RACING
SIDECAR, Japanese
Driver & Passenger
History, to 2001year
Jan.19/2000
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世界選手権レーシングサイドカーで活躍した、日本人ライダーをご紹介します。 サイドカーは、運転をする「ライダー」(世界選手権ではライダーと称している)とバランスコントロールする「パッセンジャー」とでマシンをコントロールします。その中で、日本を代表とする日本人ライダーとして、熊野正人氏、熊谷義貞氏がいました。 両氏とも、現在は現役を退き間接的にサイドカーレースを支えている。その両氏の経歴を簡単にご紹介します。 |
また、新たに世界を目指す日本人が21世紀初頭の2001年に誕生した。 |
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熊野 正人氏(ドライバー) 日本のサイドカーレース初期の頃から活躍されました。一時期廃止されていた国内のサイドカーレースが1974年に復活した時、トップレーサーとして活躍したのが熊野氏でした。また熊野氏はこの時からパイプシャーシ的なものから、モノコックシャーシマシンを独自に自作しレースに挑んでいたのでした。 その翌年1975年に自作製作したそのモノコックマシンと共にヨーロッパに渡り世界選手権を戦ったのでした。並みいるヨーロッパ勢に対して非力なマシンではあったようですが、善戦し後にGPトップレーサーまで上り詰めたのでした。また熊野氏は現在の主流である、LCRの開発にも貢献したのでした。
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写真左は、1983年のダッチTTで3位 入賞した時。(写真中央)左隣は当時のパッセンジャーである高島邦男氏。 |
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上写 真左はヨーロッパ遠征初期76年当時の画像。CB450エンジンを載せた自作オリジナルマシンKAN・MK7で13レースに出場した。上写 真右は90年当時の画像。パッセンジャーはE.ロージンガ−。この前年は西ドイツで3位 入賞を果たし、一時はランキング2位迄浮上した。 | その後もトップライダーとして活躍する。現在、熊野氏はドイツに在住、輸出業を営んでいる。 | |||||||
熊谷 義貞氏(ドライバー) 熊野氏GPデビューから遅れる事10年程、もう1人世界選手権を戦ったライダーが熊谷義貞氏。 また1990年、WGP2輪、3輪の中でただ1人全戦ポイント獲得の偉業を達成。当時2輪にはウエイン・レイニ−などスーパーライダーがいたが、全戦ポイント獲得は熊谷氏のみであった。この年は飛躍の年となった。
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上記写真は、1990年の雨のベルギーで我慢のレースの上、初表彰台3位 を獲得。右側、赤いキャップをしているのが熊谷氏。パッセンジャーは、B.ホートン。 |
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上写
真は90年当時の画像。 現在は、自身のショップである「クマガヤオート」の代表として、エンジンチューニング、マネージメントをこなす傍ら、2輪WGP、スーパバイクに関係する技術サポートとして世界を駆け巡っている。 |
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土屋
芳光(ドライバー) 21世紀が始まった2001年、純粋な日本人チームとして至上始めての取り組みが、土屋/大関組で行われた。 2001年4月に行われたオーストラリア ラウンドに出場し初戦だが予選を通過、雨のセッションでは8番手の記録を残し、マシン、人間ともその存在を世界に知らしめた。決勝は残念ながら天候の影響でキャンセルとなったが、更なるチャレンジを予定している。
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下の画像はオーストラリア・フィリップアイランドでの走行シーン。 |
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早川
潤(ドライバー) 日本からヨーロッパはドイツに活動の拠点を置き、世界選手権に挑むチームが組まれた。早川/光部コンビである。(左が早川選手、右が光部選手) 下の画像は、国内での早川選手の走行シーン。 |
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