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2004.9月以降の日記

12/30 10:18 どうもおかしいと思ったら、まだ世の中は「ASDってなに?」「ASDって、可能性のない人たちではなかったの?」というところでグズグズしていて、では「相手がASDならどう接すればいいか?」「ASDの人たちには何をすればいいか」というところには全く達していない。
それどころか、目の前には明らかなASDの人がいるにもかかわらずASDであることを認めようとせず、一般常識を押しつけようとしてお互いを傷つけ合い・傷つき合っている。
12/29 10:53 親の片方に発達障害による社会性の問題があり、もう片方には(発達障害がある可能性も十分にあるが)受動的な性格でおまけに世間知らずで、社会で生きられるように子どもを育てることができない家が存在することは事実。私の生まれた家は、まさにそういう家だった。子どもがどんなに高学歴でも、社会的にはNEET。
特に、ウチのケースでは、片方がいわゆる常識的な人とのかかわり方ができない人であるにもかかわらず、もう片方もまた人ではなく知識や型しか見えない人で、家の構成員には誰一人としてそういう資質を持っていなかったにもかかわらず“絵に描いたような家庭のカタチ”というもの実現しようと押しつけ、必死にそれを演出しようとしていた。つまり、個であり社会人でもある一人一人がくつろぐ家庭というものが全くなかった。二人の子どもは、社会で生きる力がないのに帰る家もなく、ただ自分の生まれた家にいたくないという理由だけで家を出て、どちらも半人前。
昨日、相変わらず「こうあるべきなのに、こうでない」と相手の批判をする電話をかけてきたので、この一年の間に家や家族について私が気づいたことをすべて直接本人に言った。今頃気づいても取り返しはつかないことだらけだが、メンバー一人一人の現実を見てそれぞれが無理なくできる範囲の家庭を作ることは今からでもできる。ただし、互いに一人一人の現実を見て受容した上で、これからどうするか考える姿勢ができればの話だ。
12/20 08:42 たいていのNTは、ソーシャルスキルトレーニングなどで想定している、聖人君主のような正しいニンゲンではない。意地汚かったり、欲張りだったり、利己的だったり、ずるかったり、嘘つきだったりする。何が正しいとか何に困ると考えるのではなく、「○○しないと恥をかく」という理由だけで行動していたりもする。−−−−なんて結論を出さなければならないなんて、本当におかしい! 私の親戚や私の親の知り合いには、もっとまともなニンゲンがたくさんいた。そして、もっともっと人信じることもできていたし、もっと向上するための努力も惜しまなかった。確かに、聖人君主のような人物は存在しないのかもしれないが、この家の外にはまともなニンゲンがたくさんいることも知っている。(世の中は、こんなに女々しいニンゲンばかりで構成されているのでないことは、分かっている。)
こんなところで犠牲になって身動きもとれないでいる自分は本当に惨めだとは思うが、こんなヤツらのための萎縮して腐ってしまったら本当ののたれ死にになってしまう。無事にここから生還できることだけを希望にし、外のまともな世界に出た時にちゃんとやっていけるように自分がかつてまともな世界にいた時に蓄えてきたことをなくさないように、自分自身を取り戻さなければならない。
自分の周りにいる人たちがすべて敵で、自分がした仕事の成果を直接見ることができないというのは辛いことだ。誉めてくれる人は、すべて遠くの人。(自分の親を含めて)現実には会いに行くこともできない。(たとえ会いに行ったとしても、この地獄に帰ってくる苦痛が大きくなるだけなので、呼ばれても行けない。)それどころか、カエルちゃんたちを送り込みたい人がいるのに、たぶん何か言われることを察知していてあれこれへんな言い訳を次から次へと繰り出して逃げ回り、その間に二次障害がどんどん広がって確実にヤバイ方向に向っていく現実を黙って見させられている。
毎月の支払のくめんに追われている生活では、大学に復帰することも資格を取ることもできないが、表舞台で活躍している無事生還者たちをうらやましがっているだけでは、らちがあかない。
12/17 22:53 今年は、ボチボチ掃除をやっている。気力・体力・道具・システムが揃ったからだ。
気力:たまに子ども会の用事があって、普通の人たちと接しなければならないとしばらく鬱っぽくなるが、子ども会と学校の役員以外の用事で家から出ることがないので、だいたいは大丈夫。(でも、最近、恐いニュースが多いので、かなり萎縮していることは確か。)
体力:ほとんど筋力かもしれない。新薬を一切やめて、生薬とハーブとサプリメントにしたために身体的なダメージが少なくなったこともあるが、スポーツクラブのメールでエクササイズをしたり、介護予防の運動をしていることが大きい。体が楽に動くし、動いても痛くなったり疲れたりしない。
道具:去年買った、業務用のお掃除シート各種が重宝している。今年は、それに加えて使い捨てのポリ手袋100枚入りをがっちり仕入れた。これで、汚さランキングを気にすることなく掃除ができる。
システム:掃除のことを考えると、他のことができない。逆に言うと、食事のメニューや仕度のことを考えなければならないと、他のことができない。だが、食事は食材セットのセットメニュー(それも、やっと、無駄なく安く選べるようになった)、時間の区切りはパソコンで登録して携帯電話にメールが送られてくるシステムができあがっている。つまり、掃除をしている時は、掃除のことだけ考えていればよくなった。

と、こういう生活をしている人が、生活感バッチリの普通の(しかも、しっかり♀だったり♂だったりしている)人たちと話が合うはずがない。だから、そういう人たちと接触して話が噛み合っていないことがビンビンに感じられても、「それでいいのだ」と思うようにしている。と言うか、そう感じないために、ゲームをやっている。それで、いいのだ!
12/14 07:46 鬱が二次障害の場合と、合併症の場合とでも、また違う。
12/13 07:35 世の中で起きていて、私がバカバカしいと思っているもののほとんどは性ホルモンの働きによるものらしい。(あるある見たのがバレバレ!?)
男は力を求め、出世したい、女にもてたいと思っていて、失敗したり叱られたりすると強いストレスを感じる。→接待されたりお水に持ち上げられたりするとご満悦なのは、そのためか?
女は、キレイになりたい、強い男を獲得したいと思っていて、人間関係に強いストレスを感じ、特に無視されることに耐えられないらしい。
ちなみに、オカマのKABAちゃんは、男扱いされると強いストレスを感じるらしい。
なぜ、オカマには主張する権利があるのに、ASDにはないのか?(逆に、療育の名の下に、粛正されようとしているなんて、不公平だ。)←ちなみに、ASDの権利を主張するのに、同性愛者のケースをモデルにしようと考えている当事者は多いようだ。
12/12 17:27 ASDという概念が生まれて固まるまでの初期の頃は、外に現われた特徴だけをとらえて「ASDはこういう人たちである」と記述した論文が多かった。そしてその時期に、タイムリーに子どもでなかった人たちは、自分たちのASDとしての過去と現在を説明するために、それらの記述の中から自分に当てはまる部分を必死になって抽出しなければならなかった。それはまさに、自称専門家が勝手に決めた「ASDの人はこうであらねばならない」という既成概念との戦いの歴史でもあった。
しかし今は、もうそんなことをする必要はない、はずなのだが…。
12/12 11:40 かつては、家庭の中に「社会」が入り込んでいた。家で何かを作ったり売ったりといった仕事をしている人が多かったし、家庭生活そのものが家の社会的地位を表していたり、社会の厳しさを感じざるをえないことも多かった。
しかし高度経済成長期以来、なぜかみんなが「真ん中」「平均」になり、仕事をするために家から出て家に帰ってくる働き方が普通になり、家の中にプライベートな空間を持つ余裕も生まれたために、社会から全く隔離されていながら生存できる場所が生まれてしまった。でもその一方で、社会から望まれる人間像が画一化されてしまったために、社会に出たくても門前払いされてしまう人を増やしてしまった。
ひきこもりやNEETが論議される時、特に政治家や役人は、一つ一つの家庭が社会から孤立していることだけを問題視する傾向がある。しかしそれでは、地域社会の付き合いを強要されることが苦痛な人たちをもっともっと苦しめる結果になってしまう。「働かないことは悪いことだ」という風潮をもっと強くしろなんてことを言うニンゲンが厚生労働大臣をやっているのでは、事態はどんどん悪い方に向いていくだろう。
12/12 11:24 陽気・前向き・躁状態でないと、本は書けない。そして、そういう原稿でないと出版されない。だから、そういう状態の人が書いた本だけで、ASDのすべてが分かったかのように錯覚してはいけない。
いつもいつも自分の世界に浸っていられるはずもない世の中で、生活している時間が長くなればなるほど不安と恐怖を感じる時間も長くなる。英米のような“同化主義”の国で「人と違っていていいんだ」と言うのと、“多文化主義”の国で主張するのとでは、全く違うのだ。また、ムラ社会から逃れられない場所にいる人と、日常の人づきあいから無縁でいられる人とでは、全く状況が異なっている。本態的に鬱になりやすい人と、躁になりやすい人とでも、また違う。
つまり、ASDの人たちに社会性を持たせながら陽気・前向きに持って行くにはどうすればいいかを考えなければならないということ。しかも、必ずしも物理的環境と社会的環境を最適な状態に保てるとは限らない中で。
自分の守備範囲の外は見ない−これもまた精神を安定させるための一つの方法。
12/10 17:11 介護予防の本が来た。スポーツクラブで送ってくるメールに書いてあるような体操・ストレッチが載っていた。個々の筋力(特に、背筋・腹筋・腸腰筋)強化のための体操は、長男がやらなければならない体操だ。(ちなみに、私は今の長男の年頃に剣道をやったし座禅をやったりした。その財産のお陰で、きっと何年か命拾いしている。)同じ本を、親にも送った。こちらは、本物の虚弱・障害高齢者だが、ウチのAS家系の筋力のなさの大元でもある。
しかし、介護を必要としない老人にするということは、スウェーデンでは当たり前。日本でも、どこかの自治体が老人のためのスポーツセンターを作ったところ、医療費の負担が激減したというのに、専門家であるはずの整形外科の医者がわかっていなかったのには幻滅だ。整形外科でやっているリハビリも、的はずれ。
12/10 16:02 適応障害を起さないためには、いくら生存するためだとはいえ低俗で野蛮なNTに合わせ隷属したりしないことだ。
NTは好意でなければ悪意と受け取ることはまずないかもしれないが、とかく不快感の感度が高くて悪意と解釈してしまう範囲がやたらと広いASは、感情的なかかわりを求めない人に安心感を持ってしまう可能性が高い。生きる希望が全く持てない鬱の状態が当たり前になってしまうと、人間性を求めることをやめてしまう危険がある。さらに、人に好意を持つことはあっても、人の好意を受け取ることができないとなると、人と共にいるが誰とも生きていないに等しい。
あれこれできるように教育することを支援だと思っている人がいたら、即刻考え方を改めて欲しい。最も大切で、一番最初にやらなければならないのは、そういうことではないのだ。
12/09 13:19 とにかく群れない! 立ち居振る舞いが違う! 考え方が違う! 
人が花束を渡そうとしているのに気づかずに通り過ぎてしまおうと、次の日に蛙跳びをしなければならないと真剣に悩んだりしようと、それでもいーじゃん。と思わないと、やってられない。(この光景を見たことで、勇気をもらったようなものだ。
12/08 20:10 今日、教育テレビの地理の時間に、異民族に対する“同化主義”と“多文化主義”の講義をしていた。日本は間違いなく“同化主義”、郷に入っては郷に従えの国だと言っていた。それから、“多文化主義”は一見良いように見えるけれど、本当に理解していなければお互いに無関心なだけだとも言っていた。なるほどと思うばかりである。
その後、お寺のお通夜に行った。この国では、自覚しながら自信を持って変わり者をやっていくには、変わり者でいいんだという自信がないとかなりきついと思った。変わり者を自覚しただけの段階では、自己否定の延長なのですべてが恐くなってしまって外に出られなくなったものだったが、今は、変わり者を自覚しながらそれでも良いと思い続けそのままで外に出て行くのだから、相当のエネルギー消費だ。これは、鬱状態では持ちこたえられない。と言うか、鬱状態に陥り易いのに鬱状態に陥るのを阻止し続けるのだから、二倍の元気が要る。…どっと疲れた。
12/05 17:49 発達障害者支援法」の解説をしたNHKの解説委員の説明が、とても気になっている。「自閉症の人は、人の心が読めないから、こういう行動をする」と言ったのだ。いったい、自閉症=心の理論の障害なんていう定義は、誰が決めたのか? 最近、一般向けのシロウト解説者が、こういうことをまことしやかに言うことが多い。
読めないのではなくて、「読み取っている情報が違う、考え方が違う。一生懸命やっているのにズレている、それで、全く同じにはならないが不都合を減らすように擦り合わせることが可能。それを分かって欲しいと思っている。」のは、私だけ?(←by だいたひかる)
11/29 07:40 スポーツクラブでやっている体操やストレッチは、効く♪ 自分で適当にあっちこっち伸ばしても全然効かなかったのに、スポーツメールに書いてあったとおりにやってみたら、しびれがとれて、随分と楽になった。
11/24 07:34 わからないことシリーズ。
  1. なぜに、ダンスや歌手の振りまねをしたがるのか?
  2. なぜ、身体や外見で自分を表現しようとするのか?
  3. なぜ、ドラマやスポーツやイベントを企画して、感動を作り上げようとするのか?
  4. なぜに、最初に恐いことをわざとずらずら並べたてておいて、「こうすれば大丈夫」と何かを買わせたり信じさせたりする企画が見え見えのテレビ番組が好評なのか?
これらはすべて、人が楽しみと思い、人の行動を決定し、人と人とが親しくなるための手段だと言うのだろうか?
こんなものに乗らなければ生きていけない動物なんて、精神的にものすごく弱いに違いない。
11/23 17:10 ただし、身体的要素だけが自閉症ではないことを忘れてもらっては困る。自閉症と言うよりも、重度のNLDと言った方がよいタイプと、メンタルな理由からかかわり・コミュニケーション・こだわりの各分野で人と違っている確信犯的な自閉症のタイプとでは、全く違う。この国の現状は、完全にごっちゃになっている。これは危険である。
だから私は、この国の業界の表舞台とはかかわらないようにしている。呼ばれたって、行かないよ!
11/23 16:49 ちなみに私は、携帯サイトのスポーツクラブからエクササイズをメールで配信してくるプログラムを続けている。室内でできるストレッチから、生活動作にちょっとプラスするだけでできる筋トレからジョギングまで、本当に無理なく少しずつ運動やストレッチの指令が来る。確実に、体力は回復に向い、足元もしっかりしてきている。
支援グループでは、知っていて当然で、こういうことをやってくれるものだと思っていたが、ASの身体について無知すぎるようだ。
11/23 16:38 ウチの家系の筋力の弱さは、母親から引き継いだものだ。その母親は、筋力のなさが原因で腰の圧迫骨折をし、起きるのもやっとの生活になっている。これは人ごとではない、自分だって腰の骨折こそしなかったが体力的には似たようなものだ。これは、2月に足首の骨を折ったこととも関連していると思う。
それで、最近はやりの「介護予防」の本を探してみた。まだ内容は見ていないが、AS/NLDで筋力がないタイプにとっては、かなり早期から必要なものだと深刻に考えている。これは、ライフスタイルの選択にもかかわる重要事項のはずだ。
11/23 13:30 これから必要になるのは、「感情のコントロール力」と「現実検討力」。それができて始めて、オンリーワン。
批評や分析を受けずにただただ誉められちやほやされ、一人で判断するように求められながら結果だけが評価されて育ったのでは、自分が一番で・うまくできないことを恐れるだけの人になってしまう。これは、すべての人に言えることだ。
11/22 17:34 「衣食足りて礼節を知る」と言ったのは聖人らしいが、一般人は「衣食足りてルイ・ヴィトン」らしい。聖人は「足を知る」が、一般人は「足るを知らない」。と言うより、経済優先の効利主義社会では、足るを知られては困るので、これでもかこれでもかと欲望をかき立て、ちょっとでも不便を感じるところをビジネスチャンスにした人が英雄になる。
金持ちになってでっかい家を建てて、宝石やブランド品や高級家具や億単位のコレクションをすることに何の価値があるのか、まったく分からない。だいたい、テレビでセレブともてはやされている人たちの家にある本の小さなつまらないもの一つあれば、何の心配もなく1ヶ月暮らせる庶民がどれだけいると思っているのだ! 大金を持っている人は、金のありがたみがわからないかわいそうな人なんじゃないのか? なんでそんなにうらやましがるのだろうか? それが、ニンゲン社会で成功するということなら、憐れなものだと思う。
11/22 07:59 戦後〜高度経済成長期に、親が子どもを社会人や家庭人として育てなかったツケが、今まわっている。その時は、親が忙しくて子どもにかまっていられなかったことよりも、形だけの個人主義=実質放任主義という思想的な誤り、家さえ建てれば家庭ができるという甘い考え、親に経済力があったので子どもを自分が所有する建物内で養うことに問題がなかったことが原因だと思う。
それ以前に育った発達障害の人たちは、医療水準が低かったこともあるし社会的にも淘汰されているので、家庭を持つためにはそれなりの試練があった。しかし、そもそも発達障害という概念がなかったし、自分がそうだとも思っていないどころか、自分は社会的に一人前になったのでそれでいいと思い込んでいる。しかし、当然ながら子どもの社会性を育てることは全くできていない。自分にも欠けているので、必要性さえも感じていない。それが、ウチの親たちのおかしさ。
私と弟は、はこういう家の犠牲になった。そして今、私が、教育水準が低くても発達障害未治療でも人権侵害をしていても全く困っておらず、一歩外に出れば全く通用しないローカルな価値観しか知らないとんでもない地獄にいることにも、全く気づいていない。
どこから戻せば良かったかと問われたら、親世代の子ども時代から戻して再教育したいと答える。私の次の世代はブロックしたが、私のやっていることを引き継ぐ人はいない。だから、私が死ぬわけにはいかない。私が何かの病気や事故で入院したとしたら、今現在自分が生き延びるためにやっている工夫や努力を伝えられる人もいない。今、なんとかして生きていようと思っている理由は、それだけ。
11/19 10:16 「素直で聞き分けのいいこと」を子どもに求めている親の家に、ADHDの子どもがいる。親からすれば、子どものやることなすことすべてが問題行動に見えてしまう。ずっと上から抑えつけてきた結果が、家庭内暴力。子どもの方は、確かに模範解答的な応答をせず、現実検討力がなく、社会的に少し逸脱した考え方をもっているが、表向きの行動はなんとか抑制している。それを肯定的に評価できない。子どもの考え方そのものが許せないからだ。そして、子どもの吐く暴言の裏にある気持ちを全く汲もうとせずに真に受けて、おろおろしている。そして、自分は抑えつける以外のやり方を知らないので、説得する役割は誰かにやってもらおうと逃げ回ったり、相談してはいけない人に話してしまったりして、話をわざわざややっこしくしている。
他のきょうだいは、もともと素直で聞き分けがよい子と一生懸命にそういう子どもでいようと頑張る子。もともと素直で聞き分けがよい子の方は、素直で聞き分けがよすぎたために我慢しすぎて一時学校に行けなくなってしまった。一生懸命にそういう子どもでいようと頑張る子の方は、ちょっと疲れてきている。燃え尽きるか爆発するか、危ないところだ。
一連の相談で分かったことは、「素直で聞き分けのいいこと」を子どもに求めている親に何を言っても、そこのところを取っ払ってもらわない限りはこちらの意図がほとんど伝わらず、同じ事の繰り返しになるということ。療育指導をする時には、すべての親が模範的で物分かりがよいものだと思わないことだ。
11/19 09:57 こちらが一生懸命に話していると「なにそれ?」という顔をされ、私が笑うところでは誰も笑わない。あっ、まずかったと思ってやめる。けれど、何がどうまずいのか全く分からない。こんな綱渡りを、一人でずっと続けている。そんな世界でしか生きられないとなったら、とってもやりきれない。だから、自分の生きる世界を別に持っている。(ドラクエだけでなく、FFも復活。)
しかし、世の中的にうまくやっていこうと思うのなら、「もう自閉症は卒業しました」「今はこんなことやってません」と言ってしまう方がどんなにか楽かしれない。食えない業界の中で営業するよりは、一般社会で生きた方が経済的にもどれだけ楽になるだろうかと思う。だが、療育のためには、敢えて世の中的にはまずいことになると分かっていながら自閉症の感覚を保ち続けていなければならない。それを言ったら、吊し上げにあうことがわかっているから普段は我慢して決して言わないことだって、恐る恐る言っている。
社会や人々の中に根っこをしっかり張って、それなりの社会的地位があり、肩書を持って特別支援教育をやっている人たちは、世の中にいながら自閉症でい続けることがどんなに息苦しいか全く分かっていない。だから、こちらがどんな気持ちで四面楚歌の中を生きているかなんてことには全く配慮なく、平気で「教えてくれ」と言ったり、「それ以上言うな」と言ったりする。しかも、目の前に自分のこだわっているものを吊しておきながら手を出すなと言うような中途半端な状態にずっと置いておきながら。
11/15 07:53 最近また、地球的イベントがたくさんある。持ち回りの役員なので、出かけていく。
行く度に、よくもまあこんなに違うことを考えている生物と一緒に何十年も生きてきたと、我ながら感心する。でも、張り合わない。うまくやらなければならないとも思っていない。相変わらず、怒れることばかり、怒れるひとにたくさん会うが、キャラ電で消化する。だから、書かない。
11/06 17:53 今やっていることは、一言で言えば現実生活の立て直し。地震の映像を見た影響も、かなりある。
11/06 13:46 次男を整形外科に連れて行った。病院の近くの薬局は薬剤師の態度が悪いので避けていたのだが、忘れてついうっかり行ってしまった。やっぱり、高圧的で非常に不快な思いをした。(PTAで一緒だった人だけれど、あんなスーパー地球人だとは思わなかった。NTは、学校に来るといい子のふりをすることがあるので、信用しない方が良いと思った。)
ものすごく腹が立ったが、キャラ電のものすごく怒っているネコの姿を思い出し、何度も何度も再生して処理した。これは、とてもいいやり方だ。

ちなみに、関係ないが、Yahooのメッセンジャーの「作業」を利用すると、やりおわった仕事を棒線(―)で消せる。わざと細かく作業を保存しておいて、棒線で消していくのも非常に気持ちが良い。

※ITのさまざまなサービスやシステムが生活を快適にしていることを言いたい、ということで…。
11/06 16:50 携帯電話は送ったけれど、送り先はここよりも田舎(注:これは誰にとっても故郷ではない、私の両親が思い描いていた絵に描いたような故郷。せっかくの故郷の家を潰して、定年後にわざわざ建てた。)なので電波の受信状態が良くなく、今のところTV電話はできていない。アンテナが立ってるかと聞いたら、左端の電柱を数えてしまってお話しにならない。電波を増幅するシールを買って送ることにする一方、家の中でアンテナの立つ場所を探すように言ってある。←こんなんで、正月までに間に合うだろうか?
こちらはこちらで、PCと携帯電話の間でネットワークを完璧に作り上げて快適である。パソコン上の必要なものは携帯電話でも見られるように設定し、Yahooのシステムを利用してパソコンからリマインダーが送られてくる仕組みもバッチリ。私に買われた携帯電話は、電話やメールは親子間の遣り取りしかないが、パソコンとの連携と携帯サイトの天気や災害などの情報メール受信という大役がある。こういうことって、かなり楽しい。
(ちなみに、キャラ電、着うた、着メロは、必要なものをダウンロードして、まだ5日だというのにさっさと登録を解除。だらだらやっていると、通信料を無駄遣いするので、自戒のためにもあっさり打ち切り。)
11/01 15:03 TV電話は、子どもを育てるとはどういうことか? 家庭とは何か? 故郷とは何か? ということが分かっている両親だったら、わざわざ買って贈らなくても済んだはずのものだ。
かといって、東京のテレビ局が勝手に作り上げている「あったかくて、やさしいおばあちゃんがいて、精一杯のもてなしをしてくれる田舎」なんていう嘘八百の虚像が故郷だなんて思われても困るが。
10/31 09:17 ただし、現実から逃避して理想の自分をネット上だけで作り上げてしまうアバターだと、自分自身の代理人ではなく、別人格を演じることになるので、乖離してしまう。あくまでも、自分の気持ちの代弁者でなければ、同じことの繰り返しだ。
10/31 09:11 しかし、次男は偉い。こんな家で生き抜くために、「カエルのぬいぐるみを一つのキャラにして、言いにくいことをそのキャラに言わせる」という手をだいぶ前から自分で開発して使っている。−これ、たぶん、私のキャラ電と同じ機能だ。
自分自身が乖離して何かのキャラになり、社会的場面を乗り切っていると、精神的に破綻してしまうが、これならば自分の人格を守ったままで本来かかわるべきでないような人にも関わることができる。
10/31 0909 治療室の中で座っていればいい人は「無理するな」と安易に言うが、いったいこの社会のどこに無理しなくても生きられる状況があるというのだ。
そもそも、仲のいい人やお世話になった人、現在何かの仕事を一緒にやっている人が入院したというのなら真剣に心配するし、お見舞いにだって飛んでいく。私は薄情なわけではない。なのに、ただ近所に住んでいる人が、たいしたことのないプチ入院をして、家の誰かが入院した時にもらったお見舞いのお返しをするというだけの理由で、近所の人が十人もそろってぞろぞろ病院にお見舞いに行くなんて、バカげている。しかも、相手がみんなに会いたくて寂しがっているわけでもなく、逆に、お見舞い−お返しという面倒なことになるのが分かっているので、なるべく人に知られないように気を遣っているというのに!…これが、この田舎のどうしようもなさ。
それから、子どもたちがきちんとした父親のあり方を学習できない情けなさに関しては、本当はよその家に泊まったり下宿させたりして補わなければならないのだが、そういう知り合いはいないので無理。せめて、「よその家のお父さんの姿を見て学習するように」と命令した。…ひたすら、徳なきは憐れむべしだ。

こういう時に、キャラ電が役に立つことが分かった。といっても、話す相手がいないし、話したとしてもバカにされるだけだということも分かっているので、キャラ電のキャラに自分の気持ちを表わす動作をさせて自分の気持ちを確認し、はき出すだけだ。とりあえずはプリインストールのキャラと、メーカーが無料提供しているキャラだけでまかなう。一日我慢して、来月になったらマイメニューに登録するかも。
10/30 21:58 言葉にして話せばすべて解決するという軽率な考え方は、やめて欲しい。言葉にして一生懸命叫べば叫ぶほど、逆にどんどん無理解と拒絶が広がっていく。
要は、違いを認める気持ちがあるかないか、自分自身の現実を見つめようとする気があるかないかということなのだ。言葉なんか、あってもなくてもどうでもいいのだ!
10/30 21:54 この田舎、そしてどうしようもない無責任親子。しかし私は、自立はおろかここから脱出することもできない。この田舎のどうしようもないこと、あの親子のどうしようもないこと、それが十二分にわかっているのにここから出られない自分の不甲斐なさ。本当にイヤになる。
一方、私の両親は、生涯の間に家を二軒も建て、建て売り住宅を二軒も購入し、そして毎日きちんと家に帰ってくるまじめニンゲンながら、家庭というものを築くことができなかった。そういう家に育った子ども(私と弟)は、社会というものを全く知らずに育ち、未だに半人前。本当に情けない。
ここから出られないことはほぼ決定的だが、手掘りでも何でもいいので、抜け穴を掘ろうと思っている。その一歩として、私の両親との間に、専用のテレビ電話を作る。なにしろ、浮世離れした生活をしているので、相手は難しい操作が一切できない。それに昨今では、架空請求やら迷惑電話やらが横行しているため、他の電話は一切繋がらず、間違ってボタンを押しても何事も起こらないように設定している。
田舎とこのどうしようもない無責任親子に接するたびに、落ち込み・泣き・癇癪を起こし・日記に書き付ける生活が健全なはずはない。とにかく、なんとかして助けを呼ばなければ!
10/24 10:22 ちなみに、↓のようなことにならないために(つまり、人からバカにされないために)、化粧してオシャレな格好をするようにと書いているASの人もいる。逆に、自分なりの制服(注:一般的にはオシャレとは言えないような)を着て押し通している人もいる。
どっちを選ぶかは、正にBuild Your Own Life
10/23 17:45 NTが意地を張る、見栄を張る→NTの間でうまくやっていく必要は全くないと思う
NTが私に対する復讐として無視してくる→こちらの居心地がどんどんよくなる

こちらが真剣に考えるのは、いかにすればNTからの被害を最小限に食い止められるかということ
人生に希望が持てるようなNTのパートナーに巡り会うための処世術を考えて、次の世代に渡すこと
10/23 17:39 画像編集ソフトがあれば、写真の加工やイラストの作成が簡単にできる。ソフトを使いこなすのはちょっとたいへんだが、ソフト自体は安価なものがあるので、そうそう特別なものではない。私は、それを仕事のために使うことがあるので(といっても、難しいことはやらない)、PTAの役員の仕事に使うのは特別なことではない。しかもこれはASの人たちの得意分野であるし、視覚障がいの人たちの手話に相当する意思伝達として、最近になってやっと獲得したものだ。すぐ横にいる人に伝達する時にも直接関わらなくて済む間接的なネットワークを構築することが私の理想。
なのに、この件に関して、学校のセンセイは見栄を張ったり意地を張ったりしてくる。では、もし私がどこかの大学教授であるとか、高校の先生をやっているとか、IT関連の有名企業に勤めていて、児童調査票にも明記しているとしたら、どうだろう。たぶん、学校のセンセイがこんなことで意地を張ってくることはないのではないだろうか? 今年大量に異動してきた先生は私が本を書いたことを知らないので、学校へ行くたびに本を掲げて見せびらかせばいいのか?
まあ、いいけど。義務教育在学中に必要なことはほとんど書いてしまったので。今の私の課題は、学校じゃない。学校がASの子どもたちにきちんと支援するのは、教育者として当たり前のことだからだ。私がこれから取り組むのは、社会の方。
10/22 22:32 小林幸子曰く、「何言われても、負けちゃだめよ〜。」
何言われても負けないために、頭の中で↑の言葉をぶつけました。
10/22 22:29 先生にしつも〜ん!(桃井かおり風に言うべし。)
どうしてそんなに上に立ちたがるの? あなた、そんなにご立派なニンゲンなわけ?

これを見て「ギクッ」とした先生は、たぶんそういう先生じゃない。私が面と向ってこう言ってやりたい先生は、きっと面と向って言ったら逆ギレするだろう。(去年までは違いました。今年からこうなってしまいました。)
10/22 08:07 家族機能が機能していない家に育ったのに家族を育てられているのは、家族機能が機能している家で“家族機能を機能させる方法”を学んだからだ。ただ、問題なのは、そこでは本当の原因への対応が何もされず、対症療法でしかなかったこと。そして、家族機能については学べたが、社会からは隔離されており、横並びの二者間関係ではなく縦の支配従属関係しかなかったことだ。
子どもの発達については教育学や発達心理学、種族間で文化が相違していることは文化人類学や哲学が役に立っている。そもそも、私の趣味は、人に関わらず・人からも干渉されない離れたところにいて、そこから見える人々を観察し行動を分析することだった。自分にとって快適な(自分の感覚特性に合った)物理的環境を保持しながら、ニンゲンの理解は知識で、コミュニケーションは文字媒体を通じて間接的に行なうこと。今、それが実現しつつある。
10/22 07:38 「こちらの感じ方や考えていることを、それを知りたい・理解したいと思っている人に教える」ことは、家族間の理解や療育にとっては重要だ。しかし、社会に対しては、「こちらの感じ方や考えていることを、それを知りたくもないし・理解したくもないと思っている人に、いかに伝え、振り返らせ、声を聞かせるか」を考えなければならない。
「私はそれをやっているので、どこにも属さず仲間もないので孤立している」ことは、百も承知だ!
10/20 16:58 最近また、行事の関係で人に会う機会が増えている。こちらが一生懸命考えていることが、どうもズレている。また、人に会う時には「こだわり」を出さないように抑え気味にしているつもりでも、やはり出てしまってひんしゅくを買ってしまう。それに、今は他にやっていることがあって、PTAや役員の仕事や他の父兄のことを考えたり記憶するために割り当てる脳がほとんどないので、話をするのに基本的なことから聞き返してしまったりもする。こんなことが一つあっただけで、生きていてはいけないのではないかと思いそうになる。←今では、そうなりかけた時点で気がつくようになった。
今では、こういうことで不安になった時には誰かに聞いたり話したりすればいいことも知っている。もっとも、つい最近まで、それを言う相手さえもいなかったのだが、今は、それが聞ける。話もできる。
でも、インターネットを通じて全国や全世界の情報はただちに入ってくるが、ローカルな情報は全く入ってこないというのは、やはり不便だ。ホームページやメールを利用した情報の配信ができるスタッフを自治体に配置して、地域や学校の情報がリアルタイムに発信されるシステムを作って欲しい。(もっとも、ちょっとPC用語を言っただけでひがまれるような田舎では、普及しないだろうけれど。もしかして、ケーブルテレビ?←どっちにしても、10年は無理だな。)
10/16 22:01 どうも、書いたものは誤解される。

人より不安と恐怖が大きいので、不安と恐怖を感じそうなものをなるべく避けようとすると、楽しいことだけ書くことになる。そうすると、大丈夫だと思われる。
ではその不安と恐怖を伝えようとすると、どれだけ不安で恐いかということは伝わらずに、見苦しいからやめろと言われる。
「教えて欲しくないものがある」ことは分かっているものだと思って“教えてもらいたいこと”だけを書くと、“教えて欲しいと思っている人”だと思われる。

あちらはどうやら、言葉にしないと通じないものがあることに気づいたらしい。しかし、こちらは一生懸命に言葉で訴えているのに、何だか全然伝わっていない。きっと、何が違うのか研究して、その「違い」を踏まえた上で相手に通じる言い方で言わないとダメなんだと思う。
しかしこちらは、「違い」に気づいたばかりなのだ。しかも、その「違い」に接触するたびに落ち込んでしまうので、なかなか先に進まない。
10/15 10:32 「メールでエクササイズ」なんてどうなんだろうと思っていたら、自分が選んだコースのメニューを書いたメールが来て、それをやったら返信するというものだった。実は、10年くらい前から筋力維持のための筋トレの必要性を感じていたのだが、近くにスポーツクラブはないし、あっても高いし、昔は本当のスポーツのものしかなかった。それに、そういうところには人がたくさんいるし、インストラクターがくっついてくるし、臭いもイヤだからご免だった。
私はちょうど、始まった時からずっと見ていたことになるが、このところのインターネットや携帯電話のサービスの進歩はめまぐるしい。スポーツクラブから送られてくるメールを受信するためにメールの受信制限を解除したら、途端に迷惑メールがどっさり来るようになったことに象徴されるように、悪いことも増えている(←そのために、毎日、国民生活センターと警視庁のホームページをチェックしている)が、良いことも増えている。でも、こういう機能を使いこなせる人は、知り合いにいない。
子どもたちの世代は、こういうことが当たり前のところから出発するので、良いところと悪いところをしっかり教育しないといけないと思った。しかし、学校のセンセイにはその力は期待できない。そして、精神的に未熟な子どもに教えることができずに、情報という面で先を越されてしまった親たちが右往左往している現状にも対処できていない。事件が起きてから慌てている。
10/13 16:59 経費と人の給料を払ったら何も残らないという悲惨な状況の中、学費と定期代を確保している。ついに、ブックオフの宅本便で不要になった児童書を売る手配をした。
そんな中でも、通信費は削らない。なにしろ、周りのニンゲンは誰も当てにならず身近なところに一人も味方がいないので、インターネットを通じて繋がっている人たちだけが生命線だから、イザという時のために通信手段だけは確保しておきたい。しかし、人とコミュニケーションをとる意思があって、その主な手段がメールで、話が合って余計な干渉をしない人がいさえすれば、会話の道具として普通に使えるのに!残念だ。
今は高いので買えないが、そのうち900iを買って(901シリーズが出て値段が下がるのを待っている)テレビ電話とかキャラ電とか、一度やってみたいと思う。でも、テレビ電話をしたい両親は携帯電話を持ってはいるものの、メールもできない骨董品だし、パソコンでメールを遣り取りしている人はいても携帯電話のアドレスを教え合うような仲ではない。結局、長男か次男が使いこなせるようになる時期を待つしかないらしい。(長男のともだちが900iを持っているので、その子とキャラ電が、一番早いかも。どっちにしても、まだ900iを持っていないので、できない。)
10/13 10:42 『13歳のハローワーク』は、訳あって24時間以内に発送のところで買わなかったのでしばらく来ない。先に頼んだ専門学校ガイドが今日来た。今現在やれること、これからナントカやれそうなこと、これから取っていく資格と、本人が行きたがっている地元の企業に就職できる可能性などを併せて検討する。(ガイドブックを見て、改めて現在の進路が正解だったと確信している。つまり、勉強ができないなりに社会に通用する道だったってこと。これは内容がどうだというだけでなく、きちんと社会通念上の必要事項をしっかりと備えているところだったから。まあ、学校見学に行った時点で一目瞭然だったけど。とはいえ、自転車操業の家が赤字で、経済的にはものすごくきつい。)
10/12 21:47 腫れ物に触るような接し方をされて自分の気持ちとやりたいことを我慢することなく育ってしまうこと、人の顔色をうかがって人の気持ちを損ねないことばかりを気にして育ってしまうこと、これは、発達障害の有無にかかわりなく、何もかもが人為的に作られるようになった時代が持っている両極端の問題なのかもしれない。
人が自分のために何かしてくれて当然だと思ってしまうのも、自分を殺して人に尽くしてしまうのも、どちらも正しいはずがない。世の中はどんなことにも人の手がかかっていること、誰もが無条件に自分のために動いてくれたり心配してくれるわけではないこと、人のために何ができるかというところで社会に生きていくこと。発達障害がある場合には特に、自分のこと、社会のこと、自分と社会との関係のことを意識して育てていかなければ。
10/12 10:45 ケータイサイトのゲームだと、時間制限がある。作ったモンスターを育てるだけだと、そんなにやることがない。パケットパックには、まだ十分に余裕がある。
そこで、メールでプログラムを送ってくる健康管理サイトに登録して、体力回復と筋力の維持に努めることにした。もっとも、パソコンの前に座っていると一日に何回かストレッチをやった方がいいと言うか、やらないともたないので、上記の目的を達成する以前の、肩こりや目の疲れを取るというところで終わってしまうかも。(うつ病と薬害から脱出し、適応不能な環境要因を排除することに成功した後は、次へ向って一歩前進。)
10/11 20:37 ↓の現象は、何も今始まったことではない。かつて、真の個人主義とは何かと言うことが全く分かっていないのにうわべだけの自由主義を輸入して、放任主義を生んでしまったのと同じ事がまた繰り返されようとしているのかもしれない。いつもそうやって、本質を抜かした形だけのいいとこ取りをする。そして、一人一人の子どもそっちのけで、右から左へとコロコロ変わる行政。まあいい、だからそういうものは相手にしない。私の仕事は、一人一人の子どもを見ること、そして社会に生きられる個を育てること。
ウチは今、二人ともトップダウンの時期に入っている。どんな姿勢で、どのように社会にかかわって生きていくかを話し合っていく。『13歳のハローワーク』を取り寄せたところ。←別に、この本を推薦するわけではない。なにしろ、まだ中身を全く見たことがないので…。(何が書いてあっても、別に村上龍について論じるわけではなく、子どもたちが何をやりたいかハッキリさせるための資料なので関係ないでしょう。)
10/10 15:51 どうも、日本の専門家の書いたものが外国の専門家が書いたものと根本的に違う。何が違うのか、ここしばらく距離を置いてゲームをしながら考えた。
どうやら、外国の専門家の書いたものは、“身体・神経・考え方・感じ方の違い”という大前提から出発して、「精神的な安定を確保しながら社会に生きていくためにはどうすればいいか?」という積み上げ思考なのに対して、国内の専門家はASDの行動理由がよく分かっておらず、普通の人から「○○ができない」といった引き算をした上で「○○を教えてあげなければならない」という発想をしているからなのではないか?と思えてきた。外国の専門家が編み出した療法の成果を輸入して日本仕様に書き替えたものは、世界レベルにならないわけだ。
10/06 14:30 かつて、性格の本であるかのように錯覚させるようなタイトルをつけた発達障害の本がバカ売れして、ワイドショーでもその言葉が踊ったことがあった。また、そこから展開して、精神的な何らかの病気が関係しているような状態の人たちがクローズアップされたこともあった。
しかしそれで、発達障害の人たちを追い込まないようにするにはどうすればいいか?/追い込まれて精神障害が疑われる状態になっている人たちにどう接すればいいか? という方向にはならなかった。始めから、単なる性格・規範意識・やる気の問題という解釈で、その結論で終わっただけだ。
つまり、この国は、発達障害的視点を事細かに書いた本がベストセラーになるような国とは根本的に違うということ。
10/06 13:48 血液型別の性格というものが本当にあって、それが本当に血液型に関係しているかどうかは別として、そこに描かれているものは、日本人のよくあるパターンであることに間違いない。どちらかというと、血液型を取っ払った一つ一つの項目を、一つの類型として組み合わせた方が使いやすいと思う。
子どもの場合は、性格として見てしまったら発達障害を見抜けなくなってしまう可能性が高くなってしまうが、大人の場合は、血液型や他の占いなどに描かれている人物類型などを利用して見て、話題もそっちに持っていった方が円滑になることが多い。特に、無自覚な成人の場合は、発達障害的な視点で見て話すことは厳禁。相手が理解できるレベルに合わせないと、角が立つだけ。
そういう人たちを見ると、ついつい何か言いたくなってしまうが、こちらが発達障害の視点しか持っていないと相手に警戒されたり嫌がらせを受けたりしてしまうので、他の人間類型パターンで見るというもう一つの視点を持っているのは一つの戦略として重要だ。(ただし、発達障害の視点で見て欲しいと思っている人や、そういう時期にある人に対して、“性格”という観点からモノを言うのも厳禁かも。)
10/06 09:37 べし・べからずに縛られて社会適応するだけでは、何の意味もない。そんなうわべだけの猿マネを続けると、精神的に破綻するから。
ここまで長い道のりだったが、今は、自分自身を護り、ASを否定しないで、なおかつ社会生活ができる方法を考えている。
10/06 08:25 日本の特殊事情。
  • 能力よりも、協調性を重視していること。
  • 失敗や非難を過剰に恐れていること。
  • 完璧な人間像と現実の自己とのギャップを常に意識したマイナス思考をしていること。
これと正反対の考え方を持って成功した人たちがどんなに脚光を浴びていても、社会の底辺に於いては上記の国民性に何ら変わりはない。
就労するに当たって障害となるのは、能力面とソーシャルスキル。しかし、就労後に障害になるのは、協調性第一主義・恥を恐れ自尊心が傷つきやすい同僚や顧客との人間関係。外国で出された就労の方が役に立たないのは、こういう理由。
10/03 09:29 長男の次の目標の目安は、これ(社会に通用する能力を持った人材を育てるためのYES-プログラム)かも。
ただでさえ、就職しない若者・就労できない若年が増えている。就職基礎能力(=コミュニケーション能力、職業人意識、基礎学力、ビジネスマナー、資格取得)の中で、できるところはできる限りのことをせねば。今行っている学校で教えてもらえることもあれば、教えてくれないこともある。(絶対的に不足していてどうしようもない項目もあるが…。)
しかし、これでも会社に就職して仕事をするための能力や、上司や同僚とうまくやっていくためのスキルでしかない。これほど余計に個人の感情を表出し、これほど他者の感情を読み取って感情を逆撫でしないことを要求されている時代は未だかつてないのだから、顧客との関係や同僚とのプライベートな関係まで保証されるものではない。
10/02 17:57 みんなが、いかにしてこの社会で生きていくか必死になって考えているのに、いかにしてこの社会で生活し、なおかつ、いかに合法的にこの社会の中だけで生きないようにして精神的安定をはかるかを一生懸命訴えていたって、誰も聞いてくれないわけだ。
まあ、いいけど。誰も聞いてくれなくなって。自分を護るための布陣は着々と敷いている。
09/30 21:08 社会の中に位置づけられるということは、いやおうなしに社会的人格を持たされるということ。NTの方々は、それが自分とイコールであることを自然に納得し、(就労したり自治会の役員をやるといった大きなことではなく、家庭の中や個人との関係レベルから)社会的に位置づけられることで精神的な安定を得たりもする。
私は、フォーマルレベル・インフォーマルレベルを問わずどんな役割を回されて、いちおう仕事だけは普通の振りしてやったとしても、必ずそこからすり抜ける。そこだけで生きるということは、抜け殻になれということ。そこにはもう、絶対に戻らない。
09/30 09:56 ↓のことが分かるには、比較動物学とか現代文化人類学の講義が必要だ。動物学と言っても、○○鳥や○○魚の社会的行動だとか、ホモ・サピエスンは手が使えるようになったからどうだというのではなく、人類の社会的行動を明らかにするための比較動物社会学。文化人類学といっても、私が習ったような○○部族の認知世界がどうだというのではなく、日本社会の文化を他民族と比較するもの。これは、大学よりもテレビ局の方が得意かもしれない。
09/30 08:25 最近、子どもたちがドラマをよく見るようになった。ちなみに、私はドラマを見ると一分も経たない内に怒って消してしまう。
そういうドラマをちらちら見て、ニンゲン社会ってのは、しょせん組織なんだって思った。会社が舞台になっているドラマだと、会社という組織の中でいかに個人が無力でストレスが多いかが描かれている。
学校だって、しょせんは組織だ。学校が舞台になっているドラマでは、たいてい個人(一教員)が勝つが、現実の学校ではまずあり得ない。ウチの子どもたちの通っている学校は、今まで、たまたま素晴らしい個人(一教員)がいて、その個人が組織の中である程度の発言権を持っていたから良かっただけで、上が変わればガラッと変わってしまうのに時間はかからない。
それから、ありのままを見せるのではなく、少しでも良く見せて良い印象を与えようとするのは、CM撮影とか経済活動のためにだけ必要なのではなく、個人が個人に対して接するという日常的なレベルから抱いている心理で、個人存在にとってはと同じものだと知って、唖然とした。こういうことは、誰でも当たり前に持っているものだとNTの方々は勝手に思っている。だから、始めからあるものだと決めつけて人に説教をする。あって当たり前だと思っているから、前置きなし。これは、暗黙の了解以前のことだ。だから、ASの人に暗黙の了解を言葉にして教えさえすれば社会適応が良くなると思うのも、大間違い。
09/30 08:03 一番最初に考えてもらわなければならないのは、かかわり方の違い。そこを間違うと、一切のかかわりがなくなってしまう。次は、単に社会状況が読み取れず、社会的に適切な振る舞いができないから不安と恐怖が強く孤立してしまうのではなく、もともと孤立していて不安と恐怖が強いことの方が先にあり、だからこそ安心してかかわれる人間関係を意識して築かなければならないということ。NLDは、症状の一つに過ぎない。
09/29 14:33 「ソーシャルスキルが欠如して人とうまくかかわれないでいるし、そのことで悩んでいるのだから、あれこれ親切に教えてあげればうまくいくし、悩みもなくなる」と思うのは、一般の考え方。世の中に入りたいのに入れずに悩んでいるだけの普通の人なら、それでいい。
しかし、生来の違いのためにうまく人とかかわれないだけでなく、かかわり方そのものも違っている人は、ただ世の中に入れるようにすればシアワセになれるというものではない。世の中とどの程度かかわり、どんなかかわり方をするのがお互いにとってベストか考えずに、ただただ世の中に放り込まれたのではたまらない。
ある程度学習可能で、表面的にはなんとかなったように見えても、基本的にできないことを無理して仕方なくやっている状態が、そんなに長く続くはずはないから。
09/29 10:38 「ごめんなさいを言いなさい」と怒鳴ったって何の教育にもならないことは、教育の世界ではだんだん知られてきているようだ。しかし、司法の世界ではまだこんな理論がまかり通っている。世間一般も、たいして変わらない。
09/29 09:12 こちらが心身共に自分を護る方法を獲得した途端に、ニンゲンたちからの抵抗が大きくなった理由について考えてみた。
どうやら、ソーシャルスキルというのは、このニンゲン社会の一員として踏みとどまり、生活するための金を稼げる人になるまでの技能でしかないのではないかと思った。それはASDでない人たちには生まれつき備わってはいるけれど、放っておいたのではうまく使えないので、その教育をするために園や学校というものがあるのではないか。そして、ASDでない人たちにとっては、それこそが正にとも言えるほど重要なもので、ついていくのに四苦八苦していてもそこから抜けたいとは決して思わないものらしい。{そこから抜ける→社会的な死=個体にとっても死}なのかも。特に日本人は、社会的にうまくできないことを過剰に恐れ、そのために引きこもってしまうほどだ。
なるほど、ASDというのは、“生まれつきソーシャルな存在ではない”のだといくら主張しても理解されず、ソーシャルスキルがあるのにうまく使えないことに苦悩している自分たちと同レベルの問題にすり替えられ、環境やしつけに問題があってソーシャルスキルを育て損ねた人々が犯罪を犯す度に一緒にされるのは、そういうわけだ。実際、普通の意味でしつけや教育が十分でなかったり、あいさつできない子どもが一頃とても多くなり、今になって必死に「あいさつ運動」をやっている。これが現在の学校の有様。(「できない理由も、対応方法も違うんですけど…。」とこちらが主張しても、普通の子どもを社会的な子どもに戻すのに忙しくて時間がないし、理解する頭もないようだ。)
しかし、ソーシャルスキルは基本でしかない。ソーシャルスキルがあったって、フレンドリーにはならないのだ。自分の印象を少しでも良くしてフレンドリーな関係をたくさんの人たちと結び、維持し、イザという時に力になってもらうためには、その上にフレンドリースキルが必要なのだ。みんなが夢中になって見ているテレビドラマのテーマは、ほとんどこれ。その喜怒哀楽を国民的に共有できるとヒットする。そのフレンドリースキルがない人に対しては、ほとんどことわざの通り。「出る釘は打たれる」「能ある鷹は爪を隠す」「郷に入れば郷に従う」「女は愛嬌・男は度胸」とか。でも、古来より、クールなキャラというのも普通に認められていて、世の中には、古畑任三郎やGacktや野口さん(fromちびまる子)みたいな人がいたっていいのだ。要するに、私はつき合わない。
09/28 16:42 パソコンが使えることは、世の中で生きていくための武器にはならないらしい。もし♂だったら、一目置かれるのだろうけれど。しょせんここは、東洋の僻地。イギリスやアメリカで通用することをやっても、逆にいじめられる。この社会で生きていこうと思ったら、バロン=コーエン以上に男心と女心の研究家にならなければならないってことらしい。まあ、そんなことを教えられたら、ますます嫌になってしまうけれど。
カエルちゃんたちが活躍して、世の中のどこかに理解者が増えていったとしても、私の周りからは理解者がどんどん減っていく。
09/28 13:43 パソコンも、インターネットからの情報も、私にとっては一人前になるための手段なのだ。最近になって、やっと獲得したものだ。しかし、生まれた時から既に一人前のニンゲンで、教師という社会的地位まで確保しているというのに、そのパソコンの、しかも(パソコンで仕事をするためには初歩の初歩以下の)たいしたことのない知識を巡って、一生懸命に張り合ってくる。これが学校のセンセイ!!!? そんなことでムキになること自体がバカバカしいことなのだが、これが一人前のホモ・サピエンス♂の“見栄”というものなのかと思ったら、憐れでならない。NTの方々は、ASの人たちにNTのことを勉強しなさいと言うが、NTって、研究する価値のある生き物なのだろうかと思う。校長が代わり、先生も入れ替わり、学校の雰囲気がガラリと変わってしまったこんな学校には行きたくない。
そういえば、先日他の用事で近所の幼稚園に行ったので、自閉症関係の本を置いていった。「いただきました」のあいさつもない。もしかしたら、受け取った保母さんが園長先生に渡さずに捨ててしまったのかもしれない。今、教育関係者の興味は、学力低下をどうするか?ということ。特別支援教育が始まると言ったって、ごく一部の特殊な子どものことだとしか思っていない。しかも、新たな“教え甲斐”の一つでしかない。しかし失望することはない。始めから、期待していないから。
09/26 21:34 まあ、おぎゃあと生まれた時から当たり前のように人とかかわり、小学校は小学校なり・中学では中学なり・高校では高校なりのそれぞれの社会で生きてきて、まともな家族を持っている人たちの集まる社会的行事=運動会なんかに、上記のものを何一つとして持っていない異生物が行って一日いたのだから、それだけで表彰ものだ。誰も誉めてくれないので、自分で自分を誉める。
明日には、デュランも誕生する。これも、よくやった!と自分を誉めてやりたい。ただ、昨日、しんりゅうがテント村から“じげんのかぎ”をもらってきたのだが、ケータイ版には鍵屋さんはいないし解説書もないので、どうしたらいいかわからない。鍵のかかっている扉が一つあるので行ってみたが、開かなかった。とりあえず、預け屋に預けた。
09/25 17:30 小学校の運動会に行った。そこにいるだけで身体的に辛いし、何一つ話の通じないNTの社会的行事に行くというだけでかなりの我慢をしているのだから、我慢が足りないなどとは言わないで頂きたい。そこで交わされているNTの感覚・感情・価値観に裏打ちされた会話は、シャットアウト。スモールトークはするが、できもしないピックトークは決してしようなどとは思わない。こんなところで生きようとして、無駄なエネルギーは使わないことだ。いろいろ思ったが、すべて切り捨て。波田陽区流のネタにしてもいいが、思い出すほどのことはない。
09/21 20:51 子育てを巡る日本的東洋的思想の最たるものは、“子どもに愛情を注げば注ぐほど良い”とか“子どもに愛情を注ぐ=子どものために時間をかけて食べ物や縫い物を作ってあげたり、たくさん習い事をさせたり送り迎えを熱心にする”というもののようだが、最近ではこれに、“かけた愛情は必ず還ってくる”という義務をつけたがる人が増えているように思う。そして、必死に親向けの演技をして“いい子にしていた子ども”が疲れ果ててしまって、問題を起こすことも多くなっているように感じる。
親が子どもに注いでいると思っているもの、愛情だと思っているものが、子どもが本当に求めているものなのかどうか?、それが本当の愛情なのかどうか?と考えないなんて、不思議だ。このことは、一般向けの教育評論家でさえ、つい最近やっと言うようになってきた。
また、次男の通っている学校では、「自分らしさに自信を持つ」とか「自分の良いところを見つける」という方向で教育がされているが、親の方は「自分の悪いところを正す」という教育を受けてきている。このあたりのギャップも、いっこうに調整されていない。文科省は、しょっちゅう一方的に方針をくるくる変えているけれど、これもほとんど教える側の自己満足で終わっているような気がする。
09/20 21:54 この国の場合、まず基本的に、問題行動が起きて周りが困らない限り何とかしようと思わない。本人がいくら訴えたって無駄だ。しかし、明らかに問題行動が生じた後なのにそれをSOSだと感知することができず、ますます本人を追い込むようなことを平気ですることがあまりにも多い。それで本人が追い込まれて、窮鼠猫をかむような行動を起こしたが最後、国民的な非難の嵐が起きる。追い込んだ側の責任を問う声は上がらない。街頭インタビューで、感情に流されない正論を述べた人がいたって、絶対に放送されることはない。
かといって、問題行動を起こさなかったら完全に泣き寝入りだ。発達障害的なモノの見方や考え方は、NTが生きる拠り所にしている価値観に反するので(それどころか、積極的に、こういう人にはなりたくないと思い、そうなってはいけないと子どもに教えるものでもあるので)、味方にはなってくれない。発達障害的なモノの見方や考え方を述べて賞賛されるのは、医者とか先生とか大学教授などの世間的な立場を既に獲得した人が、職業として指導に当たる場にいる時だけだ。そういう話を聞きたいと思って集まってくる場所でそういう人たちの話を聞いていると、世の中は変わったという錯覚に陥ってしまう。が、世の中は実際、何も変わっていない。
オリンピックに出た選手の中に、「日本の柔道選手権で優勝しても親には全く価値を認めてもらえなかったが、オリンピックに出たらはじめて誉められた。」と言っていた人がいた。この業界でどんな業績を上げたって、しょせんはこの業界の価値を認めていない人たちにとっては全くの無。しかも、この業界には、オリンピックに当たるような場がないのだ。つまり、この業界で生きていこうと思ったら、世間的に位置づけのある肩書を持たなければダメということ。

せっかく、お笑い番組を観てゲラゲラ笑えるほどに回復したというのに、この無理解のためにまた元に戻ってしまった。とばっちりを喰うのは、いつも次男だ。
09/19 16:58 NTはNTのシアワセを目指せばいい。しかし、ほとんどのNTはASをが理解しようとは全く思っていない。ASのモノの考え方は、NTが人生の拠り所にしているものにことごとく反するモノだからだ。
そんなNTの作る社会の中に、寄生する形でASは生きている。その外には出られないが、中にまで入る必要はない。正に、Build Your Own Life!
09/19 14:36 別に、先週テレビでやったからというわけではないが、ユビキノン(別名でコエンザイムQ10)が、慢性疲労性症候群の症状にも効いている。元は医薬品なので、医療用医薬品の添付文書情報にも載っている。副作用として胃腸障害があり、量の調整も必要だが、最近になって食品としての使用が認められた。現在、他の漢方薬やビタミン剤、アミノ酸、生薬などと共に量の調整をしているところ。お陰で、今年は季節の変わり目に寝込まずに過ごせている。
とにかく、精神的に負担になることはしない(正当な理由で逃げて良い)、全く違うことを考えて違う動機で生きているニンゲンたちのことは真剣に考えない。ましてや、この地域社会でうまくやっていこうなどとは毛頭思っていない(ハッキリ言って、ここにはいるがここで生きているとは思っていない)のだから、その代償として社会的にうまくやっている人たちから無視されたり不当な扱いを受けたりしても相手にしない。自分がするべき仕事だけを、黙々とやる。

ちなみに、ゲームの方は、公式データブックのデータを元に着々と配合計画を進めている。携帯サイトだけで、しんりゅうとメタルスライムの育成に成功。現在、デュランの育成中。もう、NTの人生観には惑わされない。
09/01 07:21 リサイクル活動では、バテないように前後睡眠をとり、ビタミン剤とグロンサンの錠剤をしっかり飲んで、何とか疲れが残らないようにガード。あと一週間はこの体制を続ける。
だがやはり、地球人には余計なことを言って、ひんしゅくをかってしまった。これはもう、ホモサピエンスたちとのギャップではない。ニンゲンの♂♀でもなくて、ニンゲンの男・女の中で暮らさなければならないことが最大の難関。ニンゲンとしてのソーシャルスキルを習得したってニンゲン社会ではうまくいかない。そこには、ただのニンゲンではなくて、社会人であるニンゲンの男・社会人であるニンゲンの女しかいないからだ。バロン=コーエンが男と女の研究をした理由が良く分かる。
そんなものについていくつもりは、毛頭ない。ニンゲン界で起きた出来事を思い出さないために、引き続きの世界にいて、モンスターの育成・配合と図鑑集めに励む。フラッシュバックが起きたら、快刺激をフラッシュバックさせてぶつけて止められるほど甘くはないから。フラッシュバックは起こさないように、そして起きてもそちらに注意を集中させないように、何か他のことにほどほどに夢中になっているようにする。これが精神衛生のために必要。

というわけで、『日記』は極力書かない。嫌なことをわざわざ思い出すことはないから。