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1.戦国時代の忍者2
戸隠忍者
信濃源氏・木曽義仲の家臣に仁科(戸隠)大助と言うものがいて、
戸隠で修験道の修行をしました。寿永三年(1184年)に義仲が滅亡
した後、伊賀に逃れて伊賀流忍術を採り入れ、戸隠忍術を編み出しま
した。その他に、尼子氏の蜂屋衆や毛利氏に仕えた佐田彦四郎・甚
五郎・小鼠兄弟の佐田衆の名が伝えられています。
一般的には、上記のようなことになっていますが、年代が合いません
ので、実際には、江戸時代に有名になりすぎた、甲賀・伊賀の名を使
わず忍術修行の場としていたのが、戸隠忍者の里です。
と言うのも、戸隠忍術の里・戸隠村(長野市の北西)の村域は、北に
標高2352mの高妻山を最高峰に黒姫山、戸隠山、西岳、飯綱山の
高峰があり、平坦地は標高800から1200の高原であり、特に戸隠山
は山岳信仰のメッカとして平安時代より修験道の行場だったからです。
戸隠忍術の由来はこれら修験道を背景にしています。
また、伊賀流忍術は攻撃的な忍術ですが、戸隠忍術は守備に重きを
おいています。その為、独自の武器が発達しました。今、創始者の戸隠
大助の子孫が宗家として連綿と命脈をつたえていますが、その戸隠資
料館に行くと、それら独自の武具を見ることができます(撒き菱やら、良
くわからない杭をばってんにしたもの・・・一名しばき槍こと忍び槍のなぎ
なたの様に長いものとか・・)。この資料館はからくり屋敷にもなっていて
いろいろなからくりを体験できます。2階は、資料庫になっていて、「万川
集海」!が置いてあり、見ることができます^^。
関係ありませんが、高地の為、稲作が難しく、高原野菜や蕎麦が栽培
されました。今でも有名な、戸隠蕎麦は、江戸時代にその栽培が始まっ
たものです。
また、日本書紀においては、天照大神がとじこもった洞窟の大岩が、
飛んで来たところが、戸隠村なのだそうです。その為、戸隠神社では、
これらの神が祀られています。