「心」の理論が欠けているわけではないけれど…。

  1. 人には、物とは違って「心」がある。【我、思う、故に我あり】なんていうデカルトの言葉を持ち出さないまでも、自分に「心」があるというのは、誰にとっても明らかで、疑いようもない事実です。
  2. しかし、自分と同じ「人間」らしきもの="他人"の「心」は、感覚器官を通して入ってくる物理的な情報を組み立てなおして、自分の中で再編成しなければなりません。それをするのもまた、自分の「心」のはたらきです。

「自閉症者」に「心」がないわけではありません。心の世界の奥行きは他の誰にもひけをとらないほどに広がっています。その「自閉症者」に、「心」の理論が欠けていると言われるのは、上の2にあたる、他人の心を認知する過程と、推察する過程に何らかの困難があることをいいます。

一口に「心」といっても、いろいろなレベルがあります。普通、「人の心が解る」というのは、他人が何を考えていて・何をしようとしているかが解る、ということです。また、「アイツにはココロがない」と言う時は、義理人情がなく情け容赦のない人を示します。それに、文化的背景を持ったココロというのもあります。日本人なら誰でも持っている共通のモノの見方・感じ方を「日本のココロ」と言うし、親としての共通の思いを「親ゴコロ」と言います。

しかし、ここで言う「心」は、そんな高級なものではありません。もっと低次元の、人間としての基本的な認知能力のレベルのことなのです。

  1. 物理的情報の中から、人と物を識別する能力。
  2. たくさんの人の中から、有益な人とそうでない人を識別する能力。
  3. 他人の気持ち(心)を感じ取る能力。
  4. その、他人の気持ちに対して自分がどうすればいいか判断する能力。

これらの能力があって、始めて、人は他人の気持ちに反しない社会的な行動をとることができるのです。上手くできる人は、多くの人の気を惹きつけ、好感を持たれる人気者になります。しかし、「自閉症者」が引き起こす日常的なトラブルの多くは、この能力の欠陥に起因するものです。

人と物の区別ができて、他人を、意志を持った「人」と認識して接することができたとしても、正確さという問題が残ります。あるいは、好ましさと言った方が良いかもしれません。そして、不正確で好ましくない認識しか持てないのは、社会生活上の困難の原因になり、本人にとっては大問題に違いありません。

かといって、臨床上、人間関係に悩んでいる人すべてを障害にしてしまってはキリがありません。そこで、どこまでクリアーできるかという「基準」を設けて、いろいろな診断が下されるわけです。しかし、ここは、診察室ではないので、病名は何であろうと問題にはしません。ここで取り上げるのは、「心」の理論を獲得できていないわけではなく、何らかの理由で正確さに欠ける「心」の理論を持ってしまった人の話しです。

「注意欠陥障害」や「LD」も、人の気持ちが解らないことが大きな問題になります。感覚レベルでのインプットが少ない、情報を統合する力が弱いという点=ソーシャルスキル・トレーニングでカバーできるところまでは、ある程度、共通しています。目につくような問題行動をやめさせたり、防いだりする効果はあります。しかし、それはどう説得していいか判ったにすぎません。本当に理解できるかどうかは、また、別のことなのです。

では、その上さらに、「自閉的」な障害があって、他人の「心」の理解に困難があるとは、どういうことでしょうか? 残された点は、人との関わり方の違いです。いくつか、例を挙げてみます。

1.「自閉症者」でも、嘘をつきます。といっても、人をだますための嘘ではありません。自分の身を守るための嘘です。いくら怒られても、何のことだか解らなかったり、解っていても"してしまう"ことがあると、隠そうとします。怒られそうなことを避けようとして、顔色を伺うこともあります。でも、人をだまそうとすると、"にやけて"しまうので、結局、人をだますことはできません。

人には「心」があって、からかってみたい気持ちはあっても、他人の視点に立てなくては、バレて当然です。それに、相手がどこまで知っているか計算出来ずに、だませるはずもありません。たいていは、誰かがやっていてウケテいたのをそのまま真似るか、言葉の遊びでアレンジしたものです。既にバレバレで興ざめになっているところから始めるので、なおさらです。これは、他者からの視点を持てないがために、視点を切りかえられない例です。

2.他人の心の動きを推測できないというよりも、自分の主観が優先しすぎていて、ついつい自分の気持ちを言ってしまうことがあります。例えば、「ケーキが好きだ」と言ったので買ってきたのに、「いらない」と言って怒ります。普通なら、せっかく買ってきた人の気持ちに配慮して、少なくとも「今はいらないから、あとで」とか「ありがとう」と前置きしてから断るとかするところなのに、その・ケーキが・今・食べたいかどうかを、あまりにも素直に、かつ、ストレートに言ってしまいます。

今、食べたくなくてもそのケーキが好きなのは事実だし、よくよく考えれば、人の好意が分からないわけではありません。他人にも気持ちがあって、立場があるのは頭の中では判っているのに、とっさの時にそれが使えないのです。その時の、人の好意を推測し、その気持ちに配慮した受け答えができないばかりか、そのケーキを食いっぱぐれずに済む為の計算もできません。

3.他者の存在を十二分に認めていて、一生懸命思いやっているのに、的外れになってしまうこともあります。想像力が弱いというよりも、自分があまりにもあっさりとしていて、整理され・単純化された世界の住人なので、他人の方に、自分の想像を超えた「何か」があるのが解らないのです。複雑な感情、下心、ずるさ、損得勘定…。こういうものを、持ち合わせていなければ、想像できないに決まっています。

もともと、他者への注意力が弱いところにもってきて、自分が考えていることのほとんどは、思い過ごしだったり、おせっかいだったりするのです。相手は、ただ押し付けがましいと思うばかりか、「人の気持ちが分からない」と、反感を持ってしまいます。

4.確固たる人格としての「自分」があやふやで、眼前に現われた人の影響を受けすぎてしまうこともあります。こうなると、自分の立場も人の立場もありません。まず、自分に好意を持っているかどうか・理解してくれているかどうか、つまり、「自分にとって安全かどうか」チェックがかけられます。そこでNGとなると、もう、平静でいられなくなります。パニック・逃亡・汚言・病気・眠り…、あらゆる手段を駆使してその場を回避しようとします。

さらに、最初のチェックに引っかからなかったからといって、安全が確保されたわけではありません。他人の「心」そのものがイヤというより、その「心」の動きでかき乱される自分が苦しくて、関係を持てなくなってしまうことがあります。相手の「心」にあまりにも敏感すぎるのです。いわば、自分の意志を一切無視して、手や足を動かされるリモコン人形のようなものです。人形なら手足で済むけれど、人間だから「心」が動く。例えば、誰かが怒っていると、自分も怒った状態になってしまう。心身ともにです。怒っている内容がどうこうというのではないのです。そして、それに耐えられなくなると、自分からスイッチを切ってしまうのです。

5.こうしたハードルをすべてクリアーして、他者の視点から自分を見ることができたとします。しかし今度は、人の立場に立って考えれば考えるほどに警戒しすぎるようになります。自分がどう見られているか推測する能力に困難があるのです。そして、常に、他人の目が気になって仕方がありません。人に「どう思われているか」心配し、不安になって、いつもオドオドと顔色を伺ってしまいます。

自分のしたことに、何か言われるのは不愉快です。でも、はっきり言ってくれれば、言い訳もできて、その場で解決します。しかし、自分からは言い出せなくて、自分がどう思われているかの確認が取れないと、「〜に違いない」と邪推し始めます。「嫌われたに違いない。」と。あるいは、自分がしたこと、言ったことが"場違い"だったのではないかと悩みます。

 

適応が良い人は、こうした失敗経験を積み重ねて学習することで、社会的にふさわしい行動がとれるようになっていきます。でも、自分で気づかないうちに、「〜すべき」という決まりに固執し、自分を縛って無理をしていることがあります。

それに、経験を共有している共通の話題に関しては、やり取りができます。例えば、一緒に見たこと・やったこと、別々でも、同じゲームをやったとか、映画を見たとかいうことなら。でも、他のこととなると、一方的に「自分のこと」を喋るだけで、いっこうに会話は成り立ちません。並行遊びをしていた子供の頃と、あまり変わっていないような気がします。


           

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