2001
SUPERSIDE IMOLA Colum, Team KUMANO Sep.30/2001
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2001 SUPERSIDE イタリア イモラ
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2001
9月30日 |
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9月のSUPERSIDE世界選手権に視察する為のエアーチケット手配は7月末の事であった。私の家では引っ越しの準備が進んでいて、方や鈴鹿でのレース遠征、お盆という事もある田舎への帰省の準備やらで大忙し。なので、予約を確実にする為の事しか考えておらず、確保した時点ではごく普通
のエアーチケットであった。 当初は、ヨーロッパで行なわれるサイドカーレースが実際にはどうゆうものであるのか?、雰囲気は?、国内と何が違うのか?、などを垣間見れれば良いなと思っていたのが、パッセンジャーとして代役出場してくれと言う事だから、実際にそのレース環境下で経験できる訳なので、私自身、選手として異論を唱える事もない。
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少し考えてその代役を受ける事としたが、何も不安要素がない訳でもない。ドライバーである相手の早川君は今シーズン、フルに世界選手権を戦ってきてその運転レベルも上がっているであろうし、まして組んだ事のないドライバーと、日本の1年分のレース距離に匹敵するレースウイークをどうやってコントロールできていけるのか、不安を抱き考えるのは必然的であろう。私自身の願望はあったにしろ、私は世界の本場の経験は勿論ない訳だから。
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紹介が忘れた。私はレーシングサイドカーのパッセンジャーである。パッセンジャーと言っても職業にしている訳ではない。一般
生活では普通のサラリーマンであり、1娘を持つ親父でもある。その生活の中でいわゆるプライベータとして趣味としてモータスポーツを楽しんでいる訳である。 |
街乗りのサイドカーにも興味がなかった私が今こうしてこの世界に存在しているが、その詳細はここでは割愛させて頂くとして、国内のレーシングサイドカーパッセンジャーとして活動をここ8年程行なってきており、一応チャンピオンなどというものも得た時がある。 |
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イタリアへの出発当日、会社の仕事を3時迄バタバタと行ない、そそくさと成田へ向かった。大体そうであるが私は独り旅が多い。何故に?、成田エキスプレスで前に座ったカップルが目についたが、ただぼんやりと都心から千葉の田園への夕景色を眺めマシンはどうなのか?、コースは?、色々考えたが、そこはレーシングサイドカー、2人で操るマシンの事を、余り1人で考えていてもしょうがないのでただぼんやりできた。これがあれこれ考えない、独り旅の良いところと考えている。 空港カウンターでチケットを受け取りこれでイタリア迄行けそうだ。何せ数日前には、あのアメリカでのテロがあった後なので、セキュリティチェックは多少厳重になっていたようだが、私自身は何も問題になる事がないのでパスし、出発迄またぼんやり過ごす事になる。 時間が来て搭乗、後は最初の機内食を待つばかり、と言うのも現地との時差調整をする必要がある為、酒を飲んでさっさと寝ようと考えていたのである。ワインを1本飲みさっさと寝た。と言う事で、隣のねえちゃんにトイレの為起こされる意外は記憶がない。(あのねえちゃんは何処に)なので、話はパリを経由してイタリアはボローニャ空港に午前9時に到着するが、ここからが長かった。空港からサーキット迄は車で40分もあれば着くようだが、レンタカーも高いし今回のチーム監督であるドイツ在住の熊野氏と待ち合わせする事にしていた。【右へ→】
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後で分った事、つまりは帰国時のボローニャ空港での事であるが、待っていたのは1階ロビーであった。昼時になっても満足な飯も食えず、、、だったが、何の事はなかった。2階上がれば、もっと食える食事ができるところがあった。しかも、サーキットパドックで、Team KUMANO を知っているレーシングサービスも、わざわざ空港迄来て昼飯を食べていた、というではないか。。。。。 |
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そしてようやく7時過ぎ熊野監督の到着である。お会いするのは4月のオーストラリア世界選手権依頼の2回目である。早速タクシーを走らせイモラサーキットに向かう。パドック入りしたのは夜9時を過ぎていただろうか、さすがに各チーム設営は終了していた。やはりヨーロッパラウンドである、雰囲気が違う、が、そんなワクワクはしなかった。”レース”の場に居たい私としては、景色は予測通
りの当たり前の事で、と思い、何でそう思ったかはよく分っていない。 パドックを歩き、ようやくチームKUMANOのテントに到着。当たり前であるが、明日からの作業設置も済んでいて、食事にしようかと言う状態。変わりがあるのは、今迄早川君のパッセンジャーを務めていた光部さんがいなく、私がその代役としてここにいるくらいであった。 |
夜11時過ぎ、本日の最後の作業を行なう。
それは私のコース下見である。いくら何でもぶっつけ本番は余りにも効率が悪い。肌寒い中(結構夜は寒かった)、早川君と原付きバイクでコースにでる。早川君は既に日中下見を十分行なっており、ドライバーとしてどう攻めようか?、と色々考えていた為、ここはこう、あそこはこう、と説明してくれる。中々の難コース、パッセンジャーにとっても辛いコースレイアウトに思えた。一癖二癖あるレイアウト、いわゆる”間”を短時間で合わせるのに一苦労しそうだ。且つ路面 が悪いときていて左回りのレイアウト、結局今思えばこの左回りレイアウトに私は手を焼いた、と思える。しかし今さら、、、やるしかない。! 帰って明日からのミーティングを少し行い12時過ぎだろうか、キャンパー内で就寝についた。私の寝床は光部さんの所、人が1人入るスペース、寝返りをしたら落ちそうだ。いや、この週末、何においても、そう”落ちて”はいけないのである。! |
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明けて28日(金曜) 今日はフリー走行と予選1回目、初めてのコンビで走行時の具合が分らない。何とかドライバーが前に進めるようにアシストしなければならない。しかし走ってみない事には何が良くて悪いのか対策のしようがないので、フリー走行を待つしかない。 午後4時、最初のフリー走行がきた。1時間前頃からストレッチを始め、30分前にはレーシングスーツに着替える。いよいよである。ここで良かったのは自分を見失う程の緊張はなかった事だ。日頃の意識付けが効をそうしたとでも言っておこうか。いい緊張感であった。 |
次ぎ1時間後には予選1回目が開始する。言葉が全く通
じなくとも”早くしてくれ!”と早川君は捲し立てる。”言葉?”は通じているようだ。 テントに戻った時は熊野監督の指示で塚越メカも、スペアエンジンを既に用意していた。熊野監督も帰ってくる迄の役40分、あらゆる事を考えていていたが、原因追求するが確定できない。恐らく電気であろうが、跡形もみえない電気は不安要素は残るがエンジンは再始動するのでこれで望むしかない。
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そして予選1回目 また、ピットアウト先頭につける。コースインして、ここでコースを学習しながら走行する事になるが、予想以外の事が私の身体に起きた、というより受けた。立ち上がり加速時に身体が後ろに置いていかれる感触だ。なので、腕で頑張ってしまう。パッセンジャーは腕で乗ってはいけないと、自分で学んだ事なのに、自分はこんなにサイドカーに乗れなかったんだろうか?、ペースが良くその中コースを確認するため身体を起こしぎみにしているため風圧にもよるものだろうか?、加速フィーリングがやっぱりグランプリペース、いつもの感覚での身体の移動タイミングが合っていないからだろうか?、いずれにしても全てが相乗して、かなりの体力を使ってしまった。この先どうなってしまうんだろうと考えた瞬間である。タイム的にはトップから13秒差、いつもの集団グループとは5、6秒差、そんなに速いペースではない、遅い!、危険な位 だ。何が違うんだろうか?、今迄の事は全て忘れて初心に帰る事にした。余計な既製概念は役には立たない、プライドもない、ただこのウイークをどう戦っていくか?、それだけを考える事にした。 今日の予選1回目結果は予選通
過タイムをクリアしたが、決勝を見据えるとレースにならないタイムである。あと5秒は上げないといけない、8秒台である。殆ど、精神的、気分的な要素であろう事は推測がついた。熊野監督曰く光部さんも同様の事を始め言っていて苦労していたようである。 |
走行後も早川君と話し、今自分が何を考え悩んでいるか伝えた、気分的な要素である。走行技術的な事は今はなかった(と言うより置いておいた)、タイムをみれば分る事、まだその部分で調整する段階ではなかった。早川君は先のタイムがみえていそうと伺えた(読み取った)、自分はそれを前向きなプレッシャーとして走行を何度も振り返った。克服するしかない。 走行後のメンナンス作業も終わり夕食。基本的にメンテナンスフリーのマシンは大きなトラブルを出さなければ手がかからなそうだ。夕食からその後は、熊野監督の世間話し、昔話し、今日の私のパッセンジャーとして苦労した事のディスカッション、等色々とあり和やか。リラックスできた瞬間だ。適度な酒がないのは惜しいが、得に酒は必要なかった。そんな一時であった。私の時差調整もほぼ上手くいっているようである。しかし目がしょぼしょぼするのが早い、12時には就寝についた。
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明けて29日(土曜) 今日は予選2回目が12時から、フリー走行は5時から、予選通
過は問題なさそうだが今日は決勝でいける走行タイムをみつけ、それに合わせてパッセッンジャーとしてのペースを見極めて行かなければならない。その前にラップタイムの5秒アップだ。5秒〜〜。。。。 午前、あまり考えている時間もなく予選時間がやってきた。勿論先頭につける。徐々に、コースとマシンにも慣れてきている事が分った。しかしまだもうちょっと腕を使ってしまう、理由はほぼ分っているが”間”が掴み切れない状態。しかし、余計なマシン挙動を出さないため、リアタイヤにトラクションをかけるため、早く動き過ぎてはいけない。我慢するところは我慢する。
タイムは8秒台であった。トップとの差は歴然としてあるが今日のノルマは達成した。熊野監督の推測では、早川君はこのコースを6秒では走れるだろう、と考えていた。8秒台のしんどさは?、昨日とそんなに変わらない。気分的、不安要素が徐々に解消できているのであろう、時差ぼけもなく体力、筋肉も張ってきていて身体は悪くない状態だ。早川君はケロッとしていて、もっと先を試みようとしているのはこっちの勝手な解釈かもしれないが、そう思えた(思う事にした)。そっちの方が、良いプレッシャーになり前進できる。 |
次のフリー走行迄時間がある為、サイドカーパドックをまわり視察をした。 最後のフリー走行時間が来た。この走行テーマは15分止まらずに走り切る事だ。これ迄は体力的に不安を予測した時は合図を出しピットインする事にしてもらっていた。ホントは自分もしたくなかったのだが、万が一の事があってその先走行できなるなる事は避けたかった。大事にやりすぎたが、理解してもらっていた?。余計なピットもしたと今は反省している、その殆どが自分で限界を決めていたような気分的な要素だったからである。分っているのだが大事にいきすぎた。グランプリは難しい。この走行は8、9秒台を目安に時間を走り切る。走行は直に9秒台、徐々にポジションが定まってきている。しかし無駄 な動きもある、効率が悪いのだ。途中、奥の90度コ−ナ2つ連続リバッツア進入の入り口でリアが流れた。どこに行ってしまうんだろう!!!、という状態だった。早川君はピットに入るか?、と走行中、合図で聞いてきたが、ペースを押さえぎみに、と合図し走行を継続した。もうここで入っては意味がないからと思ったためである。 走行後、早川君がチェックにきたがやはり早く動き過ぎたようだ。早川君には落ちそうなイメージに移ったらしいが、こちらはタイミングが外れて、なすがままししただけ、振られた時は余計な力は無用、落ちる気は一切していなかった。レベルはどうあれ、だてにパッセンジャーを長くやっている訳じゃないからね、こっちも。 その夜も、整備を終わらせた後は食事を挟み熊野氏とのディスカッションであった。この中には笑いもあり、1日1日の締めくくりはリラックスできた。今考えれば、これが良かったかもしれない。あまり考え過ぎていても良いアイデアは浮かばない。課題を、楽しみに変えてクリアすれば良い、そんな事を思った。日本ではレース中体験できない事である。 |
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明けて30日(日) 決勝当日朝、天候はすっきりしない。天気予報では雨と言われていた。事実昨晩食事中、パラパラと降って来たのでやっぱりイタリアの天気予報通
り?雨なのかと話していた。イタリアの予報も正確なのか。? しかし、話は変わるが”風呂”にゆっくり入りたい。結構風呂は好きなので、温泉がね。なんにしてもゆっくりリラックスしたいな〜、そんな気分だった。なんせ、この3日間、温水(かなり水)シャワー1回だけだから無理もないが、気候のせいか得に問題もない。だが筋肉疲労を癒すのにはやっぱり日本人、風呂がいい。まあ死にやしないのでいいのだが。
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決勝前は11時過ぎに観客のためのピットウオークがあり、車両をピットロードで展示する。その移動途中もヨーロッパ人の観客はと言っておこう、きちんとサイドカーにも?拍手で迎えてくれる。日本には皆無の光景だ。こっちも手を降って返してあげる、また手をちゃんと降ってくれる。なにかホントに一緒にレースを”楽しんでいる”そんな気がする。また「うちらのレースも観て下さいね」と思う。どこ迄伝わっているかは分らないがいい瞬間だった。 さて決勝への時間を待つ。作業的には得に大きな作業も私にはない。昼食時にウオームアップから決勝レース迄のオーガナイズ側からリリースされた案内を熊野監督より説明と確認を進める。
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さあ決勝レース、 どんな展開になるのであろうか、実を言えば余り食事は咽を通
らなかった。ガチガチに緊張していた訳でない、この辺は自分でもそれなりにコントロールできていたと思っている。適度な適度な緊張だ。 あとはなるべく車体を安定させる為の動きをするのみだ。最近は国内でも、サイドカーを安定させる為には?、などを自己の課題としてレースに取り組んでいた。しかし、国内のレースではその確認が殆どできない。今回はレース距離の中、ドライバーとのコンビネーション、とはいっても即席コンビなのでどこまで可能か推測できないが、一定のマシン挙動にする為の、一定の動作を頭の中でシミュレーションした。今回の私の動きは、他のパッセンジャーと比較してあるコ−ナで省略している部分があった。タイム的には8秒出ていたので、この中では良かった、と考えた。確かにリアタイヤのトラクションがヌケぎみではあると思っていたが、レース距離を一定的に動く為の対処であった。 【右へ→】 |
これはドライバー早川君とも確認して走ってきた事であったので了解済みだ。レース中、まだタイムは上がっていくとの事で、その中で着実に仕事をこなす事を考えた。また車両がどのような挙動を出すかも学習だ。 3時半、ウオームアップ走行の為、早目の体のウオームアップを十分に進める。時間は何故か早めに過ぎ去り30分前、レーシングスーツに着替えアップを行なう。全てのチェックを終えコースインピットへ。皆待機している、いよいよかな?、という感じで”じゃあ皆さんサイドカーレース魅せて下さいよ”という思いもあった。 ウオームアップではリアタイヤをニュータイヤに交換した為、いわゆる皮剥き作業をハイペースで行なう。3ラップ目にピットインし待機する、予定通 りだ。他車もチェックを終え続々とピットインしてくる。
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決勝スタート サイティングラップ、早川君の「楽しみましょう」という言葉でコースイングリットに着く。前には沢山のサイドカー車両(日本ではせいぜい7台位 なので)、いよいよだ。熊野監督の「じゃあ、気を付けて」の言葉を確認してヘルメットをつける。オープニングラップを終えて再びグリットへ、シグナル赤から青。 早川君は”予定通り”スタートで数台抜いていく。最初の関門、タンブレロ進入、周りはお祭りの”縁日”か?、と言う程のサイドカー台数。接触するかしないかという状態。しかしここは引かず、譲らず、そして接触せずに処理。各コーナーで入れ代わり立ち代わり、半周は続いただろうか、皆諦めはしない、楽しい一時だ。 |
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何ラップ続いたのであろうか? (意識はしていなかった)、前3台位
とラップを重ねる。15番手、ポイント圏内での争いだった。その中でパッセンジャーの動きも参考になったし楽しめた。レース中盤に差し掛かっていたのだろうか、早川君は前のペースが落ちてきたと判断したのだろう、前にでる。こっちも新たな展開だ。前には何もないので自分の動くタイミングを計らなければならないが、序盤のイメージが良かったので問題なく(しかし無駄
はありながら)ついていけた。 【右へ→】
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時間の概念はとにかく何か無かったように感じていて、何か不思議な空間だった。 「今何ラップ目なんだろう?、どの位
経過したんだろう」と言う事を考える事もなかった、と言うより考えないようにもした。「このままどこ迄続けられるのだろう!」なんて事も考えた。もっと効率良く動きたい、速く走りたい。「あ〜、そう言えば、2輪の頃ってこんな事ばっかり考えていたな〜」と思い起こした。 なんで”同じ3輪”のサイドカーを同じ様に走らせられない?。パッセンジャーの要素が入るだけで何故こんなに違う?、何が限界点なの?、何が限界点としているの?、まだまだ科学しなければならない、そうも考えていた。
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時間の概念は無かった。 早川君は自分の動きを確認しながら走行を続けている。ある程度はコミュニケーションしていた部分だ。しかしある時点で「あ〜、すまないね〜」とも考える時もあった。と言うのは、コーナー進入のタイミングが遅い、もっと早く車体の向きを変えても、と言う”間”ができてきたと感じたからだ。 私のロスはあるものの、快調ともいえた。しかし”マシンと喧嘩”をしている。もっとマシンと一体になりたい、ならなければ、そう思った。動きがマシンの特性を狂わせハンドリングにも影響させる、加速Gに対して±0に近く、その中で動ける空間があるはずなのにGに対抗してしまう。マシンと喧嘩していては駄
目、もっと仲良くならなければ、そうでないとバトル、もっとペースアップは無理だと感じた。翌日だがこのレースの衛星放送をみると、チャンピオンであるウエブスターの”芸術的”マシン動作を観た。 |
終盤、マシンの状態はどうなっているのだろうか?、そんな事を思いつた。 エンジンその物は快調である。リアタイヤのバイブレーションが気になった。これも想定できている事だが、早川君はいつも通 り気がついているのだろうか。パッセンジャーが気がついても、ドライバーは気がつかない事もサイドカーにはあると言う。このタイヤは致命的な事ではないので安心だ。 途中後ろを振り返ると、後続が徐々に離れていく「あ、な〜んだ自分もある程度仕事をできているな」と自信に結び付けた。またNo26が背後に迫ってきたが、こちらのペースは一定、向こうがタレたようである。「ほお〜そんなもんか」
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”5”
「あ〜あと5周なんだ、がんばろ」選手としての言葉はつきなみだ。早川君も自分が確認している事を気がついていたようである。そういえば、バックミラー越しにみる顔は笑顔だったな。そこ頃青旗がみえた、ウエブスターが行き、暫くしてクラッフェン、シュタインハウゼンが行った、周回遅れとなったが、彼らを観ている暇などない。 レースも終盤、先にさっきから見える車両がいる。序盤一緒に走っていた車両だ。ペースが落ちているようである。早川君はペースを上げる、1番手でも前にいくレーサーとしての本能が出た!、瞬間であろう。私の方はさすがに疲れている、ここで”押さえて”などの合図は御法度である。後悔するだけだ。疲れている中での動きを模索しはじめた。タイムは7秒台に再び入っていたが、その感触はあった、前に出れるなら出るべき!。 【右へ→】 |
終演
迄はあっけない文面である。何故であるか自分も分らない。
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レースは終わったが、 何位で終わったか?、などその時点で私はしらない。 コースマーシャルがコース上に出て全ての選手を讃えてくれる。上位 下位関係なく。ホントに有り難く「ありがとう」と感謝できた。私は全てのマーシャルに手を降って挨拶した。向こうは日本人だか、どこの国だかは知らないであろうが、そんな事はどうでもいい。サイドカーを楽しんでもらえたのであれば一緒だ。残った観客も挨拶しくれる、ちゃんと応えてあげた。いい瞬間だった。 途中初日に止まったコ−ナ付近で止めた。あの時のマーシャルに挨拶だ、大袈裟かもしれないが抱き合って健闘を讃えてくれた。そのまま別 れる事になるのだが、良い思い出、イタリア万歳といったところだろうか。!(ちょっときれいすぎ) ピットに帰って、15位 入賞1ポイント獲得と言う事を知った。「ヤッター」と言うより、「あ〜良かった〜」と言う感想だった。最低限の自分の仕事はこなせたのかな、と思ったからである。熊野監督とも握手「こんなレースもあるんだよね〜」の言葉、素直にその言葉の意味を理解できた。【右へ→】 |
他の方に、この15位と数字は平凡な数字に思えるのであろうが、我々にはその過程を色々とこなしてきた結果
であると認識している。あと1つ後ろであればポイント圏外であり、記録として残らない。モータスポーツレースと言う競技の中で最低限の結果
であろう、今の我々にはこの短時間で最大の結果が得られたのだと確信している。 さて終わったら撤収作業に入る。ご苦労さんの一杯をやる迄はまだ作業は残っている。それが我々プライベータだ。私も動くのも「よっこいしょ」の中作業に入る。 さあ、9時に近かったのだろうか、食事をしに街に出る。私はイタリアというよりもヨーロッパの街並が好きである。ある時期は建築士の勉強もした時があったから、建築技術には興味がある。なんでこんな風に残っているんだろうと思っていると、他のメンバーは早足?で進んでいく。グランプリチームは何事にも速く?!なのであろうか。! |
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翌日、 熊野監督は朝8時頃のフライトなので早朝に出発していった。
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何かあっけなくも、清清しい。まあスポーツのある側面 ってなもんはこんなもんかもしれない。次があるのだから。
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パリ迄の飛行機の中、 嬉しい事があった。私はスキーのスポーツも好きで、よくスキーにいくが、山岳スキー、歩いて山に登って滑るおりるスキーもたまにする。その中で思い出にあるスイスのツェルマット地域にある山にも1度入っている。その中でも好きな山、マッターホルン、がある。どなたでも知っているであろうあのとんがった山である。それを窓越しに見えた。
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このコラムの、レースを終えた、と言う事で終わりを告げる。 |
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_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/ JRSA (Japan Racing Sidecar Association) Adiministration chiarman Masahiro Ozeki : 大関 政広 e-mail: jrsa-oozeki@dna.gr.jp World offical URL: http://www.jrsa.sidecarworld.com/ World offical e-mail: jrsa@sidecarworld.com ------------------------------------ Team OZEKI Sidecar race & Rord raceing Team Passenger Masahiro Ozeki : 大関 政広 URL: http://www2u.biglobe.ne.jp/~ozeki/ http://www.dna.gr.jp/2001/ e-mail: oozeki@mth.biglobe.ne.jp Phone & Fax 045-531-4015 (+81 45-531-4015) Mobile phone 090-9645-2951 (Japan only) Mobile phone e-mail ozeki@t9.ezweb.ne.jp _/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/ |
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