2001 SUPERSIDE IMOLA Colum, Team KUMANO   Sep.30/2001
 

2001 SUPERSIDE イタリア イモラ
    Team KUMANO参戦コラム

   

2001 9月30日
 イタリア イモラでの SUPERSIDE 世界選手権
 Team KUMANO パッセンジャーとして参戦

 正式結果は SUPERSIDE Home page をご覧下さい
 リザルト はこちら Acrobat PDF file
     フリー走行
     予選1回目
     予選2回目
     決勝

 

 9月のSUPERSIDE世界選手権に視察する為のエアーチケット手配は7月末の事であった。私の家では引っ越しの準備が進んでいて、方や鈴鹿でのレース遠征、お盆という事もある田舎への帰省の準備やらで大忙し。なので、予約を確実にする為の事しか考えておらず、確保した時点ではごく普通 のエアーチケットであった。
それが出発3日前にして、私にとってこれ以上ないビックチャンスのエアーチケットに早変わりしたのであった。「買っておかなくちゃ」と思って買っておいた宝くじが、実は当選(当選と言う言葉が正しいかどうかは?)していたと例えたら分かりやすいだろうか。

 当初は、ヨーロッパで行なわれるサイドカーレースが実際にはどうゆうものであるのか?、雰囲気は?、国内と何が違うのか?、などを垣間見れれば良いなと思っていたのが、パッセンジャーとして代役出場してくれと言う事だから、実際にそのレース環境下で経験できる訳なので、私自身、選手として異論を唱える事もない。
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 少し考えてその代役を受ける事としたが、何も不安要素がない訳でもない。ドライバーである相手の早川君は今シーズン、フルに世界選手権を戦ってきてその運転レベルも上がっているであろうし、まして組んだ事のないドライバーと、日本の1年分のレース距離に匹敵するレースウイークをどうやってコントロールできていけるのか、不安を抱き考えるのは必然的であろう。私自身の願望はあったにしろ、私は世界の本場の経験は勿論ない訳だから。


 しかし、どんなに経験と積んでも少しは不安要素なんてあるはず。前向きに考えるかしかない。始めてサイドカーに乗る訳でもなし、コミュニケーションを取りながらベストを尽くすしかない。本来望んでいた”レース”ができる訳だから楽しむしかない。そんな事を思って1人、当選エアーチケットで渡欧した訳である。

 

 紹介が忘れた。私はレーシングサイドカーのパッセンジャーである。パッセンジャーと言っても職業にしている訳ではない。一般 生活では普通のサラリーマンであり、1娘を持つ親父でもある。その生活の中でいわゆるプライベータとして趣味としてモータスポーツを楽しんでいる訳である。
余り日本では馴染みがないレースカテゴリーであるが、ヨーロッパでは世界選手ラウンドが組まれて入る程歴史があるレースでもある。私は36歳(2001年)になるが、20歳頃からモータスポーツレースに興味を持ち、細々と活動を行なってきた訳だが、何の縁かレーシングサイドカーに携わる事になった。今では日本レーシングサイドカー協会の運営委員長などという役も仰せ使っている。人生なんて分らないものである。
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 街乗りのサイドカーにも興味がなかった私が今こうしてこの世界に存在しているが、その詳細はここでは割愛させて頂くとして、国内のレーシングサイドカーパッセンジャーとして活動をここ8年程行なってきており、一応チャンピオンなどというものも得た時がある。
そんな私がいつもコンビを組んでいるドライバーとは別の、顔は知っている他のドライバーとこれも何かの縁で初めて組む事になり、初めてのヨーロッパサーキットでのサイドカー世界選手権にチャレンジしたことを、ここに紹介するのである。

 

 イタリアへの出発当日、会社の仕事を3時迄バタバタと行ない、そそくさと成田へ向かった。大体そうであるが私は独り旅が多い。何故に?、成田エキスプレスで前に座ったカップルが目についたが、ただぼんやりと都心から千葉の田園への夕景色を眺めマシンはどうなのか?、コースは?、色々考えたが、そこはレーシングサイドカー、2人で操るマシンの事を、余り1人で考えていてもしょうがないのでただぼんやりできた。これがあれこれ考えない、独り旅の良いところと考えている。
空港カウンターでチケットを受け取りこれでイタリア迄行けそうだ。何せ数日前には、あのアメリカでのテロがあった後なので、セキュリティチェックは多少厳重になっていたようだが、私自身は何も問題になる事がないのでパスし、出発迄またぼんやり過ごす事になる。

  時間が来て搭乗、後は最初の機内食を待つばかり、と言うのも現地との時差調整をする必要がある為、酒を飲んでさっさと寝ようと考えていたのである。ワインを1本飲みさっさと寝た。と言う事で、隣のねえちゃんにトイレの為起こされる意外は記憶がない。(あのねえちゃんは何処に)なので、話はパリを経由してイタリアはボローニャ空港に午前9時に到着するが、ここからが長かった。空港からサーキット迄は車で40分もあれば着くようだが、レンタカーも高いし今回のチーム監督であるドイツ在住の熊野氏と待ち合わせする事にしていた。【右へ→】

   


 熊野氏は午後7時過ぎの到着である。空港で10時間余り時間を潰す事になったが、ここは小さい空港でなにもなく外に出るも荷物があるので動けない。(申し遅れたが、熊野氏は元ワールドチャンピオンシップレーシングサイドカードライバーなのである)
実は到着時、今回コンビを組むドライバー早川君に電話連絡したところ、丁度ボローニャ近くを移動中であったが、熊野監督よりトランスポーターにキャンパー車両で空港に近付かないようにと指示が出されていた。そうである、アメリカの一件で警戒体制が引かれていた時の対処である。万が一の時は、足留めを食らう場合もある。ヨーロッパでのレースはあらゆる社会事情も頭に入れておくべき、と言う事だろう。
しかたなく、身体を休める為とも自分に言い聞かせ7時迄読書の時間とした。おかげで3册の雑誌を読みあさり沢山の知識得た。しかし周りからは変な東洋人と見られたのではないだろうか。まあ、独り”旅”である。

 後で分った事、つまりは帰国時のボローニャ空港での事であるが、待っていたのは1階ロビーであった。昼時になっても満足な飯も食えず、、、だったが、何の事はなかった。2階上がれば、もっと食える食事ができるところがあった。しかも、サーキットパドックで、Team KUMANO を知っているレーシングサービスも、わざわざ空港迄来て昼飯を食べていた、というではないか。。。。。

             
   

 そしてようやく7時過ぎ熊野監督の到着である。お会いするのは4月のオーストラリア世界選手権依頼の2回目である。早速タクシーを走らせイモラサーキットに向かう。パドック入りしたのは夜9時を過ぎていただろうか、さすがに各チーム設営は終了していた。やはりヨーロッパラウンドである、雰囲気が違う、が、そんなワクワクはしなかった。”レース”の場に居たい私としては、景色は予測通 りの当たり前の事で、と思い、何でそう思ったかはよく分っていない。
しかし後で、レースの中でやはり”ヨーロッパラウンド”と感じる事となる。

 パドックを歩き、ようやくチームKUMANOのテントに到着。当たり前であるが、明日からの作業設置も済んでいて、食事にしようかと言う状態。変わりがあるのは、今迄早川君のパッセンジャーを務めていた光部さんがいなく、私がその代役としてここにいるくらいであった。
今晩は最初と言う事でサーキット裏のピザ屋で食事。何やらチームKUMANOはレースウイーク中は禁酒と言う事だが今日は特別 と言う事でビールを頂いた。もうとにかく私は、ある意味ずっと軟禁状態と同等だったので、このビールは有り難かった。
この場に私がいるの??と思ったが、和やかに食事の時間を過ごしパドックのキャンパーへ帰った。
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夜11時過ぎ、本日の最後の作業を行なう。
それは私のコース下見である。いくら何でもぶっつけ本番は余りにも効率が悪い。肌寒い中(結構夜は寒かった)、早川君と原付きバイクでコースにでる。早川君は既に日中下見を十分行なっており、ドライバーとしてどう攻めようか?、と色々考えていた為、ここはこう、あそこはこう、と説明してくれる。中々の難コース、パッセンジャーにとっても辛いコースレイアウトに思えた。一癖二癖あるレイアウト、いわゆる”間”を短時間で合わせるのに一苦労しそうだ。且つ路面 が悪いときていて左回りのレイアウト、結局今思えばこの左回りレイアウトに私は手を焼いた、と思える。しかし今さら、、、やるしかない。!
帰って明日からのミーティングを少し行い12時過ぎだろうか、キャンパー内で就寝についた。私の寝床は光部さんの所、人が1人入るスペース、寝返りをしたら落ちそうだ。いや、この週末、何においても、そう”落ちて”はいけないのである。!
 

明けて28日(金曜)

 今日はフリー走行と予選1回目、初めてのコンビで走行時の具合が分らない。何とかドライバーが前に進めるようにアシストしなければならない。しかし走ってみない事には何が良くて悪いのか対策のしようがないので、フリー走行を待つしかない。
ゆっくりの朝食を済ませ午前中は私のライセンス発給事務処理に走り回る。その後は、パッセンジャーとして動きやすいようにフィッティング確認を行なう。私のいつものマシンと同じようにパーツを加工してもらい位 置を確認していく。やはり長年グランプリにいたドライバー、熊野監督が手際よくパーツを加工していく。
その後は昼食をはさみながら、早川君含めどのような攻略をしていくかディスカッションを行なう。このディスカッションをする事を私は強く希望した。”暗黙の了解”という言葉があるが、やはり都度マシンを速く走らせるにはディスカッションは必要だし、ましてや始めてのコンビ、その中でグランプリを戦う訳だから、限られた時間を有効に活用して次のセッションに生かす事を考えなければならない。その中で気分が落ち着く事もあるし、良い緊張を得られる事もある。要は”スポーツ”と言う事だ。

 午後4時、最初のフリー走行がきた。1時間前頃からストレッチを始め、30分前にはレーシングスーツに着替える。いよいよである。ここで良かったのは自分を見失う程の緊張はなかった事だ。日頃の意識付けが効をそうしたとでも言っておこうか。いい緊張感であった。
ピットアウト場所にマシンを一番最初につける、少しでも周回数を稼ぐためだ。早川君もコース自体は始めて、且つ自分も始めてであるが、このコンビも始めて。何にしろ、他よりも周回をこなさなければならない。
 さて コースイン、マシンの特徴はどうであろうか?。コースインラップとは言えペースは速い、日本での意識とは違う、始まった〜!、と言う感じである。これは逆に私にとっても助かった。タラタラ走ってもマシンの特徴は掴みづらいからである。それにしてもエンジンの中間トルクが太い、ちょっと手こずるかな?と言った印象だ。順調にアクアミネラル迄行った先、大きなバックファイヤ??と共にエンジンから火が消えた。半周の事であった。マシンをコースサイドに寄せチェックするが外観的には分らない。ガスがこないか、電気かと言うところであるが、再押し掛けするが草の上ではタイヤがスリップしかからない。仕方なく諦めるしかなく、コース脇から他車を観察する事になった。 【右へ→】



 これが最初のアクシデント、この後またアクシデントにあってしまった。走行終了後、レッカー引き上げに漏れてしまった。その反面 オフィシャルはもの珍しいサイドカーを覗き込む、総勢15人程はいただろうか。檻の無い動物園状態だ。オフィシャルの仕事なんかそっちのけ?、しっかり仕事しろよって感じ。しかし、皆”好きなんだな〜”とも受け取れた。

  次ぎ1時間後には予選1回目が開始する。言葉が全く通 じなくとも”早くしてくれ!”と早川君は捲し立てる。”言葉?”は通じているようだ。
15分は待たされたであろうか、ようやく引き上げ車が来て戻れた訳だが、いかなる時も気が抜けない、次の事はピットに戻る迄安心出来ない事を、改めて身を持って思い知らされた瞬間であった。

 テントに戻った時は熊野監督の指示で塚越メカも、スペアエンジンを既に用意していた。熊野監督も帰ってくる迄の役40分、あらゆる事を考えていていたが、原因追求するが確定できない。恐らく電気であろうが、跡形もみえない電気は不安要素は残るがエンジンは再始動するのでこれで望むしかない。


rivazza

 

そして予選1回目

 また、ピットアウト先頭につける。コースインして、ここでコースを学習しながら走行する事になるが、予想以外の事が私の身体に起きた、というより受けた。立ち上がり加速時に身体が後ろに置いていかれる感触だ。なので、腕で頑張ってしまう。パッセンジャーは腕で乗ってはいけないと、自分で学んだ事なのに、自分はこんなにサイドカーに乗れなかったんだろうか?、ペースが良くその中コースを確認するため身体を起こしぎみにしているため風圧にもよるものだろうか?、加速フィーリングがやっぱりグランプリペース、いつもの感覚での身体の移動タイミングが合っていないからだろうか?、いずれにしても全てが相乗して、かなりの体力を使ってしまった。この先どうなってしまうんだろうと考えた瞬間である。タイム的にはトップから13秒差、いつもの集団グループとは5、6秒差、そんなに速いペースではない、遅い!、危険な位 だ。何が違うんだろうか?、今迄の事は全て忘れて初心に帰る事にした。余計な既製概念は役には立たない、プライドもない、ただこのウイークをどう戦っていくか?、それだけを考える事にした。

 今日の予選1回目結果は予選通 過タイムをクリアしたが、決勝を見据えるとレースにならないタイムである。あと5秒は上げないといけない、8秒台である。殆ど、精神的、気分的な要素であろう事は推測がついた。熊野監督曰く光部さんも同様の事を始め言っていて苦労していたようである。
ここで分った事は”日本のレベルがその辺にある”と言う事だ。グランプリに入らなくてはならない。日本の事は後で帰ってから伝えていけば良い事で、大丈夫、光部さんがクリアして来たんだから俺にもできる、前向きに考えるしかない。【右へ→】


 走行後も早川君と話し、今自分が何を考え悩んでいるか伝えた、気分的な要素である。走行技術的な事は今はなかった(と言うより置いておいた)、タイムをみれば分る事、まだその部分で調整する段階ではなかった。早川君は先のタイムがみえていそうと伺えた(読み取った)、自分はそれを前向きなプレッシャーとして走行を何度も振り返った。克服するしかない。
それが今グランプリ、私にとっての”初戦”、パッセンジャーとしての役目を果 たすのが仕事だ。

 走行後のメンナンス作業も終わり夕食。基本的にメンテナンスフリーのマシンは大きなトラブルを出さなければ手がかからなそうだ。夕食からその後は、熊野監督の世間話し、昔話し、今日の私のパッセンジャーとして苦労した事のディスカッション、等色々とあり和やか。リラックスできた瞬間だ。適度な酒がないのは惜しいが、得に酒は必要なかった。そんな一時であった。私の時差調整もほぼ上手くいっているようである。しかし目がしょぼしょぼするのが早い、12時には就寝についた。


straight_villeneuve

 

明けて29日(土曜)

 今日は予選2回目が12時から、フリー走行は5時から、予選通 過は問題なさそうだが今日は決勝でいける走行タイムをみつけ、それに合わせてパッセッンジャーとしてのペースを見極めて行かなければならない。その前にラップタイムの5秒アップだ。5秒〜〜。。。。
マシン的には、ドライバーとしてはもっと立ち上がりを力強いフィーリングが欲しい為にファイナル比をショートにしたかった様だが、パッセンジャーとしては”どちらかと言えばマイルド”に行きたかった。過重動作と体力消耗度の目安を見極めるためにも、もっと攻め込んだ時の現状確認も含め、昨日迄のセットで走行する事とした。

 午前、あまり考えている時間もなく予選時間がやってきた。勿論先頭につける。徐々に、コースとマシンにも慣れてきている事が分った。しかしまだもうちょっと腕を使ってしまう、理由はほぼ分っているが”間”が掴み切れない状態。しかし、余計なマシン挙動を出さないため、リアタイヤにトラクションをかけるため、早く動き過ぎてはいけない。我慢するところは我慢する。
そして前方確認しなくとも、加減速、ブレーキングポイント、エンジン音を体感しながら”間”を見つけていく事が必要だ。自分の楽にできる部分をさがさなくてはいけない。そしてその部分はタイムアップできる要素にしていかなければならない。しかし、ペースも上がっている、自分の頭の中では”イタチごっこ”だった。苦しくも楽しい一時であった。


variante_bassa

 タイムは8秒台であった。トップとの差は歴然としてあるが今日のノルマは達成した。熊野監督の推測では、早川君はこのコースを6秒では走れるだろう、と考えていた。8秒台のしんどさは?、昨日とそんなに変わらない。気分的、不安要素が徐々に解消できているのであろう、時差ぼけもなく体力、筋肉も張ってきていて身体は悪くない状態だ。早川君はケロッとしていて、もっと先を試みようとしているのはこっちの勝手な解釈かもしれないが、そう思えた(思う事にした)。そっちの方が、良いプレッシャーになり前進できる。
そうである、レースをしにきているんだから、ポイントを取る為だから。【右へ→】


 次のフリー走行迄時間がある為、サイドカーパドックをまわり視察をした。
ここで思ったのは、やはり視察だけじゃつまらなかっただろう、と言う事だ。やっぱりサーキットには走りにくるのが一番で、その中で得る事は沢山ある。それとサイドカーはファミリー的だ。他のトップカテゴリーレースの様に、ホントにプロフェッショナルも良いだろうが、やはりレースの原点、基本精神みたいなものはサイドカーグランプリにはあると感じた。私もそこがサイドカーレースの良いところであると思うし、いつまでも存在してもらいたい。だがマンネリ化は禁物だ。皆がレベルアップし、自分も楽しむと共に観る人にも楽しんでもらえる”レース”にするべきと思う。

 最後のフリー走行時間が来た。この走行テーマは15分止まらずに走り切る事だ。これ迄は体力的に不安を予測した時は合図を出しピットインする事にしてもらっていた。ホントは自分もしたくなかったのだが、万が一の事があってその先走行できなるなる事は避けたかった。大事にやりすぎたが、理解してもらっていた?。余計なピットもしたと今は反省している、その殆どが自分で限界を決めていたような気分的な要素だったからである。分っているのだが大事にいきすぎた。グランプリは難しい。この走行は8、9秒台を目安に時間を走り切る。走行は直に9秒台、徐々にポジションが定まってきている。しかし無駄 な動きもある、効率が悪いのだ。途中、奥の90度コ−ナ2つ連続リバッツア進入の入り口でリアが流れた。どこに行ってしまうんだろう!!!、という状態だった。早川君はピットに入るか?、と走行中、合図で聞いてきたが、ペースを押さえぎみに、と合図し走行を継続した。もうここで入っては意味がないからと思ったためである。

 走行後、早川君がチェックにきたがやはり早く動き過ぎたようだ。早川君には落ちそうなイメージに移ったらしいが、こちらはタイミングが外れて、なすがままししただけ、振られた時は余計な力は無用、落ちる気は一切していなかった。レベルはどうあれ、だてにパッセンジャーを長くやっている訳じゃないからね、こっちも。
おおよその動きは決まった。 だが30分までは予測できるものの、その後15分の予測、体力維持的イメージは湧いてこない。これは熊野氏、早川君には正直に伝えた。隠し事はメリットにならない、当たり前の事である。しかし、いくらイメージが湧かないといってもレースになれば状況に応じて攻めなければならない。気力を維持させる事、レースを楽しみ維持できる事を中心に考えた。そうすれば何とかなる、そう思った。

 その夜も、整備を終わらせた後は食事を挟み熊野氏とのディスカッションであった。この中には笑いもあり、1日1日の締めくくりはリラックスできた。今考えれば、これが良かったかもしれない。あまり考え過ぎていても良いアイデアは浮かばない。課題を、楽しみに変えてクリアすれば良い、そんな事を思った。日本ではレース中体験できない事である。

 

明けて30日(日)

 決勝当日朝、天候はすっきりしない。天気予報では雨と言われていた。事実昨晩食事中、パラパラと降って来たのでやっぱりイタリアの天気予報通 り?雨なのかと話していた。イタリアの予報も正確なのか。?
しかし熊野監督は「大丈夫なんじゃないかな〜」と、これは長年ヨーロッパに滞在している”勘”なのだろか、事実どんより湿気のある(イタリアらしくない感じ)状態が続いていた。
で、レースはどの状態でやりたいか?、と言う事だが熊野監督にも聞かれたが、昨日迄の体力的な事を踏まえれば雨で体力温存してポイントを狙うのが良いかな、と。しかし、ここまで来てドライでレースできないのは後悔するだろうな、と考えたのも事実で色々葛藤したのであった。

 しかし、話は変わるが”風呂”にゆっくり入りたい。結構風呂は好きなので、温泉がね。なんにしてもゆっくりリラックスしたいな〜、そんな気分だった。なんせ、この3日間、温水(かなり水)シャワー1回だけだから無理もないが、気候のせいか得に問題もない。だが筋肉疲労を癒すのにはやっぱり日本人、風呂がいい。まあ死にやしないのでいいのだが。
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tamburello


 決勝前は11時過ぎに観客のためのピットウオークがあり、車両をピットロードで展示する。その移動途中もヨーロッパ人の観客はと言っておこう、きちんとサイドカーにも?拍手で迎えてくれる。日本には皆無の光景だ。こっちも手を降って返してあげる、また手をちゃんと降ってくれる。なにかホントに一緒にレースを”楽しんでいる”そんな気がする。また「うちらのレースも観て下さいね」と思う。どこ迄伝わっているかは分らないがいい瞬間だった。
ピットでは、イタリア人にはほぼ初めてなのだろうか、いや基本的に皆レースが好きなのだろう、熱心に車両を見物する。乗って記念撮影したり、子供を乗せてみようとしたり、得にこの光景は万国問わず微笑ましかった。また後でパドックでたまたまでも、すれ違うと笑顔で返してくれる。これも良い体験であった。トップカテゴリーでも、目をいつでも三角にしているどこかのレースとは違う、学習しなければと思った。

 さて決勝への時間を待つ。作業的には得に大きな作業も私にはない。昼食時にウオームアップから決勝レース迄のオーガナイズ側からリリースされた案内を熊野監督より説明と確認を進める。


Pit work

 

さあ決勝レース、

 どんな展開になるのであろうか、実を言えば余り食事は咽を通 らなかった。ガチガチに緊張していた訳でない、この辺は自分でもそれなりにコントロールできていたと思っている。適度な適度な緊張だ。
しかしパワーを維持する為にもと思い、胃の中に食事を入れていく。どうゆう展開が予測されるかは熊野監督から話が出た。これまでの早川君の走りから想定される事、早川君の考える序盤、中盤への展開、他のどの車と勝負になるのか、これは予備知識として役立ち助かった。その車が出てくれば早川君は状況をみてしかけるだろうし、私もそのペースの予測ができるであろうし、気分的に攻めてもあるいみ楽にいけるだろうし。

 あとはなるべく車体を安定させる為の動きをするのみだ。最近は国内でも、サイドカーを安定させる為には?、などを自己の課題としてレースに取り組んでいた。しかし、国内のレースではその確認が殆どできない。今回はレース距離の中、ドライバーとのコンビネーション、とはいっても即席コンビなのでどこまで可能か推測できないが、一定のマシン挙動にする為の、一定の動作を頭の中でシミュレーションした。今回の私の動きは、他のパッセンジャーと比較してあるコ−ナで省略している部分があった。タイム的には8秒出ていたので、この中では良かった、と考えた。確かにリアタイヤのトラクションがヌケぎみではあると思っていたが、レース距離を一定的に動く為の対処であった。 【右へ→】


 これはドライバー早川君とも確認して走ってきた事であったので了解済みだ。レース中、まだタイムは上がっていくとの事で、その中で着実に仕事をこなす事を考えた。また車両がどのような挙動を出すかも学習だ。

 3時半、ウオームアップ走行の為、早目の体のウオームアップを十分に進める。時間は何故か早めに過ぎ去り30分前、レーシングスーツに着替えアップを行なう。全てのチェックを終えコースインピットへ。皆待機している、いよいよかな?、という感じで”じゃあ皆さんサイドカーレース魅せて下さいよ”という思いもあった。

  ウオームアップではリアタイヤをニュータイヤに交換した為、いわゆる皮剥き作業をハイペースで行なう。3ラップ目にピットインし待機する、予定通 りだ。他車もチェックを終え続々とピットインしてくる。


pit lane

 

決勝スタート

 サイティングラップ、早川君の「楽しみましょう」という言葉でコースイングリットに着く。前には沢山のサイドカー車両(日本ではせいぜい7台位 なので)、いよいよだ。熊野監督の「じゃあ、気を付けて」の言葉を確認してヘルメットをつける。オープニングラップを終えて再びグリットへ、シグナル赤から青。

 早川君は”予定通り”スタートで数台抜いていく。最初の関門、タンブレロ進入、周りはお祭りの”縁日”か?、と言う程のサイドカー台数。接触するかしないかという状態。しかしここは引かず、譲らず、そして接触せずに処理。各コーナーで入れ代わり立ち代わり、半周は続いただろうか、皆諦めはしない、楽しい一時だ。
しかしこっちはある程度一生懸命、最初の数ラップはこの混戦を抜ける為、ペースを上げていくと打ち合わせしてあった為、マシンに変な挙動をなるべく押さえるように努力した。とにかく努力した。【右へ→】


 1ラップ終了時点で17番手迄アップしていた、が、走行後で分った事だ。ペースは8秒台に入っていたらしい。実のところ、その先はラップがどうだとか、タイムがどうだとか私は考えていなかった。周りの車両がどれであるかだけ、早川君のペースを早く掴む事だけを考えていた。同じ場所で一定の作業。動くポイントは早からず遅からず、そして効率良く楽に動ける方法を模索しながら走行していた。だから、途中特別 な事はなかった、しんどい事はしんどい、でも楽しんでいたようにも今は思える。気が萎える事もなく、体を休めるポイントも掴めていた。腕の疲労回復もほんの数秒間であるが、次のコ−ナ迄休める事で、動作処理できる様にできていたし、持続できそうな感触をもった。落ちるという心配もなくなった。


variante_alta

   

何ラップ続いたのであろうか?

(意識はしていなかった)、前3台位 とラップを重ねる。15番手、ポイント圏内での争いだった。その中でパッセンジャーの動きも参考になったし楽しめた。レース中盤に差し掛かっていたのだろうか、早川君は前のペースが落ちてきたと判断したのだろう、前にでる。こっちも新たな展開だ。前には何もないので自分の動くタイミングを計らなければならないが、序盤のイメージが良かったので問題なく(しかし無駄 はありながら)ついていけた。
困ったのは、汗でシールドが曇り始めた事だ。雨でもないのに、雨で手入れを怠ったかの様に曇ってきて視界が無くなる事もあった。シールドを開け走行風をヘルメット内に入れるタイミングも計りながらラップを重ねる。

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rivazza out



 時間の概念はとにかく何か無かったように感じていて、何か不思議な空間だった。

 「今何ラップ目なんだろう?、どの位 経過したんだろう」と言う事を考える事もなかった、と言うより考えないようにもした。「このままどこ迄続けられるのだろう!」なんて事も考えた。もっと効率良く動きたい、速く走りたい。「あ〜、そう言えば、2輪の頃ってこんな事ばっかり考えていたな〜」と思い起こした。
速く安全に走る為の科学、何かを掴んで結果タイムが上がればその分析ができる、その時はそんな具体的に思考を持っていた訳でないだろうが、行き着くところ同じ様なことかな?!、と振り返っていた。

 なんで”同じ3輪”のサイドカーを同じ様に走らせられない?。パッセンジャーの要素が入るだけで何故こんなに違う?、何が限界点なの?、何が限界点としているの?、まだまだ科学しなければならない、そうも考えていた。


piratella_aqua_miner


   

時間の概念は無かった。

  早川君は自分の動きを確認しながら走行を続けている。ある程度はコミュニケーションしていた部分だ。しかしある時点で「あ〜、すまないね〜」とも考える時もあった。と言うのは、コーナー進入のタイミングが遅い、もっと早く車体の向きを変えても、と言う”間”ができてきたと感じたからだ。
タイムは8、9秒台。私自身も限界域を超えないタイムとしていた中での話しである。これが難しいところの一つ、とも受け取った。私もリズムの中で頑張っているが「ここをもうちょっと改善してもいいよ」と言う事をレース中伝えられないのだ。多くのスポーツがある中でも珍しいスポーツではないかと考える。まあ初めてのコンビでは致し方ない。それでも途中、7秒台に入っていた。

  私のロスはあるものの、快調ともいえた。しかし”マシンと喧嘩”をしている。もっとマシンと一体になりたい、ならなければ、そう思った。動きがマシンの特性を狂わせハンドリングにも影響させる、加速Gに対して±0に近く、その中で動ける空間があるはずなのにGに対抗してしまう。マシンと喧嘩していては駄 目、もっと仲良くならなければ、そうでないとバトル、もっとペースアップは無理だと感じた。翌日だがこのレースの衛星放送をみると、チャンピオンであるウエブスターの”芸術的”マシン動作を観た。
目標は遥か彼方、といった印象だ。【右へ→】



  終盤、マシンの状態はどうなっているのだろうか?、そんな事を思いつた。
エンジンその物は快調である。リアタイヤのバイブレーションが気になった。これも想定できている事だが、早川君はいつも通 り気がついているのだろうか。パッセンジャーが気がついても、ドライバーは気がつかない事もサイドカーにはあると言う。このタイヤは致命的な事ではないので安心だ。

 途中後ろを振り返ると、後続が徐々に離れていく「あ、な〜んだ自分もある程度仕事をできているな」と自信に結び付けた。またNo26が背後に迫ってきたが、こちらのペースは一定、向こうがタレたようである。「ほお〜そんなもんか」
ふと思い起こした。あと何ラップなんだろう?。スタートラインシグナルがあったな、と思いスタート地点で頭をちょっと上げ確認してみた。


First_turn

   

”5”


klaffi_parzer

 「あ〜あと5周なんだ、がんばろ」選手としての言葉はつきなみだ。早川君も自分が確認している事を気がついていたようである。そういえば、バックミラー越しにみる顔は笑顔だったな。そこ頃青旗がみえた、ウエブスターが行き、暫くしてクラッフェン、シュタインハウゼンが行った、周回遅れとなったが、彼らを観ている暇などない。
アボットも激しいバックファイヤーを起こしながら猛追していく。「FZRのエンジンで頑張っているな」そう思った。

 レースも終盤、先にさっきから見える車両がいる。序盤一緒に走っていた車両だ。ペースが落ちているようである。早川君はペースを上げる、1番手でも前にいくレーサーとしての本能が出た!、瞬間であろう。私の方はさすがに疲れている、ここで”押さえて”などの合図は御法度である。後悔するだけだ。疲れている中での動きを模索しはじめた。タイムは7秒台に再び入っていたが、その感触はあった、前に出れるなら出るべき!。 【右へ→】




 ホームスレートで早川君が3の指を出して、握り鼓舞しを、言いたい事は理解した。背後迄迫っていく、しかし前には行けない。中々終盤ではハードだった。前のパッセンジャーも疲れている、みて分った、同じだ、消耗戦かな?
負けちゃいかん同じだ、そう思いながらラップを重ねた。
結局は前に出れないまま、最終コーナーを処理。チェッカー!!

 終演 迄はあっけない文面である。何故であるか自分も分らない。
でも中盤は、いかにも不思議な感覚であった。自分の動きも、回りもスローに感じられた。慌てる訳でもなく、余裕がある訳でもない、すごく感覚がスローなのであった。なにかマシンの動きに同化しつつある?、もっともっと経験、走り込めばきっと新たな領域に入るのであろう。”そこ”を過今みれた感じ。瞬間的に異様な空間、時間に思えた。
 多分、、、、言葉では伝わらないんだろうか。
私は常に考えてきた。俗に「一部の人間しかトップになれないんだ」と言う事が、私的には「目指さないとトップになれない。そこ過程を経験にクリアしていく事が”一部”への道になるのだろうし、その都度、それぞれのレベルで、”その壁”が立ち聳えているのだと。
その壁を”ちょっと”だけ、乗り越えた瞬間かな?と思えた。しかし、経験というのは薄情なもので、ちょっとの機会しか与えてもらえない。なので、その人の感覚/経験になりえるしかないのだろうし、これを自分以外の人に伝えようとしても、伝わるはずがない。共感はできるかもしれないが。
経験とは、尊いものであるな、そう感じる一瞬のスローな時間帯であった。少なくとも自分にとって。

 

レースは終わったが、

 何位で終わったか?、などその時点で私はしらない。
早川君は分っていたのかな?、クールダウンコース上で握手、前の車両の選手とも健闘を讃え合い握手。No11、ガイ選手が早川君に「よく頑張ったな」の親指を立てて行った。

 コースマーシャルがコース上に出て全ての選手を讃えてくれる。上位 下位関係なく。ホントに有り難く「ありがとう」と感謝できた。私は全てのマーシャルに手を降って挨拶した。向こうは日本人だか、どこの国だかは知らないであろうが、そんな事はどうでもいい。サイドカーを楽しんでもらえたのであれば一緒だ。残った観客も挨拶しくれる、ちゃんと応えてあげた。いい瞬間だった。

 途中初日に止まったコ−ナ付近で止めた。あの時のマーシャルに挨拶だ、大袈裟かもしれないが抱き合って健闘を讃えてくれた。そのまま別 れる事になるのだが、良い思い出、イタリア万歳といったところだろうか。!(ちょっときれいすぎ)

 ピットに帰って、15位 入賞1ポイント獲得と言う事を知った。「ヤッター」と言うより、「あ〜良かった〜」と言う感想だった。最低限の自分の仕事はこなせたのかな、と思ったからである。熊野監督とも握手「こんなレースもあるんだよね〜」の言葉、素直にその言葉の意味を理解できた。【右へ→】


 他の方に、この15位と数字は平凡な数字に思えるのであろうが、我々にはその過程を色々とこなしてきた結果 であると認識している。あと1つ後ろであればポイント圏外であり、記録として残らない。モータスポーツレースと言う競技の中で最低限の結果 であろう、今の我々にはこの短時間で最大の結果が得られたのだと確信している。
そういった意味ではチームKUMANOも気持よくシーズンを締めくくれた様で、それに貢献できて私も良かったと考えた。

 さて終わったら撤収作業に入る。ご苦労さんの一杯をやる迄はまだ作業は残っている。それが我々プライベータだ。私も動くのも「よっこいしょ」の中作業に入る。
そしてこのウイーク2回目のシャワーを一足先に浴びにいく、ちょっとぬるま湯、ちょっと得した気分であった。

 さあ、9時に近かったのだろうか、食事をしに街に出る。私はイタリアというよりもヨーロッパの街並が好きである。ある時期は建築士の勉強もした時があったから、建築技術には興味がある。なんでこんな風に残っているんだろうと思っていると、他のメンバーは早足?で進んでいく。グランプリチームは何事にも速く?!なのであろうか。!
ようやく腰を落ち着け、ピッザ、パスタ、ワインをごちそうになる。終始和やかに会話は進み、時間は経っていった。キャンパーに深夜戻っても眠い目を擦りながら談議は続いた。寝たのは2時を過ぎる頃であったろうか。
疲れているはずなのに。。。。。

 

翌日、

 熊野監督は朝8時頃のフライトなので早朝に出発していった。
私もまだ日本に帰らなくてはならないし、早川君、塚越メカも2人でドイツ迄帰らなくてはならない。家に帰る間でがレースだ。私は一般 会社のサラリーマンだし家族もいる、無事に帰る事が最終目的だ。
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Bologna


 午後、ボローニャ空港近く迄早川君らに送ってもらい、タクシーに乗り換える。「じゃあ、また日本で」と握手をして”サッ”と別 れた。一瞬の出来事だ。また独り旅。

何かあっけなくも、清清しい。まあスポーツのある側面 ってなもんはこんなもんかもしれない。次があるのだから。


Bologna

 

パリ迄の飛行機の中、

 嬉しい事があった。私はスキーのスポーツも好きで、よくスキーにいくが、山岳スキー、歩いて山に登って滑るおりるスキーもたまにする。その中で思い出にあるスイスのツェルマット地域にある山にも1度入っている。その中でも好きな山、マッターホルン、がある。どなたでも知っているであろうあのとんがった山である。それを窓越しに見えた。
嬉しかった。もう標高2500メートル以上の氷河付近には新しい雪がついていた。上空からみえるなんて思いもしなかった。このエリアは天候の変化も激しく、雲がない事など年数回しかないと聞いていたので尚更の事である。
「あ〜あそこを滑ったな〜、歩いたな〜」と安っぽいエコノミーの機内食を食べながら楽しんだ。また此処にも来よう、と思った。ちょっと私にとって贅沢な一時であった。その後はレマン湖を眺めながら、スイス万歳である。(なぜか万歳という言葉を連発する)【右へ→】

 


 パリに着き、日本への帰路に発った。
今回も”良い貧乏旅”になった。私は”旅行”は嫌いである。レースの旅は今後どうなるか予定はついていない。チームKUMANOも来年の予定は立っていなく、私も主には国内での新たな活動がメインになる。私自身もまたのチャレンジを掴むべく、挑戦的な旅を期待したい。そして国内サイドカーに伝え”その場に立って”同じ経験をしてもらいたいと希望したい。その為の終わりのない取り組みが続こうとしている。

 このコラムの、レースを終えた、と言う事で終わりを告げる。
何か寂しい、なのでまた元気、試練をもらいに人はチャレンジするのであろう。私も次のチャンスをみつけなければ。

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Masahiro Ozeki : 大関 政広
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