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2006年の日記

12/03 08:52 学級経営上差し障りないこと・教師個人にとって何の不都合もないということが、社会で生きていけることとイコールではない。今、学校で評価されていることが、その子どもの人生にとって本当に役に立つかどうか分からないというのに、“今”をうまく乗り切るために時間を割かれている。つまり、本当にやっておかなければならないことを先送りにし続け、手遅れにさせている。−−−どうして、誰も気づかない! なぜ、こちらが悪者にされる?
11/27 10:17 私はASです。だから、こういうことができません、こういうことが分かりません、こんなことをします、と宣言することは、たいていの場合できない。また、もしそのようにしたとしても、「だから何?」と言われるのが関の山。−である以上、NT世界への深入りは禁物。下手に深入りすると、どう応えていいか分からない遣り取りがお互いに多くなる。お互いに、会話が途切れ、沈黙が増える。お互いに、想定外の事態に真っ白になっているだけなのに、無視している形になってしまう。
もともと、NT仕様にできている世の中のサービスを、同じようにはできない自分の生きやすいように切り取って利用しているのだから、身の回りのことを処理する仕方が違っているし、日常生活の有様も随分と違う。だから、日本人♀/日本人♂として当然のように想定されている社会的人格を求められる集まりでは、普段やっているようにやらないように気をつけなければならない。
また、そもそも目の前にいる人だって、いったい誰なんだか分からないことが多いのに、どこの誰それがどうしたこうしたというような世間話なんかちんぷんかんぷんで当たり前。だからといって、悲観することはない。下手に入って墓穴を掘らないようにできれば上等、と思った方がいい。
そして、終わったことは想起しないことだ。ましてや、次はうまく入り込もうと思ってはいけない。当たり障りのないスモールトークには対応し、それ以上の事柄に関しては下手に関わらずにうまく危険を回避できたことに安堵するべきだ。
11/26 08:34 教訓
  • あっちで歓迎されたことが、こっちでも喜ばれるとは限らない。こっちは自分の居場所ではないのだから、こっちでは黙っているべきだ。自分の居場所ではないのなら、深入りは禁物。自分の居場所でもない場所のことを、真剣に考えることはない。
  • この社会にとって、特別支援の発想は、特別な子どもに対する特別な考え方・特別なやり方でしかない。しょせん、社会通念からはずれたおかしな発想、受け入れがたいものでしかない。目の前に、特別な子どもがいる時にだけすることでしかないのだ。
  • 先導者であるはずの教育関係者や医療関係者が、発達障害や特別支援教育のことを知っているとは限らない。むしろ、積極的に否定しようとしている人だっているので、用心してかかるべきだ。分っていると思って話すと、敵視されることだってある。
  • 人は、見透かされると怒るが、もてはやされると喜ぶ。頼ってくる人だけをカワイイと思うような人に可愛がられたいのなら、せっせと頼ればいい。人はそれを和気あいあいと言うらしい。
11/25 21:28 今日は、スポーツのイベントと明日の準備で、1日仕事。途中、アミノバイタルを2本飲み、クエン酸スティックを1本飲んで、何とかやり過ごした。もちろん、普段飲んでいるサプリに加えて。
本当は、早く寝なきゃいけない。冷えているのに頭も洗わなければならないから、明日の体調は保証できない。なのにこんなことをだらだら書いているのは、今日1日のNTとの接触がゾンビになって襲いかかり、気持ちの上で負けてしまわないように気丈にしている証拠だ。中学生以降ずっと、私は、最後に自分はこれでいいという結論に達するまで、泣きながらこうやってぐだぐだ書き連ねて忍んできた。
こんなことをわざわざネット上に書くのは、きっと自分にとっては不利益なことなのだろうと思う。私がここに書いているようなことは、けっこうみんな井戸端会議で言ったりしていることも知っているし、そうやって何かを共有していることも分かっている。でも、ここには書くが人には言わないというのは嫌われ者の宿命だから、仕方ない。
11/25 21:15 そういえば、「いじめられていることを親には言えない! 親には心配かけたくない!」と訴えるアイドルに、「親なんだから言いなさいよ。なぜ、言えないの!」と問いつめた、したり顔のオバサンがいた。この問題に何も対応できずにいる世代の本音が、この気持のギャップに如実に表されているのかもしれない。
だいたい、「5人の傍観者を5人の協力者に変えなさい」と呼びかけているヤンキー先生だって、「あなたは何で死ななかったの?」と問われたときに、「悔しかったからだ」と答えていた。よく、「私が死んだら悲しむ人がいる」ことを思い出しなさい」とか「誰でもいいから打ち明けなさい」とか言って呼びかければいいと言うが、すべての人に効果があるわけではないのだ。
そもそもそれは、頼れる人が誰かいる人にとっての抑止力でしかない。既に、誰にも頼れないという心理状態になっている人は、悲しむ人がいるという呼びかけは、「私がいなくなったって誰も悲しまない。私がいなくなったらみんな喜ぶ。」と読み替えられるのだ。それを知っている人は、どれだけいるのだろうか? それどころか、その事実を言ったが最後、完全に異端者・異教徒として扱われるという、この感情的な全体主義は何なのだろう!? 鬱や発達障害の心理状態を公にしただけでこんな有様じゃ、「もう、誰にも言うものか!」という気持ちがますます強くなる。
それから、面と向かって人の弱点をズバズバ言っているオバサンのテレビ番組を喜んで観ていながら、子どもには「人が気にしていることを本人に言ってはいけない」なんて教えていること自体、矛盾している。みんながお祭り騒ぎをしている最中に、その騒ぎに乗らない人を一斉に攻撃する世の中を作っているのは、いったい誰だ!?
11/25 20:41 こういう時に、あっちこっちで人が飛び降りたりなんかするニュースを聞かされると、「あっ、それやっていいんだ」と思ってしまうものだ。後追いするのは、いじめの事実があったからというだけの理由ではなく、既に鬱状態になっている人に、そういう方法をとることを正当してしまうからだ。でも、そういうもののために命を落とすなんてバカげてるし、悔しい!と思った方がいい。正に、「徳なきは憐れむべし」だ。違いを認められない集団に対して、気持ちの面で負けてはいけない。違っていること、浮いていることは、才能だったり特権だったりするのだから。
太田総理(爆笑問題の太田光)が、「高校時代に浮いていて友だちが一人もいなかった。でも、一人旅に出たら、一人でいるのは当たり前で何も浮かないし、逆に人の優しさが分かってありがたく思えた。」「浮く人は目障りになる、だからいじめられる。でも、それは他の人にできないことができる才能を持っているからだ。」と言っていた。なるほどと思った。既にもう違っているのだから、集団の中で浮いてしまうことをいちいち気にしていたら、本当にキリがないよ。そこに自分の居場所はなくても、きっとどこかに居場所が見つかるし、自分の話を聞いてくれる人だってきっといる。
違っている人を目障りだと邪険に扱う人ような、人の才能を理解する力のない人のために命を落とすなんて、本当に無駄だ。
11/25 19:39 NTの理論は、特別な支援が必要な子どもであれ人であれ、普通の考え方で普通の対応をすることが幸せだということになるらしい。それが、自分のためなのか本人のためなのかは分からないが、自分にとって幸せと思うことをすることが本人にとっても幸せだという発想で自分を押し出してくるイキモノであることは確か。そして、自分と違う人を見て、彼らには違いがあると認めることはとても難しいが、彼らには悪いところがあると判断するのはとても簡単だということは、確からしい。
NTがそういうイキモノだということには何の文句もないが、そういうイキモノは高等で素晴らしいから、みんなそうなりなさいと言われることには異議を申し立てる。ただ、周りはみんなそういうイキモノだから、擬態していないと生き延びられないよとは言ってもいい。
11/25 16:49 今日明日は、今年最大の難関。親睦を深めるためのレクリエーション大会は、リハビリで筋トレをしている成果が出て、競技そのものは苦にならなかった。もう既に、一部の面々からはしっかり邪険にされているが、それも織り込み済。関係を良くしようと躍起になるほどのものではないからだ。
つらいのは、こちらが浮いてるオーラを出しまくっていることではないし、あちらが「あんたとは一緒にいたくない」オーラを出しまくっていることでもない。明らかな無視、いやがらせ、えこひいきでもない。AS的にちゃらんぽらんなものほど、NT的にはご立派だとされ、しかも、それが賞賛を通り越して絶賛されていることだ。そして、それが全部手に取るように分かってしまうこと。何よりも、「こっちが正しい」と言えないことが分かってしまったこと。
スモールトークならちゃんとできるし、ソーシャルスキルの教科書だって書けるが、それは、NT社会からつまはじきにされないための方便でしかない。どこへ行こうと、馴染むことは決してないのだ。日常生活、世間話、誰がどうしたというような情報を情報と認識するデバイスがインストールされていないのだから、どんなプラグを差し込もうと機能するはずはないのだ。なぜそんなことを感じるのか?考えるのか?言うのか?と、?????の連続。
無理して合わせようとすると、病気になる。思い出せばPTSD。これが、産まれて以来ずっと続いている。中学以降の私の時間は、すべてこの後始末のためだけに使われてきた。これで鬱にならないなんて、ありえない。思い出さないように、そして明日を恐れないように踏ん張っているが、涙が止まらない。
11/18 11:20 子どもの社会的な経験を増やせというと、すぐに地域の行事に参加させるとか近所づきあいをしろとか言いたがる面々がいきり立つ。が、そういうことではないのだ。機会が多い少ないの問題ではないし、ゲームやテレビや携帯電話のなかった時代に戻せばいいわけでもない。
人間関係の一つ一つの経験やトラブルの中で、どのように人と接し、どのように考えればいいかをその都度、子どもに教えていくこと。すべて自分の思い通りになるわけではないし、自分が常に一番なのでもないし、ダメ出しもされず努力を求められもせずにいつまでもいられるわけではない。そして、人は一人一人さまざまな理由で違っていて、違いがあるのは悪いことではないしと、本人自身も周囲の人も思えるようになることが大切。
上記の事柄を、すべてマイナスから教えなければならない子どもを育てた者としては、健常という名の下にあぐらをかいているNTと呼ばれる人類がはがゆくてならない。
11/16 09:07 この「いじめ」問題に関連して、中学校が生徒たちに配ったプリントを見て愕然とした。「弱い者いじめはよくないことです」というようなことが書いてあった。えっ! 今時それ? と思っていたら、昨夜のニュースで「現在の文部科学省のいじめの定義は、“強い者が弱い者を一方的にいじめることとなっている”ので、その定義で計るといじめではないことになってしまう」と言っていた。こんな時代錯誤の認識で、この誰も逃れることのでない巨大組織が動いているなんて!!!
とりあえず、早急に必要なのは、まざまな社会病理や教育体制の不備の結果として表れるいじめに対してその原因をとやかく言うことではなく、ヤンキー先生が言うような対症療法の「傍観者をなくすこと」だとは思う。が、根本的な問題を解決するための処置も、しっかりやってほしい。とはいえ、石原都知事の言うように時代を遡っておかしくなり始める前の状態に戻すわけにはいかない。ましてや、個を認めない全体主義の方向にもっていくなんて、とんでもない話だ。
私の言い分は、自分が世界の中心であるかのように錯覚させる孤人主義を、個が個として社会にかかわる個人主義に置き換えていくこと。(発達障害の有無にかかわらず)すべての子どもに学び方の違いを認め、かかわり方の違いも認め、ソーシャルスキルを学習課題にすること。例えば、こんなこと。←もっとも、これも対症療法だけれど。本当は、家の造りを変えることとかいろいろ言いたいことはある。
11/15 09:11 発達障害の問題は、いじめや鬱、自殺と不可分。早期に発達障害を発見して、家庭と学校の双方がしっかりと対処することで、被害者にも加害者にもならなくて済むはずだったケースが、そこらじゅうにたくさんあるに違いない。本来、何も珍しいことではない。その事実が五万とあるのに、いじめゼロだの、自殺ゼロだのと報告し公表してきた無神経さには呆れてしまう。
ただ、今現在の、テレビなどの影響で劇場化している状態は、好ましいものではない。よってたかって報道することによって、事実隠しを追求したり自殺予告することがあたかも正義であるかのような流れを作って、新たな連鎖反応を誘発してしまっている。それ以前に、何でもかんでも「いじめ」という言葉でくくることは、事の本質を見誤らせる。「いじめ」や自殺は、いろんなことの結果としての表れなのに、それぞれ原因が異なっていて対処法も違う問題を、全部いっしょくたにしてしまうからだ。その結果、間違った対処法を強制されて犠牲になるのは、当事者たちだ。
11/13 14:26 今月はやたらと行事が多いので、NTの集まっているところに出かけて行かなければならない。感じ方・発想・考えていること・経験のすべてが違った異星人の中にいると、その時には分からなくても後になって“違っている感じ”が亡霊のように頭の中で渦を巻いて来る。
が、そんなものに負けていたら、命がいくらあっても足りはしない。その“違い”はこちらの特権なのだから、それをうまく活かせるように生きていく。それがソーシャルスキル。(教育行政組織の末端(=学校の教室)で、テレビの教育問題を取り扱う番組のパネラーが言うようなことを蕩々と述べたって、理解されるはずはないのである。)
11/01 09:00 「自閉症の特徴」と言うよりも「テルさんの症状」と言った方が正確だと思う場面はままあるが、印象を悪くしないように自閉症を伝えよう配慮していると考えてよいだろう。ラーメンのすすり方がちょっとうますぎたものの、食べ方までも一生懸命真似しようとしているところなど、ちょうどあのバツイチ上司に自閉症の子どもがいるらしいことを匂わせたように、スタッフに関係者がいる可能性を感じる。もっとも、確率的に、テレビ局にそういう家族がいても何の不思議もない。だからこそ、あえて特定の自閉症者をモデルにせず、“教科書”的なプロトタイプの主人公という設定にしたのかも。(その後で放送された『ぷっすま』でkが蕎麦をすすっている様子を見たが、さっきのラーメンでかなり努力していたことがよく分かる。少しずつ演技もうまくなってきている。というか、板に付いてきた。)
自閉症者にそんなことをしたらどうなるか分かりすぎて私はつらいが、ここから先は自閉症にではなく、周囲のドロドロとして人間模様の方にスポットを当ててストーリーが進行していくだろうから、そこにどう絡ませて何を言おうとしているのかが問題だ。
ちなみに、あれくらい見た目にはっきりしている人が、雨が降るかどうか心配してくれた人に対して天気予報や降水確率で答えてもさほど意外性はないが、普通のASが、スモールトークの中で降水確率どころか気象協会発表の雲のレーダーと今後の雲の動きや天気図について語ると、完全に引かれる。そして、引かれたことが分かってしまうというのもかなりつらいことを、一言付け加えておきたい。ASがこういった細かい違いを気にしなくなるように自信を取り戻して、“私の歩く道”を堂々と進めるようになるまでには、かなりの時間が必要だ。挫折して袋小路、行き止まり。そこから一度もと来た道をかなり戻って、そこからやり直し。
10/28 23:07 懇親会とか親睦会なんてものは、行かなくてよいものなら極力行かないようにしている。行ったところで、座ったっきり近くの人と話すぐらい。でも、今日は、今月また生活費がないというのに、無理して次男の部活の懇親会に出席した。とにかく、あの次男が運動部の部活に入って楽しくやっていること自体がすごいことなのだが、怪我ばっかりしているドシロウトで迷惑をかけているし、どんなことをやっているか聞いても本人がちんぷんかんぷんなので、情報を得るとともに顔ぶれを確認しておかねば、と思って行った。とりあえず、倒れた時にとっさに受け身の態勢がとれるようにするための基本ストレッチのやり方を聞いてきた。
それだけでも相当に疲れたが、帰ってから、昼間たっぷり時間があったにもかかわらずダラダラやっていた勉強を見て、一つ一つ何が分かっていないか・どこをどう間違ったのか説明していく。本人は、昼間のどーでもいいテレビを見てダラダラしていたお陰で楽しみにしていた夜の本編が見られなくなり、私は疲れて帰って来ておぼつかない記憶をたどって中学の計算問題をするはめになっている。こんな時間の使い方をされたのでは、お互いにもたない。典型的な、勉強のできない人の勉強のやり方。こういう子どもにはどのように整理すればいいか・どんなノートのとり方をすればいいかとモノの本には書いてあるが、その通り自分でやれるくらいなら苦労はしない。モノの本の通りのやり方で勉強をさせるために、つきっきりでいなければならない。今やっているところまで説明が追いつくまでに、あと何日かかるだろうか?−こんなんで、期末テストに間に合うのか!?
10/27 21:40 元々、身体感覚・視覚の両面で空間認知に困難があり、小学校低学年では体育の授業を受けられず、中学年から補助付で参加できるようになった次男。表面的にはそのような困難を引きずっているようには見えないし、多動どころか落ち着いているようにさえ見えるのだが、危険を予知したり身の安全を守ったりとっさに受け身の姿勢ができないという無鉄砲さに表れている。中学で部活を始めたものの、人や何かにぶつかると頭から倒れて、よく怪我をする。しかも、耐性が低いため、ちょっとした怪我や筋肉痛でも大騒ぎする。明日もまた、整形外科だ。学習の遅れを取り戻す時間が、また減った。
10/27 09:38 最近、ASDに関する初歩的な導入番組や企画がテレビなどでよくされるようになった。喜ばしいことだ。
が、だいたいどれも皆、判で押したように「変化についていけない」と言うが、“変化”以前に、物理的環境や人的・社会的状況そのものの読み取りに困難があり、周囲がどうなっていて自分がどうすればいいか分からなかったり、把握するのに時間がかかったりしているのだ。それで、ほとんど手がかりがないままに暗中模索していたり、わずかな手がかりを命綱にして何とかかんとかやり過ごしているのに、それが変わってしまうということはどんなにたいへんなことか!という観点で理解していただきたいものだ。
NTが納得するところまでしか説明せず、NTが納得したらその時点で解明は終わりというのでは、その先を生きていかなければならないASDたちに失礼であろう。
10/26 21:37 で、私の方は落ち着いたが、次男の学習(能力+態度)の問題は相当に深刻で目を離せない状態であることが判明したため、しばらくそちらに専念する。
10/26 21:34 不都合を極力減らし、被る不利益を最小限に食い止めるためにはできる限りのことをやる。だが、障害は克服しない。障害を否定すると言うことは、自分を否定することになるからだ。それは、自分が自分でなくなること。
NTのことも、ASのことも、そんなに深刻には考えない。相手がNTで自分がASだからどうだとは考えない。私は誰とどのような関係を持ち、私が誰にどんな接し方をするか、それでいいのだ。
−−−こう思ったら急にふっ切れて、けっこう楽しくなってきた。
10/18 21:31 今、たまたま観ていた『世界仰天ニュース』で、自閉症を「言葉の使い方や感情表現、認知に問題のある障害」と説明していた。ということは、「言葉が使えて、感情表現ができて、認知上の問題が解決すれば障害ではなくなる」という認識ってこと?−どうも世の中はその流れのようだが…。その説明では、肝心なことが何か抜けている!とは思わないのだろうか?
ちなみに、「奇跡のシュート自閉症少年」がアメリカですごい話題になっていることは、ずっと前にズームインスーパーのアメリカ情報で取り上げられていた。今日は、その詳細をドラマ仕立てでやっている。
10/18 07:15 昨日の放送は、予告編だけで十分だったし、「やっぱり!」な展開が始まったので、リンカーンのCM中にちょこっとチャンネルを換えて観ただけだった。自閉症者はこういう状況に置けばこうなるという予測がつきやすいからといって、次から次へとたたみかけるようにドラマにするのはいい加減にやめて欲しい。可哀想でとっても観てなんかいられなかった。(必要なことを何もせず、自閉症と自分の子どもについて何も知らず、「頑張れ」だの「やめるな」だのと言って平気で送り出すつるんとした笑顔は、あまりにも無神経だ。)
そして、自閉症者が自閉症者として適切に扱われたというだけで「ありがとう」を言わせるような結末にもして欲しくない。それは、自閉症者の受けられる当然の権利として、法整備するように訴えるべきものだ。街に点字ブロックがあり、車椅子用のエレベーターの設置が義務づけられているのと、同じ事だ。
10/11 19:35 このところずっと家にいて、よけいなものにかかわらない安定した状態が続いていたのに、昨日のドラマでニンゲンに浸食されたようだ。今日は、久しぶりに浄化と遮断が必要になった。(昨日、輝さんがツールドフランスの歴代優勝者を早口で叫んでいたのと同じ心境。同化したかも。)
10/11 08:48 お母さんがあんなことを言うから、夜中に動物園に行っちゃうじゃんか!−と、先の読めるドラマであった。というか、「教科書か!」とツッコミたくなる、取って付けたセリフが満載の初回であった。(自閉症ドラマの初回の、いつものパターン。だいたい、3回くらいまで自閉症の説明だが、その後は自閉症はどうでもよくなって“純心“というキャラだけになる。いつも、その辺から私は観なくなる。)

まあ、Kの演技力はともかくとして、間違いはなかったし、ハガキの字とかもそれらしくて取材している様子も見受けられた。(他のハガキに比べて、2通目のハガキの字がキレイすぎ。漢字のレベルもちぐはぐだったけど。医事監修は、国立秩父学園医務課診療科.西脇俊二氏らしい。)

しかし、相変わらず、周りがあまりにも不純すぎる中で僕の道をひたすら歩き続ける純朴な男という単純なストーリー。ジョブコーチも付き添いもつけず、具体的な指示もなしにあの設定の自閉症者を放り込んだらそうなって当然!な事件をたくさん起こさせておいて、そこに自閉症への適切な対応という視点を持っただけで変化が起きるという、初歩的な展開。大空をバックに走る自転車。
でも、パニックを起こした時に、暴れるのではなくフリーズしたりこだわり行動が出るパターンの方だったし、セリフが短く淡々と進行するので感情的にグジグジした嫌らしい感じがないのと、コメディタッチなところがいい。(特にあの、ネズミの動き。しかし、友だちに不倫を告白されたというのに何も驚かない、MEGUMI演ずる千晶のあの反応は変だろう。)

精神科医が、なぜ加藤浩次なんだ? 診察室のあの環境は何なんだ! 何で医者があんな目つきをするのか? ということは置いておいて、「都古さんは何があっても絶対に怒らない」って繰り返すから、絶対何かあるに違いないと思っていたら、やっぱりそうなる。絶対に怒らないはずの人に怒られてどうなったか心配になるから、次も観なきゃいけなくなるじゃんか!(普通のドラマなら、都古さんに言われた内容=自分のせいでこうなった・自分のせいで都古さんが泣いているといったところが精神的な重荷になるけれど、今回の主人公の設定では違うはず。だが、次回のあらすじを見ると、そういった負荷がすぐに表には出ずためこんでしまうタイプのようだ。)

願わくば、くれぐれも、「不純に対する純心」という道具として自閉症を利用するのはやめてほしい。社会的狡猾さのない人が起こす悲喜劇を自然に描き、心理的・感情的な繋がり方とその表出の仕方が違っている人が人と共に生きる在り方をしている中での「ありがとう」であってほしい。
『裸の大将』とどう違うの?、って展開になるんじゃないだろうねぇ!
10/10 09:30 ↓で分かることは、結局、「ドラマになる(=感動を呼ぶ)場面だけがドラマになり、愛されるキャラクターは障害や病気の有無や種類にかかわらず愛される」という、当たり前のことだけだ。ゴールデンアワーのドラマは、その原則からはずれては成り立たない。
それに、「産んでくれてありがとう」と言わせるのは簡単だ。オウム返しなら、いくらでもする。が、本人が本心からそう思えるようにするには、そんな絵空事で片付けられる安易なものではない。もし、単なる純朴な男が周囲の人々の心を動かし、“道シリーズ”が感動の嵐と共に終わりを告げるという設定だけが欲しいのならば、普通の、いわゆる“天然キャラ”で作ってくれた方が害がなかったのに!という結果になりかねない。それだけの力量があの局になかっただけ、ということで終わってしまうだろう。
そもそも、ASDという名の純朴な異星人がいるというだけで世界が平和になるのなら、もうとっくにそうなっているはずだ。それですむなら、核実験をする独裁者なんて存在しない。
10/10 07:07 テレビやドラマで、わざわざ自閉症の人を出しますと謳う場合、登場するのはだいたい決まった自閉症キャラクターであることがほとんどだ。だが、ごく自然なASは、そんなことを何も掲げていないドラマの方に普通に出て来ることが多い。(だいたい、10時台に現れる。)
しかし、番宣CMで見る限り、KはFより演技が下手だ。たぶん、観ていられないだろう。もっとも、チェッカーズはデビュー当時から好きだったが、SMAPはデビュー当時から嫌いで11時台の10chに出てくる酔っぱらったK以外は見たくもない。(ヤバイ、今日はリンカーンの放送がない。)
09/29 19:56 今日は、久しぶりに用事でNTのたくさん集まる場所に行った。周りの人たちのおしゃべりを聞いていて、「よくもまあ、これだけものの感じ方も考え方も違う生物の中にいて、不都合が生じない程度に社会性をもちながら“自分は違っていて良い”と自信をもって生き延びているなんて偉い!」と、つくづく思った。
09/27 15:24 いつもなら、一週間は具合が悪くてゴロゴロしていなければならない季節の変わり目。特に、今年のように寒暖の差が激しければ、寝込んでしまうこともある。が、今年は、体重を落とし(BMI=21)、サプリメント(特にアミノ酸とクエン酸)を飲み、各種器具(すべて3000円以下)を取りそろえてフィットネスをしているお陰で、適度の休憩を取りながら快適に過ごしている。
しかし、中学に進学し運動部に入った次男が、今年は調子が悪い。小学校低学年までよくあった自律神経の不調が久しぶりに出たり、ちょっとした怪我をきっかけにあちらこちらが痛くなって部活を休んだりしている。予想された学習障害の影響がやはり出て、「まず勉強しない(提出物さえ出せばいいと思っている)・勉強してもやり方が悪くて勉強になっていない・やったとしてもモロに学習障害が響いている」ため、勉強をみるために私が物理的(時間的・空間的)に拘束されている。塾に行かせたり家庭教師を頼むだけの経済力が家にないため、私がやっている。(塾は夜なので送り迎えができない、家庭教師を呼ぶとみんなの生活に影響するという理由もあるけれど…。)
さらに、ほとんどうろ覚えの学習内容を復習する意味も含めてNHK教育テレビの『高校講座』を見始めたのだが、単に最新の教育内容を知るのが面白くてけっこう病みつきになっている。それで時間がないというより、気を緩めると遊び放題になってしまうため次男の方を向いていなければならないので、日記を書く精神的な余裕がない。
09/02 07:19 二重(生まれた家と今いる家)の犠牲者となっている私が闘っている対象は、
{身の回りのことは自分が何の努力をしなくても誰かがやってくれて当たり前・欲しいと言えば誰かが金を工面してくれて当たり前と思っている子ども}

{子どもを愛玩動物扱いして、自立させない・いつまでもお世話をしていたいと、そういう子どもを育ててしまった親}
である。つまりこれは、日本社会の病理。
そこには、{発達障害の子ども}と{世間体だけは気にするのに社会性ゼロの親}という問題も含まれている。
そして、私の仕事は、次の世代にその病をうつさせないようにすること。
08/10 21:48 いったいいつから鬱の症状が始まったのかわからないくらい鬱と一緒にいたので、つい最近まで、どこからが鬱なのか全く分からなかった。しかし、ASDであることと鬱とは別のものだと、今は言える。
08/10 21:42 日常会話というのは、ソーシャルスキルとして想定できる範囲を軽く超えているものだ。誰かと一緒に映画を観に行くとか、仕事や持ち回りの役を務めるとか、ちょっとした会話で場を繋ぐとか、そんな場面は山の頂上のようなもので、実際に繰り広げられる会話の裾野は恐ろしく広いし、また全く知的なものではない。
興味の対象も、考えの方向も、感じ方も違うのに、同じだと思い込んで話しかけてくる一人一人が、どんな文脈で、どんな意図を持って、どんな気持ちでいるかをその場で即座に判断してぴったりの受け答えをするなんてことは、NT同士でもできっこない。だから、ドラマが生まれるし、悩み相談があるし、友だち同士で慰め合ったりしているのだ。
ましてや、NTとASの間で会話がジャストミートし合うなんてことは、まずありえない。そんなことにいちいちくよくよしていたら、命がいくつあっても足りはしない。“自分の生きる場所ではない”ところに、命をかける必要はないのだから、違和感は何かで消し去ればいい。「NTと接触して不快になった」とか「それを何かで消して浄化する」なんて言うと、怒るNTがいるかもしれない。だが、そんなことで萎縮することはない。そして、自分の“特別な興味のあるところ”=“自分の居場所”なのだから、そこにしっかりと根を張って立っていればいいのだ。
08/04 15:12 社会に適応したと言っても、私の場合はまだASDという概念がなかった時代なので、「似て非なる」やり方による表面的な適応だった。しかし、私が“私の世界”にいられた間は、自活はできないがとても楽しかった。それに比べて、下手に社会適応してNTに巻き込まれた後の方が、惨憺たるものだった。そして、理不尽なNTの中で孤立しながらASであり続ける自信を取り戻すまでの闘いも、とても醜くて惨めなものだった。そのために、多くの敵を作ってしまった。
結論はこうだ。たとえ表面的に社会適応できたとしても、NTとはどんなイキモノか・NT社会を動かしている原理は何かが分かっていなければ、精神的にボロボロになるだけ。そして、最も重要なのは、ASDであること・AS的な生き方をしていることを誇りに思えること。
07/07 14:42 軽度発達障害の存在が認められて、何か良くなったか?
結局、「特定の方法論だけで人を見ようとする」動きが強くなっただけで、やっぱり人は取り残されているという点では何も変わっていないような気がする。「人を見て、どのやり方が最も適していて、最終的に本人の生きる力になっていくのは何か」を考えるようにならない限り、取り残され感は同じだと思う。
07/06 16:23 ウチの母親のやることは、いつも正反対だった。それは、未だに変わらない。頼りにならないのなら、まだマシ。思っていることは絶対に話すものではないという気持ちが、より強くなるだけだ。
06/29 21:08 まあ、↓は、身近にそうなってはいけない見本だらけってことで…。
06/29 17:39 家を継ぐという、前近代的な思想が未だにまかり通っているのは、いったい何なのだ!?
親が子どもに自立しなくていいと教えるなんて、ナンセンスきわまりない。私の育った家では、「このままではいけないのでは?」という私の疑問をことごとく否定したのは親だった。いつまでも可愛がっていたい、いつまでもお金をあげたいって。更に、今居る家には、自立という言葉すらない。未だに自立を妨害するバカ親がいる。
自立できない私は、このバカバカしい地獄から脱出できないが、子どもたちだけは守りきる。それが使命だと思っている。
06/08 09:59 本人の状態に合わせて構造化することで、混乱を減らし・行動を落ち着けられ・可能性を引き出すための前提となる基盤ができる。
しかし、人やものごとや環境は刻一刻と変化するので、変化に対応するための方法論も不可欠で、必要に迫られながら柔軟性が伸びていくことも必要になる。いつかは大人になるのだし、可能ならば、一人でできることが増えた方がよいので、予見される将来への準備も同時進行で行える余裕があることが望ましい。
ただし、「世の中がこうだから、こうならなければ」と思わせるのでなく、「世の中がこうだから、こういう風にしていた方がトラブルが減るし生きやすくなる」というスタンスでやって欲しいものだ。元の繊維が違う糸は、上から染料をかけられてまわりに馴染んだように見えていてもやっぱり100%染まりきらないようなもので、裏側から見れば一目瞭然でいいではないか。結果として、世の中の外にいられる時間や場所も確保しやすくなるし、精神的にも楽。
06/06 11:00 教育や医療の行なう支援は、本人と周囲の人の両方にとって不都合が減り、楽になるものでなければならない。結果として、可能性が最大限に伸び、精神的苦痛を最小限に食い止める。
就労支援は、それまでの経過はどうあれ、「障害のためにどうしてもできないことはなるべく避けて、どうにかできることやものすごくできることを活かす」という大前提の中で、ある程度の要望をしなければならないのだが、「今まで、これこれこれだけのことをやって来ましたので、その続きをお願いします」というのが理想。
つまり、それぞれの時期・それぞれの状態に合わせて、ふさわしい対応をするってこと。
−−−きっとこれも、百年後のお話し。
06/06 10:23 「どんな子どもでも喜んで受け容れるという親の思い」だけで子どもを育てるのも、「社会の要求に合わせて恥をかかないこと」を第一として子どもを育てるのも、どちらも間違い。言い換えれば、「結果的に将来に関する誤った認識を植え付けてしまう」危険と「将来のために現在を犠牲にして人格を壊してしまう」危険のどちらかを選べと言っているようなものだ。
また、格差社会の下の方の山にいながら、収入がなくても税金と給料を払わなければならない(当然、家の生活費はない、貯金を食いつぶしたら「どうする?○○○○?」になる危機感と隣り合わせの)立場、つまり、雇用者側の立場も知っていれば、就労問題に関しては雇われる側の主張ばかりするわけにはいかない。

両方を知っているからこそ、バランスをとれるのだが…。一方的な立場に立ったドラマが真実のように流布される世の風潮からすると、中庸の正論を説くことが罪であるかのような雰囲気がある。
06/05 14:43 安全にいられる場所を探し、苦手なことをしなくてよいポジションを確保して、そこに居座るど根性も必要。
06/05 14:41 周りがどんなに肯定しようとしても、どこまでも自己否定を繰り返す傾向を持った人というのはいるものだ。そういう精神的な危うさを抱えていることもまた、特性の一つにあげられる。
だから、本人が自己否定をするのは周りの肯定が足りないからだと周りを責めるようになってしまったとしたら、それもまた悲しいことだ。さらに、全面肯定を是とする風潮が生まれてしまったとしたら、弊害が生じることになるだろう。(文部科学省が普通教育でやってきたことの繰り返し。成人式が荒れ、社会的マナーが地に落ちて初めて気づくようでは遅い。そして、弁証法的に極端な揺り返しが起きる。)
そういうことをスローガンにする分にはかまわないが、一人一人状態が異なるのだから、実際には杓子定規的な考えをしないようにしてほしい。
06/05 14:30 “できなさ”や“とりえ”を認めるように訴えることで、「障害」として認識してもらうように働きかけなければならない段階というのがある。しかし、社会の方が受け容れていない現状では、訴えることで生きる場所が狭まってしまうことを考慮して、隠さなければならないというジレンマを抱えている。それが、今。
私の頭の中では、「教育的支援・医療的支援でここまでやって来ているので、その続きを就労支援でやってくださいよ」と当然のように言える社会。オマエ、それはいったい何年先の話だぃ!と言われても仕方ない。(何百年先のことかもしれない…。)
06/03 18:27 NT社会で生きるためのソーシャルスキル
NT社会で安全を保つためのソーシャルスキル
NT社会でASであり続けるためのソーシャルスキル
三つとも必要。
06/02 12:36 いつまでも軽作業、ずっと下働きの技術者でいられるのなら、ASDの人は優れた従業員で居続けることができるだろう。しかし、経理・管理部門の伝票処理業務で採用されながら販売や営業をしなければならなくなったり、ある程度の年数いれば部下を持つようになったり責任者として判断を迫られたりするようになると、会社の要求に応えられなくなってしまうことがある。
これからの格差社会では、社員として採用する人物のハードルが高くなる。こういう可能性のある人は、初めからパートやアルバイトとして採用するか、途中から格下げ、なんてことも有り得る。
06/02 10:08 生活ができる程度に適応する必要はあるので、そのためのスキルを身につけることは大事だ。それは、方便でも、芝居でも、仮面でもかまわない。
しかし、だからといってASであることを捨てることはない。と言うより、捨ててはいけない。生活のための手段を身につければ身につけるほど、ASであることを守り抜く毅然とした態度を固持し続けることが重要になる。できないと分かっていることに直面してもくよくよしないとか、どういう状況になるとヤバイか知っているとか、嫌なものは見ないようにするとか、不快な経験を記憶から消し去るとか…。
そして、自分自身を取り戻すために没頭できるもの(音・色・形・フィギュア収集・電車・ゲームなど)を持ち続けることも大事。けれど、一定以上の仕事を仕上げてからとか、場所を限定するとか、精神状態のレベルがある程度低下したらすぐやるとかいうルールを決めて、切り替えをきちんとやること。
06/01 21:16 社会に出なければならなくなった時、根っこから違う人種との軋轢が生じる。違いがあっても社会に受け入れられる範囲のものであったり、社会が要求する成員像に合わせることが本人の精神の限界を超えていなければ、社会に適応できるだろう。しかし、コミュニケーションスキルやかかわり方のスキルやソーシャルスキルでは解決しない問題が依然として残されていることを、忘れてはならない。
一方で、せっかくコミュニケーションスキルやかかわり方のスキルやソーシャルスキルを習得しても、生活できない・自立できないことからすべて狂ってしまうこともある。とりあえず、生活→金→自由。
05/31 16:14 社会に隣接したすぐ外側に、ASのための居場所が用意されていたとしたら、ASのQOLは著しく向上するだろう。一生をそこで過ごせるのなら、認知・感情・友情・愛情・ソーシャルスキル教育の成果は100%活かされることにもなるはずだ。(大学教授とか芸術家の位置づけは、それにかなり近い。そういう場所にいられて、理解ある伴侶に恵まれれば、拗ねなくて済んで当然だ。)
ところが、どんなに完璧に療育を受けたとしても、社会に放り出された途端に片っ端から壊される。それで、自分が壊れなければ反撃に出るしかなくなってしまったり、引きこもってしまったりすることになる。(何の支援も教育も受けられないまま成人し、社会に放り出された人があちらこちらで息を潜めているのが現状。)
05/30 21:02 友情を育む方法を教えたり、友人とはどういうものか教えたりすることはできるだろう。では、友情さえあれば安定した人生が送れるかというと、そんなことは決してない。人が生きていくには、友情以上のものが必要だからだ。親の庇護の元にある内はまだ良いが、成人後に自立できなかったり、性別による帰属意識が全くないのに社会的な性役割をはたさなければならなくなったり、本来の能力が全く活かされない状況に置かれたまま生かされ続けたとしたら、その人生は拷問としか言いようがない。(性同一性障害がある場合には、なおさらだ。)
また、友情や友人の定義を学び、持続させる方法を学んだとしても、連絡が取れなくなったり会えなくなったりしただけで切れてしまうことがある。さらに、社会の中に生きる場所を見つけられないために精神的に困窮してしまうと、人と関係をもつ能力そのものが損傷して、そのままになってしまうかもしれない。後天的に作られた部品というのは、一度脱落すると、そこにそんな部品がついていた記憶さえもなくしてしまうものだ。
05/30 15:56 小学校までは、本人の健康や精神状態を非常に重視し、休養をしっかりとるように指導される。ところが、中学になると突然、結果重視、“個人より集団”の姿勢が顕著になる。それが、就労となると、年間10日以上休む人はダメなんてことを言われる。これでは、誤った先の見通しを持った子どもをたくさん作っておいて、進むに連れて先細りになってひきこもりやニートにさせているようなものだ。
また最近では、大きな事件や事故があった時に限り、やれPTSDだのカウンセリングだのと騒ぐようになった。けれど、日常的に生み出されている鬱に対して、これほど冷酷な民族もいない。無関心なのではない、冷たいのだ。だから、鬱病になる人が増える。でも、気づかない。自殺者も減らない。人の精神状態を気遣う余裕がないのは、引け目を感じている人が多く、自分を守るのに必死だからなのかもしれない。それだけ、社会や集団からの要求が多く離脱しないように頑張りすぎているのだろう。
この国のNTは、社会や集団にしがみつくために躍起になっているようだ。だから、社会や集団にしがみつこうとしないASに対して理解を示そうとしない。しかも、「自分たちは中に入るために苦しんでいるので、何も努力せずに入ろうとする人を受け付けない」だけでなく、「自分たちは中に入っていないと不安なので、外に出ようとする人を見ると、無理矢理中に入れようとする」という、余計な世話を焼いてくる。さらに、「自分たちは、人の感情を害さないように人の顔色を必死で伺っているので、人の感情を害する人を徹底的に攻撃する」だけでなく、「感情を表さない人を見ると不安なので、余計な感情を勝手につけて理解しようとする」といったオマケをつける。
仮に、ASDを完全に理解できたとしても、きっとこの構造は未来永劫変わらないと思う。(もっとも、理解する能力にも著しく欠けているので、その心配は無用。)
05/29 22:17 自尊心を失わせず、人に迷惑をかけないやり方で特別な興味を趣味・特技に洗練するようにASを育てても、「マナーや人の迷惑も顧みずに自分の親切心を押し売りにする躾も教育もへったくれのない輩」といっしょくたにされる。
それが、世間一般のことだったら、まだ我慢もできよう。しかし、そうならないようにASを育てたのは私なのに、実生活で現実に顔を合わせるニンゲンでそのことを分かってくれる人は、ただの一人もいない。
しかも、実生活で現実に顔を合わせるニンゲンは皆、「マナーや人の迷惑も顧みずに自分の親切心を押し売りにする躾も教育もへったくれのない輩」から逃げまくっているので、「マナーや人の迷惑も顧みずに自分の親切心を押し売りにする躾も教育もへったくれのない輩」から最大の迷惑を被っているのは私だけ。こんな環境にいて、怒るなというのは、土台無理な話。
だから、怒って当然なことには怒ることにした。ただ、めちゃくちゃ怒っている時に、ムカツクくだらないドラマを消させて誰も近づかせないようにすることに罪悪感を持つべきではないと、今は自信をもって言える。それから、くだらないニンゲンと接してしまった時の不快な感情を浄化するために音楽を聴いたり、生活のメリハリをつけやる気を起こさせるためにゲームをしたりすることにも罪悪感を持ってはいけないとも、自信を持って主張する。
カネにならないことをやっているとか、そんな暇があったら手伝えとか、遊んでいるとか、そんな風に思ってはいけない。NT社会にあって、孤立無援の中でASという人格を生き抜くということは、それだけで立派な仕事なのだ。
05/29 09:02 ASDでも人と関係を持てていることを積極的に主張したがる人が、現在の業界ではスターになっている。が、本当は、だから何?というようなことだ。過去に存在した、周産期・小児期の危機を乗り切り無事に成人して生きながらえてきたASDの人々は、それなりの人間関係を築き、それなりの社会的位置づけを得て来ているのだ。
自閉症だからといって、「ずっと幼児期のままではない」「人とかかわりを持てないわけではない」と主張することには、実はそれほどの意味はない。「放っておいたら、人とのかかわりを持たないまま成長してしまうかもしれない人」または「幼児期には人とのかかわり方が定型発達とは異なっていたものの、意識的に関係性を形成した人(もしくは、それに成功する可能性のある人)」なのだから。つまり、ASDの当事者と、周囲の人々との関係性をセットにして語ることが不可欠。
しかし、そのゴールを設定するのに、ずっと適切な支援が受けられることを前提にしていたとしたら、結局は本人のためにならない。それは、将来に関する誤った情報だから。「これでずっと生きていける」と思い込ませておいて、現実は正反対だったというほど悲惨なことはない。
05/28 20:49 最初の親子関係に失敗する=二者関係の成立に失敗する
思春期以降の「個」の位置づけに失敗する=社会的関係の成立に失敗する

どちらも、自分の感情に気づき、負の感情を増大させずに精神的な平静を保つことさえできれば、ニンゲンというイキモノは信頼に足るものだという関係性の芽は摘まれずにすむかもしれない。それができた者だけが、“成功者”としてもてはやされる。しかし、それでは、自閉症を理解したとは言えない。どこで失敗しようとも、取り返しのつかないことをしてしまった後でも、何かしらの方法を用意すること。(でも、現実は、入り口の段階でつまずいている=ASDであることを認めようとしないことが、あまりにも多い。)
05/08 08:30 どうでもいいニンゲンたちに煩わされずに、社会的な不都合を最小限に食い止めて生きるためにしていること。
  • 余計なことに関心をもたないように集中させ、時間のやり繰りをすることで張り合いを持たせるために、ゲームをする。(やっぱり、FFワールド!)
  • どうでもいいニンゲンたちに接触した感情を浄化するため、また、見たいテレビがない時間を埋めるために音楽を聴く。
  • もともとない体力・筋力を維持して健康を保つだけでなく、頭脳を鮮明にさせるためにフィットネスをする。(私は、家から出られないので、安いフィットネス器具を各種取りそろえているが、外出する自由のある人は外へ出てウォーキングやサイクリングをすればいい。経済的に余裕があるのなら、フィットネスクラブへ通った方がよいと思う。)
  • 今年は、中学・高校共に役員を引き受けている。子どもは情報を伝えないし、どこからも情報が入ってこないので、自分が直接行くことに大いに意義がある。
05/07 09:49 滑舌が悪いこともあるが、名詞と助詞をひとまとめにダラダラ発音するなど文の構造をしっかり把握していないため、何を言っているか分からない長男の、休みの日の課題。
声を出して読む日本語の本声を出して読む日本語の本
これから、面接試験だけでなく仕事にも必要になるので…。
05/04 08:48 ソーシャルスキルやサバイバルスキル教育を正規の単位で行なわない体制、発達障害の概念を排除し問題点を見ようとしない日本的な村社会文化の元にあっては、発達障害がらみの事件が続発してもおかしくない。しかし、発達障害を前面に出せば危険物扱いされ、隠せば普通の扱いになって逆の対応をされる危険が生じる。どちらにしても、誤解と偏見しかない。
こんなNTには、早々に見切りをつけた方がよい。かといって、ASだからといって卑屈になることはない。四面楚歌の中でこんな教育体制と日本文化にNO!を言えるのは、ASにしかできない特権だ。
04/24 09:59 よけいなトラブルに巻き込まれないこと、自分をしっかり守ること。これも学校では教えない、現代版ソーシャルスキル。著者も内容も平凡すぎて…という人がいるかもしれないけれど、こういうことができた上に個性とかユニークさが活きてくるもの。
12歳からのマナー集もうすぐ社会に出る18歳からのマナー・ブック

それから、何だかんだ言って、自立のために必要な項目は、ここに収められている。
イラスト版子どものお手伝い

たとえ先天的な能力の不足があったとしても、また、公的支援やコネやカネをあてにできたとしても、これらのことがらを身につけるのは、人として必要なこと。できないことは分かっていても、そのための努力をしたり、少なくともその方向に導くことを怠ってはいけない。
04/11 17:13 なぜ今が闇なのかと言うと、うわべをなぞっているだけだが縄張り争いのできる者だけが光の中にいるから。そういう時代には、そっぽを向いた方が賢明…と言いながら、はじかれているというわけ。まあ、それでいいのだ。自分でそうしたのだから。
04/11 14:20 歓迎されていないことが分かっている道を進みながら、見通しが明るくなるのを闇の中で悶々と待っているくらいなら、ストーリーのあるRPGでもやっていた方がまだマシだと気づいた。
内輪で○○年と騒いでいたって、私の生活にとっても日本社会にとってもなんの関係もない。
04/02 21:14 幕が開いたら観客に拍手で迎えられると期待していたのに、幕が上がった途端に起きたのは、舞台上の役者たちからの帰れコールだった。舞台はすでにできあがっている組合に独占されていたし、上演する芝居の筋書きも全く違うものだったのだ。
仲間に会える、喜んで迎えてもらえる、居場所があると思っていただけに、絶望感は大きい。
03/27 18:02 卒業式が黒ずくめだったことがどうも腑に落ちないので、クリーニングを取りにいったついでに聞いてみた。やはり、今年はどういうわけか突然黒が多かったとのこと。やはり、昔はもっとバラエティに富んでいたし、黒でなければいけない決まりもなかったようだ。有名人が言ったのか、ファッション誌か何かの雑誌で特集でもしたのか、店が黒を薦めたのかと、2人で首をかしげ合ってきた。
確かに、フォーマルを取り扱っている店のサイトの中には、「卒業式・入学式は黒が主流」と書いてあるところもあった。が、昔ながらの感じの服が並んでいる店もある。これは、入学式用のブーケを探していて発見した。そういえば、ある年、ブーケは生花が流行った時があり、それも突然のことだったそうだ。
流行だからと言って追おうなんて気はさらさらないが、そもそもそんな余裕もないので、入学式も白ずくめで行く。
03/26 17:39 この家にいると、学校だったら先生に叱られているようなこと、つまり人間としてそれで良いのか!?と言いたくなるようなことばかり起こる。自立できる体力と経済力がないので、そのような場面に出くわす度に鬱になる。
03/26 16:37 次男はADHDだが、中身は至って普通の人である。なので、恥をかかさないように周りの子どもたちについていけるようにするのがたいへん。
次男の同級生の親といえば団塊ジュニアの世代が多いので、まるっきり考え方が違う。ここで私が孤立している理由は、地域性だけではない。そもそも自分の同級生の世代ともまったく接点がなかった人が、その上だろうが下だろうが合うはずもない。そういう人たちとうまくやっていこうなどとは全く思っていないし、接触しない方がいい場合もある。
子ども同士は仲がよく今流の遊び方をしようとしたのだが、私の考えが固く社交的でないために、私がかけた電話のせいで遊びに行けなくなってしまった。もともと付き合いはないし、結果的にはその方が良かったのだけれど、そのせいで子どもが仲間はずれにされたりいじめられたりしたら嫌だなと思う。
03/21 10:29 豊かで平和な世の中に生まれると、死は特別なことであり、自分だっていつかは死ぬという恐れや今生きていることをありがたいと感じなくてもだらだらと生きていられる。
このような世の中に生まれて、嫌なこと・理不尽なことがあっても、壁にぶち当たったり邪魔されたりして挫折しても、なお生きていたい・克服したいと思わせる心の柱を形成する原動力は、愛されている・理解されているという実感。つまり、私が生きていてもいいんだと信じられること。“ゆとり”が“生きる力”をつけるのでもなければ、自分で考える学習スタイルを身につけたり世の中学を教わったりすれば生きる力が育まれるわけでもない。
純愛ドラマや、病死してしまった人が最期まで生きようとした実話ドラマが最近多いのも、無関係ではないと思う。
03/20 21:53 感情的であることがもてはやされる時代では、化粧が上手いとかブランド品や宝石を持っているとか髪型が決まっているとかいうことがニンゲンの価値であるかのようだ。去年の夏、お台場のフジテレビに行って『笑っていいとも』のセットを見た時に、まるで今の世の中みたいだと思った。表側、カメラに写っている面は飾りで隙間なく埋められて電飾がキラキラしているけれど、裏は何ミリかしかない薄っぺらいマジックで雑に何か書いてあるベニヤ板が丸出し。
現代コミュニケーション学では、何を言うかではなく誰が言うかが、何を伝えるかではなくどんな媒介を使うかが重要だとされている。実際、ブランド品と宝石をたくさん持っているカリスマやセレブと言われている人が、化粧をバッチリ決めハデハデの衣装をまとってテレビに出て、多くの人を騙している。どんなくだらないことや中身のないことでも、正しいことになっている。
こんな世の中だから、知的障害のない発達障害が不利になったり、悪い面が出やすくなっている。だからこそ、きちんと対応しなければならないというのに…。できることがたくさんあるのに放置し、こうなるだろうと予測された方向に進んで行く。自分たちが気づいていないことに、気づきもせず…。まっ、黙っていよう。今のところは、説教されるのがオチだから。
03/20 18:05 日本人は、論理的であることやものの本性が明確になることを嫌う。また、違いを認めるのは、特別な上の人か特別な下の人かのどちらかで、それは個に応じていると言うよりも特別扱いと言った方がふさわしい。発達障害者の感覚や認知の困難を緩和する助けになるように支援を訴えるにしても、それが特別なものとみなされている間は、ほとんど話にならない。だから、この国ではうかつにカミングアウトするのは危険だ。
3つの特徴的なタイプの一つにすぎない受動型がこれほど奨励される国はないのも、この理由からなのかもしれない。これはアジアの特徴かと思っていたが、どうやら日本だけのようだ。
03/20 17:42 なぜかこの国は、「個なき集団主義」か「公なき個」かのどちらかに偏りやすい。その中で一般人に向けて、「個を活かす集団」「公をわきまえた個」のあり方を提唱するだけでもかなり浮いている。
そもそも、人をうまく手なずけているかのように見えている人が、その人のことを本当に理解しているとは限らない。単に、人を手なずける方法を知っているだけかもしれないからだ。極端な場合、マインドコントロールや恐怖心で抑えつけていることだってある。そんな集団を外から見て、“分かってくれる人”や“認めてくれる人”“話しを聞いてくれる人”がいるのではないかとうっかり近づくと、とんでもない目に遭うことがある。
ましてや発達障害の特別支援教育となると、理解などしなくてよい・分かっているように見えさえすればよい・うまくあしらえばよいといった風潮が、最近は特に目立っているような気がする。(と言うか、明らかにそう書いてあるものを目にすることが多くなっている。)
−−−確かに、発達障害者にかかわるすべての人が本当に発達障害を理解する必要はないと思う。たまに数時間会うだけ、一年間受け持つだけの指導者なら、そうするしかないだろうし、それでもマシな方だ。でも、私的な人間関係にそれがなかったら、この世の中に生きていく力を与え、この社会に生きていてもいいかなと思わせる心の支えがないに等しい。そうなったら、その人はたいへん危険な状態に置かれているということだけは、理解するべきだ。
03/20 08:50 生まれてから最初の人間関係である親子関係の中で理解された実感が得られずにいると、一番最初の理解者を求めて世の中をさまよい歩いたり最初から諦めて自暴自棄の選択をし続けてしまうことになる。しかし、人間社会はどこまで行ってもNTのNTによるNTのための社会でしかないので、個人的に理解されることはあっても社会の方から大手を振って歓迎されることはあり得ない。
NTには自分たちと“同じでないもの”を見る能力が備わっていないので、違っているだけのものを目の前につきつけても存在してい“ない”と認識してしまう。火星に宇宙人が住んでいるとしたらどんなイキモノだろうかと想像する時でさえ、地球人の変型の範囲でしか考えようとしないくらいだ。そんな思い上がったイキモノが、ASの目線でASを理解できるわけがない。結局は、NT流にASを解釈することしかできない。NTは、よく「男と女は永遠に理解し合えない」と言うが、それと同じかもしれない。
社会がAS化されることはないので、ASは永遠にNT社会に間借りし続ける。その際、わけも分らずにNTのまねをしてNTのふりをしているといつかは破綻してしまう。要は、NT社会に生きられるASになればいいということだ。…と、私は開き直ることにした。
03/19 22:28 卒業式には、「華美でない服装で」とは書いてあったが、「黒っぽい服で」とは書いてなかった。が、ほとんどの父兄は黒っぽい服を着ていた。服は黒でない人でも、靴は黒かった。私は、グレーの服に白い靴で行った。服装のことで話をしたわけではないが、黒くない服を着ている人に「なに? 目立とうとしているの?」とツッコミを入れている会話を小耳にはさんだ。このような場合、“マナーを知らない人”ではなく“目立ちたい人”と見られるらしい。
私が1人だけ違っていたのは、卒業式のことや服装について事前に誰かと話したり相談したりしないからだったけれど、もともと卒業式にも入学式にも着ていける中間色のものを用意してあって新調する余裕がないからでもある。で、この状況を、自分1人だけが父兄のネットワークから外されている証だと思ってしまったら(つまり、気持ちの上で負けてしまったら)いたたまれなくなって落ち込んでしまう。
こういう時は、ネットワークから“閉め出されている”と思わずに、“入っていない”と考えれば楽になる。感情と好みがNTと違うということは、ネットワークに入るための接続部品がもともとないということで、どんなに多くの人に接したり会話したりしていても“仲間関係”は成立しない。それにいちいち傷ついていたら、身も心も疲れ果ててしまう。こんなものだと思っていれば、外傷体験にはならない。
先進的な企業や外資系の企業は違うかもしれないけれど、町内会やPTAといったこの国の底辺組織はあいかわらず協調性最優先で動いている。この国のNTは、入ってこない人は入れないものだ。一通りのマナーや教科書的なソーシャルスキルを身につけてもなお入れずにいることを、入っていないと思うか閉め出されていると思うかで、それこそ天国と地獄ほどの開きがある。
理解して欲しいと思うから、理解されていないことに腹が立つ。自分が理解されていないことや、相手には理解する能力がないことを悔やんでも仕方がない。人は、人を理解しないものだと思っていた方が安全だ。(ただ、この自信をもてる人間になるためには、幼児期の親子関係の中で理解されている安心感が形成されていることが前提になる。その土台があればこそ、理解し合えない人と人とが関わり合う社会の中で生きていこうという意欲が生まれるのだから。)
03/11 07:43 とにかく、あのバカバカしい親子には極力顔を合わせないようにすることだ。そのために今までは朝4:50に起きていたのだが、これだとまだ洗濯の2回目(2人用の小さい洗濯機しかないため、普通の量で洗濯機を2回回さなければならない)が終わる頃にすれ違いになってしまうので、今日から4:40起床に変更。
子どもを病院に連れて行くこともままならないのでは困るので、どこかに行きたがっている長男に頼んで留守番をしてもらい、次男には診察開始前の待合室で1時間以上待つことになるし帰りも別行動したがる時期なのにもかかわらず買い物も付き合ってもらって、バアサン一切無視で出かけることにする。あまりにもバカバカしいため、何かごちゃごちゃ言われても全無視する。私は、こんなバカバカしい親子の奴隷になったり監禁されるためにここまで我慢して生き延びているわけではないのだ。自分がしなければならない仕事をするために、自分を大事にする。もう、ヤツらの犠牲にはならない。
03/10 15:49 春先で自律神経の具合も悪いし鬱傾向だけれど、今日は歯科に行った。自転車で出かけようとしたら、まだ雨が降っていたので歩いていった。午後の診療は14時開始でその時間の予約だが、銀行にも用事があるので13時に家を出た。ちょっと大がかりな治療になったので、終わったのは14:50。歯科医院の近所のスポーツ用品店で、名札付けを頼んであった子どもの体操着を受け取り、道すがら100円ショップで買い物をし、自転車で転んだ幼児を助け、普通に歩いて帰った。そうしたら、バアサンがわざわざ玄関脇の草木の手入れをしながら待ちかまえていた。「どこへ行っていた!」「歯医者」「歯医者にこんなに時間がかかるはずがない!」
洗面所の壁を叩いて、「バカヤロー!」と怒鳴った。いったい、いつまでこの監禁状態が続くのだろう!? 明日、子どもが2箇所の病院に行くのに別行動で診察券を出しに行ったり買い物をしたりする予定だったのに、そんなことをしたらまた何を言われるか分からないので、一緒に行って長時間待つことになってしまう。卒業式のために、明後日美容院に行ったり他の用事を済ませようと思っていたのに、それもできなくなってしまう。
こんな家で、鬱になるな、希望を持てなんて言われたって、できるわけがない。そこら辺の物を全部投げ飛ばしたって、この怒りは収まらない。
03/02 21:14 日記用のメモは、たくさん溜まっている。でも書く気がしないのは、偉そうな態度をとっている私の方こそが次元の狭間に追放された負け組という無力感のため。
03/02 21:07 あのジロリと睨む年寄りの目つきのお陰でこの家から出ていくことができなくなり、ほとんど近未来的とも言えるお取り寄せ生活をして引きこもっている間に、医者の態度がすっかりおかしくなってしまった。今日は、歯科で医者からさんざん嫌味を言われ、待合室にいた顔見知りの人には本を読んでいるふりで完全無視されて、今、すっかり鬱になっている。まるで、何かの大きな組織が背後で操っているかのようだ。(この地方を牛耳っている大学病院の精神科は、発達障害の分野では完全に遅れていたり方向違いの治療をしたりしているのに全国的に有名な大御所がいるので、私のカエルちゃんたちを握りつぶすことぐらい簡単であろう。)どうやら、信頼してカエルちゃんの本を配った医者たちのほとんどに、手のひらを返されたようだ。
結局、ASとしてのQOLを大事にしてうまく生きることにどんなに成功しても、世の中的には相変わらずただのダメ人間としか見られない現実が変わらなければ、遺恨を残すばかりで永遠に和解はない。味方になってくれていると錯覚していたことも、いつかは改心するだろうと希望を持っていたことも、幻想でしかなかった。これで、全員が敵であることが明白になった。
02/25 18:17 昨日のニュースステーションで、「拝金主義+私生活主義=ホリエモン」という話をしていた。そして、今の日本社会を支えているのは団塊の世代だけれど、ホリエモンは団塊ジュニアで、正に団塊の世代の産物だということだった。経済優先で公なき個至上主義。これが現在の風潮。ソーシャルスキルという観点が欠けたまま子どもを育ててしまった、戦後日本の元凶。一方、社会を牛耳っているのは、相変わらず協調性最優先の旧態然としたスーパー日本人という集団。
この両方にたてついている私の居場所がないのは、至極当たり前のことだった。というわけで、私の出る幕はないし、出る気はさらさらない。
02/08 08:50 最大の注意事項は、学校では西洋的なものの考え方を学ぶが、世の中は依然として完全な日本であるということ。そもそも、この国は、こてこての東洋の上に見かけ上の西洋が乗っかっているだけの社会なので、人々に浸透しているものの考え方はモロに日本。学校教育自体は西洋思想なので、教科書にはそのトッピング部分のことが書いてあるが、それを教えている大人もそこにいる子どもも日本人である限り、実際に起きることは教科書に書いてあることとは違っている。NTの子どもは、教科書からではなくそこにいる人々との関わりの中で学び取るが、教科書に書いてある文章がすべてであるASは、絵に描いた餅だけが真実だと思い込んでしまう。
そして、人間の形成するほとんどの社会(職場や家庭など)には、そこでしか通用しないローカルルールがまかり通っている。教科書通りの集団なんてまずない。それどころか、『N’sあおい』の職場のような理不尽なその場ルールやその場の力関係が正当化されている場も、ゴロゴロしている。(それは恐らく、東横インやライブドアに限ったことではない。)そこに適応できなくてニートにならざるをえなくなっているのは、何もASDの人たちだけではない。
02/08 08:33 すべての人は障害をもつ可能性が100%あるというのに、相変わらずそれは自分には関係のない非日常なことだと思い込んでいる。特別支援教育が始まっても、特別な人のことだという旧態然とした考え方が改まっていない以上は、特別な人を支援するためのものとしかとらえられない。従って、特別な人に見える人や特別な人であることが証明された人には特別な支援をしようという動きになるし、そのように主張できるが、特別な人に見えない人にとっては何の変わりもないし言うことさえもできない。さらに、ほとんどの人には、ASを理解する気がない。それどころか、ASを理解する能力すらない。
私が今やろうと考えているのは、ASがNTの犠牲になったり被害を被らなくてすむようにNTの取扱注意事項をまとめた『NT対策マニュアル』のようなものを作ること。NTにASを理解させることは、この国ではまず無理だろう。昨今のニュースやテレビの高視聴率番組の傾向を見れば、一時はASが住みやすくなるかのように思われた時代の流れが逆行していることは、一目瞭然。
02/07 20:46 久しぶりに会ったNTと世間話で盛り上がったからといってその人に好感を持ち、その時話題になった事柄について調べておき、次に会った時にその続きの話をしてはいけない。
その時に話が盛り上がったのは、NTとの視点の違いに感激されただけで、その情報を検証する段になったらNT流に処理され、しかもNT同士でより現実的で実用的な情報を交換し合う。つまり、次に会った時には、世間知らずで孤立しているASの言ったちょっとした情報などガセ扱いされている確率が高い。それ以前に、その話題を話したい相手のリストの中に入っていない人にその話題を持ちかけられたって、余計なお世話というものだから。
01/29 10:31 頭ごなしに否定されて育った人は、頭ごなしに否定してかかる輩を見抜けない。そういう人ばかり見ているので、それで当たり前だと思っていることも問題だけれど、自分の価値はそんなものだとしか思っていないことの方が重大だ。
一方、健全に育っている人は、頭ごなしに否定してかかる人に出会った時、泣いたり、悩んだり、悔しがったり、相手を責めたり、喧嘩したりするし、誰かに相談したりもするようだ。しかし、そんな局面で、泣き、悩み、悔しがり、相手を責め、喧嘩しているのに、誰かに相談しようとさえしないのは、どうせ否定されるに決まっていると確信していて、本当の気持ちは絶対に人に言ってはいけないと思い込んでいるからだ。
精神的に健全な発達を遂げた人なら、とても耐えられないこの状況から脱出できずにいる理由はただ一つ。自立できる経済力がないから。自分の価値を取り戻すための闘いは、自分の価値を認めてくれる人に出会うことと生活力をつけることの両方を進めなければならない。
01/29 08:16 よく、健全な怒り方や安全な怒りの表出方法を教えろと言われている。ある程度のレベルならば、それをすることで精神を健全に保つことができる。
しかし、怒ったところでどうにもならない事柄に関しては、怒らないようにする方がよほど健康的である。その方法は、見ざる・聞かざる・言わざる。つまり、今の時代の風潮とも言える感情バブルに乗らないことだ。(その流れに乗れば金が入ってくるかもしれないが、ただでさえ危険な道に突き進んでいる時代の流れを助長することは良くないと思う。)
01/28 23:06 私に言えるのは、騙されて↓のようなNTにつかまらないように注意しなさいということ。そのためには、絶対に自分の価値を引き下げてはならない。つまり、自暴自棄にならないことだ。そして、ASの子の親は、子どもを自暴自棄にさせないように努力して欲しい。
私にできることは、こうやって言葉に残すことだけ。
01/28 22:58 ローカルルールの中だけでしか生きたことがなく、そのローカルルールが通用している集団に帰属していることがアイデンティティになっているNTは、そのルールがおかしいとも、自分が井の中の蛙だとも全く思っていない。ましてや、知見を高めようとも、自分が変わらなければとも思っていない。逆に、人がそのおかしなルールに従おうとしないことの方がおかしいと思っている。それ以前に、その他の知識や見識があることさえ知らない。NTの社会には、こういうおかしなローカルルールが溢れていて、それがまかり通っている場所がたくさんある。それは、どこかの会社かもしれないし、その会社の部署かもしれないし、誰かの家かもしれない。
本で読んだ言葉や誰かの言った言葉から、NT一般のユニバーサルルールを研究し、学習することで生き延びてきたASにとって、その現実は許し難いものだ。しかし、生命を維持するためには、我慢に我慢を重ねるしかない。自分を攻撃して、自分を抹殺しようとすれば鬱になる。自分を守るために相手を攻撃せざるを得なくなると、刺々しい嫌味なニンゲンになってしまう。そのどちらも、ASの生き方として“良い”ものとは言い難い。
しかし、NTの理屈からすれば、完全に孤立していることの方がニンゲンとして最悪ということになっている。しかも、人は孤立しないように努力するのが当たり前で、孤立してしまうのは本人の責任だそうだ。しかし、ローカルルールを核として徒党を組むということは、そのルールに従わない人を孤立させるのと同じなのだ。NTにとっては心のよりどころになるその感情が、ASを苦しめ、精神を病ませてしまう。まるで、そんなNTに囲まれながら「ASとして“良い”一生を送りたい」と思うことさえも罪なのだと言わんばかりだ。