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1.戦国時代の忍者3

甲賀忍者
 甲伊一国と呼ばれることは別としても、伊賀と並んで有名な
忍びの里です。また、”甲賀郡中惣”が”伊賀惣国一揆”と連帯し、
国境でよく”野寄り合い”をしたことからも、交流が深かったと思わ
れます。
 余談ですが、地域開拓者は鹿深臣と言われていて「日本書紀」
に「敏達十三年秋九月 百済より鹿深臣きたり、弥勒石仏一躯あ
り」と記録されいます。甲賀の地名も、この人物の名から”かふか”
と呼ばれ、甲賀は”こうが”では無く、濁らずに”こうか”と・・本来は
呼びます。
 このような伝承も、伊賀の服部氏に相対していて、甲賀には甲賀
二十一家の中でも大家である望月家があります(ここは忍者屋敷
で、現在では、一般に公開されています。水蜘蛛”もどき”を体験す
ることもできます^^)。また、松尾芭蕉が名付け親と言われる「東雲
舎」も望月家と同じ、甲南町にあります。
 六角氏が甲賀に亡命したおりに、将軍足利義尚が攻撃をしかけ
ましたが、甲賀衆が僅かな尖兵で夜襲をしかけ、これを敗走させ
ました。このことから甲賀の名が世に知られるようになったのです
が、この戦に参加した甲賀武士を「甲賀五十三家」、特に軍功の
あったものを「甲賀二十一家」と呼ぶようになりました。望月家は
その筆頭です。この二十一家は六角氏滅亡後、江戸時代を通じて
”甲賀古士二十一家”と呼ばれ苗字帯刀を許される名門です。
 伊賀が「伊賀同心組」として取り立てられたのと同様に、甲賀衆
は、秀吉から追放されましたが、関ヶ原役後、家康により「甲賀百
人衆」として取り立てられます。
 また、甲賀の里にある飯道山は、役小役が大和大峯山に入る前
に修行した地と言われ、古来より修験の地として栄えた所です。
 

甲賀古士二十一家
 柏木三家(山中、伴、美濃部)、荘内三家(鵜飼、服部、内貴)、
南山六家(大原、和田、上野、高峯、多喜、池田)、北山九家(黒川、
頓宮、大野、大河原、岩室、佐治、神保、隠岐、芥川)

 上記は寛文年中に、甲賀古士惣代芥川甚五兵衛が幕府に呈出し
たものですが、記録により多少の異動があります。