FC.YATAGARASU, Club POLICY

このクラブの活動指針

 クラブ・キャプテンとして活動に携わる大関として、常日頃私自身がスポーツ・レジャーとして感ずる事も踏まえ、このクラブが存在する意義、スポーツ活動する本クラブとしての指針を記す。

まず、スポーツマン精神を文献より引用すれば、

「このことは哲学的要素を伴うもので一概に規定しがたいが、肉体的、 精神的な闘争を伴うゲームやスポーツにおいて求められる技能や知識、 人間的な精神的資質、礼儀作法などの態度等の行動規範を意味し、そ の時代やその帰属する社会の規範、倫理、習慣を反映するものであり、 その意味においても一般 化・普及化された市民的な道徳と倫理を象徴 するものであるといえる。」

とされる。

 地域の中で行える活動においては、それがスポーツなのか、レジャーであるのか、に大きく二極化される側面 があり、参加意志・スタンスに影響を与えるものと考える。これが子供主体によるものか、大人主体か、或いは経験者による集まりか、未経験者による集まりか、によってその活動の形態は異なるものと考えられる部分もある。
または、目的を達成する活動であったり、汗をかく事の充実さ、或いは親子・兄弟で楽しむコミュニケーションを図る目的であったりもすると考える。これらは、スポーツであってもレジャーであっても”楽しむ”という言葉を引用すれば、基本は同じであると思われるが、その活動組織が何を目的であるか、時間的、期間的な要素でその内容が変わっていくものであると考える。

 では、スポーツを、競技者として精神とその解釈を文献より引用すれば、

1,競技者は、スポーツが個人の尊厳の上に立脚していることを知る。
2,競技者の最上の報酬は、たゆまぬ努力から生まれる喜びと充実し ている自己の存在である。
3,競技者は、ルールとその精神に従い、スポーツに忠誠を誓う。
4,競技者は、常に自制を心がけ、自己への尊厳と他者への尊厳を保 つ
5,競技者は、スポーツ美の創造者であり、スポーツ文化の継承者・ 変革者である。
6,競技者は、スポーツが「人を生かし、国を活かし、世界に貢献す る」ことを知る。

とされる。

 詳細説明は割愛するが、スポーツを競技者として向き合った場合、上記精神は必然的に培う事になるのだと感ずる。また、その精神を感じ自身の意識に埋め込まれたものならば、高い目標を設定し達成に近づく事を自身でできる事であろう。いわゆる、アマチュアでも高いレベルのアスリート、プロのスポーツ選手であれば、理解する事は容易であろうし、精神をベースに向上する事に弛まぬ 努力を費やし、それを苦だけでなく達成に近づく”楽しさ”をする事ができるであろう。

 私自身の感じる事であるが、高いレベルの選手だけではスポーツ組織は成り立たない。底辺となる支えがあって組織は機能し、その目標もできてくる。それは、地域レベルで活動するレジャー的スポーツが支えるものであると考え、それらがなければその国のスポーツは活性化される事は期待できない事とも受け取れる。そうゆう意味で、地域は寛大であって欲しいし寛容であって欲しいと考える。それらは、次世代を担う子供に対して、それらの機会を与える大人(親)との繋がりを持つ事でもあると考える。
そして場所という環境の確保である。都会では、土地利用の効率からして、レジャーであってもスポーツであっても、十分な環境の確保が困難である。施設の有料利用も有効であるが、その継続性が保てる事が必要である。そして、それに携わる多くの人間の意識が前向きに結びつき、建設的である事が望まれる。

 意識が閉鎖的であっては有効な活動には繋がりません。ルールは必要ですが、建設的な指針 であって欲しい。 クラブの中では、自分としては務めて子供との時間枠を取ろうとしてますが、中々 理想通りにはいかない側面もあります。子供は気紛れでもあるので、時間の両立はそもそ も難しい訳ですが。大人は大人で目的もありますし、時間の使い方が異なります。
真に何かをやりたい子供、というのも継続的にさせる事はスポーツ的には難 しいものと思いますが。強制する様では効果が薄れる場合もあるかと思います。 少年期でも、低学、高学年ありますから、これが一様に合うはずもないですね。
一方、レジャーであれば目標の設定はなくとも、時間の共有で楽しみあえる事が可能と思います。ですが、高い目標を混在にして教養・強制するには無理がるのもレジャーの特性と思われます。その境を、どの様に提供するか、目標があれば移行させるのが難しい側面 があろうと思います。

 当クラブは、教育のクラブではないですから、来たい時、やりたい時、に柔軟に 受け入れる目的、は私キャプテンなりに考えありますから、そういった趣旨を理解してもらいたい部分があります。説明責任の部分でしょうね。 参加人数は少ない機会もあります。しかし、この数年の経過を観察するに、その他の活動においては、参加率は 学校の場所から身体を動かした事で、上がっている側面もあります。

  クラブ指針としては、このような事があると私は考えています。スポーツの前段階としてレジャーとしても継続的に できる場所がある事が、”選択肢”、を与える場所として必要な事であるので、その 子のレベルに応じても、できる場所、機会、面子、が必要だと考えてます。 常に、子供を強要していては(このクラブ趣旨として)、それこそ子供が自主的 に遊び、として出ていく事がなくなってくる要素も潜んでいるのが現代だとも、 思ってます。
こんな事が必要と感じ、学童、という媒体の中で、サッカー活動を通じて、地域 社会の中で、親子、地域人(これはお互い人間としての学習と思います)と考え ていければ、というのが、私このクラブのキャプテンとしては、或いは他のスポ ーツで指導員を目ざす者として、モータスポーツで世界の場に立たせて頂き、諸外国の人のスポーツに接する人間の豊かさ、笑顔に繋がり、そして讃える精神が存在し、それら大人である親が、子供に教える”場”がスポーツの場にも存在する、という事を体感した訳ですが、1人の大人の人間として考えクラブ活動に携わっている志向でいます。

  ですので、人を集めて教育するクラブではないですが、 これは教育という側面では、お金を頂く事が考えられます。当クラブは、非営利団 体の組織としています。 遊び、から、遊び、をスポーツとして提供するクラブであっても言い訳ですよ。 従って、「教育」、というよりは「指導」、に近いものがあると思います。
これは、教え 込むというよりは、やりたいという気持、仲間に入ってできる、という意識を、 導き出すものに近い方向付けですから、教育という強制をしない以上、待ってあ げる時間も必要です。 これを、子供ならずとも、大人も、経験のない、接点のない人間同士でやってみる というのも、間接的に子供にみせる場、でもあると考えてます。 ですから、外からの見かけ上は、人がいなかったり、子供という気紛れな存在は 継続的にいなかったり、する場合が垣間見られるかもしれません。 しかし、そうゆう事を、教育の場、である学校の場所をお借りして、継続できて いく事が、地域交流への僅かながらであっても貢献できているものあると考えで 期待するものです。 僅かのパーセントであっても、積み重ねが必要で、積み重ねあっての成果 に繋がる のは世の常であろうと思います。

  この様な思想に対し、間違っているというのであれば仕方ないです。社会の流れに従っ ても良いですが、必ずしともプラスを産むものでないと思います。その組織には、その適合したやり方を模索し、実行に移し継続できる事が必要かと考えています。また理解できない、とさ れれば、議論の余地ではないかと思います。 民主主義社会ですから、双方の考えの相違は、話し合いで理解されるべきとろこは 相違を取り除く、思想を理解しえある事があっても適当と思います。
同じ日本社会でも違いがある事でしょう。しかし、 子供が元気であると共に、大人も元気でなれけばなりませんね。子供は大人を見習 うものあるし、未直な目標としての影響も、大人から得られると思います。 現代は、大人の中高年の活動の場も狭くなっている側面も持ち合わせている訳です から、そういう総合的な視点で、場所が失われるのは、一般社会通念として寂しい 事です。
 高齢化社会が待っている未来へ向けて、子供から、他の人から、人々の交流から”元気”を貰い・養いあう事ができたら、それは素晴らしい事と思います。

 

 スポーツが教えてくれる言葉を紹介する。

どんなにやんちゃな少年でも、
どんなにこましゃくれた少女でも、
スポーツを続けていれば、
やがて自分を知り、
世界を知り、
感謝という言葉を知るようになる。
スポーツは
・・・・手段ではなく、
あくまで結果的に
・・・・人を教育する。
いったい社会のどこに、 それ以上の力があるというのか。

 
師岡学童保育 サッカークラブ キャプテン・大関(記)2006

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