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2007年の日記

12/02 22:43 商工会に伝票を持って行った。税務署にハメられたことがよく分かった。同じような計上方法をしているところは他にもあり、とやかく言われたことはなかったそうだ。それに、もし税務署がコンプライアンスの名の下に指導したのなら、他の細かいことを指摘しても良かったはずだ。税収に繋がるところだけ突いていったのは、明らかだ。
お陰で、毎月のように一人分の給料よりも多い額の税金が引き落とされる。まるで、金取るばかりで働かない国・自治体という従業員を雇っているみたいだ。明日は、500円玉貯金箱を持っていくことにした。何とかしのいで、次男の教育資金を守らねば。
10/15 09:05 ねたみ、うらみ、そねみ、やっかみ…と、煩悩を数えれば108ある。今や資本主義の餌食となって人工的に増長させられている感情は、そんなにキレイなものではない。そもそも、ニンゲンってそんなに素晴らしい生き物か? これは教育の問題ではない、社会体制と思想哲学の問題だ。
世の中がオカシイと言える自由主義社会は、そうでない社会に比べればマシな社会といえる。しかし、世の中に疑問を持った人たちは世の中の流れに乗れず、金儲けできないし社会的地位や権力も持てないため、結局、ネット上でちまちま現実批判をするしかないので、言ってるだけ・書いてるだけ。
10/14 16:05 昨日の『土曜かきこみTV』は、「常識って何?」がテーマだった。常識とは、マナーや社会通念のことだと思っていたら、今時の中高生は全く違うらしい。以下、列挙する。

  • 常識とは、みんながやっていること・みんなが持っている物のこと。
  • どんなにヘンなものでも、流行のキャラクターのグッズを持っていないと、仲間はずれになる。
  • グループのリーダーが好きな歌を、カラオケで歌わなければならないので、好きでもないのにファンの振りをして歌を覚える。
  • 用事があって集合場所に行けないことが一度でもあると、次の日には集合場所が変わっていて、二度と集まりに参加できなくなる。
  • 中学までは学校が唯一の世界で他を知らないから、嫌でも必死についていこうとした。しかし、高校に行ってからは、他の世界があることを知り、自分のアイデンティティも確立してくるので、何でも人と同じにしなくて良いことが分かる。逆に、人と同じでは嫌だと思うようになった。
えっ!なんでこれが常識なの?

現実社会は、学校に限らずだいたいこんなものだから、生き延びるために何とかついて行きなさいと教えることは、学校では教えない本当のソーシャルスキルといえる。だから、浮いてしまわないように、ある程度はつき合うようにも言う。

しかし、私はやっぱり、こんな世の中はオカシイ!とも主張していきたい。(いや、主張している。だから、大通りは歩かない。)
09/19 09:44 嵐の二宮クンの方が、草なぎクンより、ずっと演技が上手い。これなら、視覚的には、見るに耐えられるかもしれない。(ドラマは見ないのに、なぜか『山田太郎ものがたり』は見た。別に嵐が好きでも何でもないのに、どういうわけか見たいと思った。)
ちなみに、自閉症だから何もできないと思うことの方が間違っている、とだけ書いておく。
09/01 21:12 申告漏れによる追徴税額は、予想の範囲内でホッとした。が、戻ってくると言われた年の分はほとんどないと言っていいくらい少なかった。あと心配なのは、去年の所得税が増えたことで、今年これから引き落とされる地方税・事業税・健康保険税・予定納税がどれだけ増えるかということ。
それから、例の“病気にならない”というわけの分らないリングは、密かに受け取るつもりだったらしく、何も言ってこなかった。
とりあえず、ホッとしたので、赤飯を食べた。
09/01 17:24 災いは、いっぺんにやってきた。“病気にならない”というわけの分らないリングと、税務署からの書類が、今日配達された。リングはまだ開けられていない。税務署の書類は、ずっといたのに「不在通知」が入っていたのでまだ届いていない。また、胃が痛い。
こんな時だというのに、つい先日、ガス湯沸かし器が壊れてしまった。夜だったのにガス屋さんが駆けつけてくれたので、水シャワーで我慢しなければならなかったのは一晩だけで済んだ。今、見積りをとっているところだが、かなりの出費になることは間違いない。そういえば、昨日、商工会の人が謝りに来た。
08/28 07:05 「社会に適応する」ということと「就労できる」ということは、必ずしもイコールではない。それが、必要条件となるか、十分条件となるかということも、状況次第。
08/14 10:52 あちらが何を言って欲しいか、どんな顔をして欲しいかは分かっている。だが、こちらも、どこまでやるべきか、どこからやってはいけないか分かっている。
しかしもう一つ明白なことがある。それは、押しつけられれば押しつけられるほど、やらなくなるということ。
08/14 09:19 普通、嫌なら、嫌いなら、まずそこにいない・反抗する・ののしる・何と言われてもやらない・呼ばれても来ないといった態度をとるものだが、私は、いる・反抗しない・何も言わない・言われたことはやる・呼ばれたら行く、でも、避けている。つまり、参加しているけれど離れている、一緒にいるが心そこにあらず、感情を振られたら拒否する、というあり方をしている。
それが分かっているからといって、以前やっていた、死んだように生きることはもうしない。生き延びる努力はするが、そんなもののために生まれてきたわけではないもののために打ち解ける努力をして、死に至る病になるのはもうゴメンだ。
NT化したり、NTに助けを求めるのは、私がしたいと思っていた仕事ではない。AS+αでNT社会を生きているのは、それだけてかなりしんどいのだから、それ以上の無理は禁物。下手な小芝居をしたり、私にとってどうでもいいもののために頭を占領されるのは、体にも心にも良くない。
08/14 09:07 やっぱり、DNAの素は、迎え火という行事があること自体を忘れていた。さもありなん。今まで、社会的な行事は人に押しつけて、一切逃げてきたのだから。脳に記憶されていること、つまり、「(相手がどう思っていようと、美味しかろうがまずかろうが)自分の気持ちだけで何かを作って(耕作・調理の両方)人に食べさせる」ことと「体に良いと言われるものには何でも飛びつく」ことだけが行動パターンになっている、というわけだ。
08/13 11:52 昨日のDNA事件のお陰でろくに食べていないのでふらふらしているが、お墓の掃除と買い物に行ってきた。お墓の掃除は頼まないとできないので、さすがに例の顔つきはしていない。普通に頼んできた。去年、迎え火という行事があること自体を忘れてしまっていた経緯があるため、始めから密かにたいまつを買いに行こうと思っていたこともあるし、またネチネチブツブツが始まっては本当に胃に穴が開いてしまうので、こちらから買い物に行くと言った。
一般には、盆暮れ正月は楽しいものらしいが、ウチは地獄。だが、仕度さえしてしまえば今日はこれ以外には何もない。後は、夕方に迎え火をやるかどうかを監視していればいい。
と言うわけで、そっち方面は見ない。考えない。思い出さない。
08/13 08:05 ニート・ひきこもり・難民と呼ばれている人たちの一部には、“家はあるし家族もいるのに家庭がない”ことが原因になっていることがあるそうだ。人間関係が希薄である以前に、何らかの理由で人間関係が築けず、居場所がないということだ。この問題は、最低賃金を上げたりスキルを習得させたりするだけでは決して解決しない。
08/13 07:37 音を聞いてしまうと記憶されてしまうので、心的外傷の素になる。だから、ネチネチグダグダ言われている間、何も聞かなかったし何も感じなかった。つまり、脳の方は完全にシャッターを降ろしていた。その分、胃が直撃された。きっと、悪いものがたくさんできたに違いない。
で、NT的には全面的にこちらに非があることが分かっている。みのもんたならどう言うか、老人問題の専門家ならどう言うかも分かり切っている。認知症の専門家は、金を盗んだと言い出したり人格変容がみられた時点で施設にと言うが国は帰宅させる方針なのも分かっている。相談する人もいなければ理解者も協力者も一切ないし、ここに書いたことで世の中全体を敵に回すことになることも分かっている。更に、この状況で抗うつ剤を飲んだって何の解決にもならないことも分かっている。
だからといって、素直に「体がしんどいから手伝って」と言えばいいのに「誰も手伝わないから全部一人でやった」というイヤミなことしか言わない(昨日の言葉はすべて無視したので、記憶に残していない。これは、遙かに穏やかだった時に聞いてしまった言葉だ。)外傷源に自分から近づくことはない。
素晴らしかったおじいちゃんが、自分の死期を察した時に「聴覚障害(注:単に聞こえが悪いというのではなく、病気でなった障害)の年寄りはこうなると言った通りになっている。性格を知っているから、なおさら予見できたのだろう。そして、自分らが育て損ねたバカ息子は、お盆の準備をする気などさらさらなく、完全に逃げた。きっと、買い物や祭壇作りを人に頼むこともせず、勝手に買い物に行き、一人で祭壇を作り、またイヤミの嵐になるに違いない。
08/12 22:34 そんな変なものを買われては困るので、私よりもずっと前からバカ親から逃げまくっているバカ親子の子の方に、仕方なくわざわざ言いに行った。「知らん」だと。普段は極力見ないようにしているというのに、言いに行ってまた胃が痛くなっただけだった。
それを今日一番の被害者である次男に言ったら、何か買うと言ったらやめさせるように言いに行ってくれた。どうせ、止められはしないだろうに。
こっちのどうしようもない闇に関わっていたら、私の生きている意味はない。私は今、こんなところでのたれ死なないように本当にやりたかったあることに向けて前進しつつあるので、こんなことを真剣に悩むつもりは毛頭ない。ただ、分かっているから避けていることが、向こうの方からやってきて、胃腸と神経がより傷ついたというだけのこと。
体が弱い、自立できない、でも、ホームレスや難民にならないようにしなければならないので、精神まで傷めないように踏ん張るまでだ。もう、鬱には戻りたくないから。
08/12 19:58 この家のおバカなDNAが、ついに始動しはじめた。この家のおバカなDNAとは、まず、「相手のことを全く考えずに、つまり、需要もないのに労力を費やして勝手に何かを供給し、人のためになっていると思い込み、かつ、誉めてもらえないことを怒る」こと、そして、「基本的な顔つきが、無関心・無責任・話を聞いていない・人を睨んでいる・不満・不機嫌」に見えること。私が、野菜ノイローゼになったのも、顔を見ないように逃げているのも、このためだ。しかも、考えている内容は、みのもんたの相談電話と同レベル。
ところが、本人たちはそのことにまったく気づいていない。実は、このあちらの親子のDNAを最も受け継いでいるのは次男なのだ。だから、次男にはたびたび注意している。とにかく、ただ呼ばれて振り返った顔が、いかにも不満・反抗・不愉快に見えるので、これからそれで誤解され、大問題になると、よく説教をしている。ところが今日は、その次男がそういう態度をしたことを、大元のDNA保持者が完全に誤解して、ブリブリと怒ってきた。それで結局、そういう風に躾た親のせいだとブツブツブツブツ言っている。
更に、そういう自分を大事にしている別のDNA継承者が送りつけてきたいかがわしい本をすっかり信じ込んで、すべての病気を治しガンも消えるというわけのわからないものを買いたいのだが、高いと言ってきた。こんなことを言い始めたので、私はますます逃げている。この有様じゃ、きっと買うことになるだろう。こんなものを買ったら、それこそ借金地獄の始まりだ。
私はまた、何も食べられなくなった。ますます笑わない。下手をすると、銀行にも、次男の学校行事にも行けなくなる。
08/03 08:11 私が「死にたくなる理由」「理不尽さを感じる事柄」「心的外傷の対象」は普通とは全く違う。出発点が、AS+αだからだ。特に、この家で死にたくなる理由の主なものは視覚的なもので、どんなものかも再現できるし、それだけでは死ぬ理由にならないことも分かっているし、ソーシャルストーリーだって書ける。だから、それを避けて会わないようにしているということだ。そして、上記の理由は、誰に話してもバカバカしいと一蹴されることも知っている。だから、絶対に言わない。その辺に関しては、裏切られ続けているので一切信用していない。
これは、事実なのだから仕方ない。元々の感覚や考え方や感じ方を変えろというのは、存在を否定するということだ。元を変えようとして死んだように生きるのも、元を変えずに社会的に生きにくくなるのも、どちらも同じ。それを地獄にするか、天国をどこかに見つけて希望にできるかの違い。
ASDの原因が遺伝だろうが、遺伝子の突然変異だろうが、複雑になりすぎたホモサピエンスの脳の変動の範囲内だと私は考えている。厄介者として排除しようとしている人も多いだろうが、完全になくしてしまったらホモサピエンスの未来を切り開く突然変異の可能性を喪失することになるだろう。共存する方法を考えた方が、賢明。
08/02
20:41 ASとしての私は丸くならないが信条。全人としての私は、いくぶんか処世的にうまくなっているかもしれないが、本質は変えられない、と言うか、変えなければならないと考えなくなったというのが、現在の到達点。
何を隠そう、そのことにハッキリと目覚めさせてくれたのは、千原jr.の『詩』(『14歳』とほぼ同じ内容)、『15弱』『プロペラを止めた、ぼくの声を聞くために』を見てからだ。この鋭さは、捨てられないし、捨ててはならないと思った。昨日の、『明石屋3ch』では、「ずっとシンカーを投げ続ける欲しい」というさんまに、「何でもできる人になって冠番組を持ちたい」なんて言っていたが、ジュニアさん、それは無理です。あなたは、あなたでいてください。
08/02 10:03 注意!
ここは、AS的なことしか書かない。ジンカクがAS的でなく、ごく普通の文章が思い浮かんだ時は、ここには書いていない。全人としての私は、こんなに尖っていない。
それから、NT社会でASであったり他の障害でいることは、確かに生きにくい。それによる不都合も大きい。しかし、だからこそできることがあるし、楽しみもある。それは誇りであって、その魂までも売り渡す気はない。
もう一度書く。この日記にいるのは、ASの私ではあるが、私のすべてではない。
08/01 09:00 まだ更正の金額は来ていない。どれを入れて計算したのか分からないし、不況でマイナスの年があるので、正確な計算はできないが、相当な額になることは確実。その内、前年度分はどっちみち今年度で払う予定のものなのでなんとかなるが、3年前の分は下手をすると、あの大不況下でも死守した次男の進学資金を国に巻き上げられることになるかもしれない。
ただ、4月の学校関係の出費が大きくなる時期に引き落とされる税金が後になったり、赤字で税金を払わなくて良かった時期があったからこそなんとか生活費が確保できていたことを考えれば、ちょうど長男が高校を卒業して専門学校に入り、将来のための資源をしたくするために都合が良かったとも言える。(もっとも、きちんとつけていたものがズレているだけだから、ある程度の予定は立てられるし、明日払う金の工面ができさえすればそれなりにやりくりはできたでしょう。)ただ、何が何でも、次男には公立高校に行ってもらわなければならなくなった。
かといって、ただ「ハイそうですか」と丸飲みする必要もないし、マイナス分の処理をどうするか確認しなければならないので、今朝から追徴課税に関する資料をあれこれ探している。その中に、「追徴課税は驚くほどの金額が来るので、個人事業主の自殺が追徴課税の時期に急増する」と書いてあるものがあった。ウチの場合は、前の2年間が大不況真っ直中で、去年の分(つまりは、今年になって入金したりつい最近資金化した分)が大きいのは不幸中の幸い。今度来たら、税務署の職員のハズなのに「会社に戻って」と2回も言っていたことにツッコム予定。
07/31 15:28 まあ、オシムジャパンだって負けたし、高校野球でさっきまで勝っていたチームがサヨナラで逆転されたりもする。解説者はぼろくそに言っているし、確かにメンバー交代の問題はあるだろうけれど、オシムのサッカーは今までのどの監督より日本人選手の実力を引き出していると思うし、1回こっきりの試合で善戦して負けてしまった野球チームだって全く無駄ということはない。
道徳の教科書より、よっぽど勉強になる。
07/31 14:07 一縷の望みの選択肢には、宗教も含まれる。(陰徳を積むことで、来世に報われるといった考え方もある。)何を希望とし、何を信じられるか、それが生きる原動力。今では、社会や国家が救ってくれるなんてことを真に受けると、とんでもないことになる。だからかどうかは知らないが、ナマカの力は素晴らしいとか人を信じる姿は美しいとかいうようなドラマが溢れている。しかし、信じるものが、人でなければいけないということはない。
人との関わりがないのにもかかわらず、居場所がなくって、何を期待すればよいかもわからず、人は裏切るものだからと信じることをせず、一人で生まれて一人で生き、ただ自分の周辺を往来する人々を眺めているなんて、まるでA Song for XX(浜崎あゆみ)の世界だ。積極的ニートや、○○難民としての生き方を自ら選択した人たちに通ずるものかもしれない。世の中に感動を呼ぶドラマがたくさんあるから、日本人はそういうものを求めているかというと、そんなことはない。逆に、そういうものになじめないたくさんの人たちの声を無視する社会でもあるのだ。
07/31 13:48 商工会で教えてくれたやり方は実用的な手法(白色申告なら間違いではない)だが、税務署はあくまでも教科書的な簿記や法律の文言通りに「義務」を一方的に押しつけてくる。これほどまでに、教科書や六法全書の文章がそのまま通るところは、税務署か警察か役所しかない。
一方、道徳の教科書には、「がんばればできる」とか「一生懸命やれば報われる」と書いてあるが、現実には「頑張ったって10点」「真面目にやっていても報われない」ことがあるし、○エモンのように「頑張らなくても・不正をしても数億円」のこともある。努力や頑張りに対して慰めも励ましも一切ないし、むしろ邪魔臭がられることだってある。それに対してどう思い、どう感情を処理するかは、道徳ではなくて、ソーシャルスキルだ。
07/31 10:01 昨日、税務署の監査で追徴されることになった。といっても、所得隠しをしたわけでもなく、経費の水増しをしたわけでもなく、ずさんな管理をしたわけでもない、ただ、売掛・買掛をむたてずに現金主義で会計処理をしていたからという理由でだ。つまり、教科書通りの簿記をやっていなかったからということだ。そもそも、この現金主義というのは私はもともと知らないものだった。始めは、しっかり正規のやり方でやっていたのだ。もうやめてしまった商工会の記帳相談員が、こういうやり方もあるからということではじめたものだ。
もともと、バカ経営者のお陰で、材料と給料と税金と外注加工費(つまりはよその家の生活費)を払ったら手元には何も残らない自転車操業。しかも監査対象3年の内の2年間は小泉大不況下で仕事がなく、子どもの学資保険に手をつけるか進学を諦めさせるかの瀬戸際までいって、明日をしのぐ金(実際に実際に、明日来る数千円の集金の金もなかった)をかき集めるために苦労する日々が続いていた。去年は、仕事は何とか持ち直したものの、入金がなく支払いだけが先行していて、使える資金をどうにかやり繰りしていたし、新しく支払わされることになった消費税の資金がなく500円玉貯金をしていた。もしその時期(すべての入金が完了する前)に税金を支払うことになったら、進学はなんとかなっても正社員としての長期雇用は恐らく無理な長男の、将来のためのハード面の準備を諦めることになっただろう。そんな状態だというのに、真面目にきちんとやっていたというのに、指導も教育もなにもなく、いきなり追徴課税だなんて、いい加減にしてほしい! まったく、教科書通りの簿記をしているかどうかで税金を取立ようなんて、無知な貧乏人から金を巻き上げようとしているとしか思えない。それで、昨日は食事も全くせずに1日寝込んでいた。
また、書くのもバカバカしいみのもんたが好きそうな思い込みで理不尽なババアに監視されているお陰で、買い物にも行けず、毎日どうやってすれ違うかということにエネルギーを費やしている。それで、食料から日用品まですべて通販にせざるをえないため、生活費が安くならない。本当なら、昨日、子どもたちがいる時間に行くはずだった銀行に、今日行かなければならなくなった。しかも、支払いが遅れて催促されているので、今日中にだ。仕方がないので、開店に間に合うように銀行に行った。そうしたら、大掃除の時にもしない窓掃除をする振りをして、ババアが庭で見張っている。まったく、バカバカしすぎる!(ババアのその顔を思い出すだけで正気でいられなくなるので、消去!)
昨日は相当に鬱がひどかったので、もし誰かが何か言ったら自殺していたかもしれない。それほど、精神活動は停滞していた。だが、ここでは絶対に自殺なんかしない! あ〜〜〜〜んなバカバカしいヤツらのために自殺なんかしたら、完全に負けだ。ヤツらは、人が自殺して反省するようなジンカクではないのだから。よく、自分が死ぬことで当てつけをするという動機で死を選ぶ人がいるが、恐らくそれでは無駄死にになる。人が死んで反省できるほどの良心があったら、自分たちのニンゲンとしてのレベルを自覚でき、そのために苦しんでいる人の心情を想像できるハズだ。俗に、バカは死んでも直らないと言うが、バカは自分のせいで人が死んでも気づかない! 
本当にバカバカしい状況にいるからといって、絶対に死なない。負けない。四面楚歌の絶望的状況は、無視する。希望だけを見る。
金がないこと、自立できないこと、これは本当に人間を腐らせる。
07/30 08:03 違和感なしにNTと仕事をすることは、まずありえない。(いや、いかなる他人とも、同様かもしれない。)
たとえ、あまり感情とか思考法とかの違いがないような事務的なことでも、根本的に時間の使い方・集中の仕方がNTとは違うのだから、すれ違いとか空回りとかの連続になることはやむを得ない。ただ、違和感はいいが、嫌悪感や不快感にしないことだ。(余裕があれば、「笑い」や「諷刺」になり、一つの文化に昇華できる。)
07/29 22:42 NTと生きられるASになるというのと、NT好きのするASになるというのとでは、全く違う。なのに、NTに好かれるASを目指さなければならないような風潮があるとしたら、全く残念なことだ。
かなり凸ったASや、一部分が相当に凹んだASだって、実際にいる。それは、NTだって同じことだ。ただ、NTと生きられないほどに尖ったり、へこみ方があまりにも不都合だったりしないようにしろということで、元々の形まで変形させようとか、何らかの型にはめようとかいうことではないのだ。
個性か障害かの選択ではなく、プラスに見るかマイナスに見るか、プラスに作用するかマイナス要因になるか、受け容れられるか否定されるかの違いでもあるのだ。しかし、一番の問題は、本人自身が自分や他人、社会をプラスに見られるか、受け容れるか、というところにある。
07/28 06:48 トンでもなくバカバカしい輩が一人・二人ではない。別のトンでもないのがトンでもなくバカバカしい非科学的な本を送りつけてきて、それをトンでもなくバカバカしい輩が完全に信じ切っていたり、トンでもなくバカバカしい考えで人を見ていたりしている。しかも、そのトンでもなくバカバカしい輩を尊敬している人がいるなんて、さらに信じられない状況。さらに、トンでもなくバカバカしい輩その1は絶対に逃げることは分かり切っているので、トンでもなくバカバカしい輩その2の介護を押しつけられることまで確定している。
こんなところにいて、「人生は素晴らしい」とか「人類は信じるにたるものだ」と思えるわけがない。いったい、誰に感謝しろと言うのだ。子どもたちは守ったが、自分に関してはそっちを見てしまったら絶望する意外にできることはない。だから、希望に満ちた方面だけを見るようにしている。(すれ違いにするために、朝どれだけ早く起きようと何の苦にもならない。それだけに集中して、疲れて他のことがまるでできなくなってもかまわない。)

まわりにトンでもなくバカバカしい輩しかいなくても、誰も信じられなくても、最低でもどこか一つの方向に、そいつらのいない場所がある。

トンでもなくバカバカしい輩がいる場所の方が地球上の限られたごくわずかな地で、今はがんじがらめに縛られているかもしれないが、実際には、開かれた広大な地があるのだ。

きっと、いつかはそこに行ける日が来る。だから、今、大事なのは、その日のために今の自分にできる最大限の手を尽くして、力をつけることだ。


いや、今、このトンでもなくバカバカしい状況に耐えていること自体が、将来に向けての養分を吸収していることなのだ。

決して、ここで消耗してはならない。逆に、肥しにしてやればいい。

こんなもののために死んだら、犬死にだ。ヤツらに完全勝利を与えたら、もっともっと癪に触る。今、すべきことは、この怒りのエネルギーを、希望を見続けるための夢エネルギーに変えることだ。
07/27 18:54 経済的自立ができていれば、こんな理不尽な場所に我慢して居なくて済むのに!!!!
いいかげんにしろ! どっちかが死ぬまで、我慢するしかないのか!!!!
はらわたが煮えくりかえっているのに、本当のことはここには書けない。
ただ一つ、ニンゲンというものを知っていて、ソーシャルスキルを身につけていて、健康で経済的に自立できている人ならば、20年前におさらばしている状況だと言うことだけは書いておく。そうとは知らずに鬱になって死にかけた。それを知って、今度は怒りが止まらない。状況そのものが理不尽だから、見ないように、会わないように、無視するようにして、精神的な安定を保っていたのに、それがすべておじゃんになった。
これで、ますます家から出られなくなってしまった。買い物はすべて通販。また、貯金ができない。
07/25 07:49 「いいまつがい」を笑いにする文化が本当に根付いているのなら、ジャポニカロゴスを楽しむことができる。が、これが原因でイジメに繋がったり不登校になってしまうことを思うと、素直に笑っていられない。
また、「ココリコミラクルタイプ」に登場する人物の中には、もしかしたら…と思われる人物もたまにいるが、間違いなく笑いではなく卑下の対象である。たいていのゲストは、追い討ちをかけるようなコメントをするので、こちらは全く救いがない。
前者は、笑いにされることを許容する余力があるかどうかの問題だが、後者には情け容赦のカケラもないし、その想像力には大いにモンダイがある。
07/25 07:41 同じ思考回路と感情システムをもっている者同士ならば、“想像力”のモンダイだが、思考回路とむ感情システムが異なる者同士の場合は、ほとんど“空想力”に近い。
07/18 09:16 税務署から、監査に来るという電話があった。昨日から不機嫌なところに、ますます不愉快。
07/18 09:15 学校であった些細なことよりも、家の方がよっぽど危ない。次男は、暇さえあれば、何かと何かをやたらとくっつけ合わせている。それがレゴブロックならば、下手をすると数時間もそれにかかりきりになって、後になって、他のしなければならないことをあわててやらなければならなくなるという、本人だけが困る弊害が生じる程度ですむ。
しかし、表面的な形を変えることしか頭になくなると、思い立ったら我慢ができず、何でもやたらとくっつけてしまう。物質の性質を一切無視して、ただ、何でくっつければいいかということしか考えない。メモリーカードが壊れた時には、電子回路に銅線か金属板かなにかを貼り付けて、表面的な形だけをそれらしくして直せたと自慢していた。それをパソコンにさして、シャットダウンさせてしまった。再起動後、一度何かのエラーが出ていたけれど、以後何ともないので大丈夫のようだ。
それよりも、接着剤で付かない物はライターやストーブで溶かしてつけようとするのが恐い。焼けこげた後が、あっちこっちに残っている。しかも、ふとんの上や本棚の上でやるので、いつ火事になるかわからない。何度も、やる場所を考えるように言ったり、ライターを取り上げたりしても、また見つかる。すべての部屋に火災報知器をつけようかと検討している。
07/18 08:13 中高以降は、ソーシャルスキルというものは教えるべきものできなく、できなければ「指導」という名の×をつけるだけの対象になる。そもそも、ソーシャルスキルなどという分野がこの世に教育の対象として存在していること自体が知られていない。
だから、どのようなスキルが不足しているのか、何をどのように教えればいいのか、といったことを話そうとすればするほど、“発達障害”の名の下に言い訳をしているようにとらえられ、障害を悪の元凶と悪く見ているという先入観が向こうの頭の中にあることが見え見えになってくる。まるで、「障害のせいでこの子は悪いことをしたのだ」と責任回避する親の言い訳は聞かず、「障害のために悪いことしかしない」と子どもを責める親には子どもの良いところを見るように励ますようにしなさいというマニュアルでもあるのかと疑ってしまいたくなる。
もしこれが、教師が行うことに決まった特別支援教育の指導内容だとしたら、おそろしくとんでもないことになりそうだ。一人一人を見るのではなく、子どもと親を何かのカテゴリーにくくった上で、用意されたいくつかのパターンに分類し、決められたワンパターン的な対応をすればいいとしか思われていないとしたら! 障害名をはっきり言えるようになっただけで、結局、何も変わらない。子どもを伸ばすためではなく、「指導」の証拠を残すためだけの「指導」が横行するようになったら、何もしないでくれた方がまだマシだったなんてことになりかねない。
中高以降は、まず相手がソーシャルスキルの存在自体を知らず、ソーシャルスキルについて説明したり何を教えればいいか・どのような社会資源を準備すればいいか話すこと自体が言い訳と思われてしまう。
07/17 22:24 小学校では、発達障害の説明をすると熱心に聞いてくれた。が、中高以降に関わるほとんどの“大人”たちには、行動と結果がすべてのようだ。しかも、発達障害と共に積み上げてきたものとそうでないものを識別する目を全く持たない。何を言っても、言い訳になる。もう、いい加減慣れたから、またかと思うだけだ。
(また、この人にも、言わない方が良いのか…ってことだ。言葉を思い出すと音として記憶して何度も再生されてしまうので、こういう時は音楽で消去する。まあ、今日は、あっちからもこっちからもヘッドホンやスピーカーから音が漏れてきているから、それでも聴いていればいいか。)
07/17 21:51 最近、長男と次男がなにやらこそこそ話していると思ったら、今までほとんど音楽に興味を示さなかった長男が音楽に懲りだして、一足先にこの方面に目覚めた次男の聴いている曲のファイルをコピーさせて欲しいと頼んでいたのだった。
といっても、著作権のあるものだし、再生できる機器やらファイル形式やらコピー制限やらあって、単純にパソコンを通じてコピペするわけにはいかないことを知らなかった。フリーソフトを使わせるのは私の主義に合わないので、iTunesの機能を使ってオリジナルCDを作り、それをMP3に変換してポータブルプレイヤーで聴く方法を伝授した。MP3プレイヤーは、次男が音楽を聴き始めた時に買ったのだが、その後次男はPSPを音楽プレイヤーとして使うことになって要らなくなったもの(なんと、1000円)とSDカードが残っている。それらを、全部セットにしてあげた。
肝心の曲の方は、ネットだと欲しい曲が全部あるとは限らないし、貸出開始まで時間がかかるから、「近所のレンタルCD店で借りた方が早くて安い」と教えたのは昨日のことだ。…今日、もう借りてじゃんじゃんSDカードに入れている。

ヤツらは、私が試行錯誤してやっと行き着いたものを全部教えると、すぐに使いこなして勝手にその先をどんどん行ってしまう。レンタルしてほしい曲を人に頼んでおきながら、レンタルCD店で見つけるととっとと借りて来て、要らなくなったとも言わない。覚えた新しい知識も教えてはくれない。失礼である!

一点集中のオタクだと思っていたら、スカイプや○○メッセンジャーやらを通じて、いろんな趣味を広げていた。

便利な時代になったものだ。
07/11 14:09 『ハートをつなごう/ひきこもり&性同一性障害』を見ていると、こちらの方が遙かに親近感を覚える。その理由の一つは自分と同類だからだけれど、この方面のテレビに出てくる人たちは、自分が人と違っていることに悩み・外見や社会通念で決めつけられることに戸惑いながらもそれを克服し、自分が人と違っていることを誇りに思う自信があるからだと思う。
同じになりたいとか、人並みになりたいという方向に向かおうとしている或る方面とは、明らかに違う。社会性をもつとか社会に受け容れられること、NT社会で生きられるために必要な事柄を身につけた方がいいことに間違いはない。が、その先のQOLを考慮しなければ破綻する。教育や社会生活・就労を支援することと、その人の人生とは別のことなのだ。
07/06 22:46 マイノリティーであっても、自分の“生まれた星”がどこかが分かり仲間を見つければ楽になるなんて、皆(恐らくNTあるいはNT寄りの人たち)が口々に言っているが、どうも違和感の方が大きいとずっと感じていた。が、自分はもう一つのマイノリティーに属し、更に、どこにも属さないことを誇りに思っていたのだった。
それに悩んだり、何かの社会的人格を演ずるのではなく本当にそうなろうなんて考えたら、鬱にならないわけがない。「ワシはワシじゃ!気楽に行こーぜ!」と思うことにした。
07/05 13:53 最近、自転車での私の行動範囲の中に、人材派遣の小さな事務所を2つ見つけた。格差社会の波は、確実にすぐそこまでやって来ている。
07/04 06:47 社会的なハンパモノであることを理解してもらうために、社会的に受け容れられるスタイルが必要。性同一性障害の人たちは、オカマキャラや美人オカマというスタイルを足がかりにして、それ以外のスタイルの人たちでも許容されるような文化的な土壌を作って往っているうに思う。
だが、一つのグループにくくることはできても全員に共通するスタイルを持っているとは限らなかったり、社会的に絶賛されるような特殊能力や特別な才能を持った人だけが注目されてしまったり、スタイルそのものが社会的に許容されなかったりするASDは、同じようにはいかないだろう。
07/03 22:22 感情にまかせて走っている人たちの中で、ただ一人「感情的にならずに、そうなった経緯を考えるべきだ」と発言すると、袋だたきにあう。この感情の暴走は、脅威だ。歴史の過ちを慮ると、身震いする。
07/01 14:34 今、一番共感できるのは、中村中の詩かもしれない。
07/01 14:17 受け容れられるもの
  身体・神経・感覚・運動<認知・言葉
  出力(行動と会話)を変えるために教えられる項目を数えること
  NTが聞くと安心する言葉・NTが誰かに言いたくてたまらなかった告白
受け容れられないもの
  社会的人格を一切否定しながら社会に生きている生き物の苦悩
06/30 14:23 星空千手さんの『わが家は自閉率40%』が来た。ちなみに、ウチは、軽度発達障害率100%。
それはともかく、私は自分がASだと思っていたし、長男は絶対に自分と同じだろうと確信していたし、自分と同じ人生を歩ませたくない=NTに同化することなくASとして堂々とNT社会を生きられる人にさせるという信念を最初から持っていたので、???と思うこともなかったし、健常と呼ばれる家族が欲しいとも思っていなかったので、ASの子どもをもった人の普通の気持ちが分からない。
かといって、NTの心情バンバンの本を読むのも心苦しい(と言うより、どーしてこんなことで迷うの???と怒ってしまう)ので、これなら読めるかもしれないと思って買ってみたのだが…。でも、やっぱり手記はダメかも。
ケロロ軍曹のDVDを見たり、CDを聴いたり、軽いバラエティ番組を見たりしていた方が、精神衛生上断然良いから。
06/28 12:37 なぜ↓で心が明るくなったか?
それは、ここ−色・形・音−が自分の元居た世界だから。
教育とか○○業界とか、その他諸々の今時の人たちのこととか…こんなこと、考えたくなかった。
06/28 11:38 テレビ朝日制作の『いきいき夢キラリ』Beautiful Mind〜神様がくれた素敵な才能〜

キッカケは、ゴミ箱からでした。作業所ニーファイユーに働く下地さんが、ドライブの時に素敵な絵をゴミ箱から拾いました。その絵を描いたのは自閉症の波平雄介さん。波平さんはパソコンを使って絵を描きます。モチーフとなるのは、沖縄の自然と、伝統芸能。色彩は、彼が感じている沖縄の色。とにかく色が綺麗で、細かいところまでしっかり描かれている。そんな彼の絵は多くの人を魅了します。誰もが彼の絵を見て思うことは、「優しさ」。そう、波平さんが絵を描くときに思うことは、「僕の絵を見て、多くの人が優しい気持ちになってくれるといい」と言うこと。絵の根底にあるのは「平和」。その気持ちが、絵にちゃんと表現されている。彼がここまで来られたのは、人と人との繋がり。そこには、優しい人間関係があります。先天性の持病があるとは思えないほど、人とのコミュニケーションが大好き。ゴミ箱から始まった繋がりは、今年は、海外へと繋がっていく。多くの人が惹かれる波平さんの絵の魅力、そして、波平さん自身に迫る。

見ました。久々に、心が明るくなる番組です。(ドラマや余計なセリフがないので。でも、うれしくて泣いているお父さんに「泣くな」「頑張れ」と励ましているゆうすけさんに、「人間はうれしくても泣くのだ」と教えてあげたくなってしまいましたが…。)

素晴らしいゆうすけさんの作品が見れるゆうすけブログ
ホームページNi Fai You

ただ、私としては、ゆうすけさんが使っているソフトが気になって気になって…。
マウスを操作するだけで、直線や曲線が自在に書けて色も塗り放題のあのソフト、もしや今年になってやっと我が家にソフトとそれが使える高性能のパソコンがやって来た、あれでは?
−実は、本当は私が欲しかったのですが、千歩譲って長男のために調達したのでした。長男は高校で習いも今は専門学校で習っているから、もうすいすい使っている。先日、インストールさせたので、私は初めてその画面と使っている人を見ました。−やっぱり、私も欲しかった! 不謹慎で、すみません。能力を活かす道具と機会は、人生においていかに重要かと再認識させられました。
06/26 13:04 医療従事者だから、優しくて人の気持ちを分かってくれるだろうなんて思わない方がいい。医療従事者の中には、シロウトに医療を施してやるプロだという自信から、自分の気持ちを押しつける傾向の強い人もいる。患者の気持ちにいちいち応えていたら、治療や介助ができないということもあるだろう。
また、自分が病気になった経験がなく、病院にいて病気が移らず過酷な勤務体制で人の命に関わっていられるくらい体力もスタミナもあるので、弱っている人の気持ちが分からない人もいるかもしれない。
06/26 12:52 成長して自閉っぽさがなくなっていく子どもの場合、こちらとしてはASDなところもADHDなところもLDなところも全部見えているのに、知らない人には全く普通どころか今時珍しい“良い子”としか見えていない。問題行動が少なくなればなるほど、ギャップがますす大きくなる。
子どもが小さければ親の方も子ども中心で考えるが、子どもが大きくなればそうもいかなくなる。その時の社会に対するスタンスは、発達障害という事実を社会に対してアピールする立場になるか過去のものとして葬り去ろうとしているかのどちらかになっている。つまり、家庭や学級内の問題でなく、社会的な問題になっているってこと。
06/26 09:55 長男は、パソコン関係の専門学校に通うようになってソフトの使い方などを本格的に習っている。似たようなことは高校でもやっていたけれど、今はそればっかりなのですっかり羽を伸ばし、オタク活動に即活用している。
私は、あれこれクリックしまくったりして我流でパソコンを覚えた。長男に聞いても教えてくれないので、やっていることを盗み見している。長男と一緒に行った体験入学では、けっこう良いことを教えてもらった。早い話が、自分が習いたい。
06/26 06:04 世の中のオカシサ、どこどこのオカシサ、こういったことが正義感の強いASを苦しめる。特に昨今は、ろくでもないニュースが多すぎるし、しかもそれを繰り返し見せられるので怒ることが増える。こういった世の中に対してどう考えるか、その怒りの感情をどう処理するかといったことも、ASにとっては死活問題。
06/19 13:15 興味関心・感じ方と考え方が全く違うNT社会を生きるためのスキルと、ASであることを忘れず(むしろ誇りに思うべき)、ASとしての自分の世界に不都合なく帰還しまた現実へと戻るためのスキルの二本立てで行くこと。それは、本当のうつを防ぐ、と言うか、うつっぽくなる瞬間が訪れてもなんとか凌げるようにするためのスキルでもある。
06/19 09:26 世のうつ(といっても病院に関わった)人口が92万人ということで、うつを告白したり克服の体験談を述べる人が多くなっていた。だいたいは、正常な社会性をもつNTが社会的な不全感を抱くことによる堂々巡りで、完全でなくて良い・無理しなくて良いと悟って克服していくというパターンだ。
ASDが二次障害のうつになる時はこれに近い堂々巡りが起きているので、無理をやめることで急性期を乗り越えることができる。このいきさつはドラマチックで、本にもドラマにもなる。が、ASDが本当に無理をやめて、NTとしてふるまう自分の分身まで捨ててしまったら、それこそ生命の危機。そこのところの無理が元になって起きる慢性のうつは、決して本にもドラマにもならない。
ASDのままでもNTの中で生きられる自信と経済力が十分にあるか、ASDの自分をそのまま受け容れられる人的環境をもっている人だけが輝いている(−なぜか、主人公の名前には光りものが多い)が、それはあくまでもNT向けのスター。氷山の頂点にしか光を当てない支援は、本当の支援ではない。
06/18 21:29 ズバズバ言えるのは、深く考えたりきちんと調べたりしていないから。歴史や成り立ち、科学的根拠から掘り起こしていたら、そんな簡単にコメントできるはずがない。誰だって思いつくけれど、それを上手く表現できないし相手に直接問い正す勇気がないようなことを軽々に口に出せるかどうか、そして、数字かとれるかどうかが“今の時代の才能”らしい。
06/18 14:49 診断件数が増え、用語が日常化すれば、AS眼鏡やASDレンズで正しく見てもらえるものと考えていた。ところが、現実は、公然と普通の目で見られる機会が増えただけのようだ。
06/09 16:46 例えば、人に好印象を与えるにはどうすればいいかとか、いかにNTは非言語コミュニケーションで通信し合っているかといったことを、学習することはできる。しかしだからといって、それをそのままASが実践しようとするのは無謀だ。NTは、それを自然にやっているのだが、ただ上手い下手の違いがあるので努力したいのだ。NT向けの情報を、違いを知らないASが真に受けて真似をするには、24時間体制で自己演出をするかすべてを知識と計算で処理しなければならないので、いつか精神的に壊れてしまうことになる。
まず、NTとASの違いを踏まえた上で自分のキャラを決め、時と場合と相手によって、どこでどういう芝居をするのが良いか学習することだ。
06/08 08:38 「こわれ者の会」の活動を紹介するテレビ番組を観た。誰だって、身体的にも精神的にも障害者になる可能性があるのに、無くて当たり前・有ったらよけ者というのは、どう考えたってオカシイ。できて当たり前・あって当たり前の社会にしがみついているよりも、ないことを素直に認める方がよっぽど自然だし強いと思った。
日本社会は、繰り返し違いを明らかにしようとする人が積極的に違いを明らかにすると、明らかに話しかけられなくなる社会。社会的な収穫のない情報は求められないし、社会的な収穫のない人には話しかけもしない。しかし、違いを明らかにしようとする人でも、同化する努力をどんなにしてきたか・誰のお陰で同化できているかといった情報を提供する人、つまりNT社会にとって収穫のある人は、何度も誘うし話を聞こうとする。
昨日の読売UD「自閉症に優しい社会を」に、スティーブン・ショアが
「日本では、我が子が自閉症であることを隠したがる親がいると聞いた。そうさせる環境があるのでは」と指摘。「人々の理解を深めるため、情報提供とコミュニケーションがもっと必要。自閉症の人がどう教育の機会を得て、どう就職するか、社会全体で考えてほしい」
と語った記事が載っていた。この国では、情報提供とコミュニケーションをしようとすればするほど、本当の理解から遠ざかるのだ。うわべだけの共生ならば、進むだろうけれど。
06/01 09:09 こだわりは強いが、社会的な人格と感情によるしがらみがないということは、しがらみまみれで(というよりはしがらみを生き甲斐として)生きている人たちにとって、脅威に違いない。
05/26 07:35 昨日の爆問学問で、山岸先生の研究。日本人は、監視する体制を作ったから強制的に集団主義者になっているだけで、主体的な個として他人のことを考えているのではない。シバリがとれたら、かなり利己的な民族だという話を実験を交えてしていた。…ものすごく、よくわかる。
05/26 07:28 事件が起きると、いかにもひどいことが起きて、理解に苦しむというようなことが書かれている原稿を、したり顔のアナウンサーが読み上げる。…人を責めるだけ責めているが、その弱さは自分たちだって一緒だという大切ことに気づかず、その事実を棚に上げたようなコメントをし続けているから、いつまで経っても同様の事件が起き続ける。
05/26 07:23 昨日、山田太一のドラマを見た。『男たちの旅路』が私の原点だったこと。同じ大学を選んだこと。大学に講演に来た時に、握手をしてもらったこと。後援会の二次会が終わるまで、ずっとうろちょろしていたこと。などを思い出した。
ところで、『ふぞろいの林檎たち』って、どういうドラマだったのだろうか? 当時は子どもだったので、本当のことは分からなかった。DVDを借りようと思ってツタヤのページを見たら、学歴社会の落ちこぼれの話だって書いてあった。ところで、私が超有名大学を出ているのに長男が専門学校に行っていることについて、誰もが口を閉ざしていることから推測すると、学歴神話はまだ続いているらしい。社会性のフォローなしに大学なんか行ったって何者にもなれないし、高学歴は新卒時の受験や特定の職種には必要だが、本当の意味では安定就労の妨げになることに、まだ気づいていないらしい。大学での自由で自主的な4年間を送らせることは、長男にとって何の利益にもならないことも明白なので、最良の選択をしていると、自信を持っている。(それ以前に、発達障害の存在すら認めようとしていないのだから、どれだけのことをやってきたか・やっているかということも、無きことになっているようだ。)
05/26 07:08 うまく化けさせるための支援なのか、共存のための支援なのか、楽しいものだけを観て高見の見物。
05/25 10:02 やれ男脳だ女脳だという区分の仕方は、完全にNT的な発想だ。ASの脳は、社会的無性脳。ただ、生物学的な雌雄をもつ身体に収っているために、その影響を受けているにすぎない。---と私は思う。
社会的には無性なのに、身体的な特徴によってどちらかの社会的性に強制的に帰属させられていることによる精神的苦痛だけでも相当に大きい。さらに、実際には存在する身体的無性・身体的雌雄同体・精神的無性というカテゴリーが社会的に認知されていないことによる説明のしにくさ、理解の困難という二重苦。
05/25 09:46 過剰な視覚情報と深層心理の闇情報の垂れ流しは、いい加減にやめるべきだ。それらの情報をあまりにもそのまま受け取って行動してしまうがために事件が起こり、その度に解明されるのは人類一般に共通する深層心理の闇部分。にもかかわらず、それを個人の心の闇であるとか個々の家庭や養育事情の問題として、他人事であるかのように処理され、納得できないと叫ぶ者たちの共鳴音だけがニュースになる。
05/23 22:07 しかし、自分の現実も家族の現実も直視しない見栄っ張りか、善も悪も規範もへったくれもないあからさまな感情をストレートに放出する人が、どうしてこんなに増えてしまったのだろう?−しかも、こういう人ほど人気者で、自信家ほど人気が高い。
05/23 21:11 今日は、長年教師をしていた経験から、「“親が子どもの現実を見ようとせず(=できないものはできないのだと悟れず)欠点を責め克服させようと叱ってばかりいる”ことが親子関係をおかしくさせる」と言っている人がテレビに出ていた。さすが、現場の見解!
こういう“親の現実”は、特別支援教育が制度化されたからといって変わるものではない。“特別”という言葉も“支援“という言葉もありがたいものだと思わない人の割合は、そうそう変わるものではない。ある者はなんとかしてそこから逃れようと必死になり、またある者は“特別”も“支援”も不十分だと不満に感じるだろう。
05/22 14:47 たしかな事実や科学的な情報を求めてテレビを観たのに、視聴者の感情と金を動かす目的で作られた番組ばかりで、すっかり気分が滅入ってしまった。それこそ、人を鬱にさせる自由という名の暴力だ。
口直しにDVDを見ているのだが、そちらの方こそ、きっと、「どこがオモシロイの?」と思われるようなものなのだろう。でも、これが商売として成り立っているからには、この世の中は大多数の視聴者と各種のオタクで構成されていると言えるのかもしれない。
05/22 14:17 NTのように、いや、スーパー日本人のようになれない人は不幸だという発想は、いい加減にやめて欲しい。
そうならなくて良かったと本当に思っている人に対して、NTやスーパー日本人のようになれと言われる不幸と、勝手な思い込みを押しつけられる不幸の方が、よっぽど大きい。NTの振りをしなくても、ASのままでNT社会にいられたら最高に幸せなのに…。その幸せは、いつもNTによって壊される。
05/22 14:07 多くの人の涙を誘い、高視聴率をマークするテレビの苦労話。なんでこんなところで罪悪感? なぜここで自分を責める? ということばかり。
子育ての専門家として紹介されたどこぞやの先生が、大きな顔をして“子どもの行動に対する正しい対応の仕方”を語っていた。自主性に任せなさい、自分で考えさせなさい…。では、大人として、子どもに教えなければならないことはないのか? その犠牲になって社会に出られなくなった人たちや、反社会的な人格を形成してしまったたくさんの人たちに対して、責任とってくれるのか!
こんな腹の立つものを、わざわざ観る必要は全くない。
05/19 07:31 ASの心の闇を探ろうとしても無駄。ASがあまりにも無防備に表出してしまうのは、今という時代そのもの、そして社会の闇。
05/16 09:02 特異性を持った人というのは、うまく転がると、芸術・科学・社会風刺などの面で優れた才能になり得る。
うまく転がるためには、まず特異性が認められること、生活の基盤があり環境が不快でないこと、そして感情の調整ができることが必要。
特異性が発揮されて輝いているのを見るのは良いが、特異性を潰されて犠牲が出るのを見せられるのはゴメンだ。
05/15 21:04 DVDを再生できる機器が揃ったからではなく、ツタヤディスカスで手軽に借りられるようになったので、最近はよくDVDを観ている。数字のために視聴者に媚び、数字の取れる出演者に媚びる、イヤらしさが見え見えのテレビ番組なんか不愉快なだけだ。最近は、ニュースでさえほとんどワイドショーだ。テレビは、本当に見たいもの、面白いもの、ためになるものだけ、見たいコーナーだけ見れば十分だ。
主にお笑いのDVDを借りるのだが、テレビでも放送できないほどどうでもいいもののこともある。けれど、最初から好きな人だけが買うという前提で作られているDVDには一般大衆や小市民への媚びが一切ないので、本当のことをズバリ突いていて、はまると本当に面白い。それに、テレビ的なタレントとしてではなく芸やネタの部分でスゴイ人がいることもよく分かる。テレビのネタ見せ番組ではテンポ良くサワリだけが放送されているから、一度見たものは「これ知ってる」で終わってしまうものだが、ライブでは独自の空気感があって何度でも繰り返し見たいと思うものだ。
04/23 20:54 私が知りたいのは、ASがなぜ孤独かということではないし、どうやってNTの感情を理解するかということでもない。なぜNTが群れたがるのか、なぜあんなに感情的になりすぎるのかということだ。
04/23 19:55 中学時代に同級生たちと話す言葉が違っていると感じて引きこもっていたという、千原ジュニア。DVDを借りて観たら、「なるほど、これだけ鋭かったら、周囲から浮くだろう」とうなずける。“普通の人と視点が違う”からと、NSCに呼び出してネタを書かせた千原兄も鋭い!−発想や視点の違いを活かせる場があれば、それまでマイナスだった要素がプラスに転じる良い例だ。
しかし、決定的な違いをもったまま場違いな所に居続けなければならないと、話せば話すほど遠くなり、分かれば分かるほど嫌われる。それは、関係性の障害でもコミュニケーション障害でもない。スキル不足・要領の悪さと言えなくもないが、スキルや要領を使いたくない頑固さを貫き、孤独に耐えていることだってある。
どちらにしても、今置かれている場所の外に希望が見えているかどうかが鬱に打ち勝つ決め手。希望のありかが、この世の中のどこかなのか、実在しない何かなのかは別として。
04/18 13:59 思春期以前の子どもに教えるソーシャルスキルは、ヒトが社会に生きるニンゲンになるためのスキルで、汎化されやすく時代や流行の影響も受けにくい。
しかし、思春期以降のソーシャルスキルは、心理学上の発達課題として教科書に載せられる部分と、その時代や社会でうまくやっていくための処世術の部分とに分けられる。目的が、単に生き延びることにあるのかある程度の社会的な地位を得たいのかによって、身につけるスキルが変わってくる。社会悪に相当する領域まで踏み込むのか断固として拒否するかによって、暮らしぶりまで変わってくる。
04/16 08:00 民主主義の原理に任せた自由競争社会に“神の手”は働かないことを、なぜ歴史から学ぼうとしないのだろうか?
自由競争の社会が、適材適所の実力主義社会だというのは幻に過ぎない。その実は、人を欺し合う人気最優先社会。人気のためなら何でもやるし、人気があれば何をやっても許されるという、中身も実体もないオバケ社会である可能性は否定できない。
04/15 20:23 オオカミにも家族はいる。だが、決して犬にはならない。
考え方や感じ方、発想が全く違うということは、どんなにソーシャルスキルや感情の学習をしても永遠に孤独ということ。それを、いかに了解して生きるかが大事。
04/14 10:11 人の感情を動かして金と数字と人気さえとれれば、個人の名の下にワガママし放題!−テレビも報道も当てにならないし、正論を説けば嫌われる。
こんな時代にヴィトゲンシュタインみたいに生きて、何が悪い!と言うヤツが一人くらいいて、何が悪い!?
04/12 08:46 昨日、ウインドエアコンの取り付けをした。先日購入した電子辞書でIQテストをやったところ、「空間認知」の問題がかなり早い内からほとんどちんぷんかんぷんだったことから、これが“苦手分野の作業”であることが生後46年目にして初めて分かったので、十分に時間をとって取りかかったら。
「できないはずのことをよくやっている」と思ったら、説明書がよく分からなくても、何度もやり直してもイライラすることなく落ち着いてできた。自分自身に対する完全主義的な思い込みが、余計な足かせになっていたことを認識した。
03/24 10:10 軽度発達障害自体がハザマの障害だが、特別支援教育のやり方をする必要は(もう)なくても、普通教育のやり方にはついていけず学校で放っておいてよいわけではない、いわばハザマのハザマの状態になってくると、やることが限りなく増えてくる。内容は普通だが、やり方は人それぞれオリジナル。特に、学問・理解・知識といったものを極める意欲がない(ハッキリ言って、勉強嫌い、ただ毎日を楽しく過ごしたい)子どもの場合は、最初から最後まで目標は「受験」。成長過程で身につけるべき中学の履修内容なんていう、理念を掲げている余裕はない。
意欲がまるでないのではなく興味本位でやる気にムラがある、図や文章から内容を読み取る注意力と理解力や知識を活用する応用力に問題がある、丸暗記できる容量が少ないといった困難が根底にあるため、これらの制約の中でできることを考えると、上記のようになるのは仕方ない。
03/22 09:49 今まで存在が認められていなかったものが公認されたり、知られていなかったことが公のものとなりつつある時期というのは、そのものの実態を明らかにすることが一つの大きな仕事になる。それまで人知れずに我慢を重ね無理をしてきた人たちは、大手を振って歩ける場所ができたとひとまずホッとする。二次障害の鬱や他の精神疾患に悩まされていた人も、本当の原因に辿り着いて症状が軽減したりするし、アイデンティティを取り戻して生きる自信に繋がるといったことが起こる。
また、障害特性を認めることが最初の重要な作業になるため、さまざまな支援ツールが開発され、公的な支援者を承認するための法整備を行い経済的な基盤を確保することに重点が置かれる。「我々はこういうサービスを提供し、こういう成果が上がっている」というアピールがさかんにされる。
しかし、そのような過渡期では、実態が分かることが問題解決に直結するとは限らない。こういう発達障害のある人はこういう言動をするものだと認められる安心感は得られても、それ自身に社会的な妥当性がなければしょけんは内輪のお祭りに過ぎないからだ。そして、ただ発見されただけではなく社会適応のための適切な処置を受けた後進者が脚光を浴び、ただ発見されただけの者はあっという間に過去の遺産として時代から取り残されてしまう。問題点が明らかになっただけで誰も何の対処もしてくれず、何も解決しないままに。
何よりも、こういう特性を持っているからこういうことをするのは仕方がないと認められることと、こういう特性を持っているので、こういうやり方で対処すれば問題が減っていくという経験とのバランスがうまくとれないと、障害特性を事細かに認められ過ぎたが故の弊害がかえって大きくなることがある。過去のことや未治療のままになっていることを後生大事に取り扱われることで、逆に重くなる症状が出てしまったり、不都合が増えてしまうことがある。認知の歪み・感覚の異常・感情の未発達が修正の効かない固定した障害であるとされ、心的外傷に神経をとがらせすぎたことで、振り回されてしまった人は少なからずいるはずだ。
こういう時には、黙っている方が賢明である。中にいない方が実効的に学べることだってある。
03/19 11:14 もう一つ、大画面表示や留守番機能の搭載が主流になりつつあり、一行表示のFAXが手頃になってきたので、やっとナンバーディスプレイのできる電話機に取り替えることができた。迷惑電話防止機能もついている。今日、初めてその機能をマニュアル通りに使えた。すごく気持ちが良い! もちろん、1Fで電話をしていると睨まれるので、親機の電話は音量を下げ、2Fの子機の音量を大きくしてある。
(ちなみに、型オチしたもの・展示品・バーゲン品、またはポイントを使用するなどして家電製品を買っているので、実際の支払いは一万円台。)
しかし、大問題が発生。見張られているために買い物に行けないからネットで買っているというのに、段ボール回収に来てくれる業者さんがいなくなってしまった。溜まる一方の段ボールをどうしようか?
03/19 08:56 最近、次男に勉強を教えるため、そして、ほとんど忘れてしまった自分が情けなくて、NHKの高校講座とやっと入手できる価格になった電子辞書で中高の勉強をしている。また、電車バスヲタクの長男と違い、映画・ドラマ・音楽方面に興味のある次男のためと称して、これもまた値段が下がって買えるようになったDVDプレーヤーやSDコンポを揃え、ツタヤディスカスの会員になり、今まで我慢していたCDやDVDを借りまくっている。発達障害といっても、軽度の場合は、単に発達障害そのものへの対応をしていればいいわけではなく、本人の興味の対象を社会的に通用するように広げたり、間違った方向に進まないように見守ることも大切だと思っている。特に今は、売れれば何でもアリの風潮の中、ほとんど野放し状態になっている人があまりにも多いので、警戒する必要もある。
一方で、誰がどうしたというわけでもないのに孤立感にさいなまれているのは、世の中に対する憤り以外の何ものでもない。ニュースで報道される出来事・視聴率さえ取れればいいという番組作り・有識者の見解とあまりにも違う俗世間・相変わらずのスパムメール・ホリエモンに対するネットの反応…。絶望するに余りある材料が揃っている。
EQトレーナーで、「怒」と「哀」を満点にしたら、「燃える言葉を選べ」と出た。この気持ちは、憂慮するのではなく挑戦する方向に持っていけということのようだ。
03/15 10:24 英語ができるからといって就職できるわけではなく、英語を利用して何ができるかが大事なのと同じように、ASだからといって食えることもない。問題は、それで何をするか・何ができるかだ。
03/15 10:06 最近、自分の考え方が、仏教の空の思想(般若心経・唯識)そのものであり、実践しているのは論理療法だとつくづく思う。こんな流行らない考えを持っていたら、どっちを向いてもNo!と言いたくなって当然だ。だったら、きっちり勉強してやろうと思っている。
03/15 09:59 経済効果最優先・みてくれ重視・大衆迎合・マスコミ煽動の今の社会がそんなに良いものだとは思えない。しかし、どんなにそれがオカシイものであったとしても、この世の中に生きていかなければならない以上、それなりに適応しなければならない。
どんな時代にあっても、時流に乗らず、用意された社会や既成概念や価値基準を拒否し続ける特権階級ともいえるASが存在しなかったら、人類に進歩はなかったはずだ。だから、抹殺されない程度に適応することは必要だが、すべての人が教育の名の下に小さくまとまってしまうことはないし、それはありえないと思う。
03/10 17:05 社会の中でユニークでいたい、集団の中で一人いたい。これが、ASのかかわり方。
しかし、NTの方は、社会や集団に入るか入らないかのどちらか。社会や集団に入るためのギシキ(挨拶・手みやげ・プレゼントなど)をするかどうか、集団の成員として持続するための努力(物理的拘束・話を聞く・飲食を共にする・呼出に応じるなど)をするかどうかが、イイヒトの基準になる。どちらかというと、こちらの社会性の方がよっぽど幼稚で単純だと思う。
03/05 21:26 『EQトレーナー(DSのではない)』とやらを買ってみた。「不条理」とか「理不尽」を感じるのは、立派な感情であって知性ではないことが分かったら、すごく楽になった。自分の判断や考えに自信を持つと、人に何を言われても平気だし、他人の態度に腹が立たなくなる。
ところで、このところ毎週どこかの病院に次男を連れて行く羽目になっている。症状の割に不定愁訴が多く、過剰に心配しているのだか本当に何か大きな病気が隠れているんだか分からず、的を得ないまま週が明けてしまった。今日は、具合が悪くなったら病院の受付時間内に家に連絡するように言って学校に行かせたのに、先生に聞かれる順番が後になって総合病院に行けなかった。とりあえず午後もやっている個人病院に行ったのだが、自分の状態を医者に言葉でも態度でも伝えることができず、結局私がべらべらしゃべって呆れられる。この次男にこそ、『EQトレーナー』が必要だとつくづく思った。
03/04 21:56 自分自身の社会的な位置づけ要求が高い自己愛者が、テレビの中であたかも宇宙の真理であるかのような物言いをすると、カリスマと呼ばれる。実際は、実に非科学的な自分の嗜好をまことしやかな理屈をつけて大仰に言っているだけなのに。なぜ、それが分からない!?
そりゃあ、あんな小手先だけの実験結果を信じて右往左往しているくらいだから、見抜けなくて当然だろうね。一週間やそこら何かをするしないで出た差異なんて何でもない茶番で笑ってしまうが、そもそも、毎週毎週、すごい大発見や新事実なんかあるわけない。
テレビなんて、人の心を動かしさえすれば何だっていいので、真実はもともとほんの少ししかない。だから私は、楽しむためにしかテレビを観ない。
03/04 21:46 「本人がイジメだと感じたらすべてイジメである」とか「不快にさせる言葉を言ってはいけない」とか「イジメはカッコワルイことだ」というようなスローガン的な文句を並べて自己申告と内部告発を求めるだけの指導が、本当にイジメ対策になっているとは思えない。それどころか、人と人との間のいざこざを、犯罪なのか、イジメなのか、対人関係の未熟さの故に起きたトラブルなのか、人格形成に支障をきたすようなトラブルなのか見極めるべきだと言うだけで、ワルモノにされてしまう風潮がある。
しかも、ひとたび事が起きると、そこに至るまで、大人(親・祖父母・親戚・隣人・教師…)が子どもにどんなことを教え、人とのかかわりの中で何を指導し、トラブルが起きた時にどんな対処をしてきたかといったこと、ひっくるめると子どもの社会性をどのように育ててきたのか・育ててこなかったのかということを棚に上げて、責任の所在だけを追求し始める。それも、人によって自分を責めるか他人を責めるかのどちらか一方に偏る。
もう、何も言いたくない。
03/04 21:09 NTの一番病は、タチが悪い。なぜなら、本当の一番病だから。
一番上に立ちたい、ちやほやされたい、仕切りたい、偉くなりたい、目立ちたい…と種類はさまざまだが、社会的にうまくやって本当の一番になりたいのだ。
自分が部分的に否定されたことを、全人格否定であるかのように感じてしまうASDの一番病のような単純なものではない。
03/03 20:45 弱い者いじめは良くない・カッコ悪い−これは、社会規範
人を不快にさせることはなるべく言わない−これは、マナー
誉めて育つこともあるが、誉めるとダメになることもある
叱ってダメになることもあれば、叱った方が育つこともある
成功体験が自信になることもあるが、成功体験のために萎えてしまう神経もある
失敗体験が身を滅ぼしてしまうこともあるが、失敗体験をしていないことが脆弱になってしまうこともある

「“人”という字は、人と人が支え合ってできている」というが、「誰かにヨイショされなければ生きていけない」とでも解釈しているのではないだろうか?
消費社会と情報社会の餌食になって幼稚な全能感が幼稚な全能感を育て増長させ、あれが悪い・これが悪い、ああしたからああなった・こうしたからこうなったと皆が口々に主張している有様では、人は人と人との関係の中で成長し人格を形成しているのであって、皆一蓮托生で、ほんのちょっとの違いでワタシがアナタになっていたかもしれないことなど、すっかり忘れられている。早い話が、人一人がバベルの塔の住人。それが、集団エゴの中で自分の収まり処を確保しようと躍起になっている。

こんな社会では、数が多い方が正義であるとは限らない。むしろ、少数派であることにこそ誇りをもって生きたっていいじゃないか!(たとえ、その代償が鬱であったとしても。)
02/26 08:40 いきあたりばったり・興味本位・その場しのぎ…。これらを逆の側面から見れば、ADHDの奇抜な発想の大元であることは十分に分かっている。しかし、座標軸がなく系統立っていない情報をいくら集積しても身につかないし、必要に応じて引き出すこともできない。さらに、人とコミュニケーションをとろうとも思わないため、怒っている・ふてくされている・威張っているとしか見えず、人に対して何の説明もせず自分が不利にならないための努力もしない。 これを放っておいたらどんなことになるか目に見えている。現時点でこの問題を抱えている次男は、ちょっと気を緩めると、必ず何かしでかす。
何をすべきかは明白だし、英語の学習と作文を通じて基礎学力の土台作りをするための準備もできている。そこに本人が乗るかどうかのところで、正念場を迎えている。
02/19 09:58 この国には、個に対する社会という概念がなく、社会集団的にまかり通っていることが正義とされる。自分が所属する集団でうまくやっていければいいので、そのための社交性は身につけさせても、正面切ってソーシャルスキルを教えようとはしない。
この国で良い人というのは、情の深い人のこと。感情的な民族なので、感情には非常に敏感で、ホンネの次元で感情を表に出さない人には不安を感じる。その反面、感情を交えないことが求められるタテマエの次元は、無意味に儀式的で形式的になりやすい。感情的なのに、公の場や上下関係のあるところでは感情を押し殺すことが求められているのだ。だからこそ、横の繋がりでは感情を全開にできることが求められる。
ホンネの次元で論理的なASは、頭の良い立派な人みたいに思われて、ソーシャルスキルを身につけるチャンスを逃しやすい。公の場でも感情を全開にしてしまうASは、躾のなっていない恥ずかしい人ということになり、プライベートの場で感情を全開にできないASは、横の繋がりがもてないことになる。いずれにしても、こういうかかわり方が求められる場面で成功者になろうと思わない方が、賢明だ。
02/19 09:16 こちらは、ありのままに見るので、何がマイナスで何がプラスなのか分かっている。発達障害のためにマイナスから出発して、ゼロにするための努力をしている。それが、プラスになってくれれば、御の字である。
ところが、プラスから始まっていると思っている人は、より多くプラスになることを求め、更にそれを死守しようとする。プラスに向かうのがあたりまえだから、ゼロやマイナスから出発していることを素直に受け取ることさえもできない。本当の出発点が見えていないから、足りないところばかりが目につく。しかし、いつかは現実に直面する。その時には、ちょっとしたマイナス要因にも打たれ弱く大騒ぎすることになる。正にそれが、“いま”。
02/17 17:11 「人を不快にさせることを言わない」「自分が不快に感じることは人に言わない」というのは、ルールやマナー。「人を差別するようなことは言わない」というのは、倫理観。では、本当のことを言うと怒るような人ばかりになっていいというのだろうか!? それから、何を不快と感じるかは人によって違うということを無視して、人を不快にさせないように自分は気を遣っていると主張する、実質自分の価値観を押しつけるだけの人が増えていいというのだろうか?
−−例えば、大竹しのぶが『笑っていいとも』で、「役作りのために太った」と自分で言っておきながら、タモリに「太った?」と聞かれて「ひど〜い!」を連発していたが、これは明らかにオカシイ。女優が役作りのために体重を調整できるのは、むしろ誉め言葉だ。また、これが芸人なら、オイシイ話になることがある。実際、森三中の大島さんは、その容姿のためにイジメられていたが、逆に自分が人を笑わせているのだと思ったことでイジメを克服している。
誉めて育てるというのは、幼児期から安心感と自信をしっかりと積み上げながら悪いことは悪いことも教わり、個と社会の切り替えやバランス感覚を身につけている人に対して通用することであって、誉められるだけのつけあがった人を作って良いと言うことではない。
感情的なニンゲン・挫折を知らないニンゲンを大量に育てようとしている学校や社会の行く末がどうなるか、恐ろしくて想像もしたくない(って、実は、現実が既にそうなっているので、その先を考えたくない)。社会的相互作用の欠如なんていう古い言葉を自閉症の説明に使う人はあまりいないが、適用したいNTだらけになっているような気がする。
02/14 17:00 明らかにオカシイ人・明らかに間違っている人・人として許せない人の発した言葉が、いかに重く自分の命にのしかかっているとしても、実在感を持たせてはいけない。表向きは否定も肯定もせず、何も言わないにしても、自分の中に侵入させてはいけない。自分の身を削るのは仕方ないとしても、骨まで切らせてはいけない。
ましてや、こんなもののために鬱になるのさえももったいない。自分を抹殺して死にたいと思って生きている状態は、自分で気がつかない内に相当に負のエネルギーを消費している。それは、ものすごい浪費だ。
02/13 22:34 今日は、完全な厄日だった。昨日来るはずだったパンが来なかった。いや、忘れられていて、配達が3日後になった。歯医者では鼻が詰まっていて歯の治療が十分にできず、提出する予定の書類に添付する郵便物は来ず、長男の手続きはできず、おまけにその件で学校に電話したら、たまたま別件で機嫌の悪かった先生に怒られ、グジグジ言う次男を病院に連れて行ったがたいしたことがなくて医者にうさんくさがられ、そうやって1日出ずっぱりで、帰りが遅かったのをヘンクツな年寄りに見張られて「何をしてる!」とブツブツ文句を言われた。しかも、今月中にあっちこっちに振り分けて支払いしなければならないというのに、今日のはずの入金がなかった。採算も利益も考えられない経営感覚のないマザコンは、やはり腹の立つことしか言わない。
このような状況にあって、“死にたい”と思うのではなく、“厄日”だと思えるのは、精神の健康を取り戻したからだと思う。しかし、経済情勢は相変わらずかなり不健全である。
02/13 22:02 思ったことを何でもその場で言ってしまうのはASの特権だが、これはかなりヤバイ。NTは、かなり早い内にそれがマズイことだと学習するので、思ったことを直にそのまま言わない。で、陰口・愚痴・憂さ晴らしという手法を習得し、社会的自己と非社会的自己によるまっとうな二重生活を送ることとなる。
どんなことなら思ったことをそのまんま言って良くて、言っていけないことは何かが分からないから、黙ってしまうこともある。それ以前に、人に対して影響を与えるようなことを言ったりやったりすること、つまり、人とかかわること自体が恐かったり、自分をどの程度主張したらよいかのさじ加減が分からなかったりするために、フリーズするしかないこともある。それで、現場では何も言えない。これは、ASの元々の素性。
で、モノノホンに書いてある、「陰口を言ってはいけない」「愚痴をこぼしてはいけない」「誰に対しても不満を抱いてはいけない」なんて言葉を鵜呑みにする。本当にそういう気持ちがないのなら、ご立派。だが、怒りや欲求不満や不安や不公正感がうごめいているのに、何も感じていないかのように思い込んで押し殺してしまったら、抑うつの始まり。外見上は見事に適応しているようだが、自己否定の上に成り立っている砂上の楼閣にすぎない。そんなものが長続きするはずはない。
そうならないようにするために、人に対して言っていいこと・言わない方がいいことを分けてみる。
  1. ルールやマナーにのっとって、合法的に訴えてよいこと=社会的な悪や倫理思想上修正すべき事柄。
  2. 時と場合、相手を選び、言い方を選んで話してよいこと=自分自身の社会的不利益を考慮すべき事柄。
  3. 怒り・不満を抱きながら我慢し、何かで発散した方がよいこと=その感情を抱いて当然だが、事態が改善する見込みがない事柄。
  4. 怒り・不満を何かで打ち消したり、できれば抱かないようにした方が平穏に暮らせること=自分の方の価値観・感受性・倫理観などに非がある事柄
02/13 14:06 NTは、言葉そのものではなく、その言葉を発した人が誰であるか、その言葉に込められた気持ちや意思は何かをキャッチする。むしろ言葉はどうでもよくて、その人の人となりや感情を受けとめる。言葉は、キャッチボールのボールに過ぎない。
ASは、言葉そのものが、それなりの質量をもって実在するかのように受けとめる。だから、それはASの感覚であって、周りのNTはそうではないことを学習する必要が生じる。その知識やスキルをもってして、NT式にあてはめて翻訳しながら適応することもできる。とはいえ、その言葉の存在感が消えるわけではない。あくまでも、でんとしてそこにましましている。気がつくと、自分の周りのすべての空間・一挙手一投足が言葉に支配されているという結果になってしまう。
しかし、“人は、自分と違うことをする人・思ったことと違うことを言う人には必ず違和感を覚える生き物”である。そして、自分と違っていることに対しての不満感を、何らかの形で露わにする。相手から発せられる、その“ワタシとは違ってますよ”オーラも、なくなることはない。人は一人一人違っているのだから…。だからといって、“自分とは違う人の意見や行動”を、すべて自分への文句や当てつけや命令だと思うことはない。人と交わされた言葉の内、どの言葉によってどの程度自分を縛ればいいかということは、その言葉が誰から発せられたものか・どのような場合に当てはまるものかによって、決まってくる。すべての人に文句を言われないように、先回りに先回りを繰り返し、狭く狭く生きることもないのだ。
02/11 09:48 次男に今起きている問題、それは、中学に入って学区が広がったということ。だいたい、どこに行っても似たようなのが集まることになる。小学校では小学校のメンバーの中で起こりえるトラブルというのがあったのと同じように、中学で出会ったメンバーと、この時期に有り得るトラブルを起こしているということ。
しかし、最大の違いは、発達障害の認知度と、支援の必要性への意識が全く異なっているということ。そして、発達障害を恣意的に無視してきた確信犯の集まりになっているということ。
02/10 22:45 時代に適応できることが大事だからといって、適応する人ばっかりになってしまえばいいとは限らない。
「調教」「愛玩」「餌付」はあっても、「育てる」がない−これが何のことなのか、もう“言わざる”にする。
02/10 10:00 発達障害の観点から見れば、やることはたくさんあるのに。個々別々のやり方があることも分かり切っているのに、なぜそんな明白なことが見えないのか!?私には分からない。
あくまでも、特別な人に対する特別な支援であって、どんな人でもその人なりのやり方があることを認めようとしない。学術的には賞賛されても、現場ではそういう考えを持っているというだけでうるさがられ、明らかに無視される。(現場の処遇は、親自身の社交力と子どもの出来で決まるが、両方なければ最低扱いされて当然ということらしい。)
02/09 07:18 長男・次男とも、社会との接点でトラブルが起きないはずはないと思っている。小学校低学年の時の手のかかりようからすれば労力は比ではないが、それは物理的な手間が少ないというだけに過ぎない。自分の意思で動き、行動範囲も広くなるので、監視できない時間が増える分、単に社会性うんぬんではすまされない現実社会での社会的な意味での問題行動が発生する可能性は常にある。(交通事故などの危険性も含めて)その原因が過失だろうが無知だろうがにおかまいなく、結果だけで判断され社会的に糾弾されるような…。その時、社会は決して味方にはならないし、どんなことを言われるか分かり切っているような…。
そして、そこには常に、発達障害の未診断・未対応の子ども・親子が存在する。それ以外の教育的な問題や、社会病理もある。両方が絡んでいることが非常に多い。しかし、日本社会はこの事実を見ようとはしていない。一部の専門家だけが知っていて、これから公的な支援を始めようとしているが、あくまでも特別扱い。一般には、明らかに見えていないし、恣意的に見ようとしていないとさえ言える。また、中学以降の学校は社会の側に立っているので、生徒は育てずに責める姿勢が強い。手に負えなければ締め出し、通常業務の範囲になければ放置する。閉鎖性は、明らかに強くなっている。
02/08 21:39 現在、次男の状態が良くない。二次障害の心配はないのだが、興味本位で思慮分別と結果の予測を欠いた軽薄な行動が顕著という、ADHDそのものとLDによる予想された問題が現実のものとなっている。それが、穏やかな田舎とは全く違う誘惑にさらされているのだから、監視をゆるめるわけにはいかない。(家の中でも外でも、悪い見本から遠ざけるために、甘い顔はできない。他の仕事にかまけてしまったら、アウトだ。正直言って、学校で反省文を書かされる程度の問題を起こすだけで終わるはずはないと思っている。)
02/06 07:16 年をとってどんどんひどくなるので、子どもたちに「こうなってはいけない」と教えることが増えている。
私はというと、明らかにオカシイ、理不尽な状況に置かれている以上、意地でも笑わないことに決めている。
が、そんなくだらないもののために不幸になることはない。
02/05 21:01 私が闘っているのは、発達障害とではない。この家のオカシサから子どもを守るための闘い。
だが、真似てはいけない見本に染まり、この家のオカシサと戦っている私の姿に染まっていたら、まっとうに育つはずはない。自立できないために、わざわざ二重の闘いをしている。これこそが、本当にバカバカしい。
(この家のオカシサの原因の一つに発達障害への未対応があることは事実だが、私はそれとは戦わない。それと戦い始めたら、世の中のほとんどと戦うことになるに等しいから。ただ、発達障害を見抜こうとしない感情に共通する、この国をダメにした自己満足と自己庇護を最優先とする感情を許すことはない。戦いはしないが、許さない。完全に怒っているが、無駄な戦いはしない。)
02/05 08:39 明らかにバカげている輩に対して、無視したり緘黙を押し通したり、怒りを露わにしたりすることは、大事な意思表明だ。しかし、そんな価値もないことに感情を動かすこと自体が、エネルギーの浪費であるようなバカバカしすぎることもある。感情を押し殺すと病気になる。が、だからといってその感情を余分に増幅する必要は全くない。最初に抱く感情はしっかりと外に出したら、それでおしまいにした方が健康に良いし時間も有効に使える。
ホームレスになることに比べれば、そんな我慢はちっぽけなことだ。だが、ホームレスにならずに済んでいる現状に対して、「どのような状況にあっても生かされていることに感謝しなさいという安っぽい幸福論」を信じる必要はない。理不尽なことは理不尽であり、災難は災難であるし、不幸なことは不幸である。しかし、どのような状況にあっても、ここにはなくてもどこかに正義はあるし認められる価値はあると信じることはできる。別にその対象が神や仏でなくてもいい。何かを信じ、誰かを信じることはできる。
目の前のバカげた物は、いつかは消えるし、見なければいつでも消せる。それは一見、他力本願のようだが、自分の中にそのバカげた物を入り込ませないようにすることは、自力で十分に可能である。
02/04 21:00 生き延びるということは、「どれだけのくだらないことやバカバカしいことに怒りながらも不利益にならないようにやり過ごせるか?」ということでもある。一言で言えば、怒りのコントロール。楽しみをもってそれを打ち消すか、怒りそのものを何らかの方法で処理するか、怒りを人にぶちまけて自分が有利になるように人間関係を調整するか…、時と場合によって対処の仕方を選ぶ必要がある。
少しでも楽に生きられるようにするためには、経済的に自立して居場所と立場を選べるようにすればいいと思っていた。確かに、お金で買える自由はある。しかし、自立すればただちに嫌なことがなくなるかというと、そうでもない。自立するために、経済的な基盤を得るために、我慢しなければならないことが増えることだってある。成功すればするほど、増える批判もある。
01/22 15:40 「自閉傾向」「発達に遅れ」「大人になれば普通になる」…これらの言葉の意味するものは、立派なスペクトラムである。それらをひっくるめて、ASDという。
それを、慰めと解釈するか警告とみるかでは、大違いだ。特別支援にブレーキをかけるのは、実は最も身近にいて、最も理解しなければならない人であることが、あまりにも多い。
01/22 08:38 特別支障教育の観点ではやることがいっぱいあるが、学校の常識とは違う社会の常識では問題にならないことがあるが、その反対もある。どっちに転ぶか分からないから、厄介。
でも、その社会の方が、モラル崩壊していることに気づくべきだ。発達障害の事実がありながら、わざわざ色メガネをかけて見えないようにしている人はたくさんいるが、社会病理に気づいていない人は、それよりもっと多い。親子間でだけ通用しているとか、親子間で何の問題もなく満足している“冬彦さん”状態の人だっていっぱいいる。
それから、見た目と持ち物で人の価値が99%計られ、どれだけ感情的になれるか、たいしたことでなくてもまことしやかに人に語り訴えることができるか、といったことが対人的・社会的影響力になっているのが、今の時代。
大学で講義しているわけでもないのに、↑のことを冷静かつ論理的に分析し発言していれば、浮いていて当然。それを恐れる必要はない。四面楚歌の状況に耐えられるのは、こちらの特権と考えるべきだろう。
01/22 06:50 発達検査で能力の偏りがあったけれど、人より優れたところがあるから大丈夫だと思ってしまうのは危険だ。それを活かせるかどうか、それを活かせる場面が世の中にあるかどうかが問題なのだから。それから、家庭内、自分とのかかわりの中で、支障がないから、健常の範囲に入っていると思ってしまうのは、もっと危険。
01/20 10:45 この国では、精神医学や発達学は主流にならない。欧米では、裁判の判決に精神科的な治療が含まれていることがあるし、カウンセリングを受けることがステータスになることもあるようだけれど、そういうこともありそうにない。また、最近起きる事件を見ても、社会心理はますます殺伐としているし、弱肉強食の方向にあり、AS的なモノの考え方は攻撃対象にさえなってきていることが読み取れる。
理解が進んだからではなく、社会的不利益が増大したから特別な支援が必要になったという危険な流れ。
01/20 10:29 NTの集会には、2種類ある。
一つは、参加者が意見を出し合って、最善の結論を出すための集会。この場合は、自分の意見が通らなかったからといって、それが間違いだとは限らないし、自分を全否定されたわけではない。また、知識不足だったからといって、常に最新かつ最高の情報を仕入れておかなければと考えることもない。むしろ、常に上から目線でモノを言うことの方が嫌われる。こういう集まりでは、いろんな人がいろんな意見や知識を持ち寄って、助け合えたことを喜ぶものだ。
しかし、もう一つの集会はそうはいかない。初めから、一定の価値観や考え方があって、その流れに逆らう者はワルモノになる集まりだ。何かの目的で催されるもの、伝統や歴史があってそれを受け継ぎたい人がたくさんいるもの、強力なオピニオンリーダーがいるもの、参加者の大多数が特定の意見に賞賛しているもの…、こういう集会では、言いたいことがあっても黙っているのが賢明だ。祭の実行委員会とか、町内の行事だとかは、だいたいこちら。そういう集まりでは、リーダーでない人にも頑固な人がいて実力者だったりするので、それを見極めないと後々たいへんなことになる。とにかく、おとなしくしているのが一番。
問題は、参加しなければならなくなった集会が、どちらの性質か分からないことだ。それから、顔合わせの時期には前者だったのに、ワンサイクル(たいていは1年)の終わり頃には、決まった流れができあがって後者にすり替わっていることがあること。最初は個の集まりだったモノが、集団としてまとまり、成員間に帰属意識や連帯感が生まれてくるようになるのだ。で、NTはそれが出来上がることで安心する傾向があるので、わざわざそのための席をもうけたり、私的に集まって親交を深めたりする。また、その中で個人に対する決まった評価が下される。流れに乗らなければ外される。乗るか乗らないかは個人の自由だが、そのどちらかになっていくことだけは分かっていた方がいい。