鏡の中の私
わたしは家に帰ると、自分の鏡の前に立った。そうして両手を、遠く離してから、重ね合わせた。「あたたかい手」わたしは声に出して言った。それから今度は壁に向き合うように、鏡から一歩離れた。「他の人には、これがあなたのしていることに見えるんだって」わたしは鏡の中のわたしに聞こえるように、声に出して言った。だがわたしには、そんなことはとても信じられなかった。なんだか、つらい気持ちだった。
ドナ・ウイリアムズ『こころという名の贈り物』より
自分で、自分の体を感じる事の出来なかったドナは、自分の体と言うものを、鏡に映して確かめる必要があったのではないだろうか? しかも、そこに映っている人と、その体の持ち主である自分が、同じ物だという認識さえ無かったのかもしれない。
私が鏡の前に立てば、そこに映るのは自分だと、私は分かっていた。ただ、私にとって「自分」とは、「自分」の感じている「自分」以外の何者でもなかった。その「自分」に外側があって、その「自分」の外側が「自分」だなんて、とんでもない事だった。他者から見られる「自分」、他者に対する「自分」は、本当の「自分」ではない。だから、鏡や写真に映された人物を「自分」だと認めてはいたけれど、見るのはとってもイヤだった。
やがて、「自分」ひとりの世界にばかり住んでいられない年頃になって、他者を意識し始めると、それは、過剰な自意識に変わって行った。かといって、他者に良く見られるように着飾ったり、自分を高く見せかける為に話術を駆使して演出したり、という正当な努力などは一切しなかった。だから、「人にどう思われているか」心配し、不安を感じるだけの自意識だった。
鏡に映った「自分」の存在さえ許せなかった私が、他者に対する「自分」、常に他者との関係の中に置かれる「自分」を「自分」と認められるはずが無いではないか! 他人が入りこめない領域である、「自我」という陣地を守るクッションでしかない「社会的人格」(社会的な役割としての自己)が「自分」だなんて!ちゃんちゃら可笑しくて、やってられないと思った。
更に、良い評価を得る付加価値をつける為に資格を取ったり、何処かの会社に入るなんてナンセンスだ、とも思っていた。とかく、世の大人たちは、子育てのゴールとして、自分の子供に値札をつけたがる。そんなものが「自分」の価値だなんて! そんな風にしか「人間」を見られないなんて、何と心の貧しい人達だろう! 世の中の方が間違っている! 「自分」を高く売りつけられなかったばかりか、私は傲慢にも、そう思っていた。「自分自身」であり続けようとした結果、「自分自身」以外のものは嘘・偽りとして無視し、"この世の中は生きるに値しない"と評価した。世間を出る方法を探そうと寺に行き、出家した。
しかし、どこへ行っても、現実から逃げることは出来ないと悟って、私はこの世に戻り、生活とやらを始めてみることにした。そうして今度は、「社会」の中に入って行く為に、完全に「自己」を否定しようとした。「普通・人は・こうするものだ」「この場合・普通は・こうするべきだ」と、頭で考えた「ニンゲン」の姿に縛られて。
その頃から、今に至るまで、仕事を通して係わり合うだけの間柄ならば、私は少しも苦にならない。しかし、孤独に耐えられない弱い民族であるこの国の住民達が、「つきあい」を要求してくると、話は別である。「つきあい」を通じて「打ち解けること」が、仲間の証であると言う。仕事をして社会的な役割を果たしているだけでは、一人前の日本人ではないらしい。
やっぱり、社会的人格で繋がっている世間の輪に、私は入る事が出来ない。いや、入ろうとも思わない。自分自身に「人と群れる構造」がないから、人と係わらない方が、私には自然なのだ。かといって、私は人間が嫌いではない。私は、人を見ていたいのであって、一緒に何かをしたくはない。そういう関係があって、どうしていけないのだろうか!? 人は人といた方が楽しい、なんて、誰が決めたのだろう!? とりあえず、生きて行く為に"生活"をしなければならないから、社会的な務めを果たす社会的人格としての私は、必要最低限の「つきあい」はするけれど。
そんな時に、自分がどうやら「自閉症」の仲間の一種に属していると知って、私はまた、「自分自身」の世界にひきこもりかけてしまった。しかし、今度は様子が違った。常に「自分自身」でしかいられないのは、危険なことだと気づいたのだ。どんなことにも全身全霊をつくしてしまっては、他者の影響をモロに受けて振りまわされてしまう。「自分」がバラバラになる。人といると疲れる。
本当の「自分自身」を心の中にとって置けないことが、逆に「自分」を見失わせる結果になる、という人間界のパラドクス! この真理を発見して以来、私は、自開状態のまま、外に出ないように気をつけるようになった。外に行く時は、「自分」と「他人」の境目をつける為に鏡を見る。今から、鏡に映っている「あの人」が、出かけて行くのだ。
そこに出かけて行くのは「本当の自分」ではない。しかし、にせものの自分でもない。それは嘘をついているのとは違うのだ。人が、群れる為に「うわべ」をとりつくろったり、社会的に要請される「〜らしさ」を演じるのは、「ずるいこと」ではないのだ。そんなものに違和感を持って、人を醜いものと思ったり、自分がイヤになったりするよりも、自分が壊れないように守る事の方が得策だったのだ。
「自分自身」を保ちながら「社会」係わっていくために、「自我(ego)」と「社会的人格(ペルソナ=仮面/パーソナリティ)」との二重構造を持つのは、至って正常なことだった。普通なら、赤ん坊の頃に、とっくに、身をもって学んでいるはずの「あたりまえ」のことだけど…。なのに、「自分自身」でいようとして「社会」から出るか、「義務」のヒト型に納まろうとして「自分自身」を疎外してしまうか、なんていう選択肢しかなかったなんて! そのどちらかを選んで、どちらの「自分」も愛せなかったなんて。
その「自分」が、≪群れる≫構造を持っていないのは、悪いことではなく、ひとつの障害(ハードル)だったのだ! しかも、正体をつかんで見たら、そのうちのいくつかは、コントロールできるものだった。どうしようもない部分は、どうしようもない「自分自身」と認めて生きるしかないものだった。更に、中には≪個性≫として誇って良いものだってあった。
「こんにちわ、鏡の中の私。これからもよろしく!」私は私の係わり方で、社会の一員なのだ。私は、やっと、社会人一年生になった。
でも、あとのことは、ほっといて欲しい! それで良かったのだ。
参照:『高機能広汎性発達障害への心理療法的接近から』辻井正次『イマーゴ』96年10月号(草稿)より
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