りんごの西洋史あれこれ
〜古代〜



りんごの発祥地についての説はいろいろあるようですが、原生地は主要品種の基本となるプミラ種が分布していた南ヨーロッパから西南アジア、カスピ海と黒海に挟まれたコーカサス地方のようです。
遊牧民の食料となっていたりんごは、彼らがアジアからヨーロッパに移動することによって広がったとのこと。
4000年以前のスイスの湖上遺跡からは、大きさの異なる2種類の炭化したりんごが発見されています。
こんなにも古くからりんごは食べられていたわけです。


さて、ギリシア時代になると、りんごは野生のものと栽培されたものが区別され、栽培法などもできてきたようです。前9世紀頃から、りんごの接ぎ木が行われるようになりました。接ぎ木することによって、代木の丈夫さと穂木の長所を併せ持った木を栽培できるからです。実のならない木に実をつけることも、土壌に合わない木を合う木を代木にすることによって栽培することも可能になったわけです。ただし、なんでもかんでも接ぎ木できるわけではなく、科が同じ木でなくてはいけないわけですが。
ギリシア人は他に、りんごを低温の部屋で保存するという方法を考案しました。裕福な家には、内側を大理石で覆った部屋があったそうです。もっと簡単な方法としては、りんごを容器に詰めて密封し、地面に掘った穴や砂の下に埋めていました。


ローマ時代、前3世紀には、野生種の最初の改良種であるアピというりんごが、クラウディウス・アッピウスによってペロポネソス半島からローマに伝わります。前2世紀頃には樹木栽培が行われ、りんごは交配を重ねることによってさまざまな種類のものが作られるようになりました。それはより珍しいものを作り出そうというローマ人の贅沢な趣味であったようですが、このとき作り出されたりんごのうち32種類は帝政末期までに定着し、現在もその子孫を伝えているといいます。セキュンドス(23〜79)はその著書「Historial Naturalis」(77)で29種類のりんごを記載しました。
凝り性のローマ人は、りんごを摘み取る時間にまでこだわったようです。例えば、「楽園の林檎は月が下弦のときに摘むと赤い」のだそうですが、あまり信憑性はなさそうです(勿論味が違うからといって今の時代、夜中にりんごを収穫しにいくことはないでしょう。泥棒と間違えられます)。
ローマでは果樹園の他に、市場、果物屋もあり、あらゆる人々がりんごを手に入れることができました。野生のりんごを食べることも好まれていたようです。
りんごは生で食べられることが殆どでしたが、他に蜂蜜で甘味をつけたり、ジャムにしたり、塩味をつけて付け合わせにしたり、シチューなどにして用いられました。しかし生でも、デザート(宴席などでは、りんごはデザートとして不可欠という位置にあったようです)として供されるだけというわけではありませんでした。料理と料理の間に、少しお腹を休めるために(今でいう口直しのシャーベットのようなもの?)出されていたようです。
ガリアでは、カエサルがやってくる前から、それ以前に伝わったりんごを食べていましたが、ローマ人によって改良されたりんごが伝わり、ここでもりんごの改良が進んだようです。そしてローマへも、逆にガリアのりんごが入っていき、りんご好きのローマ人が食べていたのでした。


古代のヨーロッパ人は本当にりんごを好んでいたようです。
それでは、次の時代ではどうなのでしょうか。


<参考文献>
「世界食物百科」 マグロン・トゥーサン・サマ著、玉村豊男監訳 原書房(1998)
「ブリタニカ国際大百科事典14」 TBSブリタニカ(1988)
「日本大百科全書24」 小学館(1988)
「美食の文化史 ヨーロッパにおける味覚の変遷」ジャン・フランソワ・ルヴェル著、福永淑子・鈴木晶訳 筑摩書房(1989)
「世界の生活歴史」弓削達著、河出書房新社(1991)
「果樹全書 リンゴ」農文協編(1985)