'70夏、北海道

'70年と言ったら大阪万博の年、我が家でも行こうかと話があったのだが、私が強硬に反対、万博に行くくらいなら北海道に行きたいと主張し、若い頃北海道に住んだことがある母親が同調し、決定してしまった。

この頃は夏休みの国鉄指定券はプラチナチケットもいいところ、朝早くみどりの窓口の前に並んでも希望通りの列車がとれるのは先頭の数名がいいところと言われていた。私たちが取れたのは臨時急行「八甲田51号」の 座席指定券、12系と呼ばれる客車に夜通し座っていくことに

この頃は車窓からSLの姿が見られた。八戸あたりか

青森駅で、入れ換え用の9600が並んで一休み

しかし八甲田51号にもメリットが一つ、それは青函連絡船を介して急行ニセコ3号に接続すること。言わずとしれた特急用機関車C62の最後の定期仕業。この日は32号機が本務機を務める。

連絡船からダッシュして何とか席を確保、この日は何両か増結があったと記憶するが、途中までは通路まで人が立つほど込んでいたがC6232は快調にとばす

そして長万部でC623を連結、ツバメマークの2号機でなくちょっとがっかり

重連となったC62は増結もものともせず快調に走行

すでに日の暮れた倶知安で小休止、機関車を整え水を補給する

翌日は雨の中札幌市内を観光。この夜は急行利尻2号の寝台で稚内へ向かうことに

朝起きてびっくり、汽笛が聞こえるではないか。ニセコ3号をC62が牽引しているのは小学生でも知っていたが、利尻2号もSL牽引とはうかつにも知らなかった。

先頭に行ってさらにびっくり、C551号機が牽引している

稚内に着いてトラブル発生、母親が寝台に財布を忘れたことに気づき南稚内まで取りに行くことに、そのためC551を正面から撮ることができず。南稚内で我々の脇を走るC55牽引の列車

ロータリー車も留置されている。この季節は無用の長物か

以後は利尻島に渡ったり、母親の希望で鉄路から離れた観光を続ける。最後に北海道を離れるときに撮った五稜郭機関区、ドームやデッキの形からD52のようだ、だとすれば私が撮った唯一のD52の写真ということになる

いよいよ北海道を離れるとき函館駅で、この頃はまだSLが主力であった