戻る

1.戦国時代の忍者1

伊賀忍者
 伊賀国は、その地形から「秘蔵の国」とか「名張りの国」と言われました。
今でも名張郡という地名が残ってます。名張りとは隠り(なばり)から来て
いると言われていて、字の如く”かくれる”と言う意味です。
 このような閉鎖された空間で、数々の小土豪や地侍たちが小党分立して
争いになった時に身につけた、諜報・夜討ち・放火などが忍びの術です。
 平安から中世にかけては、この辺りは東大寺・興福寺・伊勢神宮・藤原摂
関家を4大勢力とした領地でしたが、国司や寺社勢力の衰退とともに、荘園
名主が武力抵抗するようになります。彼らは「悪党」と呼ばれ、忍者の祖先
の所で述べる「黒田の悪党」が有名です。彼らは「惣国一揆」の後、他国勢
からの自衛のため、手を結びます。それが伊賀国人衆と呼ばれるものです。
 戦国時代になると、諸大名からの需要で国内の土豪は合い争って、忍者
の育成をします。その指導者格の人物を「上忍」と呼びました。「上忍」「中忍」
「下忍」というクラス分けは今でも有名ですが、実際には「上忍」以外の記録
は残っていませんので、「中忍」「下忍」と言う階級が在ったかどうかは不明
です。白土三平さんの漫画では「下忍」の下に「下人」というものがおり、彼ら
は、農業を営なんだりしてました(忍者国の人間も生活しなければなりません
ので)。もしかしたら「下忍」=「下人」で、大名からの依頼があったときだけ、
駆り出されていたのかもしれません。
 さて、「上忍」の中で有名なのは「服部半蔵」「百地丹波守」「藤林長門」で、
三上忍と呼ばれます。
 が、この時代の服部半蔵は、半蔵保長で早くに出家して三河の松平(徳川)
に仕えていましたので、実質は百地家と藤林の両名でしきいっていたものと
思われます。そして半蔵もそうですが、丹波も家代々の名乗りですので、個有
名詞ではありません。百地の中で一番有名なのは三太夫ですが、「絵本太閤
記」の中で石川五右衛門に仕える脇役として始めて登場します。つまり、架空
の人物と言う可能性が高い人物です。
 また、半蔵は、徳川幕府においても隠密組織を結成していますが、このきっか
けとなったのは、本能寺の変の時の家康の伊賀超えです。ルート的にも、従者
も不明な部分も多い逃避行でしたが、恐らくこの時に忍者の実力を目の当たり
にし、感嘆したのでしょう。半蔵の功績もあり、江戸時代には、織田信長の「(第
二次?)天正伊賀の乱」により壊滅状態になった伊賀国忍者を「伊賀同心組」と
して復活させてますし、甲賀忍者も旗本としました。
 この時の半蔵が一番有名な「鬼半蔵」こと服部半蔵正成(保長の子)でしたが、
残念ながら、関が原以前に病で倒れ、江戸幕府は見ることができませんでした。
江戸に入ってからの半蔵は3代目です。

 そして最も重要なのが、「天正伊賀の乱」で散り散りになった伊賀忍が、各地
で今まで謎であった忍術を伝え広めたから、今の私たちが忍者や忍術について
知る・・・といいますが調べることが出来るのです。「伊賀の乱」は伊賀忍にとって
は災難でしたが・・・これがなかったら、「忍者」とはどのようであったか・・・
現代人、ひいては当時の一般の人々も伺い知ることができなかったでしょう。