれて学習させられてしまった面もある】
逆に、視線回避やこだわりや言葉の遅れなどがあって、行動上は「自閉症」的に見えてしまう
場合。

ADHDの「注意の転動性」で、やることがどんどん変わって行くけれど、指摘されると容易
に続きから始められる。
ADHDの「多動-衝動性」で興奮状態になっても、乱暴&ヒワイになるだけで、人格的な崩
れはみられない。
それから「こだわり」といっても、感覚的な常動行動や身体的な幻奇的行動はみられないし、
パターン化もしない。ただ、認知の遅れがあるのと論理的な思考が苦手なので、興味の対象が
一時的に限られているだけ。出来ることが少ないだけでなく、精神的な負荷を伴う持続的な努
力を避けたがる、一方、興味があって出来る事になら「注意」を集中できる。

それだけなんです。 

※アサクラさんの「星空掲示板」に書いたことの転写。
[2000年11月8日 9時28分50秒]

お名前: ペンギン   
だけど、自分に向かって発せられた「言葉」「視線」「身振りや手振り」に自然に注意を向け
られないという、「注意」の「指向性」(こっちから向ける方ではなく、こっちに向けられて
いることに気づくかどうかということ)については、どっちにも有り得ると思う。
それと、「図-地の認知障害」もどちらにもあるように思う。ただ、ADHDだといろんなも
のからいろんなところを「情報」として受け取って、それにいちいち反応して行動してしまい
本来何をしていたのか忘れてしまうのに対し、「自閉症」では普通の人が注意を向けないよう
な要素や部分が際立った「図」として認知されているというのが違う。

それから、「自閉症」の場合は、注意を外界に向けて「情報」を入力しようとする時に細かい
要素や部分の寄せ集めになってしまって、必ずしも一つのものとしてまとまっていないものを
合成してしまうこともある。
例えば、通常の人の可聴範囲外の音まで聞こえてしまっているとか、複数の人の喋り声の音が
合成されて聞こえてしまっているとか、あっちこっちで会話している人のしゃべり声の中から
聞こえて来る単語だけ聞き取って(自分が会話のメンバーでもない)別々の人にランダムに答
えてしまうとか。
ADHDでは、こういう「音」や「形」が分解されてしまうことによる混乱は起きていないよ
うに思う。
[2000年11月8日 7時29分42秒]

お名前: ペンギン   
「自閉症」の注意の障害が、ADHDの注意の転動性と違うのは、まず第一に「自閉症」の
場合は注意を向けられる範囲が狭くて指向性があり、注意をどこに向けるか選択しているだ
ということ。
それから、もう一つは、場面や瞬間ごとに切れ切れになっていて連続した像を結ぶのが困難
ということ。まるでコマ送りとか、スライドのように固定化された状況認知をしているので、
注意が転動しているわけでもないのに前後の脈絡がつかないのだ。
[2000年11月8日 0時42分44秒]

お名前: ペンギン   
おっと、「やたら多くなって」でした。
[2000年11月7日 22時48分21秒]

お名前: ペンギン   
つまり、「診断基準」がどうのこうのということじゃなくって、本当に「自閉症」を分かって
いる人が使っているか、実物を見たこともないのに字面だけ読んで当てはめようとする人が使
っているかの違いなんです。
実物をいーっぱい見ていれば、「なるほど、これはそのことか」ってよーくわかります。でも、
書いてある事をそのまんま受け取ると、全部そのまま該当する人はDSMではものすごく少な
くなるし、ICDではやたら多ってしまうでしょう。
[2000年11月7日 22時46分35秒]

お名前: ペンギン   
だいたい、人が人に自分の事を説明する時には、まず「診断名」の内容を理解して、そこから
その人を理解しようなんて言う、アスペ的な発想をするわけじゃあありませんから。
「その人がどういう状態で、どういう問題を抱えていて、どうすればいいかの説明がついて、
実際その通りになる」ということが大事なんですから。
そりゃあ、医者ならば、「診断」を下すことで処方する可能性のある薬を考えなければならな
いから、そこに誤診すればその薬が効かないことになってしまうでしょう。だから、こちらは
医者を選ぶ。
でも、教育や生活をするのは、医者の処方箋ではなく≪本人≫の抱えている困難についての正
確な知識と「直感的対応」ですから。
[2000年11月7日 22時37分48秒]

お名前: ペンギン   
まあ、いいんです。
もう私の取る立場は決まっていて、裏付けが出来ているので。
ただ、"この道"の最先端過ぎて、一般のレベルが追いついていないだけなので。

要は、ごくわずかな「自閉性障害」の徴候を見抜いて、それなりの対処をすればいいんです。
そして、そこに「自閉症」のものではないADHDの基準を満たす「多動」「注意の転動性」
「行動の衝動性」が見られたら、ADHDへの対応もすればいいんです。
どっちにするかを議論するのは、「自閉症」の持つ「社会性の障害」の重大性を軽視し過ぎて
見逃してしまっている人たちだけですから。「自閉症」の本質が何であるかを知っていれば、
まず一も二もなく「自閉症」であることを「診断」し、診断からは除外されたってADHDが
あればADHDへの治療も同時にすればいいんです。重複しているのは事実だから、別に併記
する必要もないってことです。だって、事実は事実、あとは書くか書かないかの違いだけです。
[2000年11月7日 22時14分26秒]

お名前: ペンギン   
そのいう曖昧さにヤッキリすると、また外線がブチッと切れます。
[2000年11月7日 18時19分28秒]

お名前: ペンギン   
どうやら、皆さん「自閉症」の注意の障害・多動と、ADHDの多動・注意転動・衝動性とを
完全にごちゃ混ぜにしているみたい。
それから、「認知の障害」とその「障害」を引き起こす原因とを混同している。

これでは、いつまでたっても堂々巡りを繰り返すだけ。
それもこれも、軽微な「自閉性障害」を見抜ける医者があまりにも少ないから!
[2000年11月7日 18時2分48秒]

お名前: ペンギン   
質問の後追いをいつまでもダラダラとしてしまうのは、初日には「音声」の断片の再生で
済んでいたものが、「質問」の再生産に変わって行くからのようだ。
それで、補足説明が増えるのは良いけれど、余計なことを思い出すことと眠れなくなるこ
とは厄介なので、やっぱり薬で止めるしかない。
[2000年10月31日 4時38分20秒]

お名前: ペンギン   
聞くだけ聞いて結果を報告しないのは、地球人には「普通」のことらしい。
[2000年10月7日 11時23分40秒]

お名前: ペンギン   
針が授業時間の範囲に入っている間は、授業時間。
その範囲を出てもまだ授業が終わらないのは、おかしい。
[2000年6月8日 4時20分50秒]

お名前: ペンギン   
アナログ時計だと変化が視覚的に分かりやすいから、「何らかの行動を指示する記号」になり
やすい。マカトン法の絵と同じ効果がある。
時間の流れはデジタルな「今」の連続だから、デジタル時計を見たりアナログ時計の音を聞い
たりしていると永遠に「今」が続いてしまって、質的な変化は永久に起こらない。
けれど、アナログ時計の針の位置関係や形の変化を視覚的に捉えた時だけ「時間」の質が変わ
る。例えば、12~10までは授業時間、10~12までは休み時間という風に。
[2000年6月7日 22時3分50秒]

お名前: フリーラジカル   
私はアナログ時計、好きだなあ。
時間を「針と文字との間の距離」という「量」で実感できるもん。デジタル時計だとやっぱり
「時刻」になっちゃって、時の流れを実感させないよね~。
[2000年6月7日 12時10分0秒]

お名前: ペンギン   
【「○○アスペの会」での質問の答えの続き】

私の場合の英単語の覚え方
◎基本的に、読み(発音)・書き(スペル)・意味をそれぞれべつの手順で覚えます。
1、まず、単語を凝視して全体の形を記憶する。
2、スペルは自分なりの法則に変換する。
  例:school=「s」は「ス(音)」+「ch」は「ch(形)」+「oo」は「ウー(規則)」
         +「l」は「ル(音と形)」←これがrでないのは、全体の形で規定。
3、読みは読みとして覚える。(読む時には読むだけでいいので、これで十分。)

【時計と時間の関係の続き】
〇基本的に「今」しかなくて、記憶もスライド写真の集合体でしかない。フラッシュバックで
 止まっていた一場面を想起すると、それが突然ビデオ化して再生される。その場面の再生が
 終わると、関連した場面や類似した場面の再生が始まる。
〇アナログ時計は、図形や形でしかない。あるいは、何らかの行動を支持する記号でしかない。
 初期のデジタル時計(パタパタめくれていくタイプのもの)を始めて見た時には感動しまし
 た。「これこそ時間だ!」って思いました。←でも、良く考えたら、これは時刻でしたね。
 それから、カチカチ音のする時計は音に合わせて針が動く機械として見ていました。
[2000年6月7日 7時55分2秒]

お名前: ペンギン   
やっぱり、質問されてから本当の答えが出てくるまでには、半日はかかるな!
[2000年6月5日 9時45分37秒]

お名前: ペンギン   
こっちで「聞かないで!」なんて言っておきながら、自分はふらふらとあっちこっちに
出かけては、またこっちに帰って来る。
(へ、やっぱりアスペじゃん。)←私ってこんなヤツです、すみません。
[2000年3月13日 13時50分4秒]

お名前: ペンギン   
そうだなぁ、ちゃんとした方法で聞いてくれる人って、アスペのことをよく知っているお医者
さんだけかな?(そういう人に接しなれている、ってことで。)
たいていの人は、ここでずらずら書いているから、ズバズバ聞いてもいいように思って平気で
聞いてくる。
日常の生活なら、知っている人がいない中にいるのに慣れているし、家を出る時にモードを切
り換えているのでいいけれど。ここに行けば配慮してもらえると思って出かけた先だと、すご
くグサグサ来るんだけどなあ。
それから、親向けの発言と本人向けの発言は違うし、普通になりたい真っ盛りの人とそう成り
切れなくて悩んでいる人とでは受け取り方が違うし、スペクトルのどこにいるかとか他の障害
との複合の度合いによっても違う
けれど、聞く方はその中のどこか一箇所の視点で聞いて来るし、他の人に向けた発言も自分に
引っ掛けて解釈して聞いてくるから、またまたややっこしくなってくる。
でも、一番困るのは、非自閉の人から一方的な抗議が来ること。その度に、≪エゴなし族≫の
悲哀が始まってしまう。
[2000年3月9日 8時15分33秒]

お名前: オオカミペンギン   
無料の「自閉語」解説はこっちが自分から始めたことなので、子供たちがタダで幸せになれ
るのならば、いくらでもしてあげたいと思っています。
でも、解説者でも弁護士でもない現役の子供本人にまで、軽々しく聞かないで欲しいと言っ
たつもりだったのでした。
それから、やっと「自分と同じ仲間」を見つけて、やっと清々「自閉語」で会話できる場所
を見つけて大喜びしているところに、「やめてくれ!」とか「教えて!」とか言わないで欲
しい。だって、ここでしかやっていないし、ここでしかできないのだから。
現実の生活では、なかなか上手くはいかないけれど、とってもとっても気をつけているのだ
から。
[2000年2月26日 11時30分44秒]

お名前: オオカミペンギン   
できれば、オオカミペンギンには質問しないで欲しいな。
あ、本人さんに言ってるわけじゃあありませんよ。
だって、本人ならわかるでしょう! 
一人になりたくなったり、放っといてもらいたくなる気持ち。
独り言を言っていたい時もあれば、誰かに聞いてもらい時もあるってこと。
[2000年2月24日 13時22分58秒]

お名前: ペンギン   
クドイようですが、ってホントにクドイです。
私が後になってこうやってダラダラ書いているのは、その場で聞いて欲しかったのに言えなく
て悔しいからではありません。
だいたい、「聞く」時は「聞く」一方で、「聞きながら思い出したり考えたり出来ない」ので
す。しかも、取り立てて考えているわけでもないのに、2~3日後に突然考えが浮かんできて
ウルサイので、こうして書いているというわけです。
でも、「急に言われてもワカラナイ」と言えるようになっただけ、進化していますよ。
[2000年1月28日 13時49分59秒]

お名前: ペンギン   
そしてまた、連邦市民は地球人より個性が豊かなので、一人一人趣味が違うのです。
(でも、見る人が見れば、連邦市民は一目でわかるし、やっていことはだいたい一緒だそうで
 すが…。つまり、理屈の部分では同じなのです。恐らく、それが診断基準だからでしょう。)

ここのテーマと話題が離れたので、私のヘンな趣味については「ひとりごと」の方に書きまし
た。タイトルは「ひとりごと」ですが、みんなの「ひとりごと」が集まってくれるといーな。
[2000年1月27日 7時27分40秒]

お名前: ペンギン   
それに、流行っているものを追っかけて、みんなが持っている物と同じ物を集めるとか、誰し
もが欲しがるものを持っているとか、そういう地球人の文化は一切無視だからね。
同じ石ノ森章太郎ファンでも、みんなが『仮面ライダー』に夢中になっている時に、私は『サ
イボーグ009』が良くて、しかも毎日4巻と9巻ばっかし繰り返し読んでいたんでは、会話
にならない。そもそも、少女マンガなんか大嫌いだったしね。
[2000年1月27日 6時14分55秒]

お名前: ペンギン   
そうだよね~。この世界でオタクになれる人って、適応能力の高い人だと思うよ。
どうも私は、オタク道を極めるだけの能力が備わってないらしい。モノの価値ではなくて部分
に固執してしまうから。目の付け所が違うから、いろんなモノがちょっとずつ有る。でも、私
としては一つのものを極めているつもりなんだけどなぁ。
[2000年1月26日 18時40分21秒]

お名前: F8   
優越感にひたっていたころも、すべての性質が肯定できてたわけではなかったので、
そうだねえ、CDくり返し聴きとか、本のくり返し読みとか、
場所も相手もわきまえず、そのとき夢中なことを一方的にしゃべるとか、
そういう性質はこれっぽっちも肯定できなかったよ。

だって、音楽オタクの世界で地位を確立しようと思ったら、
一つでもたくさんの音源を知らないと無理でしょ。
一曲をガンガン聴きこむというのは、楽器弾く人たちがやることなんだよね、
フレーズをコピーするために。
楽器を弾かない、聴くだけの音楽オタクには、はまり聴きはかえって不利になるのよね。

本についても同様で、
1冊でもたくさん読んで偉そうな顔をしようと思ったら、
同じ本を100回読んでいたのでは、不利でしょう。
だから、直そう直そうって努力したこともありましたね、優越感を支えるために。
なかなかメンテに投資の要る優越感だったのかも(爆)

そういう件について、救われたのは、やっぱりANIとANIのメーリングリストのおかげです。
「なーんだ、これでいいのか!」っていうわけで。
私がそれを宣伝しまくるのは、自分が救われたからです。
私のオリジナルではないけれど、実用的ではあるからね。
[2000年1月25日 8時45分25秒]

お名前: ペンギン   
怒りと優越感の違いって、そりゃ、あーた、
「否定形」と「定型」じゃなかった、「否定形」と「肯定形」の違いでしょ。

やっぱ、開き直りが早かったあんたはエライのだ。こっちは、ちょっと悪あがきしすぎた。
でも、お陰様で、同じマンガの本を半年も読み続けるとか、毎日同じCDをかけ続けるという、
かつての生活に戻ることが出来て、命拾いしているのだ。ほんと、あんがとさん!
[2000年1月24日 17時17分4秒]

お名前: F8   
わかった結果が「↓のような配慮」しか選択肢がないわけじゃないしさ。
「↓のような配慮」は必ずしも幸せじゃないかもしれませんが、
そこへ至ることになった「発見そのもの」には、実用的な価値があると思います。

比較するなら、「配慮」と「わからなかったがゆえの怒り」を比較するより、
「わかった状態」と「わからなかった状態」だけを抜き出して比較する方が、
単純な模式図が描けそうです。

ついでに言えば、私の場合は、わからなかったときの反応も、
「怒り」ではなく、もっと楽しい優越感でした。
でもそれって、気質による違いではなく、
たまたま出会った環境によるものが大きいかもしれない。

だからなおさら、「どっちが幸せか」は比較しづらいです。
[2000年1月24日 11時0分3秒]

お名前: ペンギン   
特定の誰かか誰でもない誰かと、特定の話題の会話しかできないというのは、ずっと前から同じです。
でも、たくさんの人が相手だとどう言ったら良いか分からなくなってしまうというのは、最近の発見です。
何となくイヤだと思っても、本当に見るのもイヤになって、「だったら、やめたら」と人に言われるまで、
自分の気持ちに気づいていなかったことも、つい最近の発見でした。

でも、こうやって、人に言わずにダラダラ書くことは、ずーーーっと昔からやっていました。
[2000年1月24日 10時55分14秒]

お名前: ペンギン   
勘違いの真っ只中で、「どうもオカシイ」とうすうす感じながら「何故、私の言うことは意見として載っても
採用されないのか」と怒っていた頃と、↓のような配慮をしてしまう今とでは、一体どちらが幸せなんでしょうね。

ま、どっちもどっちってとこでしょうか。
[2000年1月24日 10時36分4秒]

お名前: ペンギン   
と言いつつも、その実態は、お釈迦様の手のひらに乗せられた孫悟空だったりするのだ。
あるいは、一人で威張っているけれど、本当は糸が無いと動かないピノキオかも。

私も何とかやっていますが、ホント皆さんよくやってくれています。
[2000年1月16日 15時44分15秒]

お名前: ペンギン   
そーなのらー、その場その場で何となく居場所を見つけて、何となく収まって生き延びて来たのらー。
今は、自閉ネタとゲームネタを書いたり喋ったり出来て、CDが聴けて、イヤなことは「イヤ」と突っぱねて、メシが食え
さえすれば、どこで誰と居ようと関係ないのだ。仕事を早く片付けて時間をやりくりしなくっちゃってことが最大の関心事~♪
なーんちゃって。

あ、そうか、F8って8階のことだったのか~!
[2000年1月16日 10時38分41秒]

お名前: F8   
そりゃあーた、私は常に、「自分のいる場所こそ、8階」と信じて疑いません。
これこそ究極の自己中心主義(笑)
登ろうが降りようが、8階。
[2000年1月16日 10時6分16秒]

お名前: ペンギン   
そうだなぁ、2階に上がったら上がったで、その中で「めぼしいモノ」を物色し、
はしごを外されて戻れなくなって、そこからまた2階に上がって「何かに」夢中になって、
知らない内にはしごがなくなっていて、またそこから2階に上がったら「忙しくって」我を忘れ、
気がついたらはしごが壊れていて…。
さて、今は、何階にいるのだろう?
[2000年1月15日 22時42分49秒]

お名前: ペンギン   
ましてや、その場で一応は即座に答えることはできても、相手が聞きたかったことは何だったか分かるとか、自分が
本当に言いたかったことを思い出すのは、その後だということ。それから、こうやっていつまでもネチネチと考えて
しまうこと(でも一昔前なら、きっと30分に一回電話していた。それに比べればマシ。)、そのことをメールに書
いてお願いできること。
夢のようだ!
[2000年1月15日 8時45分31秒]

お名前: ペンギン   
でもやっぱり、世の中がアスペのことを知れば知るほど排除されるんじゃないかっていう不安がある。
他では、こんな風に大事にされることもないし、自分の経験が役立つこともない。だから、聞かれることもない。
だって、人の顔が覚えられないことや当たり障りのない世間話ができないことや人と親しく出来ないことは、
「悪いこと」で決して自慢にはならない。それが出来なくて当然だと言えるのは、とってもウレシイ。
でもねぇ、またおだてられて調子に乗って、結局「自分の子供のことが知りたい」とか「自分の子供だけが
何とかなってくれれば良い」という親のエゴに利用されているだけかもしれない。
だって、今はたまたまこのスポットに上手くハマッてこんなことをしていられるけれど、土台のブロックが
一つはずれただけでも、誰一人理解してくれる人も打ち明ける人もいない日常に引き戻されて普通の顔をし
ていなければならない生活だけになっちゃうのだから。
[2000年1月15日 8時13分59秒]

お名前: ペンギン   
そういえば、それまでただ何となく「イヤ」だなぁと思っていたのと同じ様に、何が好きだってことも自分で分からなかった。
ミニカーも電車もポケモンもゲームもミニチュアやフィギィアも光の点滅も、み~んな子供が欲しがるから、とか療育と友達
作りのためという理由をつけて買っていたんだけど、実は自分自身が好きで集めたかった。そんなことさえも、他のアスペの
人に言われて初めて気がついた。
きっと、子供がアスペだったから自分のことに気づいただけでなく、子供のアスペのお陰で、自分自身が救われていたのだった。
(ただひとつ「音」だけは共感するところが少なくて、最後まで自分で「禁音」していた。だって、他のことができなくなって
しまうから。)
そんなわけで、連邦市民としても地球人としても下っ端になってしまいました。
[2000年1月15日 6時6分1秒]

お名前: ペンギン   
そういえば、「言いたくないことは言わなくて良い」って、始めて言ってくれた人は、辻井先生が紹介してくれた精神科
の先生(いわゆる私の主治医ってこと)だった。その次が辻井先生だった。それで気がついたんだった。今まで、本当は
良く分かっていなかったり、どうしてこんなことを言うのか納得していないんだけど「言わなければならない」とか
「普通こう言うものだ」とか「こう言わないとおかしいから仕方ない」いうパターンの繰り返しや、ハッキリ言わずに
ごまかして乗り切って来たことが「言いたくないこと」や「言わなくて良いこと」だったことに、その時始めて気が
ついたのだった。自分にそういう気持ちがあったなんて、そうやって言葉にしてもらうまで分からないでいたんだった。
書く時には、意識的・無意識的に避けて通れるけれど、対面して聞かれると何か答えなければならない。だから、人って
面倒なんだ。メールや掲示板だと、書きたくないことにはコメントをつけなくても良いけれど、実際に人が何かを言って
くる時って、「聞いてもらいたいこと」「分かってもらいたいこと」「答えて欲しいこと」、つまり「気持ち」があって
それを逆立てると怒られる。自分の言いたいように言うとたいてい非難されるのでマズイ。なのに、何故か地球人たちは
結構キツイことを言い合って楽しそうにしているのが、どうしてなのか全然わからなかった。でも、何か「言わなければ
いけない」って、ずっとず~っと思い込んでいたんだった。私は、こうやって地球人たちに一生懸命合わせて来てしまっ
たので、随分前から強迫観念にがんじがらめになっていてうつ状態に陥ってしまっていたのに、そのことさえ気づいてい
なかった。
それに、自分が本当にやりたいことはみんな「やってはいけないこと」で、「やりたいと思ってもいけない」と言い聞か
せてきたことが、自閉文化圏では「あたりまえのこと」だったと知ったのは、静岡の学会の会場で、始めて村上さんや
F8さんに会った時だった。その時も、辻井先生はニコニコしながらみんなを見ていたっけ。(でも、翌日会った時
には誰だか全然分からなかったけど。)

私は、全く普通の地球人に思われていて、普通の地球人のように振る舞って来たので、半分地球人化してしまいました。
だから、不都合が少ないかもしれない。けれど、払った代償はやっぱり大きかった。その分、謎解きのパズルが完成し
た時に分かったことが、たくさんたくさんあるんです。
[2000年1月14日 22時22分57秒]

お名前: ペンギン   
それから、どういう状況が「居づらい」とか「気まずい」とか「近づかない方が良い」とか「行ってもムダ」だとか。
そして、その原因は何かってことも。でも、どうしても行かなければいけない時は、下手に悪あがきをしない知恵が、
最近になってやっとついた。
[2000年1月14日 18時38分22秒]

お名前: ペンギン   
そうそう、最近、イヤな場面を避けるようになったんだ。これは、すご~い進歩。
[2000年1月14日 18時19分15秒]

お名前: ペンギン   
>だから、お金をだまし取られたりとか、
>変だなーと思いながら、ずっと何年もこきつかわれたりとか、
>わからないまま嫌いな人とずっとつき合ってたりとか、

↑これ、他人事じゃあありませんよ。こういう文を見ると、いや~な気分です。ちょっといろいろ思い出してしまいます。
(F8さんには一切責任はありませんから、気にしないでね。)

だいたい、そんなにデリケートなものだと思われていないから、丁寧に扱ってくれるなんて普段はありえない。
人種が違うことさえ、そもそも気づいていないんだから。
それに、手順を踏んで傷つかないように聞いてくれる人って「アスペの会」関係者のよく知っている人だけだけど、
それでも、後々ず~っと尾を引いたり怒ったりしているのはこちらの側の問題だから、文句言っても始まらない。
[2000年1月14日 18時13分51秒]

お名前: ペンギン   
そりゃあね、オカシイなと思いながら我慢して続けたり、言わなければと思い込んで無理して喋ったり、なんてことを
さんざんやって来て、最近やっと気づくようになったんですよ。ドナさんの本を読んでからですけどね。
会話するなら、お互い全く相手を知らない初対面同士か、実際に会ってどういう人かよ~く知っていて安心できる人か
のどちらかじゃないと、私はダメです。中途半端だと誰が誰だかわからないし、相手に合わせられないので、だいたい
どちらかが怒って終わります。
[2000年1月14日 17時52分8秒]

お名前: F8   
聞かれて答えやすいセッティング、かつ、
聞かれていやなことを答えずに済ませやすいセッティング、となると、
やっぱり公開の場で、質問相手を特定せずに、ってやつですね。
解答者候補者が大勢いて、「どなたかー?」だと、
いくら私でも、初めて、ちょうどいいバランスをとれます。
[2000年1月14日 16時56分48秒]

お名前: F8   
私はその辺ダメですね<聞かれたくないことと言いたくないことは、
           口が裂けても言いませんから

イヤなことは言わなくて良いとか、
イヤなことはしなくて良いというのが、
なかなかわからないみたいです。

だから、お金をだまし取られたりとか、
変だなーと思いながら、ずっと何年もこきつかわれたりとか、
わからないまま嫌いな人とずっとつき合ってたりとか、
昔はそんなこともありました。

きかれたことには答えるものだ、言われたことはするものだ、と思っていて、
(「決まりは守るものだ」ってのといっしょ)
自分が嫌だから断るっていう発想はなかなかリアルタイムだと上手に出てこないです
[2000年1月14日 16時52分32秒]

お名前: ペンギン   
質問をされるのは、多弁症アスペの宿命でしょうか?
お陰で、自閉症なら「コミュニケーション障害と想像力が欠如しているから、受け答えできるはずがない」
と思っている想像力の欠如している人達の矢面に立たされてしまいます。
それから、こうして書きまくっていると、自分から書いたり喋ったりするのは良いけど聞かれるのがダメ
だということを、ついうっかり忘れられてしまいます。普段、言語表現が苦手なアスペの子供達とばかり
接しているのに比べて、気遣い不要に思われがちです。
でも、念のため言っておきますが、ちゃんとした手順を踏んでくれさえすれば、聞かれることがイヤなわ
けではないのです。聞かれたくないことと言いたくないことは、口が裂けても言いませんから、ちゃんと
分かっている人が聞いてくれるとウレシイのです。
[2000年1月14日 11時48分29秒]

お名前: ペンギン   
それから、どーしても収まりがつかなかったので、下に書いたという次第。
でもさー、「顔」と言われて思い出すことがいかに少ないか、考えさせられるいい機会だった。
日頃、一番苦手にしていることは自分に欠けているものがあるからだし、最初に聞かれた時に、
「どうやって覚えているか」ではなくて「いかに顔を覚えられないか」を一生懸命喋っていた
ことに、今気がついた。
そういえば、『ガイドブック・アスペルガー症候群』の顔が一杯並んでいるページ、気味が悪く
て見れなかったっけ。

だめだ、しばらく「顔問題」が頭から抜けそうにない~!
[2000年1月13日 7時59分50秒]

お名前: ペンギン   
あちゃー、こっちは追い電話だ! それから質問とお願いのメール…。
[2000年1月13日 5時46分43秒]

お名前: F8   
結局ね、耳の話を、あとで思い出して追いメールしたんですよ。
向こうも呆れていたのではないかと思うが(笑)。
[2000年1月12日 22時27分35秒]

お名前: F8   
ま、ワシの場合、二階だろうがどこだろうが、
そこに定住してしまったりするからな。
「登ったのは自分の責任なのさ」と思っているかぎりは、
はしごを外されても、比較的さわがずに済むことは多かったような気がします、
これまでの人生。

だいたい、二階に登ると景色が変わるので、
まったく別の物が見えて、別の物が欲しくなったりするんだよな。
[2000年1月12日 22時25分37秒]

お名前: ペンギン   
まあ、おだてられれて、調子に乗って2階に登ったら「はしご」をはずされた~!なんてことにならなければ
いーんです。なんて、いつもこのパターンだったから、人を疑うだけでなく自分でも「待てよ~」と思うよ
うになったのは、進化の証カモ!?
[2000年1月12日 19時40分52秒]

お名前: ペンギン   
急だったので、気がつかなかったそうですよ。
私も、いろいろやってみて、どういう反応をするか探りを入れているんじゃないかと思いました。
でも最近、自分でも、自分を観察する癖がついてしまって困っているんです~!

それから、携帯電話は他の人の声ならそんなことないんですけど…。でも、怒っていないのを確認
して、一安心。
[2000年1月12日 19時27分42秒]

お名前: F8   
そうだそうだ。

以下同文。

専門家でも知らないんだもんねえ。
いや、知ってて合わせないようにしているのか?
慣らすのが訓練だと思って(笑) なんて、意地の悪い解釈はやめておこう。
[2000年1月11日 14時22分38秒]

お名前: ペンギン   
質問って言っても、対面とか電話など、口頭で答えなければいけない時の事だけど…。
急に聞かれると、その時は考えがまとまらなくて、後になって聞かれたことが音声を伴って
頭の中で再生され続け、それからず~っと答えを探し始めてしまいます。
できれば、質問内容を事前に知らせて欲しいです。「考えておいてくれ」って。
それから、携帯電話は音の幅が薄くて声の響きがカットされてしまうので、怒っているよう
に聞こえて精神衛生に良くないです。
(いつまでも質問の後追いをするのは、薬を飲むと止まります。でも、怒った感じの声は止
まりません。きっと、次に会って怒っていないことを確認するまで残るでしょう。)
[2000年1月7日 22時28分59秒]

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