SKI

私のスキー暦


写真
:97年カナダ ウィスラーマウンテンにて

1965年、秋田は男鹿、なまはげで有名な所に生まれる。
 この頃からスキー板を履かされ、と言う事はありません。
5才ぐらいまで、親がどうしたかは、分かりません。おそらく冬場は買い物ついでに、ソリで引かれていた事でしょう。遊びをあまりする親ではなかったので、小学校ぐらいまで何も勧めはしなかったなずです。(なんでさせなかったかについては、ちょいと残念に思っています。まあ、貧しかったですからね。

小学校、低学年2年生?
 この頃から、200円ぐらいで買える「プラスチック・ミニスキー」を遊びとして始めます。雪国出身で知っている人は知ってますよね。冬は滑る事しか遊びがなかったんですね。裏山の雑木林の中に入り、朝から晩まで、ホッペを真っ赤にしながら時のたつのも忘れて遊んでいました。
コースを自作しあったり、木の切株をジャンプ台にしたりして、ジャンプ距離を競い合っていました。この風景をどこかのスカウトが見ていれば、!今頃は、と言う事もないか。!?
 このミニスキーは、プラスチック製なので無理な事をするとすぐ割れてしまいます。小遣いもそんな多くないので、自作する事に。なにで作るんだって。! フッフッフ
竹を切って作ったり、いわゆる竹スキーですね。 では、こんなのはどうでしょう、
塩ビパイプスキー、なんだって、ですか。?
水道管などで、ネズミ色のパイプを見た事ありませんか?、あれです。あれを数本並べて、先端を火で焙り曲げればOK!.これが、壊れないんです。  

こんな感じでスキーを楽しんでいました。

 

小学校、3、4年生?
 この頃だったと思います。ほんとのスキーを買ってくれと親にせがんだのは。
友達が持ち始めるんですね。
やっとの事で買ってもらったのが、スキー靴を使うものではなく、長靴でもできるビンディング?付きのもの。かかとが上がるやつですね。納得はいかないものの、嬉しかった事を覚えています。それからはまた休む事もなく、遊び滑り続けました。板は全部木製だったので、いたみは早かったです。とても。
友達はそれなりに、樹脂系統の板を持っていたので、羨ましかったなあ〜。

 

小学校、5、6年生?
 やはりこの頃になると、かかとの上がらないものが欲しくなります。
しかし、どうやっても買ってもらえないので、かかとが上がらないように自作する事を決意。!こんなのばっかり。!釘と針金で、かかとが固定するように工夫。くり返しできるよう、脱着可能?!とする事に成功。何か、凄い物ができていました、が、その頃は自分に酔いしれていたように記憶しています。

これによって、少しはましにターンが描けるようになり、顔がにやけて、いました。!  

これまで、ゲレンデでスキーをした事はなく、裏山各地を転戦し、遊びふけっていました。氷りあり、ジャンプあり、ふかふかスノーあり、木に突っ込む、池に突っ込むありで、今思えば楽しい思いでです。

 その他の滑る遊びとしては、肥料の厚手のビニール袋がありますよね、あれに藁を詰めてソリとして遊ぶのです。方向性はないので、クルクル回りながら滑るわけです。しかも雑木林の中をです。木にぶつかりそな時は、足で蹴って方向を変えたり、回避しながら滑りおりる訳で、スリル満点でした。! 今に例えれば、ウオータースライダーでおりるような感じと似ています。

 

中学校
 中学校は1年ぐらいまでは滑っていたのですが、なぜだかは忘れましたがそれ以降止めました。代わりに、雪道をチャリンコでスライドさせながら、学校に通 っていました。それでもジャンプさせたり、スピンさせたり、もう無茶苦茶でしたね。!自転車がいくらあっても足りないくらい、、、、!!

 

高校
 全くスキーの”ス”の字もありませんでした。
あまりスキーをするヤツもいませんでしたから。ただスキー場に行った友達の話しを聞いたりするとチョットは興味が湧きました。でも結局、スキーはしませんでした。車、バイクに興味がありましたし、伝書鳩のレースもしていたから、そのせいかな。?

就職、上京
 19才、上京して初めての会社では、遊ぶ隙などなく仕事を”させられて!”いました。
会社を変えてから(今現在の会社は3社めです)、モータスポーツに目覚め没頭することに。当然スキーなどできませんでした。1990年、24才までこのような状態になります。でもスキーしたいな!、という気持ちはありました。

 

1991年、25才
 会社のイベントスキーツアーで、久しぶりにスキーをすることに。
ここで、生まれて始めてゲレンデスキー、スキー場でスキーをすることに。よく有る儀式で、先輩達にテッペンまで連れていかれ、滑り降ろされることに。でも、そんなに怯むことなく、何とかおりてきました。なんだ、滑れるもんだ。!が感想。! 先輩達も、面 白くなかったようです。

でも、個人的には周りがあまりにも綺麗なフォームで滑っている事に愕然となります。
どうみても、自分のフォームは綺麗じゃないんですね。子供の頃からの経験で、ちょっとやそっとでは、転びはしないのですがね。

でも楽しめれば良い!、と言うことで納得し以降スキーをすることに。

 またこの年、ある用事でスイスはグリンデルワルトにいく事に、山は好きでスイスの山並みは写 真で見ていたのですが、インターラーケン手前の湖から見えてきた山々に感動し、グリンデルワルトでカウンターパンチをもらい、スキー絶対やるぞ!、と単純な感激的な状況の中決意したのでした。
しかし、何で今の今迄スキーをしなかったんだろうかいな?、と思いましたね〜。こんな素晴らしい場所で、素晴らしい体験ができるのが”落ちているのに”ってね〜。でも、これも”機会””タイミング”なんでしょう。また、伝えてくれる人がいなかったでしょうし、伝えてもらっても”感知するアンテナ”を持ち合わせていなかったかもしれません。

  何事も、知った時が ”最後!”と言いませんか、知った時が始まりですからね、一生賢明遊べば良いでしょう。!

 

30才頃
 30才ぐらいまで、シーズン2、3回ぐらい楽しむスキーを続けるが、この頃から何か物足りなくなってくる。いろんなスキー場にいったり、いろんな人と行ったりして、それなりに楽しんでいたのですかが、こんな事でいいのかな?、何を目的に滑っているのかな?、と思い始める。

 「俺の覚えているスキーはこんなじゃない」と思ったのですね、高速道路での譲り合いなし、の割り込みを、リフト乗り場でもやってるし、出勤時の電車の混雑を、スキー場でもやっている。
「これじゃ〜ね〜よな〜」スキーは、山の中で雪の感覚を掴みながら、雪の質を戦いながら、しかし「えっへっへ〜」とニコニコしながら遊べるもんじゃなかったっけ〜、そう子供の頃の楽しくも、厳しい自然を満喫するもんじゃなかったけね〜。
そんな、”記憶”と”現実”に気がついた頃でもあった訳ですかね。

 

31才
 スキーに行く回数が増えるが、何か釈然としない。
という思いのなかで、1996年3月、基礎スキー、バッチテストを受ける。しかも、いきなり2級。この歳で一気にどうかと思ったが、ダメで元々、モータスポーツレースで培われた根性で、えいやっと。書店で参考書を買い漁り、自己流でトライするが、あっさり不合格。!
甘くはなかったです。

ちなみに、スキー学校は、石打丸山スキー場です。
後で聞いたのですが、湯沢周辺でも厳しい部類の学校だとか。いやはや、なんとも。

 しかし、充実感はありましたね。!
”技術”ってもんも、モータスポーツをやって必要だね、と思ってスポーツしてましたし、今自分のスキー環境で、”ある側面 で目標をもって楽しめる”という部分で、基礎スキーはヨカッタ訳です。ある斜面 での滑走のみですが、色んなターンを”思いっきり”滑り、表現できる訳ですからね。楽しかったですよ。
且つ、私があるモータスポーツで活躍している、なんて事は誰も知らない訳ですからね。そうゆう場に身を置く、ということもするべきではないか?、と思いましたからね。良い経験でした。また、何事もチャレンジです、という精神の元ね。

 

1997、1998年シーズン 32才
 いつもお世話になっている宿のおばさんと話し(もうこの時点で7年程のおつき合いになります)、講習会から受けなきゃ!、という事でシーズンイン、イメージを盛り上げる意味でも、カナダはウイスラーに11月に遊びに行き、頑張るぞ!  と気合いをいれます。
そのせいか?、シーズン1っ発目の検定でみごと?2級合格!!。
あれっ!?てな感じもあったんですが、あまり納得しないまま、次のステップ1級へ。
しかし、”イメージ”ってもんの気持的な事もあったんでしょう。 おお、やっぱりチャレンジしてみるもんだな、そう思いました。また、いつかは子供にも教えてやりたいな、そんなだったら自分が学習してなくちゃね!、そんな想いで、基礎スキーを続ける事に。

1級受験、規定講習時間を滑ったりで1回目の講習後の受験は止めました。
明らかにダメだったからです。

そして98シーズン最後の検定日、雪不足の中、地面 が見える中受けました。
講習日はそれなりだったのですが、検定日は雪が緩いため、スノーセメントで固める事に。! これが、運のつき。

こんなに堅くなるの。!!!!!!!!!!というぐらいに固まり、内倒姿勢が強くなり、3種目で転倒。あ〜りゃりゃ、で終わってしまいました。
とんとんと行けたら良かったんですが、そうはうまくいきませんね。!

 

1998年シーズン 33才
現段階で、SAJ2級保持。
今シーズンは必ず1級取得。! そのため、スキー板も、おNEW!
ロシニョールRNS Pro191 を購入、7万円しました。

そして今シーズンは、草レースにも出てみます。
基礎スキー、競技スキーの趣の違いはあるでしょうが、楽しむという点で参加します。今シーズンはいきまっせ〜!っと思った年でもありました。

 

1999年シーズン 33才
この頃、何故かヨーロッパアルプス、オートルートの情報収集も始める。
某番組でみた、オートルート体験レポートを見て、「ありゃ〜、凄いもんがあるな〜」。以前グリンゲルワルトに行った、裏の山の方ではこんなもんもあるのか〜、と思って、自分の子供の頃の”観たい”ものがあるかもしれんな〜と、思ったのでね。
しかしその場に立つ為には、”山”に入る知識なり経験が必要な訳ですね。
そうゆう場所に対して私には何もなかったので、さてどうしたものか??、と思い悩んだ訳です。基礎スキーは、そのある練習、スキーを操作する考えを養う、と言う意識の元継続したのですが、”ヨーロッパアルプス””山”の事に関しては、何も情報が入らず、、、、、。

そこに私にとって”救世主!”、クラブ・ドウ・バカンス・モンターニュさんが現れ、晴れてヨーロッパアルプスデビュー。
いやはや大変良い経験となりました。何故か冷静にみれたツェッルマット、マッターホルンでした。感動というより、やっと子供の頃からの延長で、”究極”の場所に来れたんだな〜、そんな想いでいました。
この時、即オートルートに入れる訳ではありませんでしたが、初心者編、みたいなツアーとしてもらって、何を感じるべきか、経験すべきかを学んだ様な気がしてます。
ここから、新たなスキー(スポーツ)を”自分に入れていけるか?”、そこからまた違う自分を造れるか、そんな始まりの年(歳)になったきがしてます。

 

2000年シーズン 34才〜
未だ1級検定受からず。。。。。。
スキー用具も、いわゆるカービングタイプにかえたのでした。しかし。。。。これが分らない。
無理もないです、他のスポーツで技術ってものは、という要素を知っている以上、スキースポーツのカービング技術を、いくら運動神経いいからって、おいそれとできるもんではないな!、という事を。
しかし、持ち前の諦めの悪さ、と、負けず嫌い、と探究心抱負な性格 からして、のめり込んでいくのでした。

 

2001〜2003年シーズン 35〜37才
諦めの悪さは、まだまだ続きます。
でも、01年はサイドカー世界選手権に出場する為、スキーハイシーズンは海外遠征準備に追われ、スキーどころの話しでありませんでした。ケガしてもいけないし、という事で、全く滑れない期間となりました。

ですが、03年にはスキーも楽しめる時間がちょっとでき、技術検定以外の楽しさも、って事で、青森は八甲田山へバックカントリースキーに出かけます。これは、このサイトでもご紹介しています。
きかっけは、 クラブ・ドウ・バカンス・モンターニュさんが国内の企画って事で、そこに参加でしたが、楽しいスキーとなった訳でした。なんていっても、山でスキーができる!。
当たり前の事の様ですが、いわゆるゲレンデでない、山林をかき分けながら、景色をみながら、そうなんです、子供も頃の裏山で遊んでいた頃のイメージが蘇ってきました!。
出身は秋田で隣の県だったのですがね。今や、バックカントリーをスポーツとして楽しむ、冒険するスキーヤーも一般 的になってきましたが、やはり自然を感じるスキー!、そんなスキー感を抱いた経験でもありました。

 

2004年〜2005シーズン 〜39才
30歳台にして、1級検定、何とかして通 りたいなあ。。。。。。
そんな39歳、点数も安定してきたのか?、天候にも恵まれた2月、シーズンの滑走量 もそんなに多くはなかったが、1級を取得、それも、全種目合格点以上。
この時、家族と共に気軽な気持でスキーにきていた。子供も3年生、おぶって石打を滑っていた頃もあった。。。感慨深い。。。。とまで感傷にひたる事はないが、家族と共にイイ日いいスキーとなった。

そして、1級取得と共に、石打スキーで知合いがドンと増えた年にもなった。
いやいや、実に愉快な仲間。同世代に近いというか、精神年齢がどうにかしてるか、と言った方がいいのかよく分らないが、笑えるスキーができてきたってのも、この年、歳からかな。

月山にも行った。
これも、八甲田じゃないけど、隣の県。スプリングキャンプであり、練習練習であったが、これが愉快愉快。スキーはどうであっても、こう楽しくなくちゃって感じで、この年齢からでも楽しめる事をこのスポーツで覗けた時期となった。

2006年シーズン〜 40才
めでたく40歳台突入、未知の世界へ。
スキーも1級を取得、でも1級取得したと言ってもこの基礎スキースポーツじゃ通 過点、自分で考え滑りを技術を考えられる様になった、という仲間入りができた段階であろう。
30歳にして基礎スキーへ、
じゃあ、40歳にして指導員資格へ、
って事で、更に悪あがきをし始める年となった。
無論、楽しくスキーを!ってのは変わってはいない、子供を通じてお知り合いになった?、お知り合いにした?、まあどっちでもいいが、ご近所さん知合いをスキー場へって事で、40人のツアーもやったり。
やりますよ〜って、自分だけ楽しんでいるだけかもしれないが、新たなスキーを個人レベルで企画していけるに至りました。
楽しくなりそな、40台?

でも、今シーズンの準指導員資格試験は、回りの有り難い評価にも関わらず、落ちちゃいました。
なにか、むずいゼって感じ。

 

 
 


Copyright(C) 1998 - 2006 All Rights Reserved. Masahiro Ozeki , My home contact oozeki@mth.biglobe.ne.jp