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忍者の祖先
「日本書紀」に「新羅の間諜である迦摩多が対馬に潜入した捕らえられた」と
いう記述があり、また聖徳太子が大伴細人を「志能便(しのび)」として使ったと
か、斥候を「ウカミ」、偵察に行くことを「ウカミス」と言ったりしていました。日本
紀元の元になった天武天皇が「多胡弥」という忍びを使ったという記述もあります。
1.盗賊・悪党の時代
「正忍記」に「源義経が忍びを使った」とあり、これは伊勢三郎義盛一党と考え
られています。彼は焼石小六という鈴鹿の山賊で、忍びの里伊賀国の伊那古村
才良の生まれと言われます。古代末期から中世前期にかけては暴力が社会を覆
い、社会が否定していた陰の集団(非社会的な悪党)が戦力集団として歴史の表
舞台に台頭してきた時期です。
平安末期から室町末期に営まれた東大寺の大荘園で、名張郡域に入る笠間毛
原を流れる名張川にある黒田壮は東大寺と国衙との間で絶えず境界争いがあり、
その抗争により「悪党」が成長しました。これは「黒田の悪党」と言われるもので、
ここにはゲリラ組織化された忍びの原点が見られます。この「黒田の悪党」は伊賀
国の強力な地侍連合を生み、忍びの様相を呈したゲリラ戦で東大寺支配に抵抗し
ました。その主流は北伊賀の服部氏と南伊賀から河内にかけての豪族大江氏と
言われています。
2.異類異形・サンカ
中世には「異類異形」と呼ばれる独特な風体の集団が徒党を組み闊歩しました。
中には、柿の渋で染めた忍びが愛用した衣姿で山行きをしたものもおります。独特の
技量があり、各地を彷徨った漂白の民は忍びとしての素養が十分にありました。
サンカは、山を生活の場とした漂白の民です。彼らの愛用した両刃のナイフは「ウメ
ガイ」と言い、忍びの使った「苦無」に似た形をしています。サンカは13歳になると「身
知り」という修行をし、これには七法ありますが、忍びの陰術とほぼ同じです。またサ
ンカの身分は上位からアヤダチ、ミスカシ、ツキサシといいますが、それぞれに「乱破」
「透破」「突破」と言う字をあてます(武田忍軍は素破ですね^^)。
3.散所・七方出
散所は力役から、盗賊の類、呪術占い、香具師、傀儡師等、異種異彩の能力集団
です。個人から組織化が進むと、天皇や武士と結ぶことで賎民から脱出し、戦国時代
には社会的正当性を手にいれました。組織化されたこれらの人々は各種技術のるつぼ
で、戦での技術のほか、情報伝達者でもありました。土地にしばられず、流動的な集団
は体系的な忍術の原点がみえます。忍術書にかかれている「七方出」等もこれらの人々
にあてはまります。また兵法・組織化・宗教的支柱を加味して、権力者の要求に応える
ような集団になると、忍者集団と言っても差し支え有りません。