りんごの日本史いろいろ


日本にも日本原産のりんごがありました。
しかしそれはズミやエゾノコリンゴなどと呼ばれ、現在のりんごとは違っています。
その後りんごが日本へ入ってきたのは、最初中国からのものです。10世紀の文献には、既に「林檎、和名利宇古宇」の名が見られます。けれどそれも今のりんごとは系譜を同じくはしない、モンゴルや中国原産のワリンゴという品種でした。
現在のりんごは欧米からのもので、安政4年(1857)に、アメリカ公使が芝増上寺にりんごの苗木を3本送ったことが初めのようです。その後、文久2年には、越前福井の松平慶永がアメリカからりんごの苗木を輸入して、巣鴨の別邸に植えさせました。


この西洋のりんごの本格的な導入は明治に入ってからで、まずドイツ人のアール・ガルトネルが北海道天領農場でりんごを栽培し(これはどうやら実を結ばなかったようですが)、明治4年(1871)には明治政府の命を受けた北海道開拓使次官であった黒田清隆がアメリカから苗木75品種を持って帰国しました。開拓使は東京・青山の官園で苗木を養成し、明治5年(1872)から北海道に送付しました。
明治7年(1874)以降は、内務省勧業寮が旧士族を中心に苗木を全国に配布し、ここから青森県、長野県などの適地でのりんご栽培が始まったようです。
その際、在来のりんごはコリンゴ、地林檎あるいは林檎とし、西洋のりんごをオオリンゴ(華果)、ヘイカとして区別していたようです。このオオリンゴ、ヘイカともに1874年(明治17年)頃、苗木の払い下げ価格は一本金五銭、種類は百五種という記録が残っています。しかし、西洋のりんごはまたたくまに在来種にとってかわり、それとともに西洋のりんごは単にりんごと呼ばれるようになりました。
西洋のりんごには先に輸入されたアメリカ系の他に、明治8年(1875)に108品種が導入されたヨーロッパ系「のものがありました。しかし日本の多雨多湿な気候には、乾燥地域であるヨーロッパ系よりも、比較的降水量の多い東部で栽培されていたアメリカ系のりんごが定着したようです。その後も外国品種は明治年間に約270品種、大正年間に約60品種、昭和になって56年までに約500品種が導入されました。
明治29年(1896)頃には東京に果物屋が増え、りんごが普及していたといいます。この頃のりんごは、海運によって運ばれる北海道産が大半を占めていたようですが、2年後に東京-青森間に鉄道が開通してからは、青森産のりんごが市場に出まわるようになってきました。
そしてりんごの栽培は、一時は輸出産業の一角を占めるまでに成長し、北海道産のりんごが小樽港からウラジオストクへと輸出されていきました。


さて、信州ではりんごの栽培は明治7年(1874)に内務省勧業寮が長野県、筑摩県に各3本の苗木を配布したことから始まり、大正中期から県外への出荷が行われるようになりました。栽培の中心地は長野盆地で、これは善光寺の参詣者を相手にりんごを売ることができたからだといいます。
その後技術や出荷組織の整備が進み、大正中期からは他県への出荷が始まりました。とはいえ、長野盆地以外では、まだまだ販路が拓けず、りんご栽培は定着しなかったようです。
しかし、昭和初期になって養蚕業が不況に陥ると、長野盆地の扇状地や自然堤防上の桑までが、一斉にりんごに転換されたそうです。
この頃の長野県産のりんごの主力は倭錦と呼ばれるりんごでした。しかし長野県産のりんごは市場からまずいという不評をかい、先進地である青森産の紅玉や国光が増加するにつれ、その声は高まりました。そこで品種の更新が行われ、昭和10年(1935)前後には紅玉・国光への更新がほぼ完了しました。


大上果樹園も、オーナーの父の時代はまだ養蚕業を営んでいたようです。おそらくこの養蚕業の不況と、この養蚕業からの転換を県が奨励したことにより(長野県のりんごは青森産のものより早く出荷できる利点があったので)、昭和15年頃家族は桑畑をりんごに転換することに決め、ここから大上果樹園の歴史は始まりました。
最初に植えられていたりんごの木は国光だったようです。
しかし、第二次世界大戦が始まると、米や麦などの主食の増産が政府の方針としてうちだされ、果物を栽培するのは難しくなりました。そして昭和18年には「果樹園転作令」が出され、りんごやミカンなどの果樹栽培をやめて、ほかの作物に植え替えるようにという厳しい行政指導がありました。
それでも、果樹を切るにはどうしてもしのびず、その下に畑を作ることによって政府の命に従ったという記録もあるので、おそらく大上果樹園もこのような状態だったのでしょう。
戦争が終わり、荒れ果てた果樹園は次々に再興されていきました。戦災で破壊された化学工場の復興は化学肥料の増産につながり、戦時中に荒廃した果樹を回復させました。またこの頃導入された新農薬は、害虫防除を容易にし、果物が高値で取引される時代であったこともあって、りんごの生産を増加させます。昭和24年(1949)頃には食糧事情がやや安定し、果実の需要はさらに増大しました。
しかし昭和38年(1963)にはバナナの輸入自由化があり、昭和43年(1968)にはりんごの価格が大暴落しました。これを契機に日本では品種更新が進み、外国品種ではなく、日本で選抜育成された品種の栽培が中心になっていきます。りんごはそれまでの国光・紅玉の時代から、デリシャス系のりんごの時代を経て昭和37年(1962)に誕生したふじの時代となり、大上果樹園のりんごの大半はふじになっていきました。
現在はこの時代からの木はすべて切られ、わい性と呼ばれる小さな木に変わっています。これによって管理の省力化が可能になり、りんご栽培はより効率化されるようになりました。またりんごの品種は今も各地で生み出され、大上果樹園でも少しづつではありますが、新しいりんごが毎年実を結んでいます。


<参考文献>
「ブリタニカ国際大百科事典14」 TBSブリタニカ(1988)
「日本大百科全書24」 小学館(1988)
「近代日本食文化年表」 小菅恵子著 雄山閣(1997)
「長野県史 通史編 第9巻近代3」 長野県史刊行会(1990)
「果物の博物学」渡辺俊三著 講談社(1990)
「果樹全書 リンゴ」農文協編(1985)
「リンゴ経済の計量分析」梶川千賀子著 農林統計協会(1999)
「昭和農業技術発達史第5巻 果樹作編/野菜作編」農林水産省農林水産技術会議事務局 社団法人農産漁村文化協会(1996)


<参考リンク>
「連作 りんごの歴史」 http://www.his.co.jp/apple-j/
「あっぷるらんど津軽」 http://www.infoaomori.ne.jp/STAR/
「活彩あおもりホームページ」http://www.pref.aomori.jp/