トモダチってなに?

小学校の考える友だちの条件/スモーラーらの調査

友だちになるには

  1. 〔低学年〕あることをいっしょにやる(いっしょに遊ぶ・オシャベリする)
  2. 〔中学年〕分けあったり、助けたりする(お弁当を分ける・遅れてきたら「どうしたの」と聞く)
  3. 〔高学年〕お互いによく知り合う(よく話し合って同じことが好きなことを知る・話し合ってよく知り合う)

友だちにならないようにするには

  1. 〔低学年〕つき合わない・否定的なつき合い(無視する・ケンカする・呼びすて)
  2. 〔中学年〕友だち扱いしない(分けてやらない・ヒミツをばらす・エンピツをとりあげる)
  3. 〔高学年〕自分とは違った相手であることを知る(人柄が違う・共通点がない)

一番仲良しになるには

  1. 〔低学年〕いっしょにいる時間を増やす(一日中いっしょに遊ぶ・ほんとうにいっしょに遊ぶ)
  2. 〔中学年〕特別なことをいっしょにやる(相手の家に泊る・放課後いっしょにバイクに乗る)
  3. 〔高学年〕同じようにやり、他の相手は寄せつけない(同じことを好きになる・同じ習慣をもつ・まったく同じにする)

『また思いやりを科学する』−向社会的行動の心理とスキル−(菊地章夫著)より

「トモダチってなに?」と聞かれたって、今まで一度も"トモダチ"と呼べる人がいたことがないので、私には解からない。そもそも、人に対する【惹きつけ⇒関係化】の心的過程がないので、"話し相手""一緒にどこかに行く人""バンド仲間""ゲーム仲間""同級・同期の人""職場の人"というような人はいても、"トモダチ"関係になれるはずもなかったことが、今頃になってやっと分かった。(そもそも、それ以上のことをしたいなどと思ったこともなかったから。)

"同じ事に興味を持っている人"とか、"自分の唯一の関心事を話せる人"というのは、あくまでも自己中心的(と言うより、〈自分〉ひとりだけの独壇場に配置された劇団員的)な関係でしかないので、相互交流しているわけではない。それに、ほとんど一方的に知識を提供したり情報を交換しているだけだし、お互いが職務上の重要人物として信頼しているとか、特定の契約関係にある限りで話をしているだけだ。でも、私は、それがいいのだ。

だいたい、自分のことを人に話す必要を感じたことはない。逆に、「何故、そんなことを言わなきゃいけないのか?」と思う。人が自分の経歴やら自分の考えを表明したって、「人は人・自分は自分・人それぞれなのに、何故、そんなことを聞かされなきゃいけないのか?」と思う。それに、誰かと誰かが話をすると、「○○さんが好きだの嫌いだの」という話になるし、自分の容姿やオシャレのこととか、「流行り物の□□がカワイイ」だなんて言われたって、こっちにはぜーんぜん興味がない。

ただ中学生ぐらいまでは、同じ学区に住み・ほとんどの体験を共有している者同士だったから、話し始めるのに説明や解説をするまでもなく話が通じた。全く知らない同士ではないので、お互いに自己紹介したりアピールしなくても全員の関心事は伝わって来る。だから、誰もが持っている物は「持っていなきゃいけないのか」と思って買ったし、誰が好きかと聞かれたらとりあえず「お気に入りの男子の名前を言わなきゃいけない」と思って答えた。それで、「好きだと言った人とは仲良しなのだ」と思って、その人が胸ポケットにさしていたボールペンにいきなり手を出して取ったら、「触るな! いやらしい!」と怒られた。

それ以降は、完全な「一匹オオカミ」状態だった。高校時代は、休み時間になると自分が興味を持っている事柄を話せる相手のところに行って、一方的にベラベラしゃべっていた。その延長で、好きな音楽のことについて話したくてある男子のところに通ったら、ウワサになってその男子の彼女からヤキモチを妬かれたりしたけれど、何のこっちゃか解からなかった。なにしろ、「音楽」を聴いたり演奏することしか頭になかったから。

一方では、「人類学」の研究に明け暮れていたので、一般的なヒトとしての振る舞いとか、正しい"ひと"の考え方には精通していたけれど、特定の個人の気持ちや感情なんてものには全く無知だった。(いや、最近やっと、人類の「感情」について研究を始めたばかりだ。でも、誰か特定の人物について知ろうという動機は未だに無いし、これからも持つ予定はない。)

私は人と言語的なコミュニケーションが全く取れなかった時期がないので、「トモダチが欲しい」と思う必要がなかった。けれど、初めに「言葉」の遅れがあったり、突拍子も無い行動をする完全な宇宙人状態から始まる「自閉性障害者」の場合は、「トモダチが欲しい」と強く思う時期があることもよく知っている。と言うのは、身近に様々なパターンを示す「自閉症」児がいて、その成長を見て来たから。

まず、ウチの息子は、始めからアスペルガー・タイプで、しゃべれてはいるがコミュニケーションが取れていなかった。そして、カナ―・タイプ(といっても知覚過敏はそれほどなく認知の歪みが重い系統)のU君。こちらは、9才の壁にギリギリセーフで言語によるコミュニケーションが取れるようになった。それから、不安・恐怖・接触防衛が強すぎて人と接触できないタイプやら、認知の偏りによる興味の極限がはなはだしすぎるタイプの、PDDの女児。言葉の遅れがあってパニック障害を合併していたり身辺自立ができていなくて、普通学級に行けなかった典型的な中機能の自閉症児たち。

どうやら、小学校の中学年ぐらいまでに、(言葉の遅れのあるなしの問題ではなく)何らかの手段で人と本当の意味でのコミュニケーションが取れるようになった場合は、「○○君と仲良くなりたい」という個人的な関心を持てるようになるようだ。だいたい、この時期は、周りの子どもたちもさほど〈人〉を求めていないので、何かを所有しているだけで良かったり、その「場」にいるだけで良いので、関係を維持するのもさほど難しくはない。そこにすんなり入っていければ、トモダチ関係ができやすい。

ただ、文法的なオカシサや語用論的な間違いはあっても、言葉によるコミュニケーションに困難がない子どもの場合、実質的なコミュニケーションが成立していないことに何の処置もされずに通ってしまう危険がある。しゃべれるとか、人と一緒に何かをすることができるとか、集団行動ができることに惑わされてはいけないと思う。だから、目だった行動障害がなくて、言葉の遅れの少ない子どもの方が、手遅れになりやすい。それに、学習上の障害がないとなると、介入の余地が全くないので「発見」さえもされない。気づいた時には、"そのまま行くしかない"状態になっている。・・・って、これは、ワタシの例だ。

この中で、見ていて可哀相だと思うのは、始めに言葉の遅れがあったり集団生活ができなかったPDDの子どもたち。見た目は「自閉症」だけれど、「感情」的な部分は比較的「普通」なので、結構、〈人〉に関心がある。でも、〈人〉と接近する手段がない。そのスキルを教えてくれる人にも恵まれなかった。「みんなと一緒にいたい」「みんなと同じになりたい」という動機だけがあって、その方法が無い。・・・つまり、ワタシと逆のパターン。

一口に「トモダチがいない自閉性障害者」といっても、「トモダチができない」のと「トモダチがいらない」のとでは、全く状況は違う。また、"トモダチ"という語句で意味している内容も、"話し相手""遊び相手""一緒に行動してくれる人""ただ単にイジメられない人""親切に教えてくれる人""優しい人"…、と千差万別だ。

で、ここまでのレベルに達するには、以下の項目でイイ線いけばだいたい何とかなる。

しかし、小学校高学年以降になると、そこに新たな問題が生じてくる。それは、もはや〈物〉を媒介とする関係よりも、お互いの性格とか考え方とか人間的な魅力や性的な興味といった〈人〉中心の繋がりが主軸となって来るからだ。この頃になると、どこかのグループに所属していることが重要になり、その中で自分が役割を果たすことで存在価値を見出したいと思うようになる。だから、ただ単に「その物欲しさ」ではなく、「上下関係や力関係に服従した証」として金品を巻き上げるというようなことも起きてくる。

健常児たちは、自分の置かれた立場や状況に合わせて、ものの見事に「社会的人格」を使い分ける。親・先生の前での振る舞いと、子どもだけの集団での態度は全く違っていたりする。でも、「自閉性障害者」には、その使い分けができない。例えば、この頃のワタシは、友だち同士で、「あのセンコーが…。」なんていう先生の悪口なんか言っているのを聞くともう、次の日にはその先生の弾劾裁判が開かれてその先生は学校から追放されるものだと思ってしまったものだった。それで、「先生は、良い担任ではない。△△先生と代わって欲しい。」と大声で職員室で言ったら、当然の事ながら両方の先生からゲンコツを食らった。

この段階は非常に厄介だ。というのは、有効なソーシャルスキルの教育方法が無いから。せっかく、ニンゲンとしての正しい行いを習っても、トモダチ集団の中でそれが通用するとは限らない。時には、反社会的な行動(校則違反〜チケットの強制販売〜万引き〜カツアゲ)を結束の証として求められたりもする。「してはいけない」と教わったことを「しなければならない」矛盾に耐えかねると"トモダチ甲斐のない人"になるし、「みんながやっているから」と調子に乗ってやってしまうと「してはいけない」ことだという原則を忘れてしまって、一人だけ叱責を受けることになる。

そんなこんなのサバイバルをかいくぐって、「自閉症」的な特徴を持ったまま人と"かかわれる"ようになるというのは、とりあえず人間関係ができるけれど、相互交流はない状態なのだ。だから、その「場」を共有している限りのお付き合いでしかない。クラス編成・卒業・職場の配置換えなどの、外的な条件の変化が縁の切れ目になる。それは、やっぱり本当の〈人〉と〈人〉との繋がりではない。

と言うのは、↓がないから。

極限している興味を、職業的な技能に結びつけることに成功した人は、その「仕事」をすることで「自分が何かの役に立っているという実感」を得ようとするだろう。それができなかった人は、生活のための仕事・生存のための人間関係をじっと我慢して保ちつづけ、密かに「趣味」という形で「こだわり」を通すしかない。

しかし、「〈人〉と繋がっている実感」を得たいがために、「自分が何かの役に立っている」と思えるような行動をしようと真剣になっている時は、本人はとっても不安で必死なのだ。(だ〜れも、解かってくれませんでしたが…。)

ただし、何かの目的に向かって邁進している時とか、周囲の人との契約関係や役割関係がハッキリしていて自分のとるべき態度が決まっている時。総じて、精神的に安定している時には、頭の中にはお気に入りの歌手の声(の特定の音の発音・裏声のバイブレーション・声の余韻…)が充満しているので、特に〈人〉を求めたりはしないものだ。

ちなみに、今現在は、このページのファイル名をFriendsにしたので、この歌詞の乗っているフレーズがNOKKOや玉置浩二の声と共に繰り返しリピート再生されている。(かなり、古い歌だけど。)

それから、たま〜に会うアスペの人たちとは、"自分と同じような生物"が実際に地上に存在していることが確認できれば、それで良い。係わり合うのはゴメンだが、「いてくれる」と思うだけで心強いし、そうして"支え合っている関係"以上に深入りしない方が上手くいく。

でも、時々思うこと・・・本当は"淋しい"のかもしれない。

ただ、"淋しい"という感覚がないのでわからないだけなのだと思うこともある。

だって、誰かと一緒にいて"楽しい"という経験を、あまりしたことがないから。


             

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