合唱千夜一夜  歴史でもなければ随筆でもない、四方山話ですが・・・

第1夜 「千夜一夜」と言うからには、1,000回続くんだろうな。という声が聞こえてきそうですが、それを目標に「歌」や「合唱」の故郷について書いてみたいと考えています。
 さて、音楽は器楽よりも歌うことが先行してその歴史をスタートさせたと言い切っていいと思います。そして、器楽は「人の歌」に近づくことを最終目標にしてきました。
 そんな「人の声」がハーモニーをどのようにして発見したのか、科学的には「わからない」という答えが正しいのでしょうね。なにしろ、音楽の厄介なところは物的証拠を残さない、という所にあります。
 でも、そうなってくると人には推理する楽しみが出てきますね。よく、読経や和讃などを大勢で唱えていると、自然に完全音程(ド〜ソ)になって、えもいわれぬ音響が作られることがありますよね。まあ、ハーモニーの「自然発生説」とでもいいましょうか。また、空気が乾燥していて、石造りの建物が多いヨーロッパでは特に聖堂の中みたいな所では、残響が数秒にも及ぶところがありますね。そんな所で聖歌を歌っていた時フレーズの最後の音が響いている時に次のフレーズを歌い始め、「おっ!!合うじゃん」なんてことで、ある二つの音が心地よく響くものとそうでないものがあることを発見した、なんていう、ハーモニーの「偶然発見説」もあり得ることですね。
 「遊び」のおもしろさは独自のもの、人類文化の根幹たる美的形式を支えるもの - 遊びの中で遊びとして、「文化」は生まれ、発展した。(ホイジンガ)
 人間がホモ・ルーデンス(遊び人)だったことがハーモニーの発見につながった、と考えると「音楽」という言葉を作った我が国の先輩には深い読みがあったのですね。

2008.1.20


第2夜  さて、何んとか始まったこの話ですがこの先どこへ行くのやら、実は書いている本人にも見通しがつかないところがありまして・・・と言い訳をしていないで、キーボードのおもむくままにいきましょうか。
 ハーモニーの発展は西欧で理論的にも確立されてきたわけですが、わが日本ではそのエネルギーが「旋律」の方に向いて音楽の歴史を作ってきました。考えてみますと、建物一つをとっても西欧では石を積み上げて作り、日本では木の柱を立ててそれを梁で繋いで作る。「縦へ」と「横へ」という思考の違いが音の組み立てにも影響しているのかもしれません。
 また、ほとんど木と紙と土で作られた住環境というものは、あたかも吸音材の中で生活しているようなもので、音を持続させるにも残響というものが使えなかったわけですから、その分は自分で歌わなければならなかった。これはどう考えても「旋律」が発展するしかなかったわけで、有難いことに、言葉も非常に多様な陰影のある母音を持っていたので、音を引き延ばすにはもってこいの条件が備わっていたのです。
 特に音響機器などなかった時代に、大勢の聴衆に歌詞を伝えるには謡曲のように「これは、このあたりにすまふ」という言葉を「こーおれーえはーあ、こーおのーおあーあたーありーいにーい」と母音を十分に響かせて伝える技が確立してきたのだと思います。また、地唄などのように母音を引き延ばす方法に「味」をもたせ、メリスマ(こぶし)の技法が発達してきたのでしょうね。もっとも、あまり技巧的に長ーく引き延ばしていると、「あれ、なんていう言葉だったっけ」何ていうことも起きてきますが、そういう細かいことを気にしていたのでは「通」にはなれなかったし、歌詞や物語は知っているのが常識だったんだろうと思います。(日本人恐るべし!)
 また、この母音を響かせる技術(発声法)として「臍下丹田に力をため」という方法が確立したのでしょう。母音に使う息とエネルギーは相当なものですから。
2008.1.21

第3夜 3回目となりました、物事は3回までが1つの山で、これを越えればまず一安心です。
 ちょっと日本に寄り道をしましたが、合唱というのは西洋で発達してきたので、まずはそちらへ戻ります。
 人間が歌えるようになったのは、完全に直立歩行ができるようになったからです。そのことにより、気道から直角に口へという声の通り道ができ、声帯の上に大きくて精妙な「共鳴スペース」が確保されたのです。無限と言ってよいほどの多様な音声を手に入れた人類が次に行ったことは、他とコミュニケーションを図るための「言語」を手にしたことです。言葉が生まれれば集団が形成され、その中の仲間が死んだときに、死=無ではなく自分たちの世界とは違う所へ行ったと考え、喪失感を慰める思考から「祭祀」が始まったと思います。ここまでくれば、歌が生まれるまでにあと一歩ですね。
 猿が木から落ちて、いや、猿が木から下りて草原で遠くを見通すために直立した、この一瞬に音楽の歴史が始まったわけです。(前足が手となり、そのうちに楽器も使うようになりますよ。)ここでR.シュトラウスの「ツァラトゥストラ」でも鳴れば「2001年宇宙の旅」ですね。
 さて、第1夜でも書きましたがここらあたりの音楽については、土器や壁画等の物的証拠いや状況証拠しかありません。現在なんとか解読できる楽譜らしきものはギリシャ文明までいかないと手に入らない模様です。
 というわけで次はギリシャの音楽という訳ですが、これがまた難しいのなんのって・・・
2008.1.27

第4夜  少し間があいてしまいました。それだけギリシャの音楽は難解で、どこから手をつけてよいやら、考えていましたが、え〜いままよ・・・ということで。
 music(英) musik(独) musique(仏)と音楽を表すヨーロッパの主な語は似た綴りを持っています。それはこれらの母語となるラテン語のmusicaからきているわけで、またこのラテン語はギリシャ語の mousike(ムーシケー)からきているのです。まあ「音楽」という言葉(概念)を作ったというこのことから、音楽史はギリシャから始めてもよいのでしょうね。
 さて、このムーシケーという言葉ですが、太陽の神アポロに仕える女神Mousa(ムーサ)のつかさどる技という意味になります。ところが、このムーサがまた伝承によって数や名前が違ってくるという少し厄介な女神でして、ヘシオドスの「神統記」では『ひとつ心をもち、憂い心もなく歌に心を注ぎ、ヘリコーンの聖なる山で足どりも優しく舞い踊る』のが9人のムーサ⇒カリオペー、ウーラニア、ポリュムニア、エラトー、テルプシコレー、メルポメネー、タレイアー、エウテレペー、クレイオー(何やらレコード会社やあのプレトリウスの舞曲集の名が・・・)であった。
 歌い踊るムーサの技がムーシケーであるということは、それは詩・音楽・舞踏をまとめたものであり、その後演劇や文芸さらに天文学・医学・教育を含む広い概念となっていったのです。また、音楽を司っていたのが「神」であったということから、音楽は人間にも、動物にも、そして自然や神(宇宙)にも通じる不可思議なものという認識をギリシャ人は持っていたのです。
 さて、次回は数学の時間に悩まされた、あのピタゴラスの登場です。
2008.2.7

第5夜 合唱千夜一夜と言いながら、なかなか合唱の話にならなくて申し訳なく思っていますm(__)m ただ、我々が今演奏している合唱がどのような道のりをたどったのか、振り返ってみるのも大切なことと思い、もう少しお付き合いをお願いします。
 さて、前回予告したピタゴラスですが彼から始まる「ピタゴラス学派」はこの世に存在する、あらゆるものの根源には数理的な原理が働いていると考えました。宇宙の秩序・物質の成り立ち・魂など、そこにはharmonia(ハルモニア→ハーモニーの語源)「調和」
が存在し、それは数比で表されると考えました。すなわち、神の作った世界は整然とした秩序をもち、ハルモニアを通して宇宙や物質と魂は呼応しているということです。
 それまでの古代人も音(音楽)に数的法則を見出していましたが、ギリシャ人はそこから一歩踏み込み、あらゆるものの調和と音楽は深いところで一致している、すなわち、音楽は宇宙の秩序を内に秘めていて、地球からあらゆる天体の距離は協和音程の比率と相似していて、宇宙全体が壮大な音楽を奏でていると考えました。ただし、人間にはこの音楽は聴くことができないわけで、それは人間がまだ不完全な存在だからなのです。
 ピタゴラスはこれをたった一本の弦を持つ琴(モノコルド)で発見したということで、あのピタゴラスの定理だけでなく、こんな壮大なことを考えていたのですね。まあ、ちょっとギリシャ人は理屈っぽいかなー?と思われてもいけないので、次回はギリシャの劇と音楽で、いよいよ現代に一歩近づきます。
2008.2.23